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ねじまげ物語の冒険 全文掲載!

○  はじめに

 一人の男がいる。
 年は四十ばかり。頭は禿げ上がり、妻とは別れ、一人娘にはすっかり嫌われている。会社はリストラしかかり、友達はいない。他人からは、本物の変人だと、思われている。住んでいるところは変てこだし、その人物とて、変てこだ。
 でも、彼は信じている。
 昔、本の世界を旅したことを。
 大昔に別れた、友達のことを。
 その人物が、いつか迎えにくることを。
 だから、今日は、一つの物語を語るとしよう。
 息をついて、しゃれた話を一くさり。
 お気に召すなら、幸いだが。

 不思議なことというのは、意外なことであるだけに、やっぱり意外な場所で起こるというのが常である。意外な場所で起こるからには、やっぱり人の目には止まりにくいし、あるいはそれというものが、不思議で意外であるだけに、誰もが、気のつきにくいものなのかもしれない。不思議な事に、注意している人というものは、やっぱり少ないものなのだ。
 これから私がつらつら述べるお話というものは、やっぱり不思議なことであるだけに、意外な場所で起こっていて、だから、この話を知っている人は、極めてまれであろうと思う。
 人伝に聞いたという人には、違う話に聞こえるかもしれないし、その人と、私がこれから語るお話には、若干の差違もあろうと思う。
 はじめて聞く人ならば、尚更奇異に聞こえることだろう。そのために、怒り出す人もいるだろうし、出鱈目だ嘘吐きだと言って、非難をする人もいくらかはある。
 だけど、そういう人には、不思議なこと意外なことが目に止まりにくいというだけで、やはり奇怪面妖なことなど、この世にはいくらでもあるものなのである。
 本当かよ、と眉に唾をする方、嘘もほんともどうでもよい……と、紙をおめくりになるあなた。
 世の中、反応はごまんとあれど、私はこれだけは言いたい。これから物語るお話というものに、嘘偽りは全くない。
 柔軟で広い心さえあれば、奇怪面妖なことなど、この世には、いくらでも起こりうるものなのである。


◆ 第一部 果てしない物語の果てしない始まり

○  その少年について

 もし――
 あのとき、ああしていたら、あのとき、ああだったらという思いは、誰にでもあろうと思うが、牧村洋一が、どこともしれない場所で、ちびのジョンや赤服ウィル、時代錯誤のお侍、信用のおけないほらふき男爵といった面々にとりかこまれながら、木につるしたハンモックにくるまり、うつらうつらと考えていたのは、次のようなことだった。
 あの日、父さんと母さんが、死んでいなかったら。
 男爵の誘いを、断っていたら。
 どうなっていたろうか?
 このようなタラレバというものは、人の耳に入れば、女々しく聞こえるものだし、聞こえれば、言ってもしょうのないことをぐずぐず言うな、と、叱りとばしたくもなる。だけど、彼のために弁護をするならば、両親の死というものこそ、彼にはどうしようもないもので、あのとき、男爵の誘いをことわるのは、いっとう無理なことだった。
 彼はまだ、小学五年生の子供だし、背もふつうだし、成績も悪いし、とり柄もなければ、小づかいもすくなかった。そんなわけで、このさきの人生を、養護院で暮らすなんて、絶対に嫌だったのである。
 洋一は、家に帰りたかった。生まれそだった図書館に、帰りたかった(正確には、今もその図書館にいるのだが。いるはずだ。きっと)。養子なんて絶対にいやだし、両親には、帰ってきてほしかったのである。
 あのとき、彼の願いはそれだけで、しようもないことは言わなかったし、高望みもしなかった。
 無理なお願い、だけをした……。


 洋一少年の育った環境は、ちょっとばかり変わっていた。
 住んでいるところは古い洋館だし、その広い洋館は、図書館に改造されていた。両親は、古今東西のあらゆる本をかき集めていたが、その屋敷は山のうえに建っていたから、利用者はあまりにも少なかった。
 さきほどのお話のとおり、それは意外でひっそりとした場所であったから、不思議なことや、奇怪なことが、近寄りやすかったのかもしれない。今から考えると、洋一の両親というものも、ちょっと奇怪な人たちだった。
 洋一の両親は、牧村恭一、薫、といった。洋一にとって、両親というのは必ず家にいて、そして、なんの仕事もしていない人たちだった。二人は本にかかりきりで、まさに本にとりつかれたような人たちだった。収入は、いっさいない。豪奢な屋敷に住んでいるわりに、暮らしむきは、質素なものだ。
 それでも、洋一は両親が好きだった。長いのぼり道にこそ辟易としていたが、あの古びた屋敷のことも、好きだった。利用者が少ないといっても、おしかける友人は多かったのであって、ただ彼らのたいはんが、本嫌いであっただけのことだ。
 とはいえ洋館だって、刺激物としては負けてはいない。その屋敷は、ゲームの一場面を連想するのに十分だったし、なんといっても、子供心を刺激するのにあんな立派な建物はなかった。子供をいっとう育てるものが、いっとう不可思議なものであるならば、あの洋館こそが、打ってつけであったのだ……。


 このように書くと、誤解をうけるかもしれないが、洋一は、その屋敷に帰ってはいた。帰るときは、こそこそしなかったし、堂々と門から入った。彼は今、まさにその日――屋敷に帰った、あの日のことを、考えていたのである。
 あの日というのがいつなのか、洋一にはもうわからなかった。彼の時間は、めちゃくちゃだった(いやいや、一番にめちゃくちゃになったのは、彼の人生そのものだが!)。一時間が数ヶ月になったようにも思うし、あるいは止まったようにも思えてくる。
 洋一は毛布を引き寄せ、しかめっ面をしながら、大人めかしい考えに小さな胸を痛めていた。いやいや、人生というのは、なにが起こるかわからない。なんでこんな目にあうんだと、ふんたらかんたら考え、人前では見せなくなった涙を、こっそりぽろりとこぼすのだった。
 だが、このように唐突な話。諸兄とて、突然されても、話の道筋などはわかりはしまい。だから、この少年の、これまでに目をむけたい。
 あの日から、これまでの話。
 いや、まわりくどい物言いをしてもうしわけない。率直に言おう。
 彼は今、本の世界の、中にいる……


◆ 第一章 恐怖の院長とほらふきな男爵について

□   その一 養護院みろくの里の実体について

○     1

 果てしない夜の森のなか、洋一少年が思いをはせていたあの日というのは、冬も間中の寒い夜のことだった。
 その日、古い石油ストーブの前で、彼は毛布にくるまっていた。外をわたる風に、洋館の窓はゆれていた。そうして、ただ一人、お気にいりの本を膝におき、クリームパンと瓶詰めの牛乳に手をのばしていたその間に、彼の両親は、この世の人ではなくなった。手の届かぬところに、行ってしまったのである。
 警官が訪ねてきたのは、洋一が、そろそろ時間の遅いのを心配しはじめたころだった。
 玄関に応対に出て、そこで三人の警官から事情を聞いた。聞いているうちに、彼の手からは、牛乳とパンと、毛布が落ちた。ほとんど飲み終えていた牛乳が、床にこぼれ、その白い液体は、彼の真っ白になった脳裏に、いやに強く焼き付けられた。
 いやな、予感がした。
 彼は毛布をもったまま、警官に誘われた。パトカーに乗るのは初めてだった。隣にすわる警官たちは、いたわりの目を向けていた。
 パトカーは、サイレン音を鳴らしもしなかった……

○     2

 洋一は病院までつれていかれたが、両親には会わせてもらえなかった(二人の体が、すっかり燃えたことを知ったのは、ずっと後のことである)。
 洋一のまわりで、時間だけが、呆然とながれていった。死というものは、大人でも理解しがたいものであったし、両親の死を受け入れるには、彼はまだ幼すぎた。相談をしようにも、となりにいる警官は、洋一には、ちょっとばかりおっかなかった。友達に電話をしたかったが、夜も遅いし、どこからどこにかければいいのかもわからなかった。電話番号のひかえすらない。
 洋一は、父さんと母さんはまだ手術室にいて、まだ治療を受けているにすぎないんだ、と、そんな考えにしがみついた。呆然とはさきほど述べたが、彼の脳みそは、大部分が、考えることを放棄したかのようだった。
 やがてそんな時間も過ぎ、病院の安置室の長椅子にすわりこむ洋一の前に、役所の人間が現れた。彼らはもう、あの屋敷には住めないこと、法律により、養護院で暮らさねばならないことを告げた。洋一には、 親戚がいなかった。彼の唯一の身内は、安置室にいるから、独りぼっちになったわけだ。肉体的にも、精神的にも……。
 役所から来た女は、足立という名前で、きれいだが冷たい感じのする、背の高い女性だった。冷えきっていたのは、洋一の身と心の方だったから、そんなふうに感じたのかもしれない。
 ともかく、洋一は病院をでると、その人の車に乗せられ、いったんは、自宅の図書館までつれもどされた。服や、身のまわりの品を、持っていくためである。
 足立は、屋敷までの道々、養護院はどんなところか、そこではどんなふうに暮らさねばならないかを、話してくれた。また、屋敷にはときおりもどっていいこと、そのおりは養護院の院長を通し、自分に連絡をつけることを約束させた。鍵はわたしが持っておくから、心配しなくていいのよ……。
 車のヘッドライトは、夜の無機質な街を照らしていた。車はゆったりだとも、速かったともいえる。時間の感覚が、なかったのだ。
 洋一は足立の方は見ずに、窓の外ばかり向いていた。外に知り合いがいないか、友達が呼び止めてくれはしないかと、そんな姿ばかりを探していた。
 ときおり、足立の車は、柳やんやカッツンの家の前を通ったが、どの家並みも明かりは消えていて、彼の期待した友人の姿は、どこにもなかった。

 屋敷につくと、洋一は、わざとゆっくり自室に向かった。後ろから、足立が屋敷を見回し、感嘆の声を上げるのが聞こえた。家具や、造りの広壮なことに驚いたのである。屋敷だけを見ていると、洋一の家は、とほうもないお金持ちだと人は思うのだが、じっさいには、つつましやかな生活だった。
 洋一は旅行用のバッグを探し出し、子供の頭でいるだろうと思われるものを、バッグの中にほうりこんでいった。その間も、外で物音がするたびに窓に駆け寄り、両親か、あるいはクラスメートの姿をさがした。そのたびに、がっかりしては引き返すのだった。
 阿部先生は、なんでこんなときにかぎってきてくれないんだろう。今が一番肝腎なときじゃないか、文化祭や体育祭より大事なときだと、彼は思った。
 洋一は、パンツをたくさんと、ズボンを少々、セーターを一枚用意した。たまに戻ってこられると足立は言っていたから、ゲームやおもちゃは持っていくのを控えることにした。養護院がどんなところかわからないし、山さんみたいな、いやなやつがいたら、ゲームをとられないともかぎらない。
 それから、養護院はどこにあるんだろう、これまでの学校に通えるんだろうかと不安に思って、最悪の結果を予想した。だから、足立に訊くのは控えることにした。たびたび戻ってきたかったから、わざと置いていったものもあった。帰るときの、口実になるように。
 つまるところは、こういうことだ。
 洋一は、ちょっと待ってよ、と言いたかった。車に乗っている間も、カバンに服をつめている間も、ずっとそう言いたかった。足立が、もう屋敷にはなかなか戻れないだろう、とか、はやく新しい親御さんが見つかるといいのだけれど、と言っているときは、とくに強くそう言いたかった。彼にはろくすっぽわけがわからなかった。人が死ぬだとか、両親にはもう会えないだとか、こんなときの世の中の仕組みだとか……
 そんなことを理解するには、彼の心は柔軟でありすぎたのかもしれない。だけど、洋一だって、もうどうにもならないということは、わかっていた。
 荷造りはすんだ。足立の車はゆるやかに発車して、屋敷につづく坂道を、ゆっくりと下った。洋一はシートにへばりつくようにして、その道と屋敷を、視界におさめつづけた。
 自宅のある丘を離れ、あの林が見えなくなると、洋一はゆっくりと前をむいて、座り直した。

○     3

 養護院みろくの里は、三十人ばかりのこどもたちを収容している。院長の自宅は、その邸内にあって、問題が起これば、いつでも駆けつけるというわけである。
 さて、洋一をこの養護院に送ってきたものの、足立はこの院に、洋一を預けるのは気が進まなかった。この辺りには、他に市立の養護院がなかった。みろくの里は評判がよかったけれど、それはこの院が、どんな子供でも預かるからだった。みろくの里がいいと思っているのは、足立の上司だったが、その人たちは、みろくの里には、来たこともなかった。事務処理も、こどもたちの世話も、足立が一人でやっていた。だから、現場を知っているのは、足立だけなのだ。
 足立はインターホンを押した。扉は、すぐに開いた。鼻にドアがぶつかりかけた。扉の裏で待ちかまえていた男が、急にドアを開けたのだ。
 洋一は、クラスでもとくに、後列から三番目に背が低かったが、院長は背が高かった。洋一が見上げると、八の字の髭が、にょきりにょきりと、立体型にくっきり見えた。
 院長は、女性にも洋一にも、注意を払わなかった。酔っているようだった。
 足立が、どぎまぎした様子で言った。「団野院長、夜分遅くにもうしわけありません」
「ああ、まったくだな」
 院長は言った。
「こちらは牧村洋一君ともうします。あの……院長、聞いてらっしゃいます?」
「それがどうかしたのかね……この子は孤児なんだろう」
 と、院長は急に高くなった声でそう訊ねた。
「そのとおりですが、院長」
 足立が院長の肘をとり、洋一から離れるような仕草をみせた。彼らは玄関の奥に寄った。院長は、足立の話を少しだけ聞くと、洋一に向かって身をかがめた。
 洋一は、院長の肌から、日本酒の臭いをかいだ。彼の父親はワインやウィスキーを好んだ。なんだか嗅ぎなれない、いやな臭いだと、洋一は思った。
「牧村」
 と団野は言った。洋一君、とも、洋一、とも言わなかった。名字で呼ばれたので、洋一が感じていた団野院長の冷たい感触は、よりいっそう強くなった。
「親が死んだのか? 君には親戚がいないのか? 独りぼっちなんだな?」
 院長は最後の、独りぼっちなんだな、を、噛み締めるようにゆっくり言った。洋一は、答えることだけができずに、ひゅっと息をのみこんだ。
 洋一は、足立にこう言いたくなった。
 ぼくを連れて帰ってください、ここに残したりしないでください、この人と、二人きりにしないで下さい!
 そんなことを言ったら、院長はどう思うだろうか? 最後に感じたこの思いで、洋一は、胸に渦巻くその言葉を、口にすることだけは踏みとどまった。洋一は、虐待を受けたことはないが、虐待のなんたるかは知っている。
 洋一は、こわばった顔のまま、小さく幾度かうなずいた。院長の髭だけが、うれしそうに笑った。
 洋一は、よりいっそうの不安を覚えたのだった。

○     4

 足立は去っていった。
 彼女は去り際に、気をつけてね、と洋一に言いたかったが、そんな失礼なこと、院長の前でいえるだろうか?
 団野院長が玄関を閉めた。団野院長は、目の前に立った。
 洋一は、扉と院長にはさまれた格好になる。洋一には、院長のズボンとチャックしか見えない。背の高い人だな、と思った。ぼくが小さすぎるのかな? 
 次の瞬間には、洋一は顔を平手打ちにされ、タイルの上に尻持ちをついていた。なにが起きたのかわからずにいるうちに、鼻血が垂れ落ち、彼の服に赤い染みを、一つ、二つともうけていった。
「夜分遅くに申し訳ありません」と、院長は上目遣いで、足立の口まねをした。「まったくだな。礼儀がなっとらん。失礼じゃないか。そうは思わないか? わたしは寝ていたかもしれない。酒を飲んでいたかもしれない。女と淫行をしていたかもしれないではないか。そうは思わないか?」
 と、訊きながらも、院長の目は洋一を通り越していた。地球の中身でも、覗いているかのような、心ここにあらずな目……
 洋一は、震えて黙りこんだ。両親が死んだのだって、彼にとっては、口も利けないほどショックなことだ。骨が砕けるほど、強烈な平手打ちを食ったのだって、初めてだ。彼は父さんにはぶたれたことはなかったし、母さんにぶたれたのだって、もういつのことだったか、思い出せもしないほど。それに、院長は手首付け根の硬い骨で、洋一のあごを正確に打った。彼のダメージは、脳みそにまでおよんで、いまだにぼうっとしている。その意味では、あの瞬間だけは、院長の足下は確かなものだったといえる。
 院長の目の焦点が、ようやく洋一を探り当てた。洋一は、院長の目玉に、怒りの熱気が揺らめくのを見た。
「お前はあいさつをしらんのか……」
「はい……?」
「はい? イエスなのか? そうなのか……」院長は洋一の襟首をひっつかむと、むりやり立たせ、「悪い子だ。すごく悪いじゃないか。うちじゃな、悪い子には折檻することになってる。折檻しないと、子供はいいことと悪いことを覚えないんだよ! なぜなら、子供には理屈を言っても無駄だからだ!」
 院長は酔っているとは思えない力で、洋一の体をドアに放り投げた。
 硬い樫のドアに、背骨が跳ね返され、内臓が、胸から飛び出るほどの衝撃を受けた。
 洋一が、咳きこみうずくまっていると、院長は間も与えずに髪をつかみあげ、
「悪い子だ悪い子だ、覚えろ、覚えろ、しつけを覚えろ! 俺にあったらあいさつをすると!」
 大声で叫びながら、洋一の頭を。扉に打ち当てはじめた。
 洋一は脳みそを揺さぶられ、考えることもできない。ようやっと考えられたのは、今日繰り返しつぶやいてきた言葉で、これは夢だ、の一言だった。
「みんな、なんでも俺に押しつけやがって、市の補助金なんてくそくらえだ」
 院長は、最後に洋一の体を、ボールみたいに床にたたきつけた。
「くそくらえだ」
 そう言うと、彼は立ち去ったのだが、恐怖と痛みに震える洋一の目には、院長の足下しか見えなかった。

○     5

 骨が折れたんじゃないかと思った。肩甲骨や肋が、ひどく痛かった。こんなふうに痛めつけられたのは初めてだ。友達と喧嘩をしたことはあるが、それは痛めつけられたなんて言わない。院長は大人の圧倒的な力で、彼をおもちゃみたいに扱った。ゴミやボールをほうるみたいに、彼の体をほうり投げた。
 だけど、彼が本当に、冷凍庫に放りこまれたネズミみたいに、震えだしたのは、鞭を持ってもどってくる、院長の姿を目にしたときだ。こんな恐怖は、これまでなかった。
「おしおきだ」院長は言った。「おしおきだ。言うことをきかないやつは御仕置きだ。しつけのなってない子はお仕置きだ! 俺様が悪いお前を、とことんこらしめてやるぞ。腕を出せ!」
 院長の持っている鞭は、乗馬につかう、短いが威力の鋭そうなやつだった。それを、びゅん、とふるわせる。鞭が棚にぶつかり、木枠が裂けた。
 洋一は、扉まで後ずさると、腕を体の後ろにかくし、
「ぼくはなにもしてません!」
 と泣きながら叫んだ。
「いやしている」
 院長は、壁にかかった額縁の絵を、鞭で打った。分厚い紙が、斜め一文字に、きれいに裂けた。
 洋一は、ぼくのほっぺもあんなふうにさけるんだ、と震えた。生まれてはじめて、どんなことでもするから、許してほしいとさえ思った。
 院長は鞭の端を両手で持ち、仁王立ちした。
「お前は甘ったれてる。その証拠にあいさつもろくにできない。俺の睡眠のじゃまをした。酒を飲むのをじゃまをした。うちの院では、そういう小僧は、きつくしつけるんだ。俺はそのためにお前を預かっている。両親にかわって、お前をしゃんとしてやるぞ、とことんだ!」
「あやまります!」
 洋一は言った。院長はハッとしたように、しゃべるのをやめた。天井を見ていた目を、水平の位置までおろした。
 それでも、洋一のことは見ようとしなかった。
「悪いことしたんならあやまるよ。だってぼく、こんなところに連れて来られるなんて知らなかった。ぼく……」
「知らないことが罪なんだあ!」
 とたんに院長が駆け寄ってきて、その右のつま先で、洋一のみぞおちを蹴り上げた。
 洋一は痛みで息がつまる、横隔膜が引きつって、息も吸えない。
「知ったふうな口をきくな! 知ったふうな口をきくな! 子供は大人のいうことを聞けばいいんだ!」院長は叫びながら、なんどもなんども足を踏みおろす、洋一の体めがけて。「そうしないと、まちがうだろう! 誰かが、お前たちを、しつけなければ、世の中は、どうなる? むちゃくちゃに、なってしまう。そう、ならない、ために、しつける、役目が、大人には、あるんだ!」
 院長は酒に酔った荒い息を吐き、洋一を見下ろした。「腕を出せ」
 洋一は、震えながら丸まっている。彼は泣きながら言った。
「おしおきならもう受けた。もういいでしょう!」
「なんだその口の利き方は?」
 洋一が見上げると、院長はあまりのことに呆然としているようだった。そんなふうに反論されるのは、さも心外だと言いたげに見下ろす。
 焦点が二転三転して、洋一の目線と合った。
「誰にそんな口の利き方を習ったんだ?」
「誰でもいいよ! ぼくの父さんはぼくを叩いたりしなかった……」
「いまは、俺がお前の父さんじゃないか」
「お前なんか、ぼくの父さんじゃない……」
 洋一は泣きながら、そっと膝元に顔をうずめていった。そうしたら、体が小さく丸まって、消えてしまえるみたいに。
 院長はうなり声を上げながら、踵を、洋一の後頭部に振り下ろした。院長は飛び上がると、お尻から彼の背中に落ちた。あまりの衝撃に、洋一の体が伸びると、こんどは右足の上で地団駄をふみはじめた。
「こい」と、院長は洋一の腕をひっつかみ、彼の体を引きずりだす。「二度とそんな口の利けない子にしてやるぞ! 俺にそんな口をきいたやつがどんな目にあうか、お前の体に焼き印をおしてやる!」
 洋一は、意識がもうろうとして、逃げなきゃ逃げなきゃと思うのに、頭が扉や壁にぶつかってもどうにもできず、その身に起きたあまりに理不尽な出来事のために、軽い緊張病を起こしていた。彼は痴呆のように口を半開きにし、よだれを垂らしていたのだが、院長が煙草を束にして丸め、それに火をつけだすと、急にしゃんとなった。
「どうするの?」
「吸うと思うのか?」
「ぼ、ぼくにそいつを押しつけたら、きっと黙ってないぞ」
「誰がだ?」
 院長は洋一を見下ろした。真剣な目で。
「誰が黙っていないんだ。お前の親は丸焦げになって、ずっと黙ったままだ」
 それが、さもおもしろいジョークだとでもいうかのように一笑いした。洋一が泣き始めると、拳で彼の頭をこづきはじめた。
「泣くな、こいつ。男だろう、男だろう、男だろう。鍛え直してやるぞ、お前を俺が鍛えなけりゃあ、そうとも、とことん、とことんやらなけりゃあ」
 煙草に火がまわった。十本ばかりが重なり合い、その先端の火口は、赤い火の玉に変わった。
「誰も助けなんてこないんだぞお。それなのに、俺に逆らうってことが、どういうことなのか、こいつで体に刻みこめ!」
 洋一は逃げようとしたが、院長は彼の頭を床に押しつけている。洋一は、痛みとあきらめの気持ちも手伝って、抵抗らしい抵抗もできなかった。
 院長は彼の背中に、服もめくらず、火のついた煙草を押しつける。洋一の耳に、服がとけるジュウッとした音が届き、彼は皮膚が焼ける痛みに、声をかぎりに絶叫した。
 洋一は信じられなかった。こんな痛みも、自分がこんな声をだしたことも。彼がちょっとでも怪我をしたら、心配してくれる母さんがもういなくって、見知らぬ男に煙草の火を押しつけられていることも。
「どうだ! 誓え! ここに神に誓って誓約しろおっ! 二度と俺には逆らわないと! この院で起きたことは絶対に口外してはいけないんだぞお! みながそうしてきたように、お前も誓えええ!」
 誓う! 誓います!
 洋一は自分の喉がそういうのを聞いた。服や皮膚だけでなく、頭の中にも火がついたかのようだった。
「いい子だ」
 院長の体が離れた、洋一は、ぐったりと床にしなだれた。
 しかし、院長は手にした煙草の幾本かに火が消え残っていることに気がついたようで、その火を消すのに、灰皿ではなく、洋一の体をつかうことを思いついたようだ。
 院長は、消え残しの一本を、洋一の右手に押しつけた。新しい痛みに苦悶する洋一の耳で、もう一本。こめかみでもう一本。そして、親指の爪に一本ずつ。
「お前は、しばらく外に出ることを禁ずる。この家の部屋に閉じこもってろ。いいか、体の傷を誰かに見られたら、俺が困るんだ……」
 ぼくの体を傷つけたのは、院長じゃないか……と、洋一は心で、悲鳴混じりの非難を上げた。

○     6

 洋一は、自分が気を失っていたのか、そうでないのか、後になっても思いだすことができなかった。だけど、院長が彼の手を引き、廊下を引きずっていた光景を覚えているということは、完全に気絶していたわけではなかったらしい。ともかく、院長は自宅の物置に連れて行くと、その部屋に彼を押しこめた。それから、忙しくて放尿のことを今の今まで忘れていたみたいに、壁に向かってしょんべんをした。
 足下に飛沫が飛んできた。
 その後、院長は洋一の元にもどってきて、テーブルに紙とペンを用意した。書け。と、彼は言った。
「お前がここで暮らすための誓約書だ。言っておくが、これはれっきとした法律にのっとった書類なんだ。汚すなよ」
 と院長は言った。
「お前は、ここで起きたことを誰かにしゃべってはいけないし、俺に逆らってもいけない。養護院の仲間とはうまくやれ。掃除や雑用も、すべてお前に課せられた義務だ。うちではな、子供には労働の義務があると見なしている。お前は働いて、金を稼がねばならん。お前が食う飯のための金を、お前の親父や母親が稼いだみたいに、今度はお前が稼ぐんだ。ここに名前を書け」
 院長は、洋一に紙に書かれた内容を一通り読ませたあと、誓約書の下にある署名欄に、名前を書かせた。
 そのあと、院長が懐からカッターナイフをとりだしたので、洋一は、あ、と声を上げた。
「心配するな。判を押すだけだ」
 と言いながら、院長は、彼の親指を切り裂いた。
 カッとした、痛みがあった。かと思うと、洋一の親指に、見る見るうちに、血があふれ出してきた。
 院長は、指にたっぷりと血がついたことを確かめると、名前の横に拇印を押した。
「これでいい。これでお前は正式にうちの院生となった。お前は以降十年間をここで暮らすんだ。これからは、俺と養護院の生徒がお前の家族だ」
 院長は誓約書を掲げた。
「逃げ出してはいけないと書いてある」
「誓約書に違反したら、どうなるの?」
 洋一は怖ろしかったが、どうしても訊きたくて、その質問を口にした。それに、これ以上は痛めつけようがないんじゃないかという、期待があった。
 院長は、さも心外なことを聞いたと言いたげに、
「それは法律違反じゃないか……そんなことをしたら、どうなると思う?」
 洋一は、うなだれて答えなかった。
「お前は裁判にかけられて、刑務所に入ることになる」
 院長は、保証すると言いたげにうなずいた。それから、洋一の頬をはりとばした。
「そこはここなんかより、何十倍も怖ろしいところだ。そこに入らないためなら、なんでもするという気分に、お前はなる。養護院を変わりたいなんて、そんなことは思ってもだめだ。そんなことはできない。世話になった俺にたいして、失礼じゃないか。しゃんとした俺様がお前をしゃんとさせてやっているというのに。第一どこも似たようなものだし、どこよりもうちがましだからな」
 院長は立ち上がると、扉に向かっていった。
「お前はここにいるんだ。わたしの許可がないかぎり、一歩も外に出てはいかん。出るかでないかは傷の治り具合をみて俺が決める。もし、規則をやぶったときは……わかっているな?」
 院長は部屋を出ていった。出ていくときは、洋一を見もせずに、こう言い残していった。
「養護院、みろくの里に、ようこそ」

