人は歴史の上に衣を纏う

これは別のところでちゃんとまとめた方がいいと思うのですが、覚書として残しておこうと思います。

社会的養護の領域において、現在、施設養護への風当たりは強く、代わりに家庭養護としての里親委託・養子縁組みが推奨されています。確かにアタッチメントの観点に立っても、安定的に養育者との関係を持つことのできる家庭養護の方が、子どもの発達により肯定的に作用することが考えられます。

他方、混乱した状況の中で育って社会的養護の領域に登場してくることになった子どもたちを、単独の家庭が抱えることは大きな困難を伴うこと、逆に家庭の問題がある時にそれが見えにくくなること、などの指摘も行われているところです。このあたりの議論はずっと以前から続いていて、今なおこれといった解決策はなさそうです。

アタッチメント研究の中では、「早期」に、「里親委託・養子縁組み」で養育されることが子どもの発達に肯定的に作用することが言われてきました。「早期」というのは、生後2年、もしくは1年を指しているのですが、生後2年より前と後の家庭養護への移行を比べれば前者で安定したアタッチメントが形成されやすく、生後1年より前と後の家庭養護への以降を比べれば前者で安定したアタッチメントが形成されやすいのですね。このことは、福祉に保護される子どもたちが混乱した家庭からやってくることを考えると、混乱した家庭の中で最初のアタッチメント形成が行われるのを待つよりも、この時期に新しい関係を持った方が速やかに安心感のあるアタッチメント(再)形成を行いやすく、逆に年齢が上がるほどにこれが困難になるということを意味しています。実際に、里親委託や養子縁組みに出された子どものアタッチメントパターンの分布は、(幼ければ)家庭の中で継続的に養育されてきた子どものそれと変わりがないとされています。

さらに、こうした年齢差は施設養護においては見られない、ということも言われていて、このことをどう評価するかは解釈の分かれるところかもしれません。

ところで、この時のアタッチメントの測定は、これまで多くの場合、ストレンジ・シチュエーション法、もしくはその改変版が用いられてきました。つまり、行動水準でのアタッチメントが議論の対象となっていたのです。このことは、幼い子どもは家庭養護に移ると比較的すぐに養育者に対するアタッチメント行動を示すようになる、つまり、危険のサインに遭遇した時にはくっついて安心するというような行動(のパターン)を示すようになる、ということを意味しています。

なお、「すぐに」というのは研究によって幅がありますが、行動だけでいえば数日のうちに、行動パターンとしては移行後3ヶ月から6ヶ月の間を指していそうです。

けれども、ここからが今日の本題なのですが、こうした研究の結果をよく見ると、いくつか注意の必要なところがありそうです。

1.安定型の分布は家庭で継続的に育った子どもと変わりはないが、非組織なアタッチメントパターンの割合は高くなるということが、複数の研究で、そしてメタ分析でも確かめられています。

2.行動水準ではなく、表象水準でアタッチメントの測定を行うと、非組織なアタッチメントパターンに分類される子どもの割合が高く、安定型に分類される子どもは少なく、このことも複数の研究で確かめられています。

この意味を考える前に、アタッチメントの研究について理解する上で知っておく必要のある要素を解説したいと思います。

アタッチメントの測定
子どものアタッチメントの測定は実験的な状況での行動観察(ストレンジ・シチュエーション法、その改変版)、日常生活の中での行動観察(アタッチメントQソート)といった行動水準の測定と、物語作成による表象の観察(分離不安テスト、アタッチメント人形遊び法)という表象水準の測定があります。
なお、行動水準の測定は乳児期から前就学期にわたって用いられますが、表象水準の測定は言語的に物語を作れる3歳以降に実施されます。
アタッチメントパターン
いずれの測定においても、基本的に、乳児の安定型、回避型、アンビバレント型、無秩序・無方向型(非組織なアタッチメント)に相当する分類があります。例外はアタッチメントQソートで、これは安定性(安心感の程度)の1次元で結果を出しますが、ここでは取り扱いません。
「非組織disorganized」という言葉は、アタッチメントの組織化ができないことを意味しています。組織化とは、くっついて安心するという目標に向けて行動や相互作用を調整することを意味しており、したがって非組織とは、くっついて安心するという目標が分からない、もしくは目標を達成するには的外れな行動や関係が取られること、もしくはそのような心の状態があることを指しています。
アタッチメント対象
行動水準の測定では、アタッチメント対象とペアで観察が行われます。つまり、特定のアタッチメント対象(たとえば母親)に対するアタッチメントの質を測定していることになります。これに対して、表象水準の測定では、このアタッチメント対象の特定性があいまいになります。養育者の写真を用いて物語を作る場合には、その養育者との経験が反映した表象が観察されるでしょう。しかし、人形を用いて物語を作る場合には、特定の養育者との経験以外の経験も参照される可能性が高まります。とはいえ、個々のアタッチメント対象との経験が、どのように全体的なアタッチメント表象へと編み込まれているかは、今なお議論の続いているところで、したがって表象水準の測定では、単に表象水準のアタッチメントが測られていると言われます。

