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シェイクスピアの記憶 その15
◾️ハムレット(2018)@シアターグリーン 演出:木村龍之介
初カクシンハン。
シェイクスピアと演劇の面白さとその可能性を十二分に体感させてくれる舞台。今の時代、今の日本だからこそできた「ハムレット」である。
一面黒のシンプルな舞台上には横断歩道のボーダーが走るのみ。
オープニングは、現代の街中。スマホを手にした人々が通りを渡っていく。互いに体がぶつかるほどの距離ですれ違いながらも、誰一人視線や言葉を交わそうとしない。まるで周りのことなど見えていないかのようだ。まさに今の日本でよく見る風景だが、この物言わぬ一団は、後の場でエルシノア城をさまよう亡霊としても登場する。この横断歩道のある舞台は、過去と現在、死者と生者の交わる交差点なのだ。
このオープニングシーンに代表されるように、木村龍之介の演出は「ハムレット」の情景や登場人物のイメージを、現代の私たちにわかりやすい形で見せてくれる。
シェイクスピアのとっつきにくい膨大な台詞はそのままに、衣装、照明、音楽はもちろん、舞い散る桜や大量のパイプ椅子、舞台上のモニターに映し出される映像によって、それは表現される
特に印象的だったのは、レアティーズの旅立ちのシーンだ。父親の経営するクラブで仲間たちと騒ぎながら、ラップにのせて、妹のオフィーリアに忠告を与えるレアティーズ。対するオフィーリアは、喧騒をひとり離れてイヤホンをして本を読んでいる(しかも、「海辺のカフカ」を!)が、兄に応えてラップで応酬する。この兄妹のやり取りからは、台詞では語られない二人の生まれ育ちや嗜好、お互いへの愛情が透けて見える。だから、この後レアティーズが直情的な行動に走るのも、オフィーリアがハムレットと惹かれ合って、狂気に陥ってしまうのも、すんなり理解できるのだ。
直感的に伝わるイメージと解釈を、大胆な演出で見せる。そうすることで、400年前の古典が、生き生きとした手触りを持って立ち上がってくる。まさにそれがシェイクスピアの面白さであり、演劇の力だろう。
それにしても、木村龍之介の演出は、シェイクスピアの時代と今をつなげるという意思がすごく強いように思う。これって何だろう、この気持ちってどういうこと何だろう、シェイクスピアって何だろう、人って何だろう。そういう問いを青くさいほどに突き詰めて表現しようとしている気がする。何だかあまりに真正面から挑んでいくので、その意思の強さが、眩しいような気恥ずかしいような気持ちもしてくる。
さて、一方で、解釈の演出ばかりを見せていては、頭でっかちな謎解きになってしまう懸念がある。カクシンハンの舞台はそこに陥らないのは、役者たちが発するリアルな言葉と鍛えられた身体の力があるからだ。
特に、タイトルロールを演じた河内大和が見事だった。実に身体が雄弁に語る。台詞に直接表れない感情の動きを声のトーンで、目線で、手や足の角度ひとつで伝えてくる。
以前に書いたが、私はハムレットという人物が、あまり好きではなかった。ひとりでうじうじ悩んで、相手の話は聞かずに人も殺すし、自分が原因なのに死んだオフィーリアを見て誰より愛していた、などとのたまう。何考えてるかわからない、自分勝手なやつだ、と思っていた。
だが、カクシンハンのハムレットを見て、不器用だが自分に正直に生きるハムレットに初めて愛おしさを感じた。
カクシンハンを知れてよかったな、思う。
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