□  その二 ほらふき男爵、かく現りき

○     1

 暗闇だった。その闇の中で洋一が覚えているのは、体の痛みと心の痛み、院長の放ったアンモニアの臭気。日本酒のまじった、あの臭いときたら……。
 時折身じろぎをしたが、その身じろぎすら、体に走る激痛のために、苦痛ですらあった。彼は、暗闇のなかで涙した。院長の痛烈なことばの数々は、受け入れるべからず両親の死を、むりやり喉に押しこんだ。もう二人には会えないんだ、と思うと、つらかった。自分も、この世から、消えてしまいたかった。
 これからは、自分が家族だ、と院長は言った。洋一は、「あんな家族なら、欲しくないよ……」と、闇の中で答えた。
 洋一は闇の中で横たわったまま、夜が明けるのを待った。夜が明けたとて、ここを出られるわけでもないのだが、院長に逆らって、ふたたび虐待が行われれば、拘束はさらに長引くものと思われる。
「父さんも、母さんも、ぼくをちゃんと育ててくれたんだ……お前なんか」
 熱いものが喉にかかって、先を続けられなかった。びっくりするほど、熱い涙がこみ上げて、しゃくり上げて泣いたのだった。
 あんなふうに言われっぱなしで、自分や父さんにたいして、もうしわけがなかった。なんとすれば、両親はもう反論なんてできないのだから、彼こそがあの院長に、きっと言ってやらなければならなかったのだ。
 それから、洋一は院長に言われたことを、一生懸命考えてみた。
 大人からこんなふうに扱われたからには、自分が悪いことをしたからじゃないかと疑ったのだ。
 だけど、院長の発した言葉の数々は、彼にとって大半が意味不明なものだったし、自分のどこが悪かったのかはわからなかった。
 洋一は涙をこぼしたが、院長に聞こえないよう、必死に嗚咽をかみころした。
 それから、誓約書の規則をやぶったら、刑務所にいれられるなんてほんとかな? と考えた。いくら彼が小学生とはいえ、多少の知識はある。院長の言葉は信じがたかったが、それでも彼は子供だ。
 刑務所がここよりもおっかないところなのは、ほんとかもしれない。あそこは、罪を犯した大人が入るところだ。
 事態がこれ以上悪くなるなんて、それこそお笑いぐさだが、今の洋一にはすべてが悲観的に見えた。生活と人生のすべてがひっくりかえった小学生が、奈落の底まで落ちこんだとして、それを攻められる人なんて、きっと三千世界にいやしないのである。

○     2

 さて、牧村洋一は、体をのたくる激痛に歯を鳴らしながら、なんとか手をつき身を起こした。闇に目がなれて、涙をぬぐい落としてみると、そこがデスクや本棚のおかれた狭い物置であることがわかった。
 洋一は立ち上がって、扉に鍵がかかっているか確かめようかと思ったが、足を振り上げ、暴れ狂う院長の姿がなんども脳裏をよぎって、立つことすらかなわなかった。そんなふうにおびえるのは腹立たしくもあったが、院長の殴打は彼のガッツを根こそぎ持ち去ってしまったものらしい。
 洋一は腫れ上がった瞼の下で、部屋の端にカーテンが掛かっているのを見た。一瞬、映画の主人公よろしく、そこから逃げだす自分を想像したが、怪我で思うように動けない今、逃げだしたところで捕まるのは時間の問題だといえた。車で来たから、自分のいた洋館がどのあたりにあり、どのぐらいの距離があるのか皆目わからなかった。ここを出たところで、家に帰り着くのはむりだと彼は考えた。なによりも、自分が逃げだすことを、院長は望んでいるような気がして(望んでいるのは、その結果行われる虐待をだ)、洋一は行動を起こす気になれなかった。
 窓があると思われるカーテンの向こうから、ホトホトと中をおとなう物音がしたのは、洋一がしばらくここに身をひそめていようと、考えることすら放棄しようとした、まさにそのときだったのである。

○     3

 洋一はびっくりして目をしばたかせた。誰? と声をかけたのだが、喉からは空気の漏れるかすれた音しかでなかった。院長の言葉と打撃は、彼をすっかり萎縮させていた。あの院長が、窓にまわって見張っているんだろうか? と考えた。
 洋一は、もうなにもかもが嫌になり、また涙をこぼしながら横たわろうとした。そのとき、
「洋一、洋一……」
 窓の外にいる誰かが、彼の名を呼んだ。院長の声ではなかったが、洋一はかえりみなかった。
「ぼくはもういない。牧村洋一は死んじゃったんだ……」
 洋一は空耳だろうと、背を向けつづけた。ひどい激痛で、考えることすら億劫だった。すると、
「洋一、おらんのか? おのれ、返事がない。奥村、玄関にまわって様子を見てきてくれ」
 玄関っ?
 洋一は体を痛めたことも忘れて、身をひるがえした。
 たいへんだ、そんなことになったら、院長がまた目を覚ましちゃう。
 洋一は立ち上がってとめようとしたが、院長に痛めつけられた足のために、その場に膝をついてしまった。
「待って……」と彼は院長に聞こえないよう細心の注意をはらって、外の男に声をかけた。「ぼくならここにいる。よけいなこと、しないでよ」
「おお、洋一、そこにいたか」
 洋一は外の男の無遠慮な大声に腹が立った。
「ちくしょう、ぼくはこんなに苦労してるのに、なんでそんな大声をだすんだよ」
 というと、身も世もなく泣けてきた。
「うむ、この窓には鍵がかかっておるな」
「格子もじゃまですな」
 別の男が言った。
「洋一よ、わしらに手を貸して欲しい。まずは窓を開けて、顔を見せてくれ。洋一」
 洋一は耳をうたがった。ぼくの方こそ、人の手を借りなきゃ立てないぐらいなのに、手を貸してくれだって?
 いったいどうなっているんだろうという疑惑が心をかすったが、洋一は心にわいたかすかな希望にすがりついた。スーパーヒーローを信じるには彼は年をとりすぎていたけれど、それでも外の男たちが自分のことを知っていて(でなければ、なんで名前を呼んだりするだろう!)、院長とは無関係の人間であることだけはわかった(そうでなければ、なんで窓から呼びかけたりするだろう!)。
「役所の人なの?」
 洋一は言った。足立という人の様子から見て、あの人たちは、あたごの実態を少しは理解しているようだった(それなのに自分をひきわたすとはひどい話だが)。ひょっとしたら、外にいるのは父さんの友人かもしれない。
 ともあれ、いまの洋一は、なんにでもすがりつきたい気持ちだった。彼は痛む足を引きずり、ソファーやデスクに手をついて、窓ににじり寄りはじめた。
「待って、すぐに開けるから、待ってよ。玄関にはまわっちゃだめなんだ」
「おお、洋一、なつかしきわが友よ。顔を見るのも久方ぶりなら、声を聞くのも久方ぶり……」
 外の男は、舞い踊るような声音で言った。洋一は、どうにも変な人だな、と泣き笑いの顔に滴をつけながら、窓へと向かっている。
「待ってよ。院長に痛めつけられたんだ」
 洋一はやっとの思いで窓にたどりついた。薄い緑のカーテンを月明かりが照らし、外ではまだこの夜にみた満月が照っているようだった。自宅であんパンを食べ、本を読んでいた時分のことを思いだすと、すべてが夢であるような気になった。
 ああ、この痛みだけでも、夢と消えてくれたらいいのに。
 洋一はカーテンに手をかけた。咳きこむと、白い息の中に血の飛沫がまじり、ぞっとした。口の中もずいぶん切ったようだった。
「なにがあったのだ洋一、しっかりせい」と表の御仁は慌てた様子だ。「我らには危険が迫っておる。気を抜いてはいかんぞ」
 抜いたりするもんか。
 カーテンを引き開けた。そして、口をあんぐりと開けた。
 格子の向こうにはどでかい鷲鼻をした、白髪の男が立っていた。十八世紀の貴族が被っていたような、豪奢な絹の帽子を頭に乗せている。その帽子からは大きな鳥のはねが飛び出し、ひらひらと揺れていた。洋一が絵本でみた貴族の挿絵を想像したのは、男の目が青かったからだ。本物の白人で、しかも、その髪は、ルイ十六世のように幾重にもカールをまいていた。窓の向こうに立っているから全身は見えないが、大昔の赤い軍服めいたものを着こめかしている。背も高いようだった。
 洋一は顔をゆがめてカーテンを閉めようとした。頭がおかしくなったと思ったからである。
「どうした?」
 とその赤づくめの服を着こんだ白人の老爺は言った。洋一は老人をよくよく見直した。彼の服はナポレオンが着ていた服みたいに紐やボタンがあちこちについて、装飾がほどこされている。おまけに腰にはサーベルをさしている。
「本物なの?」
「なにをいってる。こどものころ会ったろう?」
「記憶にないよ。あんた、誰?」
「わしはミュンヒハウゼン男爵。お前の父の親友にして、よき仲間、お前の名付け親でもある」
 洋一は顔を上げた。両親から、自分の名前をつけたのは、外国人だと聞いていたからだ。だが、洋一の頭ではミュンヒハウゼンの名が、いくつもの連想をともなって、ぐるぐると回っていた。
 ミュンヒ、ハウゼン。
「でも、ぼくその名前きいたことあるよ。家にある本に出てたもん」
「いかにも。わしこそがほらふき男爵」
「なにをいってんだ。父さんのともだちだって? じゃあなんでこんなときに仮装してるんだよっ」
 洋一は窓を開けた。十二月の冷たい空気がしのびこんできた。男爵の背後には、着物をめかしこんだ小柄な男が立っている。頭の上に乗っかっているのはちょんまげみたいだ。月代こそ剃っていないが、腰には刀を差している。
 最初の男はミュンヒハウゼンの仮装で、こっちは侍の仮装をしてる……洋一の心に、むらむらと怒りがわいた。しかも、男のわきには、洋一とおなじぐらいの年恰好の少年が、男と似たような格好をして立っていた。その少年も、おもちゃみたいな刀をさしている。
「誰だよ!」
 声がすっとんきょうに高くなった。
 ミュンヒハウゼンがふりむいた。
「彼は奥村左右衛門之丞真行。お前の両親の友人だ。あれは奥村太助と申すもの。奥村の子息である」
 洋一は怒りに身を震わせる。
「ぼくの父さんも母さんも死んじゃって、あさってには葬式があるんだぞ。ともだちならなんでそんなふざけた格好をしてるんだよ」
「お前こそずいぶんではないか」ミュンヒハウゼンは落ち着きはらって、鷲鼻の下のちょび髭をなでた。「ひさしぶりにあったというのに、ふざけたとはなんだ。お前を見つけだすのには苦労したのだぞ。しかし、お前の身に起きたことを思えば……」
 ここでミュンヒハウゼンは口をぽかんと開けた。
「その傷はどうした?」
 自分では気づかなかったが、洋一の姿はまったくひどかった。まぶたも唇も腫れ上がっているし、やけどをしたところは広範囲に炎症をおこしている。殴られすぎたのか、ろれつもおかしくなっていた。
「ここの院長にやられたんだ」
 思いだすだけでも悔しく、くちびるをかみしめる。ミュンヒハウゼンと奥村が顔を見合わせた。
「何者だ?」
 と、男爵は怒りを押し隠した声で(隠しきれていなかったけれど)言った。
「ここの院長だよ。団野院長。知ってて来たんじゃないの?」
 男爵は渋い顔をした。
「われわれは今日になってようやくこちらに到着したのだ。だが、一歩間に合わず恭一たちは救えなかった」
 洋一の頭で、またも疑問が渦を巻いた。その疑問は、心を締めつける荒縄のようだった。
 救えなかった――救えなかったと男爵は言った。両親は交通事故で死んだと聞いている。事故は突発的に起こるものだ。なのに、救えなかったとはどういうことだろう?
 奥村が、「男爵、そやつもウインディゴの手のものかもしれませぬ。急ぎましょう」
「ウインディゴってなにっ?」
 洋一はとうとう悲鳴を上げた。ミュンヒハウゼンと奥村がまた顔を見合わせた。「知らんのか?」と男爵は逆に面食らったようだ。
「知るわけないよ。ぼくはあんたたちのことだって知らないんだぞ」
 奥村が、
「ともあれ、ここから救い出しましょう」
 と言った。洋一は初めて奥村と目があった。気づかわしげな視線だった。それは、両親が彼にいつもかけてくれた視線だった。不覚にも、洋一は鼻っ柱が熱くなった。
「だめだよ、ぼく契約書にサインしちゃった。ここを出たら、ぼくは刑務所にいれられるんだ」
「なんの話だ?」とミュンヒハウゼン。
「契約書なんだ。院長にいわれたんだ。ぼくはこの養護院を出てはいけないし、ここのことを誰かに話してもいけない。ぼくはもう二度とここから出られない……」
 洋一が涙ながらに訴えると、男爵は怒りに身を震わせた。
「わしはお前の洋館に立ち寄り、お前はお前を保護する施設に入れられたと聞いた。わしは、お前がこの国とこの国の役人に保護されていると信じた。だが、来てみればどうだ。わが親愛なる友人の息子にして名付けの子は、痛めつけられ、目も覆わんばかりのありさま」
「でも、ぼく……」
「しっかりしろ洋一、人を保護する法はあっても、人を縛る法などないぞ。さしづめそやつはウィンディゴに支配されておるのだろう。だが、わしらが来たからには安心しろ。お前の身は必ずや守ってやる」
 その申し出に、洋一の顔はかがやき、胸は熱い思いでみたされた(ウィンディゴのことはさっぱりわからなかったけど)。洋一は目の前をじゃまするデスクを乗り越え、格子に近づこうとした。だが、そのとき、彼の背後で扉が開き、廊下の明かりが暗い物置に差しこんだ。

○     4

 団野は部屋に入ってくるなり、開口一番、
「なにをしている」
 と言った。団野は男爵たちに度肝をぬかれたようだ。彼らから目を離すことができなかったが、それでも洋一のもとに駆け寄り、彼をデスクから引きはがすことはできた。洋一が、体にはしった激痛に悲鳴を上げ、表の三人が怒りを発した。
「なんだお前らは」と団野は言った。「ここは俺の敷地内だぞ。なんだ……おかしな格好をしやがって! とっとと出ていけ!」
「貴様などにいわれなくとも出ていくわい」と、男爵は、口辺に唾をとばしてわめいた。「ただし、その子も一緒だぞ。我が輩こそは、その子の真の保護者だからな」
「なにをいってやがる、この餓鬼にもう身寄りはいないんだ」
 そういって、洋一の頭を押さえつけた。団野のローブからただよう酒の香りが、強く彼の鼻腔をみたした。このさき洋一は、酒の臭いを嗅ぐたびに、真っ赤な唇を、叫びの唾でぬらす団野のことを思いだす。
 開け放たれた窓からは、真冬の冷気が、かんかんと部屋に注ぎこむのに、団野の体からは、狂気の熱気が漂いだすかのようだ。現に、団野は、零下に近い室温のなかで汗をかき、真夜中だというのにきれいになでつけた前髪を、額に幾筋もたらしている……。
 洋一は、団野が手荒くあつかう体の痛みよりも、心の痛みのほうが強かった。男爵はああいってくれるけれど、ぼくの身内はもういないんだ――
「だから痛めつけてもいいというのか?」
 奥村はまるで居合い斬りをしかけるかのように、低く腰を落としている。彼が低音の押し殺した声でいうと、団野ははっと洋一を見下ろした。
「この子はうちの院生だ。院生は規則にしたがう必要がある。院生はしつける必要だってある」院長は燃えたぎる眼光で、奥村たちをみわたした。「ここでは団体生活をおこなっているんだ! 規則をさだめてしたがわせなければ、院内の生活はどうなる! 院内の規律は! それにこどもを鍛えるのは俺の役目だぞ! この俺の使命! だから――」
「だまれ、この若造!」と男爵は手にしたサーベルで地面をつき、雄々しく腕を振り上げた。あふれんばかりの情熱という点では、かれも団野に負けてはいない。「その子は我が同胞にして我が家族! 手をあげるものは何人たりともゆるさんぞ!」
「俺があずかったんだ!」と院長は唾を飛ばしてわめいた。「俺がこの子の親代わりだ! おいっ!」
 団野は洋一の右手をつかみ上げる。洋一は骨が砕けるんじゃないかと思ったが、団野から目線をはずせなかった。ちょっとでも視線を外したら、また痛めつけられると信じていたからだ。
「オマエはここの生徒だ」団野は洋一のほおを拳で殴りつけた。男爵たちが、抗議の悲鳴を上げた。「ここの院生こそがオマエの家族だ!」もう一度。「俺がオマエの親で!」もう一度。「オマエは息子なんだ! わかったかわかったかわかったか」
 団野はそう連呼しながら、洋一の頭をこずきつづけた。男爵たちがなにかを叫んでいるが、洋一の心には、もう団野に殺される恐れしかない。
 舌が口の中でふくれあがり、気管をふさいで、息もできなくなった。もう息をしたくなかった。恐怖心が彼の体を殺しにかかっていた。
 だが、こめかみから流れだした血が、床に落ちた瞬間、ショック死しかかっていた身のこわばりがとけた。血は、事故を連想させた。両親の姿が、彼の目蓋に浮かんだ。両親はいなくなったけれど、彼の体は、二人の記憶を誰よりも色濃く残している。その点で、洋一の両親は、この世とつながっている。洋一は、自分が死んだら、二人は本当にこの世から消えていなくなってしまうんじゃないかと、そう信じたのだ。
 血の水滴がまた三つ――洋一はふりむき、団野の姿を視界にとらえた。
 ふりあがる団野の拳のタイミングを見計らうと、かの拳が舞い降りかけた瞬間、身をひるがえし、戸口にむかって駆けだした。団野は目標をうしなって、身をふらつかせている。男爵は、走れ、玄関まで走れ、と、狂ったように叫んでいる。
 洋一は走った。ふらつく足で、痛む肋を腫れ上がった指で押さえ、自由への扉めがけて駆けぬけた。後ろからは団野が狂気の熱を帯びた罵声を上げ、スリッパをばたつかせ、音も高らかに追ってくる。追いついてくる。玄関が見えた。廊下を曲がって、一歩二歩、廊下をなかばまで来たときには、彼はゴールを目前にひかえたマラソンランナーのように疲労困憊だ。洋一はドアノブに向かって、めいっぱいに手を伸ばした。
 団野は彼の襟首をひっつかみ、その自由への逃避行を阻止したのだった。

 洋一は虎柄にもにた敷物のうえで、体をふりまわされた。
「貴様あ、契約書にサインしたろう! 忘れたのかあ!」
 団野はもう一度洋一をぶとうとした。洋一は両腕で頭を抱えながらわめいた。
「お前なんかぼくの両親じゃない! あんな契約書くそくらえだ! ぼくは、ぼくはあんなもの……」
 団野は洋一にのしかかり、顔を床にたたきつけ押さえつけた。洋一は苦しい息の下で、まだなにかをしゃべろうとした。かれ自身のためだけではなく、両親のために。ここでひきさがったら、一生団野のことをおびえて暮らさなきゃいけなくなるとわかっていた。だが、洋一は団野の膝で首をおさえつけられて、ほとんど窒息しかかっている。男爵が玄関扉を引き開けて、昔日の勇者のごとくおどりこんでこなければ、彼はきっと涙の下で意識をなくしていたにちがいない。
 洋一が顔を上げると、無敵の男がそこにいた。海賊が被るような金縁の黒帽子に、大きな鳥の尾羽をなびかせ、息も切らせて駆けこんでくる。ああ、そう、彼は年老いたフック船長のようでもある。だけど、彼はほらふき男爵その人だ。サーベルを手に傲然と立ち、ブーツの音も高らかに玄関口から上がりこんでくる。
「貴様、洋一から離れろ!」
 ミュンヒハウゼンは、扉を叩きあけた瞬間から絶叫をした。三百五十年の長きにわたって、人々に愛されつづけた男爵の義侠心に火がついた。彼はサーベルを引き抜いて突進したから、さしもの団野院長も、洋一の上から身をひきかけた。
「不法侵入だぞ」と彼は言った。「こんなことをしでかしてただですむと思うな! 警察は貴様らをとっつかまえるぞ、そんな刃物でこのわしを脅したんだからな!」
「なにをこのちょび髭の下郎!」
 と男爵は火のでるような絶叫を上げ、手にしたサーベルを床に突きたて、
「奥村、ここはわしに任せろお!」
 と背後の二人に呼ばわった。
「決闘じゃ」
 男爵は右の手袋を脱ぐと、団野にむかって放り投げた。
「その子と我が命をかけて決闘をもうしこむぞ! さあかかってこい!」

○     5

 団野はミュンヒハウゼンがそう宣言したあとも、まだ年若の奥村の方が脅威のようで、表の二人に油断なく視線をはしらせていた。男爵は両腕を上げて、ボクシングのポーズをとっている。団野を挑発するかのように、軽く拳をくりだした。
 洋一の体から、そっと圧力が遠のいた。
 団野は立ち上がり、うめき声をあげながら、ミュンヒハウゼンとにらみ合った。

 最初のうち、男爵は優勢だった。格闘技をかじっていたようで、軽快なジャブをくりだし、右左のフックを浴びせかけたが、団野も狂える闘争本能で盛んに応戦をした。
 男爵は、おそらくは七十になんなんとする老人である。男爵のはなった十発のパンチのうち、八割は相手方をとらえはしたが、団野のはなった二発の渾身のフックと右ストレートが男爵の顔面をとらえると、このはてなき闘争は完全な逆転劇を展開しはじめた。男爵は巧みなボクシング技術で、団野のくりだす闇雲な攻撃をかわしはしたが、あふれ出る鼻血で息を切らし、目にみえてスピードは鈍り、足下も不確かなものとなった。
 団野の拳が、男爵のこめかみをとらえると、奥村が刀に手をかけとびだしかけた。男爵は大手をふってこれを制し、
「来るな、奥村、これはわしとこいつの問題」
 と苦しい息の下で言った。
 洋一は、なんど男爵にサーベルをとってと言いかけたかわからない。だが、彼の目にやどる不屈の闘志が消えさるまでは、その言葉を口にすることはできなかった。なによりも、洋一は見たかった。かのミュンヒハウゼン男爵が、数々の困難劣等をのりこえて、恐怖の院長を討ち果たすところを。
 一方、男爵はその洋一の視線に気がついていた。明るい屋内灯の下で見ればどうだろう、我が名付け子の、惨憺たるようすは。かならず牧村親子を守るといいのこしてきた国の者たちに、もう顔向けもできない。
 だが、男爵の体は、その不屈の闘志にもかかわらず、自らの期待を裏切ろうとしていた。数刻もえない闘争で、体力は尽き果て、膝はその身を支えることすらおぼつかない。
 男爵は団野の狂い獅子のような猛攻をひたすら受けつづけるばかりで、反撃の余力ものこしていない。男爵の必死のブロックは、団野の若い力任せの攻撃を防ぎきれなくなった。男爵の腕は骨も砕けんばかりにはじかれ、団野の拳はついにその身に届きはじめた。アゴをはじかれボディブローをくらい、ミュンヒハウゼンはその身を屈しかけている。
 男爵はボクシング技術を捨てて、団野の腰にくみついた。彼は足腰を奮いたて、団野の体を押しこみ、壁際に体勢をもちこんだ。勢いあまって、ミュンヒハウゼンは頭蓋を壁につきあてたが、もうかまっていられない。団野は拳を振り上げ、ミュンヒハウゼンの痩せこけた老体をうちすえるが、男爵も腰にかぶりついてはなれない。彼は洋一の敵をとろうと必死だった。あまつさえは、この団野が洋一の両親を殺した憎い敵のような気になってきた。
 ミュンヒハウゼンは、足をつっぱって団野の胴体を圧迫した。団野が苦しんで攻撃の手をゆるめる。男爵は一瞬のすきをついて身を起こすと、団野の顎をめがけて、猛烈に身を突き上げた。
 骨の砕ける、いやな音があたりに響いた。男爵の頭突きは、団野のとがったあごを見事にとらえた。団野の体から急速に力が抜け、壁に向かって崩れかかった。
 男爵は身を離すことすら億劫になり、しばらくその体勢のまま団野に身をあずけていた。
 そのうち、団野は壁にもたれかかった姿勢のまま、ずるずると身をすべらせ、そのまま床まで崩れ落ちていった。

○     6

 洋一の見ている目の前で、男爵と院長はともに床まで頽れていった。洋一の目には二人が相打ったように見えた。だが、血を噴き、正体なく首をくゆらせる団野を見て、男爵の勝利を確信した。
「おみごと!」
 奥村が大声をあげてミュンヒハウゼンに駆けよった。
 男爵は重たそうに痩せた身をひきおこし、どっかりとあぐらをかいた。
 洋一は痛む膝をかばいながら立ち上がろうとした。奥村の息子が駆けつけ、脇に手をさしいれる。洋一は、痛む肋に顔をしかめながら、太助をみる。
 男爵は団野のことをいまいましそうに睨みつけながら、
「ここが物語の世界なら、首を刎ね落としてやるのに」
 洋一は、興奮にまぎれて、その言葉を聞きのがした。まだ、このときは。

 ミュンヒハウゼンは、奥村に支えられて立ち上がった。洋一がちかづいた。
 男爵はこの数分の闘争で、めっきりと年老いたかのようだった。
「遅くなってすまなかったな」
 洋一に負けないくらいに顔を腫らした男爵が、彼の頭に手をおいて、
「恭一のことはすまなかった。あいつは立派なやつじゃった。しかし、お前も恭一に負けないぐらいに立派な男になったらしい。お前とわしはともにあやつに負けなかった。そうおもわんか?」
 男爵に言われて、洋一の目に涙がたまった。あやつとは院長のことなのだとは、容易にわかった。だけど、院長に痛めつけられても洋一の心が折れなかったのは、ひとえに男爵のはげましのあったおかげである。団野は彼の体を痛めつけた。けれども、それ以上に両親が死んだんだと思い知らされたとき、彼の心はへし折れる寸前までいった。団野の拳と言葉は愚風のようで、彼の身骨を砕こうとした。だが、その折れかけた細い身茎を支えてくれたのは、名付け親を名乗るやせっぽちの老人なのである。
 洋一は、この日一度たりとも口にできなかった疑問を、男爵になら話すことができた。ミュンヒハウゼンはたしかにほらふき男爵なのかもしれないが、いつわりは一言たりとももうさなかった。それは、男爵の心と言葉が、見事に一致しているからだった。だからうつむいてこう訊いた。
「父さんも母さんも、まちがいなく死んだんだ。そうでしょ?」
 頭におかれた男爵の手が、そのときだけは揺らいだようだった。
「牧村は世界中に仲間がおる、とびきり優秀なやつじゃった。わしはあいつが大好きじゃ。だが殺された。殺されたのだ」
「誰に?」
 洋一は、涙にくもる目で男爵をみあげた。彼はこのときだけは、まだ見ぬその相手をはっきりと憎んだ。
「洋一、お前にこのようなことをつたえるのはつらい……。ほらも吹けぬほらふき男爵、あいすまぬ」と男爵はポロポロと涙をこぼしながら頭をさげた。背後で奥村親子も泣きにくれている。「この奥村左右衛門之状真行は、恭一とともに旅した無二の仲間である。そして、恭一と薫の二人は、ウィンディゴの手によって命を落としたのだ。車の事故とは、見せかけだ」
 男爵は大きく鼻をすすった。
「ウィンディゴって? 外人?」
 男爵は迷うように、洋一の顔の上で視線をさまよわせた。
「話してよ」洋一は、男爵の豪奢な服の袖をとった。その服が、本物の絹の手ざわりであることを知った。「話してよ。ぼくには知る権利がある。そうでしょ?」
 男爵はだまって視線をそらす。
「ぼくは知りたいんだ。父さんも母さんもいつもぼくになにか隠してた。ぼくにはわからないことがいっぱいあるんだ。二人とも図書館をやってたって、ろくに働いてないのに、なんでうちには生活するだけの金があるのか、うちは市立の図書館でもなんでもないのに、それこそ私設の図書館なのに、世界中から本を集めたりしてる。父さんのところには世界中から手紙が届いてた。世界中に仲間がいるってのはうそじゃないんだ、きっと。だって、いろんな国の人が、電話をかけてきてたもん」
「まずは、おちつけ」
「いやだ」と洋一は男爵の手をふりはらった。「ぼくが立派に育ったって、本気で思ってるんなら話してよ。父さんも母さんも、ぼくがこどもだと思ったから話さなかったんだ。二人ともだまったまま死んじゃった。い、命を落とすぐらい、危険なことなのに……」
 そんなのひどいと思った。
「だから、話してよ男爵。ぼくは、ほんとのことが知りたいんだ」
 男爵は払われた肩に、もう一度両手をおいた。彼は片膝をつき、洋一と顔の高さをおなじくし、
「お前はほんとに見上げたやつだ。だが、この話は……いままで聞かされたことがなかったのだから、信用できるかできないか」
 彼は吐息のかわりに顔を垂れ、その面を上げ、
「お前にわしの知るすべてを話す。だが、恭一たちが死んだいま、わしらはお前の助けを借りねばならない。話を聞いたあと、お前にはこれからの生き方を決めてほしいのだ。お前は一人前の男だし、生き方を決める権利とてもっている。お前はもう、そういうことを決めていかねばならんのだ」
 男爵は、両親が死んだのだからだ、という言葉をのみこんだ。そのことを、洋一は直観で知りえた。洋一は、その重荷をかんじて体が震えたし、また涙がこぼれそうになった。だけど、どうあっても、そうしたことから逃げるわけにはいかないのだから、なんとか涙をのみこんだ。「わかったよ、男爵」
「わしはお前に強制はせん。あるいはわしらと来るより、ここにいた方が安全なこともあるだろう。そのことも、わかるか?」
 洋一はうなずいた。男爵は満足そうに頭をなでた。「それでいい。それでこそ、恭一の息子だ」
 男爵は、倒れている団野をかえりみて、きらりとその目を光らせた。
「さて、契約書とか言ったな」


