研修会を行うこと

研修や講演を重ねていると、すこしだけ心理面接に似ているなと思うことがあります。別に心理面接である必然性は何もなくて、私の中で使える素材がそれくらい、ということだと思うのですが、何が似ているかというと、研修や講演には「主訴」が必要だという点です。

アタッチメントについての研修や講演を依頼されることが多いのですが、基本的な枠組みについてはどこで話をしてもそれほど変わることがありません。逆に、この部分を話して、枠組みを共有しないことには先に進めないために、研修や講演の半分くらいと全般的な話で使ってしまうという問題もあります。それはそれで別に考えるとして、どこで話をしても同じようなことがあるし、それだけで終わらせることも可能であるだけに、この場所で、この人たちに、研修や講演を行うのであれば、何を伝えるのかということを明確にする必要がでてきます。

その時に私があてにするのが、研修や講演の目的であり、その場に参加している人たちのニーズです。これが明確になればなるほど、焦点を絞って話を構成しやすいし、ワークを考えることもしやすくなります。何より私自身が、なぜ私はここにいて話をしているのか、ということの見通しを持つことができます。その点で、心理面接における主訴に近いなと思うのです。

とはいえ、準備は事前にするため、その段階で目的やニーズが明確になっている必要があります。そのため、たとえば参加者が限定されていて、ある程度均質な聞き手を想定できるであるとか、主催者が目的意識やねらいを持って研修や講演を企画し、それに沿ってこちらに依頼があるとか、そういうことがあるとこちらとしても「主訴」が見えやすくなります。そうすると話を組み立てやすくなるし、全般的な枠組みの話の中で不必要なものは削ることで時間の調整もできます。要するに、研修や講演をうまく組織化できる気がするなと思うのです。

時々、この目的やニーズが見えない研修や講演があって、誰に向けて何を語っているのだろうという不全感というか、現実感の喪失というか、そのような気分を味わうことがあります。「とりあえず面接やって」と言われても困りますよね。

ただ、これは必ずしも外側の要因ばかりではなく、自分自身の要因から生じることもあります。たとえば、言いたいことはあるのだけど、それがどのように重要であるのかが分からないとか、言いたいことは決まっているのだけど、そこにたどり着くロジックが整理されていないとか、自分の中にまとまりがついていない状態で話をする時にもやはり不全感や現実との接触が薄い感じが生まれます。おそらく、私の中で感じ取られているニーズというものがあって、だから何か言いたいことが出てくるのでしょうけど、それが現実的に誰のどのようなニーズかが分からないので誰に向けて、何を話したらいいのかが分からないのだと思います。

どちらの場合であっても、手応えというものは、何もその場でうなずいてくれる人から感じられるものではなく、想定している聞き手が思い描けて、その聞き手に届きそうな言葉を選べることで感じられるものでもあるのでしょうね。

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