上記のことを踏まえて、結果について解釈をすると、おおよそ以下のようなことが言えそうです。

1.里親や養親へのアタッチメント行動は移行後、速やかに見られる。
2.それが安心感のあるアタッチメントになるには半年ほどかかる。
3.その割合は継続的に家庭で養育された子どもと変わらない。
4.しかし、非組織なアタッチメント行動もまた継続している。
5.さらに、表象水準ではむしろ非組織な状態が続いている子どもが多い。

かみ砕いて解釈をすれば、現在蓄積されつつある知見はおそらく、このようなことを示唆しています。

幼い子どもは新しい養育環境に速やかに適応し、くっついて安心するための行動を組織化するけれども、だからといって以前の養育環境の否定的な影響がなくなるわけではなく、それはそれで潜在的に持続している。

たとえば、荒れた環境から救い出され、暖かな洋服を着せられれば、その恩恵にあずかることはできるでしょう。暖かな布団で眠り、おだやかな午後の陽射しの中で、新しい服を着て駆け回ることができるでしょう。けれども、服の下にはそれまでの歴史を具現化した身体を宿していて、新しい服がその身体を変えるわけではないのです。もらった服が身体に合わないとか窮屈だとか言うかもしれません。暖かく上品な洋服を着て泥遊びに興じ、服を着たまま排泄をするかもしれません。服が汚れれば、新しい服をもらえることは期待するでしょう。洗って欲しいと頼むこともできるのです。でも服の価値は分からないし、身体が動けば服のことなど忘れてしまいます。その結果、与えても与えても洋服はボロになり、1日に何度も洗濯をして、大人は疲弊するかもしれません。そのようなことが幼い子どもの家庭養護でも起きている、と考えることができそうだ、ということです。

これまでアタッチメント研究者は、そしておよそ世界の代替養育関係者は、早期に家庭養護に移行することで子どもの発達が再開することを期待していました。けれども、今現れつつある研究は、1、2歳の子どもであっても、発達は新しい環境への適応と古い環境への残滓の2層を抱えて進行するようであると、したがってニードと恐怖と敵意と無力さに満ちたかつての経験に由来する混乱した心の状態が、相変わらず子どもの中には持続していて、それは適切な養育環境の提供では変わらないのだと、つまるところ、これまで考えられてきたよりも介入手段としての家庭養護の効果は部分的なものであると、言っているようです。

そのため、この日常的なケアでは変わらない非組織な状態の変化を促すには、どのような介入が必要か、ということが、これからの家庭養護のテーマになってくるかもしれません。当然ここに、「心理療法によって」という回答が用意される可能性もあるでしょう。治療的介入も細かく見ればケアの連続ではあるのですが、見え隠れする非組織な状態を、あるいは服の下に隠された身体を、出現させる設定が求められるのでしょう。そして現れた非組織な状態の中に、それでも残る安心感のニードの残滓と蝕む恐怖の残滓を見いだして、前者を掬い上げ、後者を消化する、特別なケアが求められるわけです。それが心理療法の意味である、という主張は、それはそれで説得力のあることなのだと思います。

たとえばそのように、治療的接近が求められるとして、私たちの社会は、そのような機会を子どもに提供するような福祉システムを作り上げていくでしょうか。家庭養護における日常的ケアと並ぶ、治療的ケアの設定を可能にするでしょうか。

もしかするとこの時に、改めて施設養護の意味が改めて注目されることだってあるかもしれません。

家庭養護は万能ではないし、それによって手抜きをするべきことでもありません。今するべきことは、性急な家庭養護の強調ではなく、社会的養護のシステム全体の改変に向けた組織化なのだと思います。そのようなことが、これから議論になるかもしれません。

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