◆ 第二章 狂った物語と世界の真実

□   その一 三人の新しい仲間と、牧村一家の役目のこと

○     1

「おい、起きろ」
 奥村が刀のこじりで、団野の肩をついた。
「狸寝入りなどしおって。貴様、洋一に書かせた契約書をどこに隠した」
 洋一は、まだ団野に息があったことに驚いた。
 奥村につめよられると、団野は抵抗する気力もうせたようだ。奥村は細身ながら、その身ごなしは、いかにも武術で練りあげたらしい、無駄のなさと切れがあった。
「暖炉の上の金庫にある……」
 と団野は言った。口元から、大量の血液がこぼれ落ちた。酔っていることも手伝って、血が止まらないものらしい。胸元を血で染めながら、奥村にひったてられた。
 洋一は、あたりに立ちこめる血の臭気に、団野にたいする恨みの気持ちも忘れた。彼の人生はいたって平穏で、身のまわりでおきた暴力と破壊の結果に、ついていけなかったのだ。
 三人は団野の惨憺たる様子にも顔色ひとつかえていない。みんなこういう光景になれているんだろうか? と洋一は思った。気後れから、リビングに向かう一行とも、距離を置いた。
 団野は院生に内職をさせ、こつこつと金を稼いできた。リビングの調度は、デスク、絨毯にいたるまでかなり豪奢なものだった。カーテンひとつにいたるまで、ずいぶん金をかけているようだ。
 大柄な暖炉をつくり、その上には壁をくりぬいた金庫があった。団野がダイヤルをまわし金庫を開けると、札束やダイヤがみえた。かなりの量だ。そのうえに、院生に書かせた契約書の束が、クリップでとめられ乗っかっていた。団野は契約書を男爵にてわたすと、暖炉の前にすわりこんだ。
 ミュンヒハウゼンはしばらくその契約書をパラパラとめくっていたが、やがてびりびりにやぶくと、暖炉にほうりこみ火をつけた。暖炉のなかで、契約書はこれまでの院生の苦しみをあらわすように、身をくねらせ真っ黒になる。紙は灰になり、団野のかわした契約も反故となった。
 団野はその間、ぐったりとうなだれたまま、男爵の方を見ようともしなかった。ひとつには、あごが砕けて、しゃべることもおっくうであったのだ。
 ミュンヒハウゼンは、真っ黒な墨とかしていく契約書をみつめながら、団野にむきなおり、
「これが本物であろうとなかろうと、紙切れで人を縛ることなどできはせんぞ」
 とおごそかに言った。この後、男爵はさまざまな事柄を告げては洋一を悩ませることになるが、このときの振る舞いだけはまっとうだったといえる。
 団野は、一瞬、ミュンヒハウゼンをにらみあげたが、すぐにそっぽを向いた。
「貴様、他の院生にもおなじことをしておるのだろう。一人前の男のくせに、弱い者いじめなどをしおって、恥を知れ」と言った。
 それから洋一にむかって、
「たとえ契約が本物だろうと、無法な法にしたがうことなどはないのだ。社会の法がいかに必要だろうとも、人は魂に法をもっておる。魂の法とは名誉なのだとわしは思う。人の名誉尊厳をおかす権利など、神にとてありはしない」
 男爵はふさがっていない方の目で、団野をにらみつけた。
「貴様が正しいと思うのなら、わしはこの子の洋館におるから、いつでもかかってこい。わしのこの身と名誉にかけて相手になるぞ」

○     2

 団野の家を出たとき、洋一はまさに十何年の刑に服した囚人の気分だった。外はまだ夜で、事故の起こった夜のままで、だけど彼には十年ばかりの月日がたったかのように感じられたのだ。この夜は実にさまざまなことが起こり、そのたいていのことが彼にとっては初めての経験ばかりだった。だけど、彼の中でまったく色あせることなく燦然と輝きつづけていたのは、両親を亡くした悲しみという感情だった。
 洋一は団野の庭に立ちつくし、しばらくあたりを見回した。男爵たちは無言で洋一の言葉を待っている。ミュンヒハウゼンは来たけれど、彼の両親は来ていない。吐く息がいやに白く、洋一はそのことにすら悲しみを感じた。
 空を見上げた。悲しみは去らなかった。新しくできた三人の仲間の方を向き、無言で話のつづきをうながした。
 男爵はゆったりと足を踏みかえながらきりだした。
 その大筋はこうだ。洋一の両親、牧村恭一と牧村薫の二人は、ただの私設図書館の職員なのではなく、本の世界をまもるための番人だった。彼らは世界中から初版本を集め図書館に保管していた(どうりで古めかしいへんてこな本ばかりあるわけだ! 大昔の作家の生原稿まであったのだから!)。
 そして、男爵はこういうのである。いま、世界の人たちは本を読まなくなり、物語は力をなくし、その世界は崩壊しかかっている。ある本では話の筋が完全に狂い、善人が悪人となっている。登場人物たちの多くは目的意識をなくし、役割を忘れさっている……。
 ちょっと待ってよ、と洋一は言った。「本の力とか、本の世界とか、どういうこと?」
「だから本の世界があるのだ。お前の両親は……」
「じゃあ、男爵は!」と洋一は大声をだした。「本物のほらふき男爵だって、そう言ったじゃないか!」
「そのとおり」
「じゃあ、もしもだよ」と洋一は急きこんだ。「もしもその話がほんととして、だったら男爵は本の世界の住人ってことになる」
「そのとおりだ」と男爵は重々しくうなずいた。「わしはもともとがほらを吹くという人物だ。余人とはちがい、創造の力をもっておるのだ。つまりは、物事を生みだす力だ。だから、物語の世界と中間世界を行き来することができたのだ」
 洋一は言葉をなくした。ようやっと、「中間世界?」と問いかえした。
「本と現実世界の中間にある世界のことだ。中間世界は現実の人々の思考の力、意識の力でできておる……とわしは思っておる」
「勝手に思えばいいじゃないか」と洋一は言った。その唇は震え、瞳からは涙があふれだしていた。「勝手にすればいい。本の世界とか、中間世界とかわけのわからないことをいうな!」と彼は言った。「ぼくは両親のことが知りたいんだ。父さんと母さんがなんで死んだのか知りたいんだ。理由なんかなくたって知りたいんだ! それなのに、わけのわからないことをいうな!」
 と彼は言った。彼の言い分は理不尽なものだった。運や不運というものは元来わけのわからないものだし、洋一の両親が事故で死んだのだとするのなら、そこには男爵の知る理由などあるはずはないのだから。
「洋一」
 と男爵はなだめるように手を伸ばしてくる。彼は後ろに躙り下がってその手をかわす。
「よいか、中間世界では狂った物語の影響が如実にあらわれておる。彼らは中間世界の住人なのだぞ」
 と改めて奥村たちを紹介する。
 本の世界というだけでも信用できないというのに、この中間世界というのも洋一の理解を苦しめた。それらの世界は、これまでとこれからの人々の記憶や感情の力で形作られていて、その意識の質により、いくつもの世界にわかれている。中間世界は中つ国とも呼ばれていて、たとえば、奥村親子たちがやってきた世界は、夢と冒険の中つ国と呼ばれているし、ウィンディゴが支配しているのは悪の中つ国である。三人は次元をわたる機関車にのって(江戸時代に奥村の先祖がつかったものらしい。ひどく骨董めいた話だった。)現実の世界にやってきた。しかし、時すでに遅く、牧村夫婦は命を落としたあとであり、たった一人の子息は役人によりつれさられたあとだった。
 洋一はますます頭が混乱した。目の前にいるこの男爵が、体温を感じ、血をながしているこの男爵が本の登場人物にすぎないなんてそんなことがあるはずがなかった。洋一はこれまでなんどとなく本を読んできたが、物語の筋が狂っていたことなんていちどもない。
「さきほどからもうしているウィンディゴとは」男爵はさらにいう。「おそらくはわしと同種の……創造の力をやどした人物のはずだ。あやつは悪の登場人物をしたがえて日々力を増しておる。自分たちの都合のいいようにストーリーをねじまげておる。悪の中間世界を支配し、別の世界に影響をおよぼしておる」
 奥村が言った。「我々はウィンディゴの勢力と戦ったが、力およばなかった」
「そこで我々は本の世界をたてなおし、すこしでもウィンディゴの勢力をそごうと考えたのだ」
 ほらふき男爵は本の世界をとびだし、本の世界の救済にのりだしたが、そんななか、長年本の世界をまもりつづけた洋一の両親は、ウィンディゴの手により殺される。洋一の両親は世界中の初版本だけではない、伝説の書物をもっていて、本当はその本をまもることこそが役目だったのだ。伝説の書は、書かれたことを現実にしてしまう力を持っている。そしてそれをつかえるのは、ゆいいつ創造の力をもつ現実世界の人間だけなのだ……。
 洋一はなんとか反論しようとした。本の世界などないし、次元をわたる機関車もない(そもそも別の世界というもの自体がないのだ)。文字はちゃんと紙に印刷されているのだから、それが初版本とはいえ、話が変わってしまうなんてこと自体がありえない。が、男爵も奥村たちもそれが当然の事実であるかのように話し、洋一との会話は、ある、ない、の堂々巡りにおわってしまう。
 洋一はこの三人は頭がおかしいんじゃないかと疑った。男爵も奥村も根っからの善人なのだとは思う。まっすぐないい人たちなのだと……。だけど、あの格好としゃべっていることを考えると、団野に負けないぐらいの気ちがいとしか思えない。
 自分をだましているのならまだいい、始末に負えないのは、この三人が自分の主張を芯から信じていることだ!
 たとえ善人でも、気の触れた人はいるにちがいない……。
 洋一は男爵の話をよくよく考えようとした。矛盾をというよりは、ちょっとでも信用できそうな部分を探そうと努力した。だけど、そもそもが荒唐無稽な話すぎて、受け入れようにもとっかかりすら見あたらない。洋一は男爵のことを信じたい気持ちと、そんなばかげた話はありえないと叫びだしたい気持ちとで、はちきれんばかりだった。洋一のまわりにはゲームも映画もふくめて(ちくしょう漫画もだっ)作り物の話ならごまんとある。そして彼はそれが作り物だと知っている……。物語の種は出尽くしたといっていいほどだし、いろんなことに説明がついてる。つまり不可思議なことを受けいれる下地は、彼の心から消えかかっていた。その意味で、人が本を受けいれがたくなっているとはいえる。だからといって、出来物の本が狂ってしまうだとか、この現実以外にも、いくつも世界があるだとか、それも本の世界だとかいう話はまったく受け入れがたかった。彼はこの三人は頭がおかしいんじゃないかと思いかけた。死んだ両親の知り合いのことをそんなふうに思うなんて、彼の良識(それが小学五年生の良識とはいえ)が許さなかったが、そもそも自分の親の知り合いだという話自体が怪しいものだった。
「だが、今後をどうするのだ」
 と男爵は言った。洋一の怒りに初めて揺らぎがさした。
「わしとしては、残ったおぬしの力を借りたい。もはやここに残るわけにもいくまい。役人の世話になるというのなら、それでもいいが……」
「家に帰る。あそこはぼくの家だ!」
「それでもよい。家に帰れば、なにが起こっているかはハッキリするからな。だが、お主あまり気を抜きすぎて怪我をするなよ」
 よけいなお世話だ、と洋一は思った。

○     3

 洋一はふるさとの洋館に向けて、暗い夜道を歩いていく。住宅街を抜けるせまい路地だった。さほど高くもないブロック塀が無表情につづいている。街灯の明かりが四つの影を、たがいちがいに伸ばしている。洋一は街路にみおぼえがあった。自転車でなんども通ったことがある。近くには押尾琢己というともだちの家があるはずだ(タク、タク、とともだちは呼んでいる)。とすると、あの養護院はおなじ町内にあったわけだ。
 さて――
 洋一こそ救うことができたが、恭一と薫の二人が死んだいま、一行の足取りは重いものであり、陽気な気配はどこにもない。奥村が洋一の手をひき、くたびれきった男爵を太助が支えている。だが、一行のなかで、もっともくたびれきり重い足を引きずるように一歩一歩足を進めていたのはきっと洋一だったろう。
 彼は今日起こった出来事と、さきほど男爵から聞かされた言葉とをいくどとなく反芻した。痛めた足をひきずりながら歩き、いまごろ寺勘たちはのんびり眠ってるんだろうなあと恨みがましい気持ちで考えた。寺勘こと寺内勘太郎は、クラスでも一番の親友だった。養護院を逃げだしたことで、もとの学校にはもう戻れないだろうし、とすると寺勘たちにも二度と会えないわけだ。そもそも彼の人生がこれからどうなるのかすらわからない。それなのに、男爵ときたら……(洋一はこの老人のことを男爵と呼ぶことすらいやだったが、ほかに呼びようがないのだから仕方がない)。
 洋一は両親の死とあんな養護院に預けられたショックでほとほと弱り果てているのに、あんなばかげたつくり話をきかされて、腹が立つやらすっかりうちひしがられるやらで頭のなかがくらくらした。男爵のことを一端は信用したのだが、その気持ちが消えかけたほどだ。
 洋一はいつの間にか奥村の手を握りしめている。奥村が不審そうにかえりみた。
 不審といえばこの奥村自体が不審だった。彼は本物の侍で、号を休賀斎ともいうらしい。彼は幕末に中間世界にわたった日本人の子孫だそうだ(少なくとも彼らの頭のなかでは、と洋一は皮肉めいた気持ちで考えた)。曾々祖父は幕府の御家人だったそうで、上野の戦争で負けたあと、仲間とともに中間世界にわたる町人たちのなかにまぎれこんだのだという。
「傷は痛むか」奥村が言った。彼はゆったりとくつろいだ様子の中にも目つきだけは鋭く、いかにも剣の達人といった風情があったが、つないだ手はいかにも柔らかく暖かだった。低く落ち着きのある声色で、そのいたわりのにじむ声を聞いていると、こんな人たちのいうことは信じるもんかと気をはる洋一も、ほろりと涙をこぼしそうになる。
 奥村は、身長は百六十センチのなかばほどで、彼の父親の肩ほどしかない。背格好まで、昔の日本人そのままだった。
 奥村は思いをめぐらすように、天に首を仰向ける。彼はこちらの世界にはじめてきた。中つ国とはずいぶんちがうようだった。
 奥村は言葉を選び選びして話しはじめた。「君の父上とは、こどものころあったぎりだったよ。わたしは久々の再会を楽しみにしていた」と湿りを帯びた声で言った。彼は今三十七才で、恭一と出会ったころにはすでに元服をおえていたそうだ。そのころは中つ国とこの世界の通路はあちこちにあった。恭一は父親に連れられてなんどか中つ国を訪れていた。だが、その通路がウィンディゴの手により封じられたあとは、恭一の消息は男爵のもたらす風聞によるばかりだった。奥村は年の似た息子たちを引き合わせようと考えていたが、自分が恭一に会うことは二度とふたたびなかったわけである。
 奥村は気を取り直すように肩をゆすり、こうきりだした。
「こどものころの恭一は気が強くてな。わたしはすでに剣術がそうとうつかえたんだが、恭一のやつは関係なく突っかかってきてな。向こうみずで、考えるより先に行動しては、あとで困ってな」
 奥村は思いだすようにかすかに笑ったが、その笑いもじきに涙にまぎれてしまう。
「だが、勇敢で正義感の強いやつだった。わたしはあいつが大好きだった。会えなくなったそのあとも。わたしとあいつは血を分けた義兄弟だ」
 洋一は驚いて言った。
「親指の傷のこと」
 恭一の指には一文字の傷があり、こどものころともだちと兄弟の誓いをかわしたときに作ったのだといっていた。親類はいないが、血を分けた義兄弟がいるんだと。だから、家族の誓いのために親指に傷をつけた団野のやり方は、洋一にとっては他人以上に信憑性のあることだった。
 奥村は軽く驚いたように洋一をみおろした。「そうだ。あいつの指にも残っていたか」
「強い思いのこもった傷はな、なかなか消えんのだ」
 と男爵がぶっきらぼうに言った。
 奥村はまた前を向いて歩きはじめた。
「よくあちこちを冒険したなあ」
 洋一にはその冒険の内容まではわからなかったが、こどものころの父親の姿がほんの少し覗けた気がしてうれしかった。恭一は本好きで穏やかな人だったが、こどものころはそんな一面も持っていたのである。
「紹介が遅れたが」奥村はやさしげに微笑した。「あれはわたしの子息。奥村太助だ」
 左隣を歩く少年がぺこりと頭を下げた。一つ年上ということだった。洋一より二ヶ月遅い八月生まれだ。父親とおなじ直新陰流を習い、こんどの旅にくっついてきた。
「わしらは恭一の力を借りるつもりじゃった」男爵が肩を落として言った。「洋一よ。ウィンディゴはまったくやりたい放題じゃぞ。中間世界との通路はあらかた閉じられてしまうし、使えるものもわしらにとっては危険すぎる。骨董の機関車をつかってやっとこの世界に来れたのだ。新陰流の使い手もほとんどやられてしまったぞ」
「わたしの仲間だ」と奥村が言った。
「わしらは狂った本の世界をすこしでも元にもどし、ウィンディゴの勢力を少しでもそいでおきたかった。だが、やつらはわしらの行動を読んでおるようだ」
「母さんは? 母さんも中つ国に行ったことがあるっていうの?」
「なにをいっとる。お前の母親はもともと中つ国の人間ではないか」
 洋一はあきれて口を開けた。だけど言葉が出てこなかった。彼は奥村に手を引かれて後ろ向きに歩いている。その視線の先で男爵はひどく落ちこみ、見た目以上に年老いてみえた。
「母さんは、母さんはまともだった」
「あたりまえだ」
 洋一はふと思いついたことを急いで言った。「戸籍は? 生まれたら役所に登録するもん」
「そんなものはなんとでもなる」
 そんなばかな、と洋一は思った。奥村が常識人(のように見える)だから、ついほだされそうになったが、やっぱり男爵のいっていることは異常だった。おかしいよ、そんなの、と洋一は小声でいいかえした。
「なら、母親の祖父母はどこにおる。お前は会ったことがあるのか?」
 母方どころか両親のどちらの祖父母とも会ったことがない。そもそも血縁がまったくないから、養護院に預けられたのだ。洋一は黙ったが、男爵のいっていることにはまったく納得できなかった。そもそも、祖父母がいないことと中つ国や本の世界のことは関係がないのである。
 洋一は男爵にたいして恩義があった。これから養護院に閉じこめられて生きていかなければならないと信じていたから(それも十年だ!)男爵が院長を倒したときの感動といったらなかった。だけど、自分の両親が本の登場人物に殺されたと聞かされては黙ってはいられない。
 男爵は本の世界云々の話以外は、いっていることはまっとうだった。彼の口振りは端々から誠心を感じさせるものだった。洋一はその矛盾に苦しんだ。そもそもミュンヒハウゼンとは、ほらふきを生業としているのである。これらの話自体がほらであってもおかしくはない。洋一は本物のほらふきは自分のうそを信じることができるという話を聞いたことがある。嘘発見器にも引っかからない人間がいるのだ。男爵もそのたぐいの人なのかもしれない。
 このままついて行っていいのか迷った。だけど、相談すべき人が今はいないのだ……。
 洋一はこれからの身の振り方を決めるにあたって本当に迷った。せめて担任の阿部先生にだけでも相談したいと思った。男爵がまともならすぐについていってかまわない。団野の元を離れ、もといた洋館に戻れるのなら、なんだってしただろう(後に残る院生のことを思うと、気の毒でならなかったが)。
 結局、洋一が男爵に手を貸すことにしたのは、彼の話を信じたからではなく、生まれ育った家に帰りたいという一心だった。断ったところで、洋一には養護院での暮らししか残されていないのだ……。
 洋一の両親がどうやって殺されたのか、それは男爵にもわからないということだった。
 月は沈み、星は消えた。夜は朝に変わろうとしている。洋一は、白い息を薄靄に吐き出しながら、ここまで誰にも行き当たらなかったのは、幸いだったなと考えた。それから、両親が事故にあったのはどこなんだろうと考え、また涙をにじませるのだった。

○     4

 それから歩くこと一時ばかり、洋一はついに図書館のたつ小高い丘の森を目にした。その山は針葉樹の深い緑を基本としている。一行は洋館へとつづく、さほど道幅のない曲がりくねった坂道を見上げて立った。空気は冷え冷えとして靄も出ている。日が昇りきるまでは、まだまだ時間があった。車が通るには狭すぎる道が、丘の上の屋敷まで曲がりくねって続いている。少し高いビルに登れば、町のどこからでもその屋敷は見えたから、利用者が少ないわりに名前だけは知られていた。
 その森が両親のものなのかはわからなかったが、ほとんど手入れはされていなかった。道は一応舗装され、コンクリートの路肩もちゃんとある。対向車両が来ると、徐行して通るのがやっとだった。交通の不便はあるが、静けさだけは一等地であったから、その昔は利用者も多かったらしい。
 洋一はこの坂を、そのさほど長くもない人生でなんど上り下りしたかわからない。坂の袂で丘を見上げながら、まるで十年ぶりに生まれ故郷にもどってきたかのような、そんな心持ちだった。道の脇に生える下草にさえ、懐かしさを覚えた。
 洋一は友人たちとピストルごっこをし、山を駆け回り、カブトムシを捕ったりしたことを思いだした、繁殖のために、古畳を拾ってきたこともあった。あれはどこに隠したんだっけ……。
 秘密基地を造り、キャンプをし、焼き芋を焼いて、鳥の巣を作った。この山はこれまでのかれであり、これからのかれでもあるはずだった。両親の、死さえなければ……。
 男爵は疲れた体に鞭打った。「さて、もうひとふんばりだ」

○     5

 男爵は洋館へとつづく道々、なんとか洋一を訓戒しようとした。洋一はそれが宗教家の述べる信条よろしく、仲間内でしか通用しないばかげた戯言としかとることができなかった。
 洋一は黙って話を聞いている太助を不思議に思った。二人はほとんど話をしていない。
「君はどう思ってるんだよ? 本の世界に入れるとか、そんなこと本気で信じてるのか?」
 洋一の声はいささか挑戦的になったが、これはいたしかたない。
 太助は洋一の言葉にかすかに眉根を曇らせた。「わからない。ぼくも本の世界には入ったことがないんだ」
 洋一は男爵に、ほらあ、という顔をしてみせた。
「無理もない。信じがたいという諸君の気持ちは、わがはいがいっとうよくわかる。なにせ、そんな反応にはなれっこだからな」
 さもあろう、と洋一は思った。
「だが、お主たちの気持ちとこれから降りかかるであろう苦難は無関係なのだ。城にさえつけば、なにが真実かはじきに明確になるだろう。そのときにこの話を信じず気を抜いて敵の計略にかかったとして、そんなときに相手は容赦などしてくれん。一流の剣客たちですら命を落とすような危険な輩が相手なのだ。腹だけは屹度かかえて、覚悟してくれ」
 太助が、本の世界のことはともかく、ウィンディゴはほんとにいるし、中間世界はほんとにあるんだ、と言ったから、洋一はますますふさぎこんだ。どうやら味方はいないものらしい。
 洋館までの道には外灯すらない。森閑としていた。夜は明け始めていたが、鳥の声すらしなかった。洋一には通い慣れたその道が、妙に禍々しく見えたのだった。

○     6

 その洋館は巨大な建築で、小規模ながら三階建ての、立派な城の様相を呈していた。二階と三階には立派なバルコニーがある。西洋の城と聴くと、誰もが連想するような鋭角な尖塔が三本ばかり。正面には三メートルばかりの巨大な門をようし、中に入るとすぐは、舞踏会が開けるほどのりっぱなホールがあって、奥にはスロープの階段が二階までつづいている。
 個人が持つにしてはいささか大仰すぎるほどで(恭一の愛車はボロのサニーだったし、牧村家はじっさい慎ましやかな生活をしていた。)、事務処理に来ていた役場の職員は(男爵たちは彼らに洋一の居所を聞いたらしかった。訊きだすには骨がいったことと思われる。)ここを結婚式場にでも変えてはどうかと冗談口を叩いたほどだ。日本で造られたというよりは、ヨーロッパの古城を移植したといった方が想像しやすいかもしれない。
 その城がいつできたのか知っている人は一人もいなかったし、ゆいいつ知っていたと思われる洋一の両親は死んでしまったのだから、なんとでもいえるわけだ。男爵ならばいろいろと知っていることも多かろうが、洋一はもうこの老人のいうことに聞く耳を持つ気がしなかった。後々には事情が変わるわけだが……。
 屋敷の内訳はこのような形である。部屋は大小三十を数え、トイレは一階と二階にふたつあり、ほとんどの部屋が本で埋まっている(トイレもふくめて)。洋一の部屋と両親の部屋は二階にある。ともだちが来たときにつかう部屋は、一階の玄関の右側。開けると庭に出られる大きな観音扉がついているから冬場は寒い。もちろん個人の部屋にも本がたくさんある。
 通路にも各個室にも羅紗地の高価な絨毯をひいていて、これだけでも図書館の値打ちは高かった。高級な暖炉があちらこちらにあったし(それこそ院長宅の暖炉など比較にならない)、天井を支える柱は本物の大理石。図書館という体裁があるとはいえ、親子三人が暮らすにはあまりにも広すぎる。このため洋一は、三階にはかくれんぼにつかう以外は、ほとんど行った試しがない。
 おかしなことは、その図書館の書物が、あらゆる国の言語で集められていることだ。洋一の両親はフランス語の部屋、英語の部屋と整理してはいたが(もちろん日本語の部屋がもっとも蔵書豊かだが)これでは利用者がふえないのも当然といえた。こうした事情も、洋一が男爵の言葉をまるきり否定できない要因のひとつだった。日本にある日本の図書館で、外国の客などめったに来ないのに(なにせ日本人すら来てくれないのだから)外国語の書物を集める理由がないのである。洋一は以前から不思議だった。図書館には作家の生原稿を集めた部屋もあって、結構値打ちものと思われるこれらの品々をどうやって集めてくるのか実に不思議だった。それに、男爵が話していた伝説の書――洋一はそれとおぼしき本の在処を知っている……。
 一行は朝靄を抜けて鉄格子の門をくぐった。空はまだ明け切ってはいない。地面の土は朝霜で氷り、踏むとパリパリと音を立てる。その薄い日射しともいえない日射しの中で、苔むした白亜の洋館を見上げたとき、洋一は百年ぶりに凱旋した兵隊のように、妙に感傷的な気分になった。この図書館だけが変わっていないことに(敷地に生えている草の数すら変わっていないことに)妙に不思議と感動したのだった――出発したのは、この晩のことだったのだから変わっていなくても当然だったが、彼の体内時計はずいぶんと早回しを行ったようで、この一晩が十カ年にすら感じられたのだった。そして洋館は自分の凱旋を喜んでいるようにさえ見えた。
 洋一は、今にもこの窓の明かりがついて、心配した両親が飛び出してくれたらいいのに、と思った。そして、長い坂道にこそ辟易しながらも、自分がこの図書館をどれほど深く愛していたかに気がついた。へんてこな部屋、へんてこな書物、へんてこな両親を愛していた。どれもが彼の自慢の種だった。
 洋一は二人に会うのは無理なんだという気持ちと、もしかしたらという期待を、胸でせめぎ合わせながら、玄関の階段に近づいた。脇に回ると、左から三つ目、下から三番目のブロックに手をかけた。そのブロックを揺り動かすこと数度、ブロックが石垣から外れた。洋一はそのあとにできた空洞に手を差しこみ、冷たく冷えた鍵をとりだした。ふりむくと、三人に震える声で言った。
「あった……」
 もしこれまでの人生のなにもかもが変わったのなら、この鍵もなくなっていて、もう洋館には二度と踏みこめないだろうと覚悟していた。だから、その合い鍵の存在は、洋一の肺に朝のすがすがしい空気を送りこむように、胸にあったかすかな希望をふくらませた。
 洋一が、泥で汚れ朝露に濡れる合い鍵を、大事な戦利品のように掲げてふりむいたとき、洋館ではすべての部屋で明かりがつき、何万人という数の人間の声があふれ出してきた。
 洋一は図書館をかえりみた。玄関の階段をふらつく足で下りながら。明かりのついた窓を見た。見慣れた厚手の本が、ボールのように横切るのを見た。ガラス越しに、空を飛び交う本の姿を、確かに見た。
「誰かいる……」と洋一が震える声でつぶやいたときには、ミュンヒハウゼンと奥村は鋭く剣を抜いて、洋一と太助の背後にきていた。男爵が厳かな声で、こうつぶやくのが聞こえた。
「すでにはじまっておる。見捨てられた書物が、怒り狂っておるぞ……」


