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シェイクスピアの記憶 その16

◾️冬物語(2018)@ウエストエンドスタジオ 演出:木村龍之介

 演出の木村龍之介が、ほぼ日の学校の講座内で、シェイクスピア作品の中でも、イチオシと話していた冬物語。
 「何じゃこりゃ?」が、予習のために戯曲を読んだ時の初めの感想。レオンティーズ、思考の変わり方激しすぎないか?
 

 実際観てみたら、妻と親友の仲を疑いを持ち始めるシーンでは、レオンティーズの心情の変化がよくわかって、目が離せなかった。それでも、「何でそこまで頑ななの? 話、聞きなさいよ!」とは心の中で突っ込みをいれてしまう。

 ウエストエンドスタジオは、演劇専用ではないようで、ほぼ真四角の小さな空間。中央にサランラップで覆われたプロレスリングのような正方形の舞台。周囲の三方に客席、残り一方には生演奏のドラムがセッティングされている。ドラムの上方に映像が映し出されている。
 開演までの間、出演者ののぐち和美によるアナウンスや誘導があり、徐々に役者たちが舞台の周りに集まってくる。思い思いに観客に話しかけたり、発声したり、体を動かしたり。観客との距離が近い小劇場ならでは。開演前のこういう緊張感とワクワク感が混じった雰囲気はすごく好きだ。

 冒頭は岩崎マーク雄大が、世界不思議発見!のレポーターよろしく、前半の主要人物、レオンティーズ、ハーマイオニー、ポリクシニーズの3人を紹介する。ラップ張りの舞台でポーズを取る3人は、博物館に展示された蝋人形のようだ。
 物語はラップの部屋の中で始まる。親友と出産間近な夫婦という幸せな光景が、レオンティーズに嫉妬心が芽生えた時から、みるみる緊迫の事態に変わっていく。
 レオンティーズは、ラップで囲われた美しい物語の世界から転がり出て、妻の浮気を疑いを口にする。レオンティーズの疑惑が確信に変わり、事態が悪化していくにつれて、透明な壁は破られ、それぞれの人物の心情も露わになっていく。妻を弾劾する場では、レオンティーズは体にラップを巻きつけて登場する。嫉妬に囚われてがんじがらめのようでもあるし、必死で自分を防御する鎧のようでもある。
 興味深かったのは、レオンティーズが、裏切られたと思い込んでいることを除いては、比較的論理的な思考をしていることだ。裁判を開いたり、アポロンの神託を手配したり、口汚く罵ることを自重したり。猜疑心に惑わされてしまったけれど、元々は、賢明で愛情深い人物だったのだろう。しかし、臣下のアンティゴナスの「見ていないのですか?」という問いに、素直に「見ていない」と答えつつも、裏切りが真実だと信じて誰の言葉にも耳を貸さない頑なさは、異常だ。裏切りを信じないものは、嘘つきだ、愚かだと嘆きつつ、自分の思考の正しさをひたすら相手に突きつける。つくづく、真実などというものは、人の心にしかないのだよな、と思う。人は自分の都合のいいものを信じがちであるし、たとえ自分の考えに根拠がなくても、どんなに反証を示されても、諭されても、一度思い込んでしまったら、その考えを変えることは難しい。特に感情が絡む場合は。神託ですら、「嘘だ!」と言い切る。そのくせ、息子の死を知って、急に考えを改める。その変わり身の早さはなんなんだ! この時代、神託ってのはどんな意味を持ったのだろうか。息子という、確実に自分の血をひく愛すべき信頼できる存在がいなくなったということが、それまでの考えを変えてしまうほど、大きかったということだろうか。

 物語の前半は、息子と妻を失い、レオンティーズは考えを改めたが、娘はボヘミアに捨てられ、羊飼いに拾われるところで終わり。
 後半はボヘミアの牧歌的な雰囲気、というより、若干の60〜70年代感の中で展開される。羊飼いもボヘミア王もヒッピーのようだ。ボヘミアンのイメージなのか。
 しかしなんというか、木村龍之介の演出は、蜷川幸雄が演劇の入口だったせいか、カッコよさと大衆演劇的なダサさがMIXされて出てくる気がする。毛刈り祭りの盆踊り感とか。いや、盆踊りで、観客を交えるのも楽しいし、演出としてはいいんだけど。事前に配られていたサイリウムは、休憩時間に手首に着けるように案内があったから、盆踊りシーンでは、まさに夏祭りの雰囲気。