□  その二 見捨てられた書物と、最初の対峙について

○     1

 洋一は震える指で、時代めかした大きな鍵を扉の穴に差しこんだ。くるりと回すとかちゃりと大きな音がした。中から聞こえた人のさんざめく声がぴたりとやんだ。洋一はこう思った。こいつらぼくらが来てるのに気づいてる。
 洋一がふりむくと、男爵は大きくうなずいた。ミュンヒハウゼンは帽子を手で押さえ、足を開いて身構えた。奥村と太助は中からなにかが出てくるのに備えるように扉の脇に回りこんだ。
 洋一はその巨大な扉をゆっくりと開いていった。中から明かりの筋が伸び、バルコニーのつくる影をすーっと左右に払っていく。洋一はホールを目にした。昨晩出かけたときと、なんら変わりがないようだった。洋一はそっと身を忍ばせて、ホールの絨毯にその足を置いた。その瞬間人声が復活して、洋一は尻餅をついた。目を回しながら感じたのは、今屋敷には何万人という人間がいるということだった。ただいるだけではなくて、ありとあらゆる騒ぎをしている。悲鳴がするし、話し声に怒鳴り声、男女の聞くに堪えない嬌声に、断末魔の声までする。まるで屋敷の中で、騒ぎ合って、愛し合って、殺し合って、大喜びして……人間がいとなむありとあらゆる行為を一時に営んでいるみたいだ。
「しっかりしろ、洋一」
 男爵が洋一の脇に手を差しこみ、彼を外に引きずりだした。洋一は男爵の腕に手をかけ、息も絶え絶えに言った。
「な、なにがおこってるの?」
「あれは本から漏れる声だ。登場人物の声が漏れ出ておるのだ」
 と男爵。奥村が刀を鞘に収めながら洋一の傍らに片膝をついた。
 洋一は太助と顔を見合わせる。二人は本の世界になどはとんとお目にかかったことがなかった。声(というか騒動)を聞いたあとも、男爵の話はピンとこなかったが、それでも度肝を抜かれたのだ。
 太助は男爵を助けるという父親についてここまで来た。奥村左右衛門之丞真行がミュンヒハウゼンを補佐しているように、父を助けるのはほんのこどものころからの彼の役目だった(もっとも奥村休賀斎は他人の助けなど必要としない人物ではあったが。武家の惣領ともなれば、こんな役目も致し方がない)。本の世界を救うだとか、伝説の書だとかいう話は、いっさい男爵のほらであって、真剣に考えてみたことはなかった。だけど、機関車にのって別の次元に来られたのはうそ偽りのない話だし、本の世界を守る一家というのもほんとにいた。太助は、物語の世界というのはほんとにあるのかもしれない、自分はその世界を冒険することになるかもしれない、と思って、にわかに緊張したのだった。
 一行は中を確かめながら、ホールへと踏みこんでいった。屋内には人影らしきものはなにもなかった。だけど、あちこちの部屋からは人の気配がして、声も漏れでていた。本のある部屋はどこだ、と男爵が訊くと、洋一は、たいていの部屋には本がある、と答えた。
 ともあれほらふき男爵は左手のもっとも手近な扉に身を寄せていった。中からは、人の声が寸断なく漏れ出てくる。悲鳴、話し声、怒鳴り声、声という声と物音が。洋一は男爵の腰にピタリと寄り添って、耳をそばだてていたが、やがて
「ここはぼくの家だぞ」
 と怒りに震える声で言った。彼は物語の世界なんてまだ信じることができなかった、両親と自分の留守中に泥棒が入ったにちがいないと信じた。
 男爵が彼の肩を叩いて合図した。「中に踏みこもう。頼むぞ奥村」

○     2

 男爵が金のドアノブに手をかけ、チョコレート色の扉を開いた瞬間、中からは轟然たる風が一同に向かって吹き付けた。口の中で風が渦を巻き、息も吸えない。洋一は自分の見たものが信じられなかった。部屋の中では本という本が、鳥のように羽ばたきぶつかりあっていたからだ。
 男爵は果敢にも部屋に飛びこみ、唸りを上げて立ちつくす。洋一たちも中に入ったが、本という本がこうも暴れていては手の施しようがない。本は仲の悪いのもいるらしく、互いをちぎり合ったりしている。おまけに男爵の手元では、本の見開きから、馬が出てこようとしていた。
 洋一は、その馬が充血したギョロ目をいかつかせ、ぶふうと鼻から吐いた息で、髪をなびかせるのを感じた。馬は空間に身を乗りだした瞬間に実物大の大きさになるようで、ページの縁に前足が出ると、その蹄は実物大に大きくなった。身をくねらせながら現実世界に出てこようとしたのだが、あと少しのところでミュンヒハウゼンに本を閉じられてしまった。
 馬はいななきを残して洋一の前から消えた。男爵の手の中で本が暴れ出し、彼はこいつめこいつめとその本を縦に横にと振り立てた。別の本が抗議をするかのように男爵の頭を表紙の角で攻撃する。ミュンヒハウゼンは後頭部に一撃を食らって足をよろめかせたが、それでも気丈に本をつかんでいる。
 そのとき、部屋中の本が互いに争うのをやめ、洋一たちに目をつけた。本は空中で制止した。その刹那、洋一は部屋にある何百という本の背表紙から悪意が放たれるのを感じた。
 奥村が暴れる本を叩き伏せようとする男爵の肘をとり、洋一と太助を追い立てた。空中に浮かんだ本が、四人の後を追うようにゆっくりと向きを変えている。本の群れがこちらに向かって突撃を開始しようとした瞬間、洋一の鼻先で扉が閉まった。本のいくつかが扉にぶつかり音を立てた。
 洋一は高鳴る心臓に手をやることもできずに、呆然と見開いた目をこすった。おかげでまつげが目に入ったが、その痛みも気にならない。なにが起こったのかわからなかった。洋一は男爵たちをかえりみて、「ありえないよ」と叫んだ。ちょうど男爵が、部屋から持ちだした本を踏みつけにするところだった。
「貴様」と男爵は地面に落ちた本に向かっていった。「わしはお前たちを助けに来たのだぞ。狂った世界を元に戻しに参ったのだ。わかったか」
 絨毯の上で本が抗議するように飛び跳ねた。男爵は屋敷中に聞こえるように、首を仰向けて口説した。
「よいか貴様ら! 我が名はミュンヒハウゼン、高名なるほらふき男爵である! 本の世界を救うため、物語を飛び出し、仲間と共に馳せ参じた。残念にも牧村夫妻は命を落としたが、子息と我が輩、そして中つ国の仲間がいるかぎり、物語は終わりはしない。諸君らに良心があり……」騒いでいた屋敷がしんとなった。とここから男爵は涙に視界を曇らせ、わきおこる熱情に声をつまらせだす。「自らの物語を思う心があるならば、いっときでいい、我が輩らに力をかしてくれ。我が輩は……」
 そのとき、静まりかえったかと思った屋敷内から一斉に抗議の声があがり、あちらこちらで扉が開きはじめた。洋一たちはほうほうの体でその場を逃げだした。
 洋一は先頭になって男爵たちを本のない場所へと導いた。彼のよく知る図書館は一夜にしてお化け屋敷になったかのようだ。あちらこちらで廊下をうろつく人影が見えた。洋一はなんども方向を転換せねばならなかった。この屋敷の中で本のない部屋なんて、それこそ見つけだすのに苦労したが、記憶の地図を返す返すようやく一つ見つかった。
 彼らは洋一を先頭に廊下を走って、ついに本のない物置小屋へと逃げこんだ。そこは掃除用具を入れこんだ部屋で、中は埃っぽく、四人が入ると(うち二人がこどもとはいえ)ずいぶん手狭だ。今日はなんと物置に用のある日だろうと思うと、情けなかった。
 一同は真っ暗な部屋で座りこんで荒い息をついた。とくに体を痛めている男爵と洋一には全力疾走が身に堪えた。
 洋一は壁をさぐって物置の明かりをつけた。
「持ってきたの?」
 男爵はへたりこんだままだったが、その膝元ではまだ赤い本を手にしていた。見慣れたはずの本の背表紙がなんとも薄気味悪く不吉なものに見えた。
「捨ててくればよかったのに」
「あ、あいつら」と男爵はその本を持ち上げ、荒い息の下で言った。「わ、わしらにたてつきおってどうなるか見ておれ」
 だが、洋一はさきほどの抗議の中にも、賛同の声があがったのを確かに聞いた気がした。その証拠に男爵が手にもつ本は先ほどはあれほど暴れていたのに今はすっかり大人しくなっている。果たして、奥村が、
「ですが、その本は聞く耳をもっているようですな」と言った。
「さもあらん。見て見ろ、本の題名を」男爵は洋一に向かって本を突き上げた。本の表紙には、『ロビン・フッドの冒険』とある。「多くの人に読みつがれた歴史ある本だ。そのような本は強い力をもっておる」
 彼は気迫のこもった目で洋一をにらんだ。屋敷ではまだ騒ぎがつづいている。でも、山の中だから、誰も気づく人はいないんだろうな、と彼は思う。つまり、誰か洋一がいなくなったことに気づいて洋館を訪ねてくるまで、この自体を知る人はいないわけだ。団野は洋一がいなくなったことを隠すに決まってる。
 男爵は洋一に向かって言った。「どうじゃ。これで信じたか?」
「あれを信じろっていうの?」
 洋一には男爵の申し出の方が信じられない。
「きっとぼくらは院長に殴られすぎて頭がおかしくなったんだよ」
「それとも今見たものは夢かうつつのたぐいだと?」
「でなきゃなんなんだ」洋一は頭をかきむしった。「どうすればいいんだよ。せっかくうちに帰ってきたのに、ぼくはゆっくり休みたいだけなんだ。体だってぼろぼろなんだ」
 男爵は座りこんだまま洋一の胸を突いた。「その痛みこそが現実なのだ。今の情況とて現実なのだ。目をさませ」
 洋一は半分べそをかいて問い返した。「ぼくにどうして欲しいのさ?」
「伝説の書を手に入れたい。本の場所へ案内しろ」

○     3

「ともかく」
 男爵は言った。
「本の多くはウィンディゴの影響を受け、やつに味方しておる。悪の中つ国の力が物語の世界に影響しておるのだ」
「物語はハッピーエンドに決まってるんだ。正義は必ず勝つんだぞ」
「それは昔の話だ」ミュンヒハウゼンは洋一を睨んだ。「わしが今知る物語には」と彼は前置いた。「悪が正義をうち倒し、誠が嘘に破れ、陽が陰にとってかわる、そんなものばかりだ」
「それがウィンディゴのせいなの?」
 洋一は尋ねた。男爵は無言でうなずいた。洋一は無意識のうちにほうきをつかんで考えこんだ。ある疑惑がさっと心に浮かんだ。物語の世界が本当だとして、ウィンディゴが本当にいるとしたら――? ぼくの父さんと母さんがそいつに殺されたのもほんとかもしれない。
 まだ見ぬウィンディゴにたいして、猛烈でどす黒い怒りが胸の中で渦を巻いた。
「伝説の書はなにも書かれてない本だ。そうでしょ?」
 男爵は目を見開いた。「伝説の書を開いたことがあるのか?」
 洋一がうなずいて口を開こうとすると、男爵が慌ててその口をふさいだ。「待て待て待て。伝説の書のありかはいうな。誰が聞き耳を立てておるかわからんぞ」と彼は言った。その証拠に屋敷はまた静まりかえっている。まるでウィンディゴ配下の書物が、全精力を傾けて洋一たちの居場所を探っているかのようだった。
 洋一は声を落として言った。「でも、ぼくは伝説の書に落書きしたのに、なにも起こらなかった」
男爵は顔を真っ赤にした。大事な伝説の書に落書きをしたときいて腹を立てたようだった。
「それはお前がものを書いたときになにも念じておらんかったからだ。その本はな、人の意志、信じる力に反応するのだ。ただの落書きなんぞが現実化してたまるか。あれを使いこなすにはとんでもない修練がいると思え」
 洋一はむっとした。
「ともかく伝説の書の在処をお前は知っておるわけだ」
 男爵が身をかがめる。洋一はミュンヒハウゼンの耳にささやいた。「両親の部屋の机においてある」
 男爵はあまりのことに唖然とした。「鍵をかけた金庫か書箱にいれておらんのか? むき出しにおいてあるのか?」
「そうじゃなかったらぼくがさわれるわけがないよ」
 奥村は声を出さないよう注意して笑った。「いかにも恭一らしい」
「赤い表紙のでっかい本でさ、カバーもなんもないやつで」
「それだ!」
「か、どうかはわからないけど、すごく大事な本だっていってた」
「中にはなんと?」
「なんにも。真っ白なページだった。分厚い本なのに、ずっと白紙なんだ。それにぼく……」と洋一は告白を恥じるようにうつむいた。「あの本を持ったとき、熱いと思ったんだ」
 あの本は生きてるみたいだった、と洋一は言った。
 男爵たちは顔を見合わせた。もはや、まちがいない、と男爵は言った。
「なんということだ。ことは一刻を争うぞ。ウィンディゴのやつに先を越されるわけにはいかん。やつがそれを手にしたらきっと使いこなして、世の中をめちゃめちゃにしてしまう」
「そいつはこっちの世界に来てるの?」
 洋一は訊いた。身の程も考えずに。彼はこれほど怒りが強ければその力だけでウィンディゴがやっつけられる気がした。男爵のいうとおり、いかに世の中が変わろうとも、彼の中ではまだまだ正義が悪に勝つ古い世界が信じられていたからである。
 それに対する男爵の答えは頼りなかった。
「わからん。やつの動きがわしに読めるわけがない」
 ともあれ、彼らはせっかく逃げこんだ安全な物置を出て、両親の寝室に向かうことになった。問題は両親の部屋にも本があることだが、男爵がいうには、「恭一が部屋に置くぐらいだから、それらの本は力の強い、正しい本に決まっておる」
 彼はそれらの本自体が強い力を持っているのでウィンディゴの影響を受けていないはずだと信じたがっているようだった。
「もっとも、お前は気をとち狂わせておったようだがな」と男爵は「ロビン・フッド」を見下ろして言った。

○     4

 洋一たちはこっそりと部屋を出たのだが、六歩と行かないうちにその行動を知られることになった。静まりかえっていた屋敷がまた騒がしくなり、騒音という名の強風はたちまち暴風の域に達した。書物があちこちの部屋から飛び出してくる。中には、五、六キロはあろうかという、巨大なハードカバーもあって、洋一はあやうく頭を砕かれかけた。彼らは全力で二階に駆け上がると、両親の部屋に逃げこんだ。
 両親の部屋は広かった。壁は本棚に埋め尽くされている。ベッドは右の隅に、ストーブが中央にあり、恭一が生前くつろいで本を手にしていたソファがそのそばにある。そして、窓際に背を向ける格好で大きなデスクが置かれている。洋一のともだちが、校長机と呼んでいた立派なデスクだ。
 この部屋だけは見受けられる異常はなにもなく、両親の生前の姿を保っているかのようだった。奥村が洋一の肩を叩いて指さす先で、彼の両親が残したらしいいくつもの文様が壁に描かれているのが見えた。暗い部屋の中にもかかわらずまっさきに目に飛びこんできたのは、紋様自体が光を放っていたからである。
「恭一の残した結界らしい」
「おかげで助かったぞ」
 とミュンヒハウゼンは急にのびのびとした大股で恭一の大机に歩み寄った。よく見ると、寝室にはあちこちに不思議な文字が書かれていた。大きな物は、東西南北に四つある。洋一は書物の喧噪が部屋にはいった瞬間に遠のいたことに気がついた。洋一は男爵のあとについて大机まで歩いていき、両親の残した遺品の数々を眺めやった。恭一の残した万年筆、開いたままのノート。もう二人がつけることはないライトをつける。明かりが落ちる。洋一は涙のこもった目で男爵を見上げた。
「どうだ?」とミュンヒハウゼンが訊く。
「なくなってる。きっと父さんが隠したんだ」
「ウィンディゴが持っていったんじゃあ」太助が言った。
「いや、やつがこの部屋に入れたとはおもえん」
 男爵が持ち主の断りもなく引き出しを開けはじめた。
 洋一は壁に据え置かれた本棚によっていった。棚にはくたびれた古い書物や新書本までありとあらゆる時代の本が並べられている。この部屋の本は洋一ですら許可がない限り読むことはできなかった。両親は男爵のいう、強い力をもった本ばかりをこの部屋に集めたのだろう。
「あったぞ」
 男爵が言った。洋一がふりむくと、ミュンヒハウゼンが一番下の引き出しから、広辞苑ほどの分厚さのある古びた本を取りだしたところだった。一同は男爵のもとに集まり彼の手元をのぞきこんだ。
「あったぞ、これこそ伝説の書だ」と男爵は本の表紙をぱたぱたとはたいた。それからまた引き出しの中をのぞきこみ、「鍵はかけられておらんが、封印がほどこしてあるぞ」と机の中にあった魔よけをみつけて感嘆を上げた。
「あいつは勘がよかった。身に危険がおよんでいることに気づいていたのでしょう」と奥村が静かな口振りで言った。ミュンヒハウゼンは洋一に伝説の書を手渡した。洋一はその本を手にした瞬間、以前とおなじ熱気を掌に感じた。その本にはタイトルも表紙絵もない。だが、真っ赤なその装張は洋一の手の中でうずくような息吹を発していた。この本には力がある。
 洋一がペーパーバックを開くと、本はパリパリと真新しげな音をたてた。ページにはなにも書かれていないが、真っ白というよりは古茶けた色をしていた。ページを繰ったが、どのページにもなにかが書かれたような痕跡がない。昔書いた落書きが、どこにもなかった。
「ボールペンで書いたのに……」
 彼がつぶやくと、しばらく経つとすべての文字は消えてしまうのだと男爵が答えた。本には文字を書きこむ必要すらないらしい。危険な書物なんじゃぞ、と男爵は言った。
 洋一は男爵を見上げた。「これはおもちゃじゃないってすごく怒られたよ」
「さもあろう」危険もあるからな、と彼はうなずいた。
「これからどうするの?」
 洋一がいうと、男爵はふたたびこの屋敷に来てはじめて手にした本、ロビンフッドを一同に向けて示し、「これもなにかの縁じゃ」と言った。「まずはこの本の世界にはいる」
 その言葉を訊いた瞬間、洋一は脳天までしびれあがった。驚きと興奮のあまり、髪が逆立つかのようだった。ここにあるのが両親のお気に入りの本だというのなら、洋一にとってはロビン・フッドこそがお気に入りだった。カバーこそなくなっているが(ロビンと森の盗賊たちが、木陰から、道を行くノッティンガム侯爵とその一行の様子をのぞき見ている絵のついたやつ)、洋一はその本をなんど読み返したかわからない。盗賊たちが悪い代官をやっつける痛快さが好きだし、とくに主人公を支えるちびのジョンが大好きだった。洋一はともだちと森の盗賊ごっこをずいぶんした。母さんの家裁道具からゴムひもを盗んで手製の弓矢を作ったこともある(ときどき弓矢がピストルにかわったけど)。
 男爵と奥村は『ロビン・フッド』を開いて、物語の冒頭辺りを確かめはじめた。
「すごいよ」と彼は太助に向かって言った。「ロビン・フッドに会えるんだ。読んだことある?」
 太助がうなずく。洋一はつづけて言った。「ほんとにすごいよ。知ってる? ロビン・フッドにはモデルになった人物がいるかもしれないんだ。でもぼくたちは本物のロビン・フッドに会えるかもしれない」
「君は本の世界なんてないっていってたじゃないか」
「お前こそ、中間世界から来たとかいってたくせに信じないのか」
 二人の言い争いは、大人たちの、「物語が変わっておる」
 というつぶやきで消されてしまった。男爵が呆然たる顔でふりむいた。「この物語ではロビン・フッドは冒頭から死んだことになっておる」
「そんな」と洋一は、本を男爵の手からひったくった。彼は本の世界をまるきり信じていなかっただけに、ロビン・フッドに会えないという現実が耐え難かった。
「どうなるの? ロビンは生き返るの?」
「わからん」男爵は首を横に振った。「物語が変質をはじめてからは、わしは他人の本にはいったことがない」
「わたしもないな」
「本の世界にはいったことがあるの?」と太助が訊いた。
 奥村は、恭一と二度ほど物語の世界に入りこんだことがある、と言った。男爵がこの二人にはわしが方法を教えたから、そういうこともあるだろうと付け足した。
「ともあれ、この世界に入りこんでみんことにはいかんともしがたいわい。まったく、主人公がことの一から死んでおるとは、サー・ロビン・ロクスリーもなんともふがいないではないか」
「ちくしょう、それもウィンディゴってやつがやったんだ」と洋一は決めつけた。
「もうしばらく先まで読んで物語がどう変わったのか、頭に入れた方がいいでしょう」奥村が言った。「これからも変わりつづける可能性があるとはいえ」
 男爵がうなずこうとしたそのときである。
「ミュンヒハウゼン!」
 誰のものともしれぬ野太い巨声が、屋敷中に響き渡ったのである。

○     5

 その声を聞いた瞬間にミュンヒハウゼンは、
「ウィンディゴ!」
 と叫び、サーベルをひきぬいた。ゆっくりとその場で一回りをし、警戒するように周囲に気を配る。
 声はさらに、
「久しいな、ミュンヒハウゼン!」
 と言った。
 奥村が声の方向に見当をつけ、バルコニーのガラス戸に走り寄ると、真冬用にあつらえた分厚いカーテンを引き開けた。洋一はウィンディゴに対する怒りを新たにしていたが、カーテンがあいた瞬間悲鳴を上げて太助とともにしりもちをついた。
 窓の外には、巨大な顔がうかんでいた。でっかい団子鼻だ。仁王のような形相をして、一同を睨みつけている。しかも透明で背後の空をうつしている。奥村が長刀をすっぱ抜いて、二人の前に回りこんだ。
「あ、あれがウィンディゴ」洋一は唖然と言った。
「うろたえるな」とミュンヒハウゼンは言った。「やつはお前がもっとも怖れるものに姿を変えるぞ」
「さよう」ウィンディゴは怒鳴った。部屋の結界がすこしゆらいだ、辺りの喧噪がもどってくる。「察しのとおりだミュンヒハウゼン。わしはお主とおなじく、創造の力を擁する者! さあ、その本を渡してもらおうか。伝説の書はお主にはすぎ足るものだ」
「黙れ!」洋一は窓に駆け寄ろうとして、奥村と太助に抱き留められた。「お前が父さんと母さんを殺したんだな! よくも、よくもやったな。見てろ」
「黙れ、わっぱ!」ウィンディゴの怒声にうたれ、洋一はその場にくずおれた。男爵すらも片膝をついた。「身のほどを知るがいい! ぬしらの仲間はほとんどが死に、残ったのはそこにいる奥村休賀斎と小僧!」とウィンディゴはおどすかのごとく窓際まで攻め寄せてくる。「そして、なにも知らぬ非力な牧村の子息」
 ウィンディゴは洋一をあざ笑いつ、窓から離れていく。洋一は悔し涙を流し、奥村の手の中で暴れた。あんまり暴れるものだから、奥村の刀で手の甲を切ってしまった。
「洋一、やつの口車に乗るな!」
 と奥村は刀をおさめながら説き聞かせた。
 男爵が小声で、「そのとおりじゃ、いまは物語の世界をただし、少しでもやつの力を弱めるしかないのだぞ」
 その男爵の言葉をウィンディゴは聴いていたようだ。
「あわれなるかな、ミュンヒハウゼン」顔だけのウィンディゴが宙を回る。「本の世界を救おうなどとやめておけ。人々はもはやお主を必要とはしておらぬ。善がお主にどれだけ味方する! まだ、わしにさからうつもりか! もはやお主に力は残されておらぬ! その証拠にお主は年老い、創造の力も大半をなくしておるではないか!」
 洋一は驚いてミュンヒハウゼンをかえりみた。男爵はがっくりと肩を落としてうなだれている。ウィンディゴの言葉は事実らしかった。だから、彼は牧村一家の助けと、伝説の書とを求めたのだ。男爵がいった、ほらもふけないほらふき男爵とはこういう意味だったのだ。
「世界の人々はお前の紡ぐ物語を忘れ去ろうとしている。もはやお前を信じておらんのだ」
 ウィンディゴの巨顔が壮絶とも呼べる笑みを形作った。
「お前なんか!」怒鳴る洋一に、太助が組みついた。「ぼくの父さんと母さんを殺したって、まだ男爵がいる!」
「ミュンヒハウゼン!」ウィンディゴはさも驚いた風に、「やつは年老い力をなくしておる。世界の人々はお前を忘れ去ろうとしている」
 ウィンディゴが窓に近づく。
「だまれ!」
 洋一は涙をながし、ウィンディゴに向かおうとした。
 奥村は開き戸まで駆け寄り、カーテンをしめた。そのカーテンの裏地では、洋一の母親がほどこしたらしい、呪文の文字が光を放っている。
 両親は死んでもぼくを守ってるんだ、と思うと、洋一の胸は二人への愛情と悲しみ、ウィンディゴにたいする新たな怒りで熱くなった。
 カーテンがしまると、音は遠ざかり、ウィンディゴの声は、はるか彼方から響く遠雷のようになった。
 奥村が肩に手を回すと、洋一はがっくりとうなだれた。ふりむくと、男爵もおなじように消沈していた。三人は男爵のところまで歩いていった。男爵はひどく青ざめた顔をしていた。近づいてきた三人に気づき、気丈にも立ち上がった。
「ぼくは男爵を信じるよ」と洋一は言った。「前はあんなこと言ったけど、全部取り消す。だって男爵は院長の家でぼくを助けてくれた」
「わしはもうだめだ……」
「男爵、あいつの言葉を聴いちゃだめだ。ぼくは男爵を信じる。男爵は本物のミュンヒハウゼン男爵だ」
「ああ、ああ」ミュンヒハウゼンはウィンディゴの言った言葉がひどくショックだったようだ。その顔は蒼白なまでに青ざめている。「だが、やつの言ったことも真実なのだ。わし自身の物語世界がすでに狂いを見せておる。わしの仲間たち、グスタバス、アドルファス、バートホールド、アルブレヒト……あやつらはいまいったいどこでどうしておるのか」とミュンヒハウゼンは帽子をむしりとる。
 洋一は男爵の白髪頭を見下ろした。「ぼくには強くあれって言ったくせに……」怒りに震える胸。そこから息を吹きだした。「この大うそつき。弱虫のへっぴり腰野郎!」
「なにおう」これには負けず嫌いの男爵が目を剥いて立ち上がった。
「男爵のほらふき。でも、こいていいほらと悪いほらがあるぞ」
「なにを言うか、お前はなにもわかっておらんのだ!」
「わかってないのは男爵だ」洋一は静かに言った。「男爵はぼくに力を貸して欲しいって言った。なのに男爵は自分があきらめてる。うそはついてもいいけど、約束を破っちゃだめなんだぞ!」
「言われましたな」
 奥村は伝説の書をとって戻ると、ミュンヒハウゼンの胸に押しつけた。
「男爵」と洋一はミュンヒハウゼンの手をとった。以前は彼の情熱を表すかのごとく熱い力に満ちていた手が、今は冷たく冷えている。そのことも、彼の心を傷つけた。洋一は目に涙を溜めた。声は震えた。「本の世界がほんとにあって、父さんたちが殺されたのもほんとなら、敵をとりたいよ男爵」
「それは我が悲願でもある」
 とミュンヒハウゼンは言った。彼の頬に赤みが差した。彼は名付け子の前で弱気になった自分を恥じた。恭一たちは本の世界を守るため――それはいうまでもなくミュンヒハウゼンの世界を守るためでもある――戦って亡くなった。世界中の人間が彼を忘れ去ろうとも、少なくとも牧村夫妻は彼のことを信じて亡くなったのである。
 男爵は立ち上がると、洋一の肩に手を置き、日が差してきた表に向き直った。
「この期におよんで弱気になるなどわしはどうかしておった。ウィンディゴ!」と外に向けて呼ばわる。「貴様など世間にろくに名も知られておらぬ。わしの物語はこれまで全世界で読み継がれてきた」
「映画にもなった」と洋一。
「そのとおり!」
 男爵が声も高らかに叫んだ。奥村が快活に言った。
「では、まずはロビン・フッドを救いにまいりましょう」

○     6

 洋一たちは、物語の世界に入りこむしかなくなった。忘れられた書物が、部屋を攻撃しはじめたからだ。壁が太鼓のように音をたて、扉の蝶番はがたつき軋み音を上げている。天井からはちりつもった埃まで落ちてきた。洋一と太助は無意識のうちに手をとりあった。何者かが中に入ろうとしている。恭一がつくった結界がいかに強力とはいえ、あまり時間は残されていなかった。
 隣で男爵が急いで懐に手をつきこむと、中から二枚の紙をとりだし、二人の少年に手渡した。
「これには、物語の世界にはいるための呪文が書かれてある、一字一句まちがえるなよ」
 と彼は言った。それから『ロビンフッドの冒険』を手にすると、部屋の中央に行った。男爵はページをぱらぱらと繰ると、
「この辺りがいいだろう」
 と言って、そのページを手で押し、しっかりと開いた。
「城の中の調理場のシーンだ。我々はそこにでるぞ」
 洋一と太助はその紙片に目を通して、なんとかそのへんてこな呪文を暗記しようとした。そのとき男爵は懐から伝説の書をとりだし、じっと見つめた。ややあってその書物を洋一に向かってさしだし、
「お前がもっておれ」
 と言った。洋一はその本が(すくなくとも男爵にとっては)重要な本だとわかっていたから驚いた。
「でも――」
「おぬしの両親が半生をつうじて守りぬいた本だ。お主が持っておれ」と男爵は言った。「万が一、ということがないかぎり、この本をつかってはならん。とはいえ、お主ではなにを書きこもうとも現実化はせんだろうがな」
 洋一は伝説の書を恐る恐る受けとった。彼はその本の背表紙をなで、ためつすがめつ眺めつした。父さんと母さんに変わってぼくがこの本を守るんだ、と思うと、こころよい緊張感のようなものが胸を走る。彼はうなずいて、伝説の書を胸に抱いた。洋一は伝説の書をセーターの中につっこんだ。
 こどもたちは男爵と奥村にせきたてられて本の前に立った。四人は本を囲んだ。
 男爵が言った。
「手を取り合え」
 洋一は太助の手をとった。そして、開いた左手でミュンヒハウゼンの手をとった。ミュンヒハウゼンは一心に『ロビン・フッド』を見つめている。
 本当に本の世界に入れるんだろうか?
 そう疑問を浮かべた瞬間に、洋一はその書物の放つ脈動をかんじ、本が生きていることを確信した。彼らを中心に左回りの風がおきた。ウィンディゴが騒いでいる。まるで地震が起きたかのように鳴動している。洋一はこう思った。あいつらこの部屋をサイコロみたいに揺すぶってるぞ。
 男爵はそんな妨害をものともせず落ち着き払って言った。
「目を閉じろ」
 取り囲まれているさなかに目を閉じるのは怖かったが、同時にものすごく興奮してもいた。洋一は自分の股間が硬くなっているのに気づく。わき上がるような力を感じた。その力は彼のまだ知らぬ性の衝動にも似て、まるで、原始の力が彼の中に眠る能力を目覚めさせていくかのようだった。目を閉じているのに周囲の景色が見えた。洋一は四人のつないだ手を通して、未知なるエネルギーが駆けめぐるのを感じた。歓喜ともとれるうめき声がする。ウィンディゴの怒りの叫びも。
「呪文を思い浮かべろ」
 その瞬間、洋一のまぶたの裏には、ほんとにあの呪文が浮かんできた。日本語だけでなく、ありとあらゆる言語で浮かんできた。洋一はうろたえながらも、呪文が消えないようにしがみつく。体ではなく精神の力で。彼は呪文の音を覚えることは無意味なんだと直覚する。だから、その言葉の裏にある力をつかまえにかかった。
 ウィンディゴは男爵のいうとおりとてつもない、怖ろしいやつだ。でも、自分に、自分たちにこんなことができるのなら、両親の仇を討つことだって不可能ではない気がする。
 ウィンディゴがガラス戸にぶつかる音がし、男爵が叫んだ。
「声をそろえて唱えるんじゃ」
 四つの声が唱和する。「ラガナリボーノ、オチミマーヤ、タエガンカウコ!」
 その瞬間、洋一のお気に入りの本である『ロビン・フッドの冒険』は光り輝き、瞼を通して四人の脳髄を貫いた。その光とともに文章の洪水がおしよせてくる。脳を文の流れに揺さぶられ、洋一は悲鳴を上げた。彼らの意識は遠くなった。洋一が目を開こうかと迷った刹那、髪の毛をわしづかみにされるような感触が彼を襲った。腰が浮いたかと思うと、洋一の体は虚空にむかって放り投げられた。天井にぶつかると思ったのに、そんな感触はない。目を開くこともできずに彼は大空高くに舞い昇っていった。
 数瞬の後、四人の姿はわずかな煙を残してその部屋からかき消えていた。
 あとには、風にページをはためかせる
『ロビン・フッドの冒険』
 だけが残された。

◆ 第二部 果てしない物語と呪われたこどもたち

◆  第一章 泣き虫ジョンとロビンの消息

□   その一 ちびのジョン、大いに弱ること

○     1

 ぐるり、ぐるり。ぐるり、ぐるり。
 洋一には自分がアメーバかなにかに変わったかのように感じられた。体はチーズのようにとろけて伸び、上下左右もわからなくなる。ぐるりぐるり。ねじまがり、激しく回転、渦さえ巻いた。洋一は目を閉じて、歯を食いしばり悲鳴をこらえる。
 真っ暗闇に放り出されたかと思うと、次の瞬間には、どこともしれない石の床に身を投げ出されていた。彼は激しい動悸に息を切らす、大の字に伸びたまま襲いくる吐き気とたたかった。大汗をかき湯気までたった。
 視界はいまだに回っている……。
「ここはどこ」
 洋一は倒れたまま、しゃがれ声でうめく。吐き気がして身を起こすことができない。
「洋一」
 太助が右隣で体を起こす。体をさすり、腰に刀があるのを確かめ、ほっと胸をなでおろす。
 目が次第に暗闇になれてきた。視界の回転もおさまる。洋一は城の調理場だと思った。男爵がそこに出るといっていたし、部屋の調度もまちがいなく調理場であることを告げていた。部屋の奥にはかまどがあり、まな板に包丁といった調理道具もみえる。
 二人が倒れているのは、テーブルの真下あたり。ここでは食事をしないのか、椅子のたぐいがまったくない。部屋は広く、かまどが壁面に並んでいる。巨大な鍋が壁に吊されている。ここにいるのは彼らだけだった。
「男爵と父上がいないぞ」
 太助が周囲を見回す。洋一もしゃがんだり、背伸びをしたりして二人の姿をさがしたが、人影がない。
「ここはほんとに本の世界なのかな?」
「わからない。でも、そうだと思う」
 太助は気持ちを抑えようとしているようだったが、声には興奮が感じられた。洋一も脳天から舌まで染みるようなしびれを感じる。
 そうした興奮が去ると、激しい不安がやってきた。
「男爵とおじさんはどこに行ったんだ?」
 彼らは本の世界に来たのさえはじめてだ。どう振る舞っていいかもわからず、またなにをすべきなのかも知らなかった。洋一はミュンヒハウゼンの言葉を思いだした。狂った本の世界を元に戻す……
「たぶん、男爵たちはこの場所に来なかったんだ」太助が言った。「きっと別の場所に飛ばされたんだよ」
「でも、なんで?」
「わからないよ。入るときにページがめくれたのかもしれないし、ウィンディゴがじゃましたのかも」
 洋一はたちまち怖ろしい巨顔を思い浮かべ、「そうだ、ウィンディゴは? あいつは追ってこないかな?」
「わからない。でも、ウィンディゴはいろんな物語の世界に影響を及ぼしてる。そのせいで……」
 太助が急に黙った。緊張した表情になり、鼓膜に意識を集中している。
「な、なんだよ」
 しぃ、太助が沈黙をうながした。洋一は黙り、自分も緊張しながら、辺りの気配に集中した。太助は剣術で鍛えこんでいるせいか洋一よりずいぶんと敏感なようだ。
「奥の部屋から音がする」
 太助の視線の向こうには、アーチ型の闇がぽっかりとあいていた。よく見るとそこからかすかに明かりがもれていた。
「男爵たちかな?」
 と洋一は尋ねたが、二人でないことはわかっていた。隣の部屋から響くのは、なにか物を食べるような音に聴こえたからだ。それに男爵たちなら二人を捜すに決まっている。
 太助が用心深く腰の刀に手をかけた。洋一に向かってうなずいたが、表情はいかにも不安そうだ。
「向こうにいるのがウィンディゴだったらどうする?」
「ウィンディゴならぼくらはとっくに殺されてる」
「でも……」洋一の視線が揺らいだ。「刀を抜くのはよくないよ。相手はきっと大人だ」
 洋一は、ボコボコにやられるに決まってると思ったが、口にはださなかった。
 太助は首を左右に振った。「男爵はページを選んでた。危ないシーンにぼくらを連れてくるはずはないよ。きっとロビン・フッドか、ロビンの仲間がでてくるページを選んだはずだ」
 でも、ロビンはすでに死んでいる。森の仲間たちにとって、今のロビン・フッドの世界はずっと住みにくくなっているはずだった。
 二人は腰を落とし、ゆっくりとアーチに近づいた。そちらは食料の貯蔵庫になっていて、調理場との間には扉すらない。
 洋一は言った。「主人公が死ぬなんて信じられないよ」
「いや、男爵たちが読んだのは頭の部分だけだ。後半では死んでないことになっているのかもしれない」
 太助はわらじを履いているのでほとんど音を立てない。洋一は靴を脱いだ。
 二人がかまどの脇から貯蔵庫の奥をのぞくと、そこでは見たこともないような巨体の持ち主が、精一杯に身をかがめて、食事にありついているところだった。こちらに背中を向けている。先ほどから漏れていた明かりは、布でおおったカンテラから漏れた明かりらしかった。男がどでかいソーセージにかぶりつき引きちぎるのが見えた。ずいぶんと腹を空かしているようだ。それをみて二人の男の子たちのお腹もぐううっと鳴った。
 洋一はささやいた。「昨日の晩からろくに食べてないよ」
「ぼくもだ」
「あいつ緑の服を着てないぞ」
 緑の服こそ森の盗賊ロビン・フッドの子分の証だ。少なくとも、洋一の読んだ本では。
「誰だ」
 大男がふりむいた。二人は慌てて壁際に隠れた。大男はカンテラにかぶせた布をそっと外して、部屋の入り口をてらした。男はひげもじゃで髪もぼーぼーに伸びている。その髭はソーセージの油のせいでぬらぬらと光っていた。
「誰かいるのか?」大男が訊いた。「誰もいないのか? いないといってくれ」
「あいつおかしなことを言ってるぞ」
 と洋一。太助がまたしいいっと言って、洋一の口をふさいだ。
「だ、誰もいないんなら、それでいい。俺は食事をつづけるぞ」
 男は震える声で言った。
 太助と洋一は顔を見合わせた。男が急においおいと泣きはじめたからだ。
「まったくなあ、ひでぇことになったもんだ。ロビンはいなくなっちまうし、おかげで俺は朝から晩までこきつかわれる」
 太助が思わず物陰から顔をだした。「あんたロビン・フッドを知ってるのか?」
「ひょっとして、ちびのジョン?」
 太助と洋一が同時に問い尋ねると、男は大声を上げて飛び上がった。

○     2

「だ、誰だか、知らねえが州長官さまには黙っててくれろ」男は転がったまま、両手を大きく振り立てた。「ろ、ろくに食ってねえもんだから、つい魔が差しちまって。だけど、誓う。これまで盗み食いなんて一度だってしたことがねえ。ノッティンガム長官さまには感謝いたしております。腹が減ったのだって、俺の図体がでかすぎるせいで、州長官さまのせいではまったくないですだ」
「おい、あんたこそ静かにしろよ」
 太助が怒って部屋に入った。
「まずいよ、太助。男爵のやつ、州長官の調理場のシーンを選んだんだ。きっとちびのジョンが、州長官の家来になった場面だよ。ぼくらは代官の屋敷に閉じこめられた」
 男は顔を上げた。二人の顔をみとめたようだ。「なんだ、こどもか」と気抜けしたように彼は言った。男の顔は涙とソーセージの油でぐちゃぐちゃになっている。
「お前たちどうやってここまではいった?」
「あんたちびのジョン? そうだろ」
 と太助がにじりよった。洋一も後に続いた。
 ちびのジョンらしき男は、巨大な手で顔をなで下ろし、
「ちびのジョンって呼ばれたのは昔の話だ。ここじゃあ、レイノルド・グリーンリーフって呼ばれてる。でもみんなはそんなふうには言わねえ。みんなは、泣き虫ジョンって、そう呼ぶんだ」
 と言って、ジョンは大粒の涙をこぼしはじめた。太助と洋一は顔を見合わせた。
「しっかりしてよ。頭がいかれたのかな?」と太助。
「泣き虫ジョンって、州長官の家来がそう呼ぶの? あんな弱虫なやつらが?」
「しいい」と言ったのは、今度はジョンだった。「あいつらのこと、そんなふうに言っちゃいけねえ。すごくいじわるだし、なにされるかわかんねえぞお」と言って、巨大な体を伸ばし、誰もはいってこないか注意をしている。太助は、
「ほんとにちびのジョンだと思うか?」
「わかんないけど……物語が変わったから、登場人物の設定も変わってるんだよ。男爵がそういってた」
 洋一が言うと、太助もうなずいた。
 太助は剛胆にも、ジョンの肩に手を置いた。ジョンはそんな身振りにもおびえたようで体をすくめる。洋一はすっかりあきれてしまった。
 太助が言った。「なあ、ジョン。しっかりしてくれよ」
「あんた、ロビン・フッドの片腕だったんじゃないの? 森の盗賊の副隊長だ」
「そりゃ昔の話だ。ここでロビンの話なんかぜったいにしちゃいけねえんだ」
 とジョンは言った。この雲を突くような大男が(座っていても、二人よりずっと背が高かった)ジョン・リトルのなれの果てであることはまちがいないようだった。
 洋一は勢いこんで言った。「ロビン・フッドはどうしたのさ、他の仲間は? みんなやられちゃったの?」
「しいい、ロビンは死んだ。その名は口にだすな」
「じゃあ、他の連中は? 赤服ウィルは? アラン・ア・デイルは?」
 どれもロビン・フッドの物語にはおなじみの人物だ。
「あいつらはロビンについて十字軍に行っちまったよ」とジョンはまた小声でささやいた。
「じゃあ、ロビン・フッドは十字軍に参加して死んじゃったの?」洋一は絶望して訊く。
「ああ、仲間の半分をつれてな。俺はロビンに残りの仲間とシャーウッドの森を任されたんだ」
「じゃあ、なんでここにいるの?」
 洋一はジョンがたんに偵察かなにかで潜りこんでいるんだと信じたかった。しかしジョンは、「わ、わからねえ」と頭を抱えた。「ともかく俺はいまじゃあ、ノッティンガム長官の家来で、一番の下っ端だ」
「なんでそんなことになったの?」
「わからねぇ。きっと州長官と戦って負けちまったんだ。そうに決まってる」
 太助は顔を上げて洋一に言った。「すっかり混乱しているぞ」
「じゃあ、他の人は? 粉屋のマッチは?」
「あいつは一緒に州長官につかえてる。森の仲間でも長官の家来になったのが大勢いる。アラン・ア・バートルも元の料理長に戻っちまった」
 アラン・ア・バートルといえば、ジョンが(まっとうだったころ)、州長官の屋敷から連れだし、仲間とした料理人である。
「じゃあ、もっと他の人はさ? タック坊主はどこ行ったんだ」
 太助が問いつめると、ジョンは頭を抱えた。「わからねえ。最近頭がはっきりとしねえんだ。昔のことがうまく思い出せねえ」
「じゃあ、ロビンは? ロビン・フッドのことも忘れちゃったのか?」
「あいつを忘れるもんか!」とリトル・ジョンは辺りをはばからぬ声で叫んだ。「あいつはいまでも俺の隊長で、いちばんの親友なんだぞ。俺は、俺は――ロビンさえ生きてれば……」
 といってジョンはさめざめと泣きはじめた。
「俺はもうリトル・ジョンじゃねえ、州長官の家来、泣き虫ジョンだよお。ロビンに、ロビンに申し訳がない、ロビン・フッドさえ生きてれば、こんなことにはならないのに」
 ジョンはおいおいと泣きながら飯をかきこみはじめた。
「情けない」と太助は怒りに燃えて立ち上がった。「これがロビンの右腕、ちびのジョンとはとても思えん。おい、洋一、もう行こう。こんな弱虫に用はないぞ。男爵と父上を捜すんだ」
「ああ、かってにしろ」とジョンは大きな食器に水をそそぎながらいった。「なんだ、おかしな格好をしやがって(たしかにジョンの目から見れば太助は珍妙な格好にちがいない)。俺だって、俺だってなあ、ロビンさえ生きてりゃ……」
「じゃあ、ロビン・フッドは確かに死んだんだね」
 洋一が訊くと、ジョンは首をひねった。
「十字軍から命からがら戻った連中がロビンが死ぬところを見たといった。獅子心王ですらおっちんじまったんたぞ」
 ロビンとリチャード獅子心王は死んだ。ロビンに従った者も、ある者は死に、ある者は帰ってきた。ジョンはそのものの口からロビンの死を聞かされたのである。
 洋一が、
「じゃ、じゃあ、イングランドは今、ジョン王が(リチャード一世の弟)おさめてるの」
 というと、ジョンはまた「そ、そうなんだ」とさめざめと泣きはじめた。「ロビンが生きていたころ、俺たちは自由な人間だった。だが、それももう昔の話だ。バラード(民謡)は、もう一つだって作られやしねえ。俺は、俺はロビンが死んだってのに、州長官の家来になってる。城のやつらには泣き虫ジョンだなんて呼ばれてる、俺は、俺はほんとにだめなやつだ」
「それはちがう」と太助が、らんと光る目をしてふりむいた。「あんたは棒術の達人だ。勇敢な男だった。このまま終わるのがいやなら、一緒にこの城を抜けだそう」
「そ、そんなことしたら、州長官さまにこっぴどくぶたれちまう」
 二人は二メートルを超す大男がこっぴどくぶたれる様を想像した。
 太助はジョンの広い肩をつかんだ。「ロビン・フッドはあんたに必ず帰ると約束したんじゃないのか? そうでなかったら、副長のあんたを残していくはずがない」
 太助が力強い声でいうと、ジョンはますますさめざめと泣き、くっくっと肩をゆらしはじめた。
「ロビンはな、いいか小僧よくきけ。異国の地で骨になっちまったんだ。あいつの示した義侠も勇気も、もう地上にあらわれることはない……」
「でも、ちびのジョンは生きてる」洋一は悲しげに言った。ちびのジョンはロビン・フッドの物語の中でも一番のお気に入りの人物だった。ひょっとしたら、ロビンより気に入っていたかもれない。大男で、勇気があって、ちょっぴりどじで、愛嬌がある。そしてロビンのことを死ぬほど愛しているのだ。だから、いつだって勇敢に彼に従った。
「ロビンはあなたに約束したんだ。そうでしょ?」
 ジョンはびっくりした顔で、そのつぶらな瞳をぱちくりさせた。「そ、そのとおりだ。ロビンはうそなんかつかねえ。ロビンはかならず戻ると約束した。オレのロビン・フッドは、約束を守らなかったことは一度もない……」
「そのとおりだとも、ジョン」と太助は力強くうなずいた。
「なのに俺はリトル・ジョンの名を忘れ、州長官の家来になんぞなっちまった。俺は俺の身が嘆かわしい」
「それはあんたのせいじゃないよ。ウィンディゴってやつが悪いんだ」と洋一はいったが、
「うぃ? なんだそれは?」
「ウィンディゴだよ」
「ウィンディゴでなくともいい」と太助がわりこんだ。「ジョン、あんたは悪役で、強い力をもったやつを知らないか?」
「悪いやつか?」とジョンは言った。
 太助はうなずく。「州長官や、ジョン王の他に」
 ジョンの目が奇妙に光った。「モーティアナのことか……あいつは最近、ジョン王の側近になったやつだ。魔女だって言われてる」
 洋一と太助は顔を見合わせた。
「そいつだ」洋一は勢いこんでいった。「そいつは映画に出てた」
「小説には出てこなかったやつだな」
「うん。最近でてきたキャラクターなのに、強い力を持ってる」
「きっとウィンディゴが力を貸してるんだ」太助が悔しそうにほぞをかむ。「ジョン、ロビンはきっと生きてる。あの人が死ぬはずないじゃないか(とも言い切れない。物語の最後でロビンは手首を切られて死んでしまうからだ)。ロビンはこれまで仲間のことは一度だって見捨てなかった。あんたが捕まったときだって彼は助けにいったんだぞ。こんどはあんたが助ける番だ」
 ジョンは唖然とした顔を巨大な手でなでつけた。「お前たちはなにをいうとる。ロビンは死んだんだぞ」
「そんなもの自分で確かめたわけではないだろう」
「そうだよ」と洋一。「あとでひょっこりもどってくるなんてよくある話じゃないか。国王も死んだぐらいの激しい戦いだったら、どさくさで誰が死んだかなんてはっきりしなかったにちがいないよ」
「そいつらがロビンを殺したんなら別だけど」
 と太助が言ったから、、洋一はびっくりした。はたしてジョンは顔を真っ赤にして怒りはじめた。
「あいつらがロビンを殺したりするはずがねえ」
「じゃあ、誰も見た見たっていってるだけだ」と太助はさえぎる。「ロビンの死体を確認したやつは一人もいない」
 ジョンは呆然とした。「そんな、だったらなんでロビンはもどってこねえ。あいつは今どこにいるんだ?」
「わからないけど、きっと事情があるんだよ」
「もしかしたら、大けがをしたのかもしれない」
 ジョンが、「すると、死にはしなかったのか?」
「そうだよ」
 洋一が力強く答えると、ジョンは彼に疑わしげな目を向けた。
「だけど、お前はなんでそんなに確信を持ってロビンが生きてるって言えるんだ?」とジョンは問いかけた。「まさか、ロビンに会ったのか?」
 二人が答えに迷い顔を見合わすうちに、背後から明かりがさし、三人を照らしだした。

○     3

「なつかしい名を耳にしたぞ。お前たち、ロビンの名を口にしていたな」
 太助は腰をかがめ、刀に手をかけた。ジョンがその肩をおさえる。
「よせ、あれはアランだ」
「アランってアラン・ア・バートル? 料理番の?」
 洋一がいうとジョンは驚いた。
「そうだ。よく知ってるな」
 洋一はもごもご言った。「そりゃあ、みんな有名だから……」
 ジョンはため息をついた。「昔は吟遊詩人にうたわれたもんさ」
 アラン・ア・バートルがランプをかかげて貯蔵庫に入ってきた。でっぷりと太った赤ら顔ながら、ジョンに負けない棒術の達人である。
「こんな夜中に面をつきあわせて、まさか謀反のご相談かな、ちびのジョン。つまみぐいをしでかしたにしちゃお仲間が多いな。そのこどもたちはなんだ。使用人の子か?」
「ああ……」とジョンはもみ手をした。「まあ……そんなとこだ……」
 太助は鞘ぐるみの脇差しでジョンの腹をどすりと突いた。
 だが、アランはまるで信用していない様子。鼻で笑いながら、「ふざけるなよジョン。使用人の子はこんな時間に城をうろついたりしないし、ロビンが生きてると主張したりもしない」
 ジョンはまた真っ赤になった。「こいつはでっけえ勘ちがいをしとるんだ、ロビンが生きてるから捜しに行けなんて俺にぬかしおる」
「でも、ほんとなんだ」
 洋一がいうと、アランは驚いた顔で彼を見た。
「お前たちどういうことだ? 生きているロビンに会ったのか?」
「会えるはずがねえ。あいつらは死んだ。アラン・ア・デイルもウィル・スタートリーもみんなだ。ロビンが怪我をしたって、アランたちが連れ戻るに決まっとる」
「いや、ジョン二人の装束をみろ」とアラン・ア・バートルは洋一と太助にランプを近づけ、二人の服をとっくりと見た。アランの顔に次第に笑みが広がった。「この装束をみろ、見たこともないぞ。きっと異国の地の兄弟にちがいない。ロビンが自分の生存を知らしめるために遣わしたんだ」
「なんだと?」
 ジョンは二人の前にまわりこんだ。「信じられん……お前たち、ロビンに会ったのなら、なんで早く言わねえ?」
 太助と洋一は顔を見合わせた。太助はうそをつくのを恥じらうように視線をそらした。洋一が、腹に隠した本に手を置いた。
「あ、あれが、本物のロビンなのかわかんなくて……」とへどもど言った。「だって、怪我をしてたし、本人には始めて会ったんだ。ウィルやみんなも一緒にいた」
「なんてこった……」ジョンはわなわなと口に手をやる。「ロビンは、ロビンは動けねえほどの怪我をしてるのか、それで帰ってこれねえのか」
「待て」とアランがわりこんだ。「ロビンがただでお前たちをよこしただけとはおもえん。ロビンはなにか証拠になるものを渡さなかったか」
「そうだ、それになんでこどもを?」とジョンが疑りの目を向ける。
「ぼくたちだけで来たわけじゃない。男爵と父も一緒だ」と太助が言った。
「証拠は金の矢で、男爵たちが持ってる」と洋一も言った。
 アランが、「その男爵とはどこにいる? お前たちだけで城にしのびこんだのか?」
 太助はうなずいた。
「なんてことを、なんて危険なことを」アランはなかばなじるように手を振り回す。
「父上たちとはイギリスにきてはぐれてしまったんだ」
 太助が弁解したので、洋一は驚いた。さっきから見ていると、太助は絶対にうそを言わない。いま弁解をしたが、それでも太助が口にしていることは全部ほんとのことだ(詳しく話していないだけだ)。洋一は、おじさんと太助は本物の侍なんだなあ、となんとなく信じるようになった。
「そうだったのか……」とジョンは嘆息をした。「いまのイギリスは安全じゃねえからな。とくに外人が旅をするには安全じゃねえ。ロビンの使者というならなおさらだ」
 アランがジョンにこっそりささやいた。「一緒に来たという二人はもう……」
 縁起でもない、と太助と洋一は憤慨した。
「とにかく、ロビンを捜しに行かないと」
「ロビンがどこにいるのか知っているのか?」
 アランが辺りはばからない大声を上げた。
 太助が洋一を見た。洋一はちょっと迷ってから、「パレスチナ」と答えた。これを聞くと、ジョンは大喜びをはじめた。洋一は罪悪感でいっぱいになった。彼がパレスチナと答えたのは、ケビン・コスナーが映画の中でとらえられたのがパレスチナだったからだし、そのパレスチナが世界地図のどの辺りにあるのかも知らなかった。
「いいのか?」
 太助が横で聞いたが、洋一はそっちを見ずにうなずいた。
「こうしちゃあいられねえ」ジョンは水をがぶ飲みにし、残りは顔にぶっかけた。「お前たちのいうとおりだ。とっととこの城を逃げ出して、ロビンを捜しに行こう」