 恋人となった、羊飼いの娘、実はシチリア王の娘パーディタとボヘミア王子のフロリゼルは、父王の怒りを買い、カミーロの手引きでシチリアに。そこで、パーディタが王女であることが判明し、結婚も許される。王二人も再会。
 再会シーンは、原作でも実際の場面は演じられず、宮廷の人々の噂話の形で語られる。読んだだけでも、なんでこういう形で処理されるのかわからなかった。時間の関係なのかしら。でも、その割にあまり重要じゃない場面、ほかにもあるんだが。当時の役者の割り振りの関係だろうか。ま、その真偽は別として。カクシンハンでも、暗転の中、腕にサイリウムをつけた役者たちが動き回りながら場面を語る。暗闇で光るサイリウムは、蛍のような、星のような、魂のような。観客のサイリウムも含めてあちこちで色とりどりに光る様は、ラストシーンへの準備だったのかもしれない。

 そして、クライマックスは、彫像となったハーマイオニーに起こる奇跡。ここは、原作を読んで最もなんじゃこりゃ、と思ったところだった。私はあらすじを聞いて、てっきり、完全に彫像が奇跡の力で人間になるんだろう、と思っていたのだけど、原作読むと、実はずっと生きていて、彫像のフリをしていたのだと読み取れる。が、実際にお芝居を見てみると、どちらにでもとれてしまう。結局、そこは、演出や観客の捉え方次第なのだろう。興味深い。そして、生き返って抱き合うハーマイオニーとレオンティーズが、夫婦というよりも、まるで聖母子像のようであったのが、さらに興味深い。

 全体に、冬物語は、男性の登場人物が暴走したり、物事や想いを隠して画策したりするのに対して、女性は、自分の信念を貫き、ごまかさず、気高く凛としている。特に裁判シーンで、ハーマイオニーが哀しみや怒りを抱えながらも、昂然と頭をあげて潔白を訴え、断罪されてもなお、それを受け止める姿は美しかった。そして、もう一人、重要な女性が、ポーライナだ。シチリア王の臣下のアンティゴナスの妻であるが、王にも夫にも一切媚びず、容赦なく批判の言葉を投げかける。ファイルを手にして、台詞を読み上げるのは、ポーライナが、物語の中の人物ではなく、違う次元の存在だということをしめしているのだろうか。パーライナを演じたのぐち和美は、4幕の初めで、「時」役も演じていたし。後半の奇跡はポーライナのコントロール下にあるようにも見える。そもそも、王を改心させるためとはいえ、何をされるかわかったものではないのに、レオンティーズのところに赤ちゃんを置いていってしまうのも、考えたらおかしい。そこからすでに、ポーライナというか、「時」の手のうちだったのかもしれない。

 役者たちは、今回も熱演ばかり。
レオンティーズの河内大和は、なんといっても、このカンパニーの支柱だ。表情、声、身体、そのバリエーションの豊かさ、美しさ。こんなに感情の上下が激しい役をよく破綻なく演じられるな。初めに疑い始めるシーンの表情は目が離せなかった。読んだだけでは、この人、大丈夫かしら?ってくらい唐突なのだが、河内の表情の変化を見ていたら、何だかわかる気がしてくる。それでも暴走しすぎだろと思ってるしまうけれど。
 羊飼いのお父さんを演じたのも、レオンティーズとのギャップがあって面白い。ともに父親であるけれど、対照的。主役じゃなくて、道化役とかやっても活きるのだな。
 カミーロを演じた岩崎マーク雄大は、誠実な人柄が滲み出る好演。賢く、信に篤い。でも、王や王子の意を叶えると同時に、自分の願いも叶えてしまおうとする、現実的なエゴもある。ひざまづいて王と対峙した時の伸びた背筋が美しかった。
 アンティゴナスは、王と妻に振り回されて、右往左往して最終的に死んでしまう、という可哀想な役回りなのだけど、野村龍一は随所にコミカルな空気を醸して、緊迫したシーンを和らげてくれた。怒って立ち去る妻ポーライナに「ポーちゃん!」と声をかけたのがよかった。ポーライナに圧されるただの恐妻家ではなく、きちんと愛情のある夫婦の一面が見えて、ポーライナとアンティゴナスのストーリーに厚みが加わった。
 フロリゼルを演じた井上哲は、まさに恋する若者!といった雰囲気。実際とても若い役者だ。演技の上手下手ではなく、今の歳だからこそできる魅力があった。パーディタしか見えていない一途さ、無謀さ。父親役の島田惇平や河内と対峙すると、台詞回しも身体の見せ方も、役者の力量としてまったく敵わないのだけど、それに必死でくらいつこうとする姿がまた、役柄にぴったりだった。

 ポケット公演と銘打った今回。時間も規模もポケットサイズ、というのがコンセプトのはずだが、結局2時間半。全然ポケットじゃない!でも、濃くて熱くて充実。
 シェイクスピアは、読むのもよいけど、やっばり見るのが楽しい。

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