○     4

 一同はアランのランプを頼りに食料貯蔵庫を抜けだした。
 ノッティンガムは交通の要所にあるだけに、巨大な城である。兵隊たちの数も多い。ジョンとアランは、以前二人がつかった地下水道をふたたび利用することにした。壁にかざりつけてあった剣とかぶとを拝借し、それを用心ぶかく腰に吊した。
 洋一たちのいた調理場は一階にあり、地下水道への降り口はここからそう遠くないところにあった。
 小説ではすんなりと城を抜け出せたのに、現実の本の世界(おかしな言い方だが)の逃避行はページをめくるようにはいかなかった。
「いまは夜中だが、宿直の兵が城内をうろついてるからな」
 アランは通路が交わったところでは特に用心をした。ランプに厚い布をかぶせて廊下をのぞきみる。
「でも、森の仲間も大勢いるんでしょう?」と洋一が訊くと、
「ああ、だが、情勢が変わって誰が味方で敵なのか、わかりやしない」
 と聞いて洋一たちはがっかりした。
「みんなまだロビンが死んだと思いこんどる。だが、あいつがもどってくればみんな変わってくるはずだ」
「だといいがな……」とアランがいったとき、
「これはいったいどういうことだ」
 一同ははっと後ろをふりむいた。通路の影から、背の高い男と二人の兵士が躍り出てきた。
「森の仲間が二人もそろってお出かけとは、よくない考えとはおもわんか」
 男がいうと、兵隊たちが声を蹴立てて笑った。兵の一人が持っていたたいまつに火をつけた。洋一のそばでアラン・ア・バートルがひゅっと息をのんだ。
「ガイ・ギズボーン」

○     5

 アランが鋭くいうと、ガイ・ギズボーンは冷笑を浮かべて近づいてきた。
「なんだ、なにを驚いてやがる。おっと、後ろにいるでっかいのは泣き虫ジョンか?」
 ガイがおどけて後ずさると、ジョンはまた真っ赤になった。
「夜中にわんわん泣いてアランママになぐさめてもらってたのか?」ガイは突然首を突きだすと奇妙な赤ちゃん言葉で語りだした。「おお、よちよちちびのジョン、ロビン・ザ・フッドはのたうちまわって死にましたと……」
「黙れ!」
 太助が辺りをはばからずに大声を上げた。ガイ・ギズボーンの顔色が変わった。おどけた表情が消え、さも残忍な人相がその面に現れた。
「なんだ、その餓鬼どもは?」
 ジョンとアランは黙りこんだ。
「なんだと訊いてる。その餓鬼をどこから連れこんだ」
「二人ともイギリス人じゃない」
 と兵隊がガイの耳元でささやく。「中国人か? ノッティンガム城にはクーリーはいないはずだ」
「ぼくは奴隷じゃない……」
 洋一は震えながら吐き捨てるように言った。クーリーという言葉の意味を知っていたからだ。
 ガイ・ギズボーンが残忍な目をさらに細めた。「ならなんだというんだ。お前たちは何者だ? なぜ森の盗賊たちといっしょにいる」
「ガイ、俺たちはもう州長官の家来なんだ」
 アランがとりなすようにいうと、ガイ・ギズボーンは笑い声を上げた。
「家来だと? 俺たちが仲間同士とでもいうのか? ふざけるな!」ガイは長剣を抜きはなった。「貴様らが大きな顔で城にいることじたい虫酸がはしるんだよ! たわけのリチャードの息子も、謀反の動きをしている。お前たちが通じていないはずがない! 貴様らなど、これを機会に縛り首にしてくれる!」
 大声を上げ唾を飛ばすガイの姿は、洋一に団野院長を思い起こさせた。どちらもおなじぐらい狂っているとしか思えなかった。
 通路のあちこちから歓声と無数の足音がとどろく。ガイのよんだ応援が、声を頼りに駆けつけようとしている。
「もう、逃げられんぞ、泣き虫ジョン」ガイに怒鳴られるとジョンは縮み上がった。「貴様の昔の名声がどうあれ、ここでは一介の家来にすぎんことを忘れるな。お前は大人しく役に立つが」ガイは長剣でアランを指し示す。「狼藉がすぎたな。貴様は許すわけにはいかん、明朝しばりくびにしてくれる」
「ジョン、もう行こう!」
 太助の叫び声がしたかと思うと、彼は黒い矢となって飛び出し、ガイに向かって剣を抜きはなっていた。彼はこどもだが、直新陰流の居合い技をずっと厳しく仕こまれていた。こどもの技とはいえ、ガイははじめて見る居合い術をかわしきることができなかった。
 ガイ・ギズボーンは頬を切り裂かれると、悲鳴を上げて尻餅をついた。
「つかまえろ」ガイがわめいた。「その餓鬼を八つ裂きにしろ」
「そうもいかん」
 アランはガイの言葉も終わらぬうちに、剣をガイの胸に突きこんでいた。ガイ・ギズボーンが悲鳴を上げ、血を噴いて、アランの剣をつかんだ。二人の兵隊たちはジョンの手によってたちまちのうちに叩きのめされた。
「驚いた」とジョンは自分の武勇に声を上げて喜んだ。「まだこんなことができるとは」
 四人の喜色はつかの間で消え失せた。廊下の向こうから、たいまつをもった兵隊の群れが流れこんできたからである。

○     6

 アランはガイの腹部から剣を引きぬいた。悲鳴を上げたところからみて、まだ命があるようだったが、とどめをさしているひまはなかった。彼らは通路を駆けずりまわった。洋一は、一行に離れまいと必死だった。背後からはときおり弓が飛んできた。洋一は冷や冷やしたが、城の中なので容易には当たらない。やがて、ジョンが地下への扉を開けた。

 地下には壁の仕切がない。大きな運動場ほどもある空間が広がっている。暗かった。巨大な柱が天にむけて突き立ち、広大な天井を支えている。洋一の目は石の空間に圧倒された。洋一たちはその壁際にもうけられた階段を駆け下りていた。真下には、四角い鉄の網が見えた。どうやらあそこから、地下にある下水道まで降りられるようだった。
 後ろからは兵隊たちの足音が響いてくる。後ろでジョンが早く早くと急かしている。一方洋一はさきほどの光景が忘れられなかった。剣を突き刺したアラン、ガイ・ギズボーンの苦悶、彼の体のあちこちから噴きだした血、そして血の臭い……。
 それらは強烈な記憶となって洋一の脳裏に貼りついた。洋一の頭でそうした光景がぐるぐるとまわった。彼は人があんなふうに争って血を流すところを始めて見た。しかも太助はあのギズボーンに切りつけた。洋一は大勢に囲まれているのに、一人場ちがいな場所にいるような気がした。覚悟といえば彼にはどんな覚悟もなかった。死ぬ覚悟もなければ誰かを殺す覚悟もない。両親の敵をとるという、その一心だけで、本の世界までやってきたのだ。
 地下への道はさらに暗く、ジョンとアランのランプだけが頼りだった。兵隊の飛ばした槍が足下に突き刺さり、洋一はバランスを崩して階段の残った四段ばかりを転げ落ちた。ジョンが彼を抱き起こし、にじり下がる。
 アランが下水口の網に手をかけ持ち上げようとしたその刹那、彼の分厚い背にイチイの矢がはっしと突き立ったのである。


□  その二 レイノルド・グリーンリーフ、ノッティンガム州長官と対決すること

○     1

 ジョンと洋一たちは、慌ててアランを助け起こした。アランは口角から血を噴いて意識をなくしている。この暗闇で正確に当てたことからも、長官の兵に似合わず剛の者が射抜いたらしく、アランの背に突き立った矢は深々と刺さっていた。
 ジョンがアランの首筋に指を当てまだ脈があるのを確かめた。それから矢を抜くこともなく、アランの体を裏返すと、彼を抱きその胸を揺すぶった。「アラン、アラン、しっかりしろ」
「くそ」洋一は石だたみを蹴って立ち上がる。「これをやったのが、森の仲間だったら、絶対に許さないぞ!」
 この言葉は功を奏したのか、さきほどのような弓矢は飛んでこなくなった。なによりもジョンとアランは今や彼らの仲間であり、詳しい情況は誰もわかっていなかった。
 だが、情況はずっと最悪だった。地下道への鉄の扉は足下にあったが、兵隊たちに囲まれ引くことも退くこともかなわなくなった。そして、兵隊たちとともに、ノッティンガムの州長官が、何事だ、何事だと、階上に駆けこんできたのである。

○     2

「レイノルド・グリーンリーフ!」州長官は驚きを隠せずに声を上げた。「騒ぎを起こしたのはお前か?」
 ジョンはうろたえた。「州長官だ……州長官だぞ……」
「ジョン、しっかりしてくれ」太助は鉄の扉と取っ組み合っていたが、その鉄格子を持ち上げるのは誰が見ても無理があった。「あんなやつはほっとけ、早く逃げないとみんな殺されてしまうぞ」
 洋一はその言葉を呆然と聞いた。さきほど転んだときに突いた肘の擦り傷を、腕を持ち上げてとくと眺めた。膝にも傷を負っていることに気がついた。本の世界なのに……本の世界なのに、転んだらちゃんと怪我をしている。洋一は本の世界に来るということを深く考えてこなかった(そんなひまはなかったからだ)。
 洋一は訊いた。「本の世界で死んだら、どうなるの?」
 太助はその目の光りに気がつき、慌てて立ち上がった。「洋一」と彼は州長官たちの方に目を向ける。「君のいる世界は現実でもあるが、でも、ぼくらのいた中間世界だって、男爵のいた本の世界だって、みんなともに現実なんだ。理解していなかったのか?」
「じゃあ、ここで怪我をしたら、ほんとに怪我をするってこと」
「当たり前だ」
「ちょっと待ってよ」
 洋一は膝が震え、立っていられなくなった。彼はその場で尻餅をついた。
「こんな、こんな、相手は大人で、剣を持っているんだぞ。彼を見ろよ」
 洋一はアランの体の下から血の池が広がってくるのを指さし言った。
「しっかりしろ、洋一。危険は承知のはずだろう」
 太助は怒って脇差しを鞘ぐるみ腰から抜くと、洋一に押しつけた。
「やめろ! ぼくは刀なんて持ったこともないんだ」
「ならば、今日から持て!」
「おい、二人とも静かにしないか」ジョンはこどもたちを叱りつけると、アランを床に寝かして立ち上がり弁解をはじめた。「州長官さま、これは……」
「ああ、この不手際を説明しろ」と長官は階段を下りながら居丈高に言った。長官は就寝中だったのか、寝間着の上に豪奢なローブを羽織っている。「その小僧どもはなんだ。上で、ガイ・ギズボーンが何者かに刺されていたが、お前たちの仕業か」
 ノッティンガム州長官は階段の半ばから大声を張り上げた。
「答えろ、レイノルド! さもなければ、また鞭で叩いてくれるぞ!」
 太助が怒鳴った。「ジョンは、ジョンはもうお前の家来じゃない。ぼくらはロビン・フッドを助けに行くんだ!」
 辺りは一瞬シーンとなった。それから、地下室には州長官を中心に、兵隊たちの笑い声が轟き渡った。声は石の部屋を反響して回り、洋一は耳に栓をして跪く。
「ロビンだと? ロビン・フッドだと? まだそんなことをいっておるのか!? やつは死んだ! 遠いパレスチナの地で、いまごろ野良犬のエサになっておるわ!」
 と州長官は言った。州長官のこの言葉と、兵隊たちの笑い声は、ジョンを深く傷つけた。
「お前はまだあのごろつきの盗人を主人扱いしているのか。国王にとりいり、家来になったはいいが、結局自分も死におったわ! なにが自由な森の盗賊だ。貧しい農民に金を配ったというが、やつが死んだときアジトからはおびただしい金銀財宝がみつかったというぞ!」
「でたらめだ」
 とジョンが小声でつぶやくのが、しゃがみこんだ洋一の耳に聞こえた。しかし、州長官はますます興に乗ったようだった。
 長官の言葉とともに、家来たちが雄叫びを上げるものだから、地下室の騒ぎは天を揺るがさんばかりになった。
「ロビンは森に隠れていただけの臆病者だ! 力の弱い商人や僧侶を襲っては、たんまりと財宝をためこんでいた! あいつは善人面をしたくずだ! 自分は能なしのくせに、国王にしたがって、結局はリチャード一世も死なせてしまった! そのあげくを見ろ! イングランドの混迷はなぜだ! ロビンのような残酷な無法者を放って置いたからだ! だが、あの悪党が死んだ今、全ブリテンには善政がしかれ、すべてはよい方に向かうだろう!」
 男たちの歓声が轟いた。洋一が恐る恐る伏せた顔を上げると、ジョンがその肩に手を置いた。彼は血膨れしたような、真っ赤な顔をしている。やがて地の底からにじみあがるような、怒りに震えた声でささやいた。
「だまれ……」

○     3

 ジョンは一歩進みでた。兵隊たちの幾人かがジョンの行動に気がついた。ジョンが離れたので、洋一と太助は慌ててアランにとびつき、兵隊たちから守った。
「黙るんだ、州長官! お前の、お前の言うことは、全部でたらめだ!」
 ジョンが怒鳴ると、州長官は驚いてだまりこんだ。兵隊たちのざわつきが地下を満たした。幾人かが剣を抜き、弓が構えられた。
「ロビンは、ロビンはおたずね者だが、正しい心を持った強い男だった。人を殺めたが、それは弱い者を守るため、お前のように私利私欲を肥やすために人を殺めたことは一度もない!」
「レイノルド・グリーンリーフ!」
「そんな名で呼ぶな!」
 ジョンは雄叫び、木箱の上に駆け上がった。大男なのに飛んでもない身軽さで、代官の家来たちがたじろぐほどに素早かった。洋一と太助が歓声を上げる。
 ちびのジョンは槍の林に囲まれながらも、まだ叫ぶのをやめない。
「たとえ、お前がロビンの名を辱めようとも、彼の魂は少しも傷つきやしない! そうとも、俺は自由を愛するヨーマンだ! お前なんぞの家来であったりするもんか! たとえこの身がイングランドに仕えようとも、俺はロビンと森の盗賊たちの副隊長であり、お前なんぞの家来であったりするもんか!」
 ちびのジョンは周囲の男たちに呼ばわりはじめた。
「我々はバラードとして語られ、物語として語り継がれ、やがて人々の心にすむ姿なき者! この身がつきることはあっても、心が屈することはない! 俺は誇り高きヨーマンにして、その名も高きお尋ね者。棒をとれ、弓をもて!」
 洋一と太助は周囲を見回す。棒も弓もそばになかった。ジョンは諸手をあげて雄叫ぶ。
「圧政を正すために、俺とロビンは戦った! そのためにおたずね者になろうとも、俺は少しも気にしやあしない! ロバート・ザ・フッドは俺の主人にして最高の友! そうとも、あいつがおめおめと十字軍の遠征なんかで死ぬもんか! ロビンは生きてる、ロバート・ザ・フッドは必ずや生きているぞ!!」
「黙れ!」
「誰がなんと言おうと、それがたとえリチャード一世だろうと、俺は叫ぶのをやめない! ロバート・ザ・フッドは生きているぞ!」
「そのとおりだ、ジョン……」
 剣を手にした兵隊が、代官の側から進み出た。
「なんだ貴様は」
「お忘れか。我はロビンと行動をともにせんもの」と男はカブトを脱ぎ捨て、周囲に向かい声高らかに言い放つ。「ロバート・ザ・フッドは生きている! ロビン・フッドは生きているぞ!」
 それを聞いてあちこちで、ジョンとおなじように代官の家来になった、かつての森の仲間たちが兜を脱いだ。彼らは口々に叫びはじめたのである。
 ロビン・フッドは生きている! ロビン・フッドは生きているぞ!
 地下室に大音響がオーケストラのように響き渡り、石組みからは塵がこぼれるほどだった。少年たちは天井が崩れるのではないかとうたろえた。この合唱に参加した森の盗賊たちは一人や二人ではなく、もはや代官の命令を聞こうともしない。ウィンディゴが物語をねじ曲げようとも、ロビン一味の結束は岩のように硬かった。そして、騒ぎをやめさせようとする兵隊と森の仲間たちの間で、続々と戦闘が始まった。合唱につづいて剣戟の音が響き渡ると、太助はついに刀を抜きはなち、脇差しを洋一に手渡した。
 ジョンに向かって雄叫びを上げたのは、肉屋のパイルだった。代官の家来たちを押し返しながら、
「戦え、ノッティンガム州長官と戦え! ロビンのために、聖母マリアのために、行けジョン! アラン・ア・バートルを連れて行け! これ以上仲間を死なせるな! お前が俺たちの副長で、仲間を死なせる気がないならば、頼むから行ってくれ!」
 ちびのジョンは木箱の山から飛び降りながら、そばにいた兵隊を蹴倒し、その手から六尺棒を奪いとった。太助と洋一は刀をかまえてアランから兵隊を遠ざけようとした。洋一は周囲できらめく剣光に目眩がした。自分を貫く剣の切っ先が、今にも目に見えるようだった。
 ジョンはとほうもない力を示し、アラン・ア・バートルをゆうゆうと担ぎ上げた。おまけに残りの腕で六尺棒を振り回し、ノッティンガム州長官の部下を、次々と木っ端のようにこづいてまわった。代官の家来たちは、たちまちジョンという大波から退いていった。ジョンを中心にして、家来たちの円ができあがる。階上からはジョンを仕留めようと石弓を持った兵士たちが駆け下りてくる。州長官が今は昔のレイノルド・グリーンリーフを指さし怒鳴り声を上げた。「あいつを射殺せっ!」
 それを見ると、ジョンはたちまち大昔の武勇を発揮し、円陣につけいって兵隊たちをつぎつぎと吹き飛ばしてまわった。射手たちはジョンの素早さに狙いをつけることも出来ない。泣き虫ジョンのために、屈強の男たちが、鎧の音高く石の床に転がっていく。
「二人とも、下におりるんだ」
 ジョンは手近にいた男たちに突きをくりだし、退けている。洋一たちは刀をしまうと、下水口に下りる縦ばしごに足をかけた。森の仲間たちがジョンの元に駆けつけ、兵隊たちをさらに追いやっている。下水口のまわりではすさまじいもみ合いとなった。
 石弓の矢が飛来して、家来も盗賊も問わずに、男たちの体に突き立ちだすが、ジョンと仲間は一歩も引かない。
「よし、梯子はしっかりしているぞ」と先に縦穴に入った太助が言った。
「お前たち早くするんだ」とジョンが急かした。「もうちょっとだってもたないぞ」
 洋一が梯子に足をかけていると、指の合間に矢がつきたった。破片が飛んで彼の顔を激しく打った。昔おもちゃで作ったゴムの弓とは比べものにならない威力だった。洋一は顔を上げた。石弓のすさまじさに、森の仲間たちは倒れるものが続出し、人垣が崩れはじめたのだ。梯子にしがみつく洋一のそばに、血まみれの顔が落ちてきた。男の白目と目が合い、彼は悲鳴を上げる。男はおそらくジョンの仲間だろうが、すでに事切れていた。森の盗賊たちは弓の名人が多かったのに、兵隊になった今は誰も弓を手にしていない。
「ジョン、早く!」
 ちびのジョンは自分も梯子に足をかけながら、兵隊たちの向こうで見え隠れしている州長官に向かってこう叫んだ。
「待っていろ州長官! 俺はロビン・フッドとともに、かならずやこのブリテンの地を踏みしめることだろう! そのときはお前のその首はその体になく、その魂は地獄の業火で焼かれるにちがいない! 聖母マリアンは我らと共に! ロビン・フッドは大ブリテンと共にあり!」
 ジョンとアラン・ア・バートルの姿が暗闇に消えると、森の盗賊たちは人垣を解いて、代官の家来たちに最後の突貫をはじめた。下水の先を急ぐ、洋一とジョンの耳には、ロビン・フッドは生きている、の呼び声がいつまでも聞こえつづけた。

○     4

 太助が手にしているカンテラは、魚の脂をつかっているらしかった。煙がひどく、しかもその明かりは懐中電灯に比べると、はなはだ心許なかった。それでも洋一たちの周囲一メートルばかりは明かりがあった。頭上からは、ノッティンガムの兵士と森の仲間たちが激しく戦う剣戟の音。下では澄んだ水がヘドロの膜の上をさらさらと流れ、突然の明かりに驚いたネズミたちがちゅーちゅーと逃げまどっている。洋一はネズミなんて平気だったが(洋館にはうんと大きなドブネズミだっていた)、石組みの巨大な建造物には圧倒された。崩れるんじゃないかと、壁を叩いてみたが、うんとしっかりできているようだ。
 向かう先には、深い闇が黒々と横たわっている。
 それにしても臭い。鼻が曲がりそうだ。しかし、数分とたたないうちに鼻の方が馬鹿になった。
 下水の水が跳ね上がるために、太助は袴の股立ちを高くとった。洋一がジョンの六尺棒を受け取ると、ジョンはアラン・ア・バートルを背負いなおした。下水は巨大とはいえ、長身のジョンは身をかがめなければならなかった。へどろでぬるぬるして足下が危なっかしい。屈強の男を一人背負って、ジョンも苦しい逃避行だった。
「この下水」と洋一が尋ねた。「どこまでつづいてるの?」
 後ろでどぼんという音がした。誰かが下水まで降りてきたのだろう。代官の兵でなければいいのに、と洋一は願った。
「たぶん、町の外までつづいてるはずだ」
 当時のイギリスの町は城壁の中にある。だから、どこかで縦穴をみつけても簡単にはのぼれなかった。地上に出てもそこは城壁の中。門を閉じられてしまえば、外に出ることはかなわないからである。大男のジョンは目立つし、洋一と太助の服装も人目を引く。おまけに二人は日本人だ。この時代の人は、日本人はおろか中国人のことだってろくろく見たことがないにちがいない。しかし、アラン・ア・バートルは一人で歩けないし、それどころか命の瀬戸際で、一刻の猶予もありそうになかった。
 ジョンはこどもたちの体力を気遣って時折歩いたりしたが、あまりぐずぐずもしていられなかった。州長官の急使はもう城壁まで届いているはずだし、そうなったら、下水の出口は兵隊が固めるに決まっている。ジョンは逃げるだけではなく、戦うための体力も残しておかなければならなかった。太助の抜き打ちにはジョンもびっくりしたが、それでも二人はこどもだ(それにジョンの見たところ、洋一は武術の心得がありそうになかった)。後ろからは城の軍勢が四人のあとを追いかけてきていた。森の仲間がいたとはいえ、屹度多勢に無勢だったのだろう。水を跳ね上げる足音と互いを罵る声がする。ジョンは幾度も脇道にとびこみ、行方をくらまさねばならなかった。もう自分たちが、どの方角に向かっているのかもわからなくなった。
 二人がジョンにヨーマンの意味を訊くと、独立農民という意味のようだった。ロビンもヨーマンで、二人は自由を制する圧政を退けるために戦ったのである。
 洋一は自分たちは臭い下水の中で迷ったまま外に出ることはできないんじゃないかと思った。ときおり縦穴があったが、そこから上にのぼったところで、そこはノッティンガムの城壁の中だ。カンテラの油は刻一刻となくなっていく。しかも、外に出ても、シャーウッドの森までは、ここからずいぶんあるという話だった。
 彼らはさらに歩を進めた。兵隊たちの声は聞こえなくなったが、そのかわり外に出られるという見こみもなくなった。ジョンは玉のような汗をかき、吐く息も苦しそうだ。肝腎のアランが、どう声をかけても目を覚まさない。容態は刻々と悪くなっている……。
 彼らが下水を跳ね上げながら、逃げること数刻、通路の奥から風が吹いた。あきらかに下水のよどんだ空気とはちがうものが、肺を満たしはじめた。
「外だ……外だぞ……」
 ジョンは興奮した声で叫び、先を急ぎはじめた。

○     5

 もはや、前方に暗闇はなく、月明かりのもとで、草の生えた土手と泥の堀が輝いている。
「アラン、しっかり」
「もうちょっとで外だ」
 こどもたちは後ろからアランの尻を押していたが、ジョンは急に立ち止まった。
「どうしたんだ?」
 と洋一が抗議する。ジョンは緊張した声で言った。
「し、外に誰かいるぞ」
 洋一は慌ててジョンの影に隠れた。太助は刀を抜いて一行の前に躍り出た。
「どくんだ、お前たち、俺がかたをつけてやる」
 ジョンは太助の肩を押さえてどかそうとするが、
「だめだ、ジョン。やつら弓矢で君に狙いをつけているぞ」
 洋一はびっくりした。太助は勇敢だ。ジョンに比べれば実にちっぽけなのに、体を張って傷ついたアランを守ろうとしている。洋一は隠れているのがすっかり恥ずかしくなり、意地になって太助の隣に並んだ。だけど、膝はがくがく震えた。脇差しを手渡されたところで、彼にはそれを抜く勇気もなかった。
 外から野太い声が、下水の中に朗々と響いてきた。「俺たちは自由人、森の民にしてよきヨーマン、お前の同胞だ、リトル・ジョン。森の仲間はお主にそんなまねをしやしないぜ」
「ミドルか?」
 ジョンは六尺棒を片手に水音を跳ね上げながら、出口に駆け寄った。三人が下水からでてみると、明るい月光がさっと世界に色をくれた。正門からは離れたしなびた場所のようで、排水が悪いのか、下水のまわりには泥水がたまり、高い葦が生えていた。
 ずんぐりした人影は土手の上にいた。赤ら顔の屈強げな男だった。兵隊の格好をしてはいるものの、そばには仲間の兵隊が五人ばかり転がってもいた。
「おい、それはアランか?」と鋳掛け屋のミドルは言った。
「ああ、弓でやられて怪我をしてる」
 ミドルは手をさしだし、土手の上からアランを受けとった。アランを下におろすと、ミドルは傷をたしかめはじめた。アランは蒼白な顔で大粒の汗をかいている。思った以上に容態は悪いようだった。
「ジョン、今度はなにをやったんだ? そのこどもたちは? 長官が君が兵隊を倒して逃げたと騒いでるんで驚いたぞ。俺はこの連中と(とミドルは倒れている兵隊を親指で指した)下水の出口の一つに配置されたんだが、とにかく君が手薄な場所に出てきたのはよかった。下水の出口が多いんで、兵隊たちは分散されるかっこうになったな」
「ミドル」ジョンがマッチの肩をつかんだ。「この子たちはな、ロビンからの使いなんだ。ロビンはパレスチナで生きてる」
 ミドルはぽかんと口を開けた。洋一の見たところ、彼は今にもくずおれようとしていた。「ほんとか?」
 ジョンはうなずいた。「ロビンは生きてる。ウィルもアランもだ。俺はきっとリチャード卿(イングランドの騎士)も生きてると思ってる。だが、ロビンは怪我をしてもどって来られないらしいんだ」
 洋一がうつむくと、太助が彼の胸をどんと叩いた。洋一は慌てて上を向いた。
 太助は自分がうそをついたみたいな真っ赤な顔だ。しかし、平静を装うみたいにしれっとしていた。
 ミドルが、「もどってこられないなら、大けがじゃないか」とささやき声を荒げた。
「俺はこれからロビンを探しにパレスチナに向かおうと思う。だが、アランがこの怪我だ」
「アランのことは任しておけ、俺がシャーウッドの森まで連れて行く」とミドルが請け負った。それを聞いてジョンは、「まだ仲間が残っていたのか?」
「そうとも。まだ、タックたちがいるはずだ。さあ、三人ともあそこの木まで走れ。馬をつないである。いつまでもぐずぐずしていられないぞ。兵隊たちが城の外までうろうろしてるんだ」

○     6

 その木陰にはミドルの手によって三頭の馬が用意してあった。手綱を若木にくくりつけてある。その場で草を飯でいたが、一行の姿を見るとうれしそうに足踏みをした。
 城の方で人声がたちはじめ、三人は耳を澄ました。だが、その人声は次第に遠のいていった。森の仲間たちが城の軍勢を攪乱してくれているのだろう。ミドルは、ジョンと協力してアランの体を馬の鞍に横たえると、自分も馬上の人となった。
「ジョン、俺はシャーウッドの森にもどって、ロビンの生存を伝えようと思う。俺も仲間をつれて、お前のあとを追うぞ」
「ああ、わかってる。だが、むりはしないでくれ」ジョンは馬上のミドルに怒鳴る。そしてやや芝居がかってこう告げた。「俺は命のつづく限りパレスチナに向かう。そしてロビンをつれて戻るだろう」
 ミドルは馬に輪乗りをさせつつ、「三人とも武運を祈っているぞ。お主たちも、こどもながらによくイングランドまで来た。機会があればまた会おうではないか。そのときはロビンと共に」
 鋳掛け屋のミドルは馬を竿立ちさせると拍車をかけシャーウッドの方角へ駆け去っていった。木立からミドルの姿が遠ざかり、やがて見えなくなる。洋一は頼もしい仲間が二人もいなくなって急速に心細くなってきた。確かにジョンは昔の勇敢さをとりもどしたけど、ことはそう簡単ではないような気がした。懐に隠した伝説の書が、そんなことを彼に告げているのである。
「さあ、俺たちも行こう。お主たちと一緒に来た大人とやらは、どこに行ったかわからんのか?」
 二人はジョンの変わり様にとまどいながら首を振った。
「そうか、だが、この情勢ではその仲間を捜すことは叶うまい。俺はふたたびおたずね者となった。すまないが、このままハンバーの港まで出て、パレスチナまでの船をさがす」
「ぼくらも一緒に行くよ」
 太助はさっそく鐙に足をかけている。ジョンが手を貸した。太助が危なげなく、鞍に収まると洋一は渋面になった。
「ぼくは馬に乗るの初めてなんだ」
 洋一がいうと、ジョンはその頭をやさしく叩いた。「ああ、お前は俺と一緒に乗るといい。さあ向かうぞ」ジョンは馬の背に上ると、こう鞭打った。「なつかしいロビンの元へ」
 こうして森の盗賊たちはふたたびなつかしいシャーウッドの森に集い、ちびのジョンはロビンの魂を求め、遠きパレスチナまでの旅路につくことになったのである。


◇章前 モーティアナ

 イングランド王宮の地下深くに、水の流れる巨大な鍾乳洞がある。モーティアナはそこで一人足を急がせていた。血の滴と呼ばれる占術に導かれてここまできた。その力は、師マーリンより授かったものである。師の生き血をむりやり飲まされることによって……
 水たまりをはねのけ、苔むした橋を渡る。消えることのないたいまつの火が洞穴内を照らしている。この洞穴じたいが、マーリンの拠点のひとつだった。大昔の呪具がそこかしこに散らばる場所についた。マーリンの死と共に大半の効力が失われたガラクタである。そのうち、台座のようになった鍾乳石の上で、光り輝くものがあった。モーティアナは慎重な指さばきで、紫の布に包まれた水晶球をとりだした。
「吉兆じゃ、吉兆じゃ」とモーティアナはつぶやいた。下僕である三匹の蛇が、足下にまとわりついてきた。蛇を邪険に蹴り払う。そして、水晶が――師匠の死後は、暗黒色となり二度と輝くことのなかった水晶球が、二百年ぶりに脈動をはじめていた。何重にも巻かれた布の最後の一枚をはぎとると、銀白色のかがやきが、モーティアナの老いた顔をなぎ、洞穴を揺るがすかのごとく照らしだした。モーティアナは洞穴の支流に転げ落ち、動物のような驚きの声を上げた。なんたること、なんたること。我が師がよもや復活を……
 と恐れおののいた。その師を貶め死に追いやったのは、ほかならぬモーティアナなのである。蛇たちは(マーリンの蛇の息子たち)すぐさまモーティアナの懐にのぼる。モーティアナは冷えた水を垂らしながら支流を出、水晶を紫布の上にのせた。彼女は老いさらばえた手で水晶を包むように持ち、震える喉に唾をくだす。
「モーティアナ……!」
 野太い声が、洞穴に轟いた。彼女は驚き、危うく水晶を取り落としそうになる。突然顔を打たれ、彼女はぎゃわと面妖な声を上げた。顔を打ったのは雨交じりの風だった。彼女は顔をしかめながら、天を満たす嵐を見上げる。洞穴の景色は消え去り、彼女は荒涼とした草原にいた。木々は黒々と枯れ果て、その骨格は死した悪魔のようだ。高く生えた葦草は、人を排斥するかのようにその身を揺らしている。雷鳴が轟き、彼女の足下は沼地に変わる。そして、水晶から、巨大な青白く輝く顔が出現し、中空に浮かび上がった。
「あ、あなたさまは……」
 と彼女は震える声でいう。
 ウィンディゴ
 声が頭蓋を揺るがし、その声は蛇たちにも響いたようで、一人と三匹は沼地にひれ伏すように這いずった。
「久しいな、モーティ。ウェールズのサンタナ、オルーリアの娘よ」
「なぜその名を」
「わしは知っておる! おぬしの罪を、おぬしの喜びを、おぬしの恨みを……」
 モーティアナは泥沼に伏した顔を上げた。「ああ、あなたさまなのですね、わたくしめをここまで導き……」
「無用、無用」
 とウィンディゴは言った。モーティアナは、いつのまにか、尊師、とつぶやく自分に気がついた。なぜなら、自らの血にとけこんだマーリンの血液が囁いていたからである。純血、と。マーリンの血を飲み、得た力は微々たるものだ。だが、彼女は、古にうけた血が日に日に濃くなっていくことに気づいていた。今日現れた吉兆も、このウィンディゴと名乗る男の出現を予言していたのだろう。
「我が配下、マーリンを殺したであろう」
 ウィンディゴがそうつぶやいた瞬間に、体を流れるマーリンの血が沸騰をはじめた。モーティアナは悲鳴を上げて沼地を転げまわった。
「誓え! この呪われた血に! おぬしの運命に誓いをたてろ!」
 誓う、誓いますうううう
 モーティアナは叫んだ。全身の血管を焼き尽くそうとしていた熱は消えた。モーティアナは手足を投げ出して、沼地に横たわる。雨がさーさーとふり、彼女の顔とほおを流れる涙を打った。
「我が望みをお前が叶えるのならば、みよ」
 ウィンディゴの顔の隣で、地獄の劫火が燃え広がった。劫火の中には、美しく光る珠が逃げまどうように漂っている。モーティアナ、過去はサンタナと呼ばれた魔女は、それが人の魂であることに気がついた。
「お主がなくしたものはなんだ? 奪われたものはなんだ? 人の心か? そのようなものはいかほどのこともない! お前が奪われたもの、それは甘美なる復讐ではないか!」
 とウィンディゴは言った。そして、モーティアナはその人魂こそが、母親オルーリアなのだと気がついた。わずかな金銭とひきかえに、自分をマーリンに売り渡した母。ために自分は犯され、冒涜され、古の血のために呪われたのだ。彼女の喉は母の魂を欲しがり鳴っている。
 モーティアナは嬉々として叫んだ。
「ああ、そうでございます。うらんでおりました、憎んでおりました、なのに、私めが微細な力を身につけ、殺人に赴いたときには、あの女は土の中に……それどころか数百年が経過しておりました」
 モーティアナは草地のなかに頽れた。しばらく雷鳴のみが彼女を包んだ。
「我が陣営につくか」誘惑の声が頭部に落ちる。「なればお主に復讐の果実を与えよう」
 モーティアナは顔を上げる。「私めになにをお望みです……」
「モーティ、ミュンヒハウゼンを殺せ!
 モーティ、奥村左右衛門之丞真行を殺せ!
 モーティ、奥村太助を殺せ!
 モーティ、牧村洋一を殺せ!
 そして、やつらのもつ、伝説の書を奪うのだ!」
「そ、それは……」
「やつらはロビンの復活を目論んでおる」
「ロビン・ロクスリーにございますか」
 モーティアナはいぶかしんだ。誇り高きヨーマンにして、伝説の男はすでに死んでいたからである。他ならぬモーティアナが国王を唆し、死に追いやったのだ。モーティアナはそのことをウィンディゴに伝えた。
「森の仲間たちはすでに散り散りになっております。なんの力もございませぬ」
「とどめをさせ。なぜならば、やつらは我とおなじ、古の力に導かれておるからだ」
「ミュンヒ、ハウゼン……でありますか」
 このときモーティアナは、まだ見ぬ老人を、尊師のためにはっきりと憎んだ。
「見よ」
 ウィンディゴが目を傾けると、大空にミュンヒハウゼンが、彫刻のように青白く浮かび上がる。
「我が宿敵である。大半を失効したが、いまだ創造の力を備えておる」
 そして、奥村左右衛門之丞がミュンヒハウゼンに変わった。
「中間世界の侍である。古の修行をうけ、古の力を身につけておる。独自の武刀術をつかう。気をつけろ」
「はは」
「その息子である」太助だった。「やつらは幼少より、模擬の武器を持たせ、鉄のごとく鍛え上げる。元服の前に殺すのだ」
 最後は洋一だった。
「憎き牧村の息子よ。伝説の書を守りし一族の、唯一の生き残りである。小僧ゆえ、なにもできまいが、父親から何事か授かっておるやもしれぬ。息の根をとめるのだ」
「はは」
「よかろう。ならば、やつらを殺しにむかうのだ」
 ウィンディゴは、彼らがどこに出る手はずかを彼女に教えた。ウィンディゴが水晶に消えると、荒れ地は元の洞穴に戻った。けれど、モーティアナの全身は濡れそぼったままである。蛇たちは泥にまみれていたのだった。
「こうしてはおられん」
 モーティアナは床におちた布を拾い集め、水晶を胸にかき抱いた。洞穴の松明はすべて消えてしまっていたが、そのことにも気づかなかった(今では水晶の明かりのみが、彼女の足下を照らしていた)。

 ウィンディゴは知っていたろうか。彼はあの老婆に力を与えた他にも苦しみから救いだした。数百年に及ぶ彼女の苦しみ。
 それは、孤独であった。


◆ 第二章 奴隷になったちびのジョン

□  その一 モーティアナと青いヘビ

○     1

 ノッティンガムをたった翌々日、三人が到着したのはイングランド南部にある、とある交易都市だった。人の出入りの多い大きな街は都合がいい。洋一は養護院で刑務所に入れられることを恐れていたけれど、すっかりお尋ね者になってしまった。ジョンは一軒の安宿に宿をとった。
 洋一は久方ぶりのベッドに転がりこんだ。ここ何週間となかったゆったりとした時間があった。この数日は生きることに夢中だったから、両親のことはあまり考えずにすんだ。だけど、あの夜以来、はじめてベッドの毛布にくるまった。二人の不在が重くのしかかってきた。洋一は二人が死んだと認めたがる心に向かって、死んでないと言いつづけた。ときには口に出してつぶやいた。ほとんど眠れぬ時間がすぎて、浅い眠りから目を覚ました。窓は開け放たれて、路地裏の湿った空気が流れこんでいた。ジョンは出かけたまま、まだ帰っていない。太助は起きていた。椅子に座り、刀の手入れをしている。彼の刀に対する入れこみようは、ちょっと神経質なほどだ。とはいえ、この世界には刀がないし、どのぐらい居なければならないのかも分からなかった。
 洋一は、万一出られない可能性もあるな、と思って溜息をついた。ベッドの上で、両親が死んで以来のことばかり繰り返し思い出している。体は疲れている。休まなければならないことはわかっていた。この先ゆっくりできる時間があるとは彼にだって思えない。毛布をどけて、ベッドを下りた。彼が起きたのを見ると、太助も手を止め顔を上げた。
 洋一は窓際に行き、ぼんやりと外を眺める。宿は路地裏にあって、あまり陽も射さない。隙間の空がもう青かった。軒下には巣があり、鳥が鳴いている。緩やかな時間だというのに、ここ数日間の記憶がどっと押し寄せてきた。彼は息を詰めて身を震わせる。どれも幼い脳が吸収するには強烈な体験ばかりだ。両親の死、院長の虐待、ノッティンガムでの戦闘……いずれもまとわりついていたのは血と痛みだった。記憶の鼻には、鉄混じりの臭いがする。院長の日本酒の香りも。血まみれの死体や絶叫が、ずっと頭をちらついている。
 太助が、そんな洋一を、無言で見ている。
 遠い世界に来たんだな、と洋一は思った。本の世界は、ごっこ遊びなんかじゃない。戦いには本物の血と死体がある。あんなものが現実だったとは、今でも信じることができなかった。つまるところ、彼は本の世界が恐ろしかった。とてもやっていけないよ、と一人ごちた。本当は誰かに愚痴をこぼしたかったのに、側には太助少年しかいないのだ。
 洋一が故郷を離れたのは、ほんの数日かもしれないが、両親からこんなに長く離れたことはない。洋一はこの世界に来て初めて二人が死んだことを信じる気になった。洋一は身が張り裂けそうで、体をおった。胸に穴が空いたみたいだ。その穴がなにかで埋まると、自然に涙があふれた。穴を埋めたのは悲嘆だった。洋一は瞼も閉じず表情も変えず、ただ涙だけを流している。感情の波に流されたら、きっとこれからやっていけなくなる、二人の仇は討てなくなると分かっていた。洋一は下唇を噛んで、叫びたくなるのをぐっと堪えた。窓枠についた手に、ぽたぽたと涙が落ちた。彼はその手を固く握りしめていた。後ろで太助が立ち上がったのが気配でわかった。
 洋一は窓枠に向いたまま話そうとした。けれど、喉が詰まってなにもいえない。頭を振ると、涙も散った。洋一は涙を流すことで、両親に対する惜別と、決着をつけようとしていた。
「ぼ、ぼくは……」とようやく言った。「ぼくは弱虫だ。二人の仇なんてとれるわけがないって思ってる。父さんと、母さんが死んで……殺されて悔しいけど、ぼくは、怖いんだ」
 もう立てなかった。
 洋一は窓枠によりかかり膝をついた。下を向くと、涙が鼻筋を伝い、鼻水と混じって落ちた。洋一が本当に怖かったのは、なにもできないことだったのだ。ウィンディゴには両親の敵をとると啖呵を切ったが、その実彼は無力な小学生にすぎなかった。彼は自分にはもう価値がないと思った。自分の存在意義は両親にこそあったのに、少なくとも両親にとっては価値のある存在だったのに、その二人がいなくなった今、彼の価値は無になった。現に図書館とはほど遠い本の世界で、寄る辺のない帆船みたいにぽつりと窓辺に立っている。そうして泣いている自分がいよいよ情けなく、洋一は短い声を発して泣きだした。帰る場所はない。目的もわからなくなった。ロビンの世界にきて、ウィンディゴを倒す。それがいかに途方もないことか思い知らされた。かれときたら団野院長すらやっつけられなかったのに。
 そんな洋一のうなじを早朝の穏やかな風がなでている。太助はその風を一身にうけながら、洋一の背後でともだちのことをながめていた。どういっていいものかわからなかった。彼は同年代の少年と接した経験があまりない。太助という少年は生まれたときから侍だったし、これまでどんな物事にもけじめというものをつけて生きてきた。彼はこどもかもしれないが、すでに他人をあわれむような人間ではなかったのだ。
 太助は洋一を、かわいそう、とは思わなかった。ただ深くその悲しみを共感していた。悲しみが情を厚くするのなら、彼はその感情が人並み以上に分厚い少年だった。侍として育った彼は、涙をたしなみとはしなかったが、洋一の親の死もその悲しみも、まるで自分のことのように感じている。なによりも、この少年は死というものと、いやというほど直面してきた。太助は洋一に近づいて、そのうなじをそっとなでた。うなじは熱く、冷たく、震えていた。
「こわがるのは恥ずかしいことじゃない。もう泣くな」
「でも……」
「こわいのはしかたがないじゃないか。誰でもそうだよ。大切なのは逃げださずに、立ち向かうことだ。ぼくを育ててくれた人たちはそうして生きてた」
 洋一は腹をたてて言った。「ぼくは侍じゃない! 普通の小学生だ!  ぼくは太助とはちがうんだ!」
「違わない。なにがちがうんだ」
「ちがうじゃないか!」
 洋一はきっとふりむいた。その視線に、太助も深く傷ついた。結局洋一の傷口はあまりにも深すぎたのだった。
「ちがうじゃないか! ぼくは刀も使えない、なにもできない、今だってジョンのお荷物だ! ぼくは……ぼくは……こんなことなら」
「こんなことなら?」と太助もきっとなった。洋一の泣き言に、自分でも意外なぐらい腹が立った。「養護院にいた方がいいというのか?」
「足手まといになるぐらいなら……」
「足手まといなんかじゃない、そんなふうに思うな」
 太助は洋一の肩をぐっと掴む。その力強さに、今度は洋一がぐらつく番だ。
「ぼくだってお荷物だった。ぼくを守るために侍たちが何人も死んだ。ぼくはそれがいやだったんだ。生きてるのがぼくじゃなかったら、大人の剣客だったら、父上はもっと楽だったろう。ぼくがいなければ、みんな死なずにすんだんだ!」
 話しているうちに、この腹立ちが実は自分に向けられたものだと気がついた。太助は気落ちして、視線をそらした。
「彼らはぼくの師匠だった。ぼくに人生を教えてくれた。その人たちがぼくなんかのために死んだんだ。自分がほとほといやだった。ぼくだって侍だ……なのに、人の助けで細々生きてる。そんなのみじめじゃないか?」と問いかける。
 洋一は驚いた。考えてみると、太助は物心ついたころからお尋ね者だったのだ。太助が自分や自分の友人たちとはいっぷう変わっているのは、無理からぬことだった。洋一は今まできちんと考えてこなかった。目の前にいるのは本物の侍だったのだ。
「ぼくは父上にも言った。ぼくを側に置かなければいいじゃないかって訊いた」と涙がにじむ。「もう見捨ててほしかった。弱音なんて吐いたらだめだってことは知ってる。でも、侍らしく振舞いたくても、できなかった」
 太助は洋一のことをもう見ていられない。真下を向いて震えている。彼はこんな話のできる同世代の友人をこれまで持たなかった。元の世界にいたとき、太助はずっと侍として振る舞ってきた。思えば、こうして大人の庇護を離れたのさえ、初めてのことだったのである。
「彼らはぼくを侍として育ててくれた。でも、父上を残してみんな死んだんだ」
「それは君のせいなんかじゃ……」
 太助は睨むような顔を上げた。けれど、上げた目は弱々しかった。太助の瞳は揺れたが、ぐっと堪えてもいる。
 洋一は泣けよ、と思った。悲しい気持ちでこう考えた。思い切り泣けばいいじゃないか、泣いちまえ!
 けれど、太助は泣かなかった。ただ、そっと顔をそむけたのだった。
「父上はぼくを叱らなかった。できないことばかり考えずに、できることをしっかりやれ、って言った。みんなできることをしっかりやって死んだから、誰も恨んでないって言うんだ」と唇を噛んだ。「でもぼくは悔やんでる――あの人たちに生きていて欲しかったから。だからはやく大人に、一人前になりたい」
 父親はあのときこう言ったのだ。誰だってなんでもできるわけではない。だから、侍は助け合うのだと。だから彼は助け合わねばだめだと思っている。洋一のことを助けなければと思っている。侍たちがそうしてくれたように。
 洋一も目をそらした。悲しみに揺れる友人を、彼は見ていることができなかったのだ。「でも、ぼくにできることなんて……」
「君には伝説の書があるじゃないか」
「伝説の書なんて持っててもしょうがないよ。ぼくは本の使い方なんて知らない。あんな本使いこなせるわけがないよ! 男爵だってそう言ってたじゃないか」
「聞いてないのか?」
「なにをだよ」
 太助は答えるのを迷うように目を伏せた。「おじさんが、父上に言ったんだ。君には文才がある。だから男爵は、君なら伝説の書が使えるかもしれないと思ったんだ」
「そんな――」と洋一は喉で声を詰まらせた。「父さんが? 父さんがそう言ったの?」
 洋一は急いで涙を拭った。そうすれば太助の言葉がよく聞こえるとでもいうみたいに。太助は下を向いて言葉を選んでいた。
「ウィンディゴには大人の剣客もみんなやられた。生き残った侍は父上とぼくだけなんだ。だから、男爵は、君と伝説の書にかけた。君なら伝説の書が使えるからだ」
「そんな、ぼくは、そんなこと……」
「できるよ。おじさんは、君がすごい小説を仕上げたって喜んでた。そうなんだろ?」
 そんな。洋一は自分でも気づかないほど呆然として呻いた。恭一がそんなふうに自分のことを人に話していたなんて、今まで知らなかった。一年も前のことだ。洋一は「ナーシェルと不思議な仲間たち」という一風変わった冒険小説を書きあげた。そういえば恭一に書き方をいろいろと教わりながら書いたのだ。父親は小説家でもなんでもないが、それでも洋一は教えを守って一生懸命書いた。それに小説を書くことはすごく面白かった。恭一が喜んだことはまちがいないし、自分を認めてくれていたことに洋一は深い喜びを感じた。その驚きは哀惜の念に変わった。後悔にも。人の口を通して聞くのではなく、面と向かってそのことを話して欲しかった。喜ぶ顔が見たかったのだ。
「ぼくは伝説の書のことじたい知らなかったんだ……」
 洋一がつぶやくと、太助もうなずいた。
「本を使いこなせるのは強い文を書ける人間だけらしいんだ。つまり文才のある人間、物書きの人たちだよ。ウィンディゴはそうした人間を怖がってる。あいつは侍よりも、小説家を恐れてた。彼らが伝説の書を手にすることを怖がったんだ。だから、真っ先に殺してしまった」
 その話に洋一は震え上がった。侍たちが殺されるのはまだ想像がつく。だって彼らは戦う人たちだ。でも、作家はちがうじゃないか
「おじさんはいずれは君もウィンディゴに狙われるとわかっていた。だから、君に文章修行をさせたんだよ」
「父さんが?」
 洋一は信じられないとつぶやいた。あのお遊びにそんな意味があったなんて。そんなふうに思っていたなんて。洋一はともだちと比べて多少文章がうまいだけで、自分が特別だとはぜんぜん思っていなかった。
「だから、男爵は君に伝説の書を持たせたんだよ。男爵は本の世界の住人だから、伝説の書がそもそも使えない。父上は剣の達人だけど文が書けない。つまりロビンの世界の誰も伝説の書は使えないんだ」
 と太助は言った。本の世界で作家を見つけてもその人には伝説の書が使えないのだ。ミュンヒハウゼンに至っては自分の創造の力すら無くしてしまっている。
「この世界にあるかぎり、伝説の書はある意味で安全だってことだよ。だって、使いこなせる人間は君だけだから。でも、父上と男爵が死んだら、ぼくらだけでやつらと戦わなきゃいけなくなる。わかるだろ? その本をつかう必要があるって事」
「そんなの無理だよ! 文が書けるからって、伝説の書が使えることになんかならないじゃないか!」
 洋一は懐から本をとりだした。赤い表紙をじっとみつめた。二人はともに伝説の書を取り合った。
「この本は大事なんだな」と洋一は言った。
「ウィンディゴもこれを狙ってる」太助はうなずいた。
「じゃあ、モーティアナも?」
「きっと、ぼくらをさがしてる」
 洋一は恐ろしくなった。本から目を反らした。
「ジョンにも話した方がいいんじゃないかな。三人で本を守った方が――」
「だめだ。ジョンには教えられない。信用できるが、精神がまだ不安定じゃないか。伝説の書は誰にも渡してはいけないし、本のことを教えてもいけない。ぼくらで本を守るんだ」
 洋一は責任の重さを感じて身震いした。「できるかな」
「わからない。だけど、ウィンディゴに対抗できるのは、この本しかないよ」
「ウィンディゴがこの世界に来ていたら」
「あいつは本の世界に入る方法を知らない」と太助。「問題は伝説の書のことがよくわかっていないことだよ。誰が作ったのか、いつ作られたものなのかも誰も知らないんだ。それに、男爵はその本が危険だといっていた」
 洋一は怖じ気づいたが、本から手を離せない。伝説の書は使われたがっているんじゃないかと思えた。それに本を使いたい、なにかを書きこんでみたいという衝動に彼は駆られている。頭の中で文章が飛び跳ねた。あの物語を書いて以来のことだった。
 洋一は自分の変わりようが恐ろしかった。本はあいかわらずの熱気を帯びて、彼の指先に食い付いてくる。男爵のいうとおり、本に意志があるのなら、きっと狂気を帯びていると思った。胸に起こった熱狂が本のせいなのか単なる創作の衝動なのかわからなかったが、放っておいたら自分も狂わされるにちがいないと思えた。
 洋一はどうにかして本から指を離す。それが太助の手に渡ったときは、心底ほっと胸をなで下ろした。
「元の世界で作家を探して渡した方がいいよ」
「だめだ。そいつが悪人で、伝説の書を奪われたらどうする? それに本を使いこなせる作家でなきゃだめだ。物書きの達人でなくちゃ、ウィンディゴとは戦えない」
「文豪を捜せっていうの?」
「ぼくらに味方してくれる文豪だ」
「そんなやついっこないよ」
「だから、君なんだよ」太助が言った。洋一は思わず息をのんだ。「現実世界の文豪だって、ウィンディゴ退治に協力してくれるわけじゃない。でも、君なら条件が合ってる。本の世界を守ってきた一族の一人じゃないか。だから、男爵は、君に修行を積ませて、伝説の書を使わせるつもりだったんだ」
 洋一は途方に暮れてうろついた。顔を上げたときにはやっぱり途方にくれていた。自分が弱虫だとは思わない。でも、勇敢だったことだってない、普通の小学生だ。
「まさか、こんなことになるなんて……」
「やっぱりぼくらはパレスチナまで旅なんてできないよ。父上と男爵は、きっとぼくらのことをさがしてる。イングランドから出るべきじゃない。だって、フランスはロビンの世界には元々存在してないだろ? あそこにはなにもないんだ」
 洋一はちょっと迷ってから答えた。「空白地帯ってこと?」
「そうだよ。なにもないんなら、なんとでもできるっていうことじゃないのか?」
 洋一はなにかを避けるように目線をさまよわせた。
「ウィンディゴのことをいってるの? あいつがなにかしてくるって……?」
「あいつがなにもしないと思うか?」と太助は答えた。「あいつは創造の力を持ってるんだぞ。その力をどこから得ていると思う? 本の世界から吸い上げてるんだ。だから、ぼくらはやつと本のつながりを断ち切らなきゃならない」
「でも、ロビンを見つけなきゃ、物語を元に戻すなんて無理だよ」
 太助は窓枠に手をついて地上を見おろした。路地裏では朝っぱらからこどもたちが走り回っている。
「ずっと考えてたんだ。ロビンを助ける方法を。伝説の書に、こう書くのはどうかな? ロビンがイングランドの港町にもどってきてるって」
 洋一は本を抱えこんだ。まるで、恐ろしい魔物を見るみたいに太助を見た。「本気でそんなこと考えてるのか? この本に力があるって」
「なけりゃおじさんだって、その本を守りはしない」
 太助は目線をそらさずに言った。洋一はつい引きこまれた。
「でも、ロビンは最初から死んでることになってたじゃないか。それがほんとだったら?」
「そこが問題なんだよ。男爵はその本が危険だといってたろ? つまり、伝説の書がつじつまあわせをしてしまうって言うんだ」
「つじつまあわせ?」
 洋一は伝説の書に目を落とした。太助の話はこういうことだ。ロビンがイングランドを目指そうとしても、現実にはいくつも障害がある。本はその間をどう埋めるかわからない。下手をすると、街にたどりつくのは、ロビンの死体ということになりかねない。
「だって、そうだろ? この世界は作者の頭の中にあるんじゃない。ちゃんとした現実の世界でもあるんだ。その世界を本の力で作り替えるということは、すでにある世界に矛盾を起こすってことだ。下手なことは書けないんだよ。逆にいえば無理の起きないような自然な物語を考えろってことだ」
「そういうの、父さんに聞いたことがある」
 洋一は興奮して言った。矛盾があるとストーリーは破綻する。そんなストーリーは自分でも書いて面白くないからすぐわかる。広げた話もまとまらないときている。もちろん洋一はこどもだから、恭一もこのとおりいった訳じゃない。話はもう少し簡単だった。けれど、彼は実際に書いて失敗もして、ストーリーをうまく書く骨はつかんでいた。彼はその一瞬いけるんじゃないだろうかと考えた。
「ジョンに話を聞いておいた。ロビンはシニックという港町から大陸に渡ったらしい。そこが十字軍の一大拠点だったっていうんだ」
「そこにもどってきたって書けっていうの?」
 太助は力強く頷いた。「やるしかない。ロビンが生きていないのなら、パレスチナに行く意味なんてない。だいいち、パレスチナにロビンがいることじたい、君の思いつきだろう」と言った。「死体を探すために、パレスチナに行くなんてできないぞ。こうしている間も、ウィンディゴは暴れ回ってる。ひょっとしたら、本の世界に入る方法を見つけてくるかもしれない」
 洋一は首を左右に振って否定した。「君はわかってないよ。ぼくは遊びで書いてただけだし、ぼくの父さんは図書館職員だよ。作家ですらないんだ」
 太助は目鋭く光らせて言い切った。「もうやるしかないんだ」
 洋一は迷った。が、心は八割方決まっていた。だって、彼はこの世界を頭から否定している。この本から出られるなら、なんでもしたろう。
「ぼく、こんな世界にいたくない。ロビンが生きてたら、きっとぼくらを助けてくれるよ」
 太助は頭をかきあげて唸った。
「なんだよ!」
「ロビンはたしかに物語の主人公だけど、ジョンだって泣き虫になってたろ? そんなにうまく運ぶかな?」
「そんなことない。ロビンなら大丈夫だ。そんで、男爵とおじさんを見つけてもらう。そしたらこんな本の世界はおん出ておしまいさ」
「洋一」
 太助はあきれたようにいう。
「ぼくは正直、外よりもこの世界の方が安全だと思うぞ」
 洋一はそっぽを向いた。太助が言いたいのは、この世界にはウィンディゴが入って来られないからということだろう。洋一はそんな話聞きたくない、ウィンディゴは、入って来れなくてもちょっかいは出してきてるじゃないか、モーティアナがいい例だ、と腹を立てた。
 洋一は伝説の書を振り立てた。太助に否定されて向きになってもいた。
「書こうよ。こいつは父さんが守ってきた本だ。ぼくらの本だ。ぼくら側の不利になんて働くもんか」
 と洋一は言った。そう信じた。まだそのときは。

○     2

 二人は話し合った。ロビンを救うのはかれとともに戦った十字軍の騎士たち、ということにした。大陸にあるイングランド領土に流れ着いたということにすれば、生存の確率はグッと高くなる。太助がジョンに聞いた知識はずいぶん役に立った。
 洋一は床に本を広げた。あぐらをかいて、万年筆のキャップをとった。ナーシェルの物語を書いたのはずっと前のような気がする。彼は自分が生みだした黒髪小麦色の肌の少年を思い描いた。背筋を伸ばし、肩をくつろげ、息が深くなるようつとめた。恭一が小説を書いていたのかは定かではない。が、彼の父親は文を書く上で必要なことを、かなり細かなことまで話していた。洋一は父親に教わったことを思い出していく。姿勢を整え、呼吸をさらに深くする。骨盤が次第に立ってくる。胸とおなかがゆったりとふくらんでいる。
 彼は海峡に立つロビンの姿を思い描いた。父親の言葉を思いだす。それは少年には難しい言葉だったのだが、彼の体には深く刻みこまれていた。
 情緒的に、淡々と描くんだ。
 太助が固唾をのんで見守る中、洋一はついにペンを走らせる。万年筆のペン先からインクがこぼれて、紙に染みていった。彼は文章を考えていなかった。言葉は体の奥からあふれだしてきた。洋一は伝説の書に殴り書いた。
『ロビンフッドは死んではいなかった。彼は仲間とともにパレスチナを脱出し、フランスの海岸部に到着していたのだ。そこから海峡をこせば、懐かしいイングランドだ。ちびのジョンや、森の仲間たちが彼の帰りを待っているだろう。ロビンは、仲間とともに、海峡をわたるチャンスをまった。その旅の間も、フランスに着いてからも、彼を守ってきたのはロビンに付き従った十字軍の騎士たちだった。そして、ロビンの長い盟友となったヨーマンたちが側にいた。』
 太助は目をみはって、文を追った。洋一の書く文章は後から後から消えていく。本が文章を飲みこむみたいに消えていった。洋一はまるでそのことにも気づいてないみたいだ。
 これはすごい、こいつほんとに伝説の書をつかっているぞ!
 太助は洋一に声をかけたかった。背中を思い切り叩いて褒めそやしてやりたかった。そこをぐっと我慢する。今は創作の邪魔をしたくない。
 太助が扉の外に不穏な気配を感じてふりむいたのはそのときだった。彼はすっと身を立て、廊下に目を向ける。扉は閉まっているが、何者かが近づくのを感じた。痩せた床板を踏む、かすかな軋みを耳にした。太助は幼少のころから危険と抱き合うような生活をしてきた。その直観力には並外れたものがある。自分の感覚を信じ切っている。廊下を歩く人影すら目に見えるようだった。
 太助は友人を見おろした。洋一はまだ書いている、まだ途中だ。けれど外にいる誰かはどんどん近づいてくる。太助は相手の用があるのはぼくらだと思った。全身の細胞が危険を告げて酸素を欲しがる、生き残るために。
 その誰かが部屋をまっすぐにめざし、扉の前に立つにつけ、彼はもう限界だと思った。
『彼らはイングランド王妃アリエノールの持つフランス領土にたどりついた。そこはもうイングランドの勢力下だ。ロビンは常駐していたイングランド海軍の手を借りて、どうにか……』
「洋一、本を隠せ、ペンを止めろ」
 と太助は小さな声で鋭く言った。同時に壁に立てかけた刀に向かって足を滑らせていた。
「なんだ、なんだよ。まだ途中じゃないか」
「声をたてるな。静かにするんだ」
 太助は床板を鳴らさないよう慎重に足を滑らせ、腰を落としながら刀をとった。空中で身を入れ替えるようにして扉に向いた。その誰かは部屋の前で止まっている。
 洋一が本を閉じ、万年筆をポケットにしまう。
 扉を叩く、ほとほと、という音が聞こえた。二人は鍵のかかった扉を無言で凝視した。
 太助は扉から目を離さずに囁いた。
「合い言葉を言わない。ジョンじゃないぞ」
 太助は鮫皮の柄に指をかけ、そろそろと刀を抜いた。扉が、また、ほとほと、鳴った。か細い、中に来訪の意思を伝える気がないような強さで叩いている。二人は顔を見交わし、それぞれの頭に浮かんだ疑問をぶつけあった。
 外にいるのは宿の主人か、それとも兵隊か?
 太助がスルスルと戸口に向かうと、洋一はあっと声を上げそうになる。太助は左手に刀を持ち、ドアノブに指をかける。扉に鍵はない。体が震え、無意識のうちに息を呑む。太助は扉に口を近づけ、
「ウィンディゴか……?」
「尊師の名を口にしやるでない……」
 嗄れた声が窘めるように言った。太助は不意打ちを食わぬよう左に逃れた。もうその言葉だけで十分だ。モーティアナだ。イングランドの魔女が外にいる。
「そんな」と洋一が言った。「なんでここがばれたんだ」
「入れておくれよ、憐れな老婆だよ」
 太助が刀を抜こうとすると、扉が熱を放ちはじめた。太助はそのあまりの熱気に危険を感じて、部屋の中央に移動する。扉がジューっジューっと音をたて、真ん中から煙が上がる。モーティアナが扉に手を当てているのだ。彼女の手は熱くなり、手の形をしたハンダゴテのように扉を黒ずませていく。真ん中から煙が上がると、炭の円はどんどん広がり、中心からぼろぼろと崩れていった。
 洋一が太助の背後に来て、「本物なのかな」と訊いた。
「どういう意味だ?」
「ロビンの物語には魔女なんていないじゃないか。映画でだって、魔法は使わなかったぞ」
 太助が洋一と顔を見合わせたとき、ついに扉は大きく崩れた。穴の向こうに花柄のスカーフをまいた老婆がいる。炭になった扉をつかみ、さらに穴を突き崩した。花売りの格好をしているが、その目は黄色く瞳孔は細く尖っている――
 人間の目じゃないぞ、と太助はつぶやく。モーティアナが口を開ける。血糊のついたどでかい牙が見えた。一同は扉を挟んで睨み合った。くそ、男爵がいてくれたら。
「お前が、モーティアナか」
「異国の小僧かい」
「なんで、ぼくを知ってる?」
「ちびのジョンはどうしたえ」
 太助は思わずふりむいて洋一を見た。驚いた、こいつなんでも知っているらしい。
「せっかく骨抜きにしてやったのに馬鹿な男だよ! ロビン・フッド、イングランドの魂! やつは死んだあ!」
「だまれ!」と刀を下段に引きつける。
「お前のことは知ってる!」と洋一も言った。「イングランドの魔女だろ!」
「小僧二人であたしの相手をするのかい?」モーティアナは、ケケケッと大笑した。「分際をわきまえろ!」
 魔女の髪がざわざわと逆立った。頭部に巻いたスカーフに火が放たれ、鳥のように部屋を羽ばたく。二人の周囲に、ぽとりぽとりと火が落ちた。少年たちは炎の円で囲まれる。スカーフはどんどん小さくなり最後の身が落ちると、炎は列車が走るようにつながりあって、魔法陣をかたちづくった。
 洋一は炎をさけて足踏みをしている。「あいつは本物だ。本物の魔女だ!」
「落ちつけ、洋一」
 と言う太助の身内でも恐怖が暴れていた。心臓が脈打って、それを押さえるために胸を叩いた。斬れるのか? と彼は久方ぶりに刀を疑う。太助という少年は大人に混じって堂々人も斬ってきた。だが、魔女だけは斬ったことがない。会うのもはじめてだ。大人たちは周りにいない。けれど、彼の背中には洋一少年がいる――逃げるな、奥村、あいつを斬るぞ! と太助は目を怒らせる。これまで侍たちが彼を守ってきたように、彼自身が誰かを守る番だった。怖がるな、と太助は胸の内で自らの怖心をどやしつける。もうやるしかないんだ、あいつをぶった切れ!! そう思いこむと、フツフツたる闘志が胸のうちに湧いてきた。太助はじわりと足を進めて言った。
「お前なんか怖くないぞ! 何十人でも、何百人でもかまうもんか! さあ、かかってこい!」
「ナイトかい? ナイトなのかい?」
 モーティアナの声が、ガラリと変わる。喉がつぶれてダミ声となる。両手で扉をつかむと、扉は枠ごと炎を吹き上げ崩れ落ちた。炎は灼熱しているのにモーティアナは意に介してもいない。炎を背負い少年らを睨む。老婆の姿はまったくの悪女だった。
 モーティアナが両腕を上げる。「ナイトは嫌いだよ、殺してやる!」
「だめだ、あいつは本物だ。逃げよう!」
 洋一は、円を出ようとしたが、見えない壁にはじき返された。
 やっぱりだめなんだ、と太助は思った。
「ウィンディゴも本物の魔法をつかった。あいつが本物なら、逃げるなんて不可能だ」と太助は刀を鞘におさめる。「洋一、ぼくの後ろに隠れろ……」
「どうするんだ?」
 太助は答えなかった。答えることができなかった。そのぐらい集中していた。彼は少し足を開いて立ち、刀の鍔を親指で押し、そっ、と鯉口を切った。
 ガイ・ギズボーンと斬り合ってわかったことがある。この世界の人間は、居合術を知らないのだ。侍が高め極めた刀術をイングランドの人たちは使わない。ウィンディゴがモーティアナに教えたとも思えない。そして、侍の中には抜刀流の達人たちがいて、彼は幼少のころから雑多な流派を叩きこまれてきた。その侍たちは、彼よりも早く命を落とした。そのことが深く彼の心を傷つけていた。あいつはウィンディゴの仲間だ! 今こそ敵を討つときだった。
 太助はこの一撃にかけることにした。唇を舐め皮膚を湿らせる。円陣の外に出られないなら、モーティアナが近づくのを待つまでだ。だが、遠くから魔法をかけられては、ひとたまりもない……
 思えばこれまでの幾度とない戦いも、大人たちが側にいてくれた。たった一人で敵と相対するのは、その長い戦いの経歴のなかでも(人生の短さを割り引いてもだ)初めてのことだった。彼は目線を下げてモーティアナを視界から遠ざけた。茫漠と視野を広げ、そうして落ち着こうとする。父親たちの教えを思いだす。
 居着くな、居着いたらだめだ、と念仏のように唱える。居着くな、とは、留まるな、ということだ。
「父上……」
 とつぶやいたのを最後に太助はほとんど目を閉じた。踵をべったりと地につけた。両手は鞘にひっかかっていた。左右に背骨を揺らし、腰骨を上げ、自在を得ようとした。

○     3

 後ろで、窓の雨戸がバッタリと閉まった。視覚を奪われ鼻先も見えなくなる。まるでこの世から光が消えたみたいだ。その闇の中でモーティアナの炎が黒や青に色を変えながら、ジワジワと漆喰に広がっていく。あれは魔法の炎だ。生き物のようにゆったりとした動きで炎の手を伸ばしている。額に汗がにじみ、目に入るのを嫌って眉をしかめる。
 あいつぼくらを円から出られなくして焼き殺すつもりか。
 緊張で視界が狭まる。炎の揺らめきの向こうで、モーティアナが小さく見えた。太助は、だめだしっかりしろ、と自らに言い聞かせる。目測を誤らないよう気を落ち着けようとした。
 モーティアナは扉を砕きながら、部屋に入ってきた。
「伝説の書はどこだあ!」
「ぼくらが持ってる!」太助は恐怖を払いのけるように大声をだした。「本を取りに来たのか!? 欲しければ取りにこい!」
「殊勝だねえ。こどもは好きだよ。本当だよ」モーティアナが近づいてくる。「だって、おいしいから……」
 モーティアナの口が火を噴いた。炎は魔方陣の障壁に当たって左右に割れた。が、猛烈な熱さで太助の全身からどっと水分が抜け出てくる。その熱だけで火膨れが出来そうだ。太助はモーティアナの炎にあぶられながら、下がろうとする心をぐっと堪えた。下がるな、踏みとどまれ! 胸中が恐怖に負けて悲鳴を上げる。本当に悲鳴を上げたのは洋一だった。それがモーティアナの残酷な心に火をつけた。
「骨までしゃぶってやる。頭から飲みこんでやるよ。骨を砕いて、生きたまま溶かしてやる。皮膚が溶けるのはいいよお。血がトロトロと出て、それがあたしの胃を満たすんだ。まずはお前からだ、異国の小僧!」
 太助はモーティアナの首を刈り取るために、さらに腰を屈める。炎が邪魔で魔女が見えない。モーティアナが近づくのを熱にも負けずにぐっと堪えた。もっとだ、もっと近づけ、と自分に言い聞かせる。真剣の斬り合いでは、相手を遠くに感じるからだ。
 太助は自分の恐怖を知っていたから、刀を振りたがる心をぐっと堪えた。太助の大刀は備前長船の古刀、貧乏御家人のひ孫たる彼は本来なら目にすることも叶わなかったはずの大名刀である。今は亡き吉村勘三郎という人物から譲り受けた。研ぎ減りがして刃区もわからないほどだが、反りの深い刀身が彼を励ますように腰間に揺れている。太助は吉村の死に報いるために、あいつを斬ろうと胸を奮わせる。炎が彼をあぶり、生臭い体臭が匂った。モーティアナがさらに近づいている。
 あと少し、もう少しだ。
「本をお寄越し!」
 炎が割れてモーティアナが現れた。魔女が巨大な口を開いた瞬間、奥村太助は足を踏みだし、老婆の足にほとんど脛をぶつけながら、抜刀術を解きはなった。モーティアナが、あ! と呻いて、小動物のように跳び下がったときには、太助は刀を抜き放っていた。それがモーティアナのこの世で見た最後の光となった。太助の腕と刀はまるで鞭のような軌道を描いた。彼はモーティアナを十分に引きつけてはいたが、モーティアナの動きは思ったより素早く、刃は喉に掛からなかった。それでも、老婆の醜い両眼を真一文字に切り裂いた。鮮血が炎に焼かれ、舞い上がる。
 太助は留めを刺そうと動揺した。さらに前に進み出て、円陣の壁に跳ね返された。
「くそ、殺せなかった! 円を出られない!」
 太助は見えない壁を拳で叩いた。洋一が、円陣の炎を伝説の書をつかって夢中で叩きだす。
 モーティアナは宙を駆けるようにして、壁際に下がる。真一文字に裂かれた傷からは、涙のような血が垂れる。炎が左右に津波のように流れ、壁を燃やし尽くしていく。
 モーティアナが絶叫すると、自らの顔面を飲みこむほどに開いた口から炎が吹き上がり、宿の天板を轟々と燃え上がらせる。
「こ、小僧、よくもやったね」
 モーティアナは呪いの声を上げた。
「許さない、呪ってやるよ。苦しめてやる。血の一滴までも許すもんか!」
 モーティアナの骨格がボコリボコリと音を立てて変わりはじめた。腕が丸太のように太くなりのたうちだした。太助と洋一は円陣の火を必死に足で踏み消そうとする。魔法の火はミミズのようにしぶとくのたうつ。そして、視力を無くしたモーティアナが無差別に攻撃をはじめた。その腕は壁をうち、安宿の漆喰が音をたてて崩れた。腕はさらに蛇のように鱗を生やして伸びた。
 どこだ、小僧!
 太助と洋一は、眩しい光に顔を顰めた。モーティアナの腕が外壁を突き崩したのだ。表から風が吹きこみ、焼けた肌の上をさらさらと流れる。戦いに夢中で気づかなかったが、外から罵声が轟いていた。突然の火事に人が集まっているのだ。
「薫るよ」とモーティアナが言った。「人間の小僧の匂いだ。甘ったるいよ。薫るよ」あらぬ方を向いていたモーティアナの顔が太助を向いた。「そこにいたね」
 太助は夢中で刀を抜いた。モーティアナの腕が胸元めがけて伸びてきた。太助は青眼に構えた刀を右に左に傾けて、老婆の腕を叩き落とす。だが、モーティアナの腕は鉄のように固い、斬り裂くことができなかった。そのうえ攻撃を受けるたびに太く重たくなっていく。腕が波打ち、床を叩き、板がみしみしと砕かれる。円陣が歪み、見えない壁がなくなった。
 太助は魔法陣の外に踏みだした。腕が斬れない以上は、モーティアナの体を切り裂くまでだ。モーティアナの腕が体を打ち、彼は大刀を取り落とした。太助は第二撃を右手に交わし、抜刀の要領で清麿の脇差しを抜きざま老婆の大腕に斬りつける。彼の刃はジャラジャラと腕の上を流れる。くそ、鱗だ。この鱗が鉄のように固いんだ。彼は老婆の大腕にはさまれて、肋がミシミシと音を立てた。気がつくと、夢中で叫んでいた。
「洋一、伝説の書をつかってくれ!」
「どうやったら……」
 太助に答える術はなかった。二本の巨大な腕に押し戻され、その地位を失う寸前だった。腰を落とし、足を踏み換えると、思い切って体重を前方にかけた、粘りをかけて進んだ。モーティアナは轟然たる火炎を放っているが、太助が前に出たことで、巨大になった腕が皮肉にも炎から守ることになった。
「小僧!」モーティアナは火炎とともに叫ぶ。「燃えろ、小僧、灰になれ!」
 太助はじりじりと前に進み、ようやく身動きのとれる立地を見つけた。モーティアナの腕は獲物を探して狂いのたくっている。殺せる、洋一、こいつを殺せるぞ! 一歩踏みこめば、胴体に刀が届く距離だった。だが、太助はふりむくことで、そのチャンスを自ら潰したのだった。彼は最後にできた友人の姿を確認しようとした。洋一が心配だった。モーティアナの腕がかほどに荒れ狂っては、叩き潰されてもおかしくないと思ったからだ。
 ――命の遣り取りでは、どんな些細なことにも気をとられてはいけない
 居着くな。というのが父の教えだった。その瞬間、太助は洋一に気を止めて、紛うことなく居着いていた。モーティアナはその好機を逃さず、腕を元に戻すと少年の痩せた両肩を掴み上げたのだった。
「捕まえたよ……」

○     4

「ちくしょう! ちくしょう!」
 洋一は太助の姿を確認しながら、伝説の書を急いで開いた。太助の体は大蛇の胴に飲まれて服先も見えない。ペンが、ぶるぶると震える。キャップをとるのがやっとだった。周囲ではモーティアナの腕が荒れ狂っている。皮肉にも、円陣に残された効力が、少年を圧搾死から守っている。洋一は顎をつかみ、髪をかき上げた。なにかを書きこもうとしながら、真っ黒なパニックに飲みこまれていた。文を生み出せない。それどころかペン先すら定まらず、紙に醜いアフロを描いた。
 小説を書いていると、猛烈に書ける瞬間がある。彼はそれをスイッチと呼んでいた。けれど、心と体が震えてそのスイッチが押せないのだ。スイッチを押すのには平常心が必要なのに、状況が彼の期待を裏切っている。
「無理だよ! 文章なんて思いつかない!」
 洋一はぶるぶる震えて、息まで詰めていた。書くんだちくしょう、太助が死んじまうぞ! 洋一は父親を思いだした。その瞬間落ち着かないまでも、どうにかこうにかスイッチを押した。息を強く吸いこんで、それとともに文をうみ出そうとする。ジョン! 泣き虫ジョン! ぼくらを助けて!
 彼はジョンの姿を、彼が街を駆ける姿を生み出そうとした。彼はそれを文に変えていく。自分の見たものを、感じたものを言葉にかえたのだ。スイッチだ、スイッチオンだ!
 洋一は自分の生みだす小汚い文字に夢中になった。その瞬間は炎からもモーティアナの恐怖からも解放されていた。劇作の衝動に突き動かされていたのだ。本は文字を吸いこんでいく。
『ちびのジョンは、宿のすぐ近くまで舞いもどっていた。いやな予感に足を急かされてのことだった。二人のこども、新たに契りを結んだ幼い義兄弟たちの、命が危ないと感じ取ってのことだった。ジョンは狭い裏通りを駆けに駆けた。自分でも驚くような全速力で、人の波も屋台も踊り越し、今や炎に燃え落ちんとする宿に迫った』
「本を寄越せ!」
 耳元で響く怒声に洋一は顔を上げた。目前にあったのは、モーティアナの手ではない。彼女の手先は、蛇の頭となり、その頭が彼に訴えている。本を寄越せ! 蛇の声はジュージューと鼓膜を焦がすかのようだ。洋一は本を胸にかいこんだ。蛇の牙から涎が落ち、涎と思ったものは実は毒で、床に弾けると塩酸のように木材を溶かした。硫黄にも似た奇妙な臭いが彼の鼻に届いてくる。
「太助……」と彼は呻いた。「助けてくれ」
 だが、本当に助けが必要だったのは友人の方だ。太助の体はモーティアナの野太い腕に飲まれて見えなくなっていたからだ。蛇が洋一を一飲みせんと大口を開けた。洋一は頭を垂れ、きつく目を閉じた。蛇の生暖かい胴体に飲まれるのを覚悟してのことだった。そして、目を開けたとき、目の前に、大蛇の姿はなかった。かわりに太助が――異国の風変わりな侍の少年が、モーティアナに捕まっているのが見えた。彼女の手はもとにもどっていたが、顔は蛇の大頭と化している。その頭が、太助を飲みこもうとしていた。
「離せ!」
 太助は牙から逃れようともがいている。老婆の痩せてしなびた指は、驚くほど力強く、太助を宙に吊り上げる。太助の左手にはまだ刀があったが、肩を押さえられてはとても扱えない。
 蛇の大口が近づく、牙が伸びて、毒液が垂れ、舌まで伸びてきた。
 シャーシャシャー
 太助はいまや蛇に飲まれる寸前だった。洋一は太助の名を必死に呼んだ。懐かしいジョンの大声が階下より轟いたのはそのときだった。
「洋一! 太助! どこだ!」
 モーティアナの野太い首が廊下に向かって走った。体はそのままだというのに、老婆の首はどんどん伸びた。音を立てて鱗が剥げ落ち、太助の顔を打った。モーティアナの雄叫びが少年たちに聞こえた。
「きええええーーーーーーー、ジョオオオオオンンンーーーーーーーンッ」

○     5

 洋一は本を放り投げると、円陣を飛び出し夢中で太助の落とした刀を拾った。モーティアナの頭が消えてる、あいつの胴はがら空きだ。彼は慣れない手つきで刀を構える。床がぐらぐらと揺れている。モーティアナの打撃は十分に宿の基礎を壊していた。部屋は炎に包まれ焼け落ちる寸前だ。魔術のせいで炎が外に出て行かないのだ。煙はまったく出ていないのに酸素が希薄になって、洋一はくらくらした。彼は刀の柄をでたらめに握った。震える喉をおして雄叫びを上げると、モーティアナに向かって突進した。刀が太助に当たるかもしれない、そんなことは毛ほども頭に浮かばなかった。彼は夢中で燃える床を走った。その後から床は下へ崩れていった。洋一はモーティアナに体当たりをし、猛烈な刺突をくれた。洋一の刀は老婆の醜い体に根元まで食いこんだ。鱗をかき分けるジャラジャラとした嫌な感触があった。モーティアナの体が震え、太助の体が床に落ちた。
 太助は足が地面をつかむよりも早く、脇差しを横に打ち振るった。洋一の頭上を刀が走り、蛇の大首を捉える。太助は空中で刀を振ったにも関わらず、モーティアナの太首を真っ二つに斬り裂いた。洋一は支えをなくして、刀を抱いたまま転がった。モーティアナの体を押し倒す格好になったが、体の感触がない。モーティアナは服だけの抜け殻になった。溶けたんだ、と彼は思ったが、じっさいにはちがった。太助が急いで服をめくると、そこには首のない蛇の死体がぴくりとも動かず横たわっていたからだ。
 太助は気色悪げに呻いた。「これが、モーティアナなのか? これが……」
「太助、本だ! 伝説の書が燃えちゃう!」
 と洋一は言った。炎に包まれた部屋の中央で、伝説の書が無造作に転がっている。まるで魔方陣に守られているようにも見える。
 太助は脇差を手に、燃える床を飛び越え、魔法陣に降り立った。そこだけは炎がない。太助が本を拾い上げた瞬間、炎に耐えかねた床が抜け落ち、少年は一階へと転げ落ちていった。洋一は太助の名を呼びながら尻餅をついた。

○     6

 洋一は階段を駆け下りる。宿の部屋はすべて扉が開いている。屋内の人たちは一人残らず死んでいた。洋一は悲鳴を上げながら階段を飛び降りた。死体なんて見たくないのに、宿中に血が飛び散っている。もうジョンも太助も死んだのではないかと思った。洋一は足を滑らせすっころんだ。廊下中がモーティアナの体液で濡れているのだ。あいつはジョンまで殺しに行った。洋一はその恐怖に震えている。あいつの体は死んだけど、頭はどうなんだろうか? それに太助はあんな高さから落ちて、死んだんじゃないだろうか?
「太助! ジョン!」
 洋一は足を滑らせながら立ち上がる。階段の踊り場で手摺りから身を乗り出し二人の名を呼んだ。瓦礫の下敷きになっているのは太助のようだ。砕けた漆喰で真っ白になっているが生きているようで、洋一の声に呻き目を開くのがわかった。伝説の書をまだつかんでいる。
 一階に落ちた床の木材は、まだ炎を放っていて、洋一はおかしいなと思った。それは七色に変わる魔法の炎だったからだ。彼の認識では術者が死ねば魔法の類は消えるはずである。モーティアナは死んでない。階段を駆け下りながら思った。あいつは蛇だった。きっとモーティアナの使い魔だ。洋一は本物のモーティアナがどこかにいるんじゃないかと思って、なんども階段の上を振り仰いだ。瓦礫の山のすぐ側にはマントにくるまれたちびのジョンが倒れている。
 洋一は残りの段を飛ぶように降りて、太助の上に乗った瓦礫をどけた。炎が彼の手を焼き、太助は無理をするなと言った。
「黙れ! 本物のモーティアナが来るぞ! 急いで逃げないと!」
 と洋一が言ったので、太助も目を見開いた。そのとき、二人は宿の中に男たちが入ってくるのを見た。野次馬たちが、騒ぎがすんだのを見て、確認にきたものらしい。洋一は男たちが少年らの他になにかに見入っているのに気がついた。一階にいた宿の主人だ。他にも惨殺されているものたちがいる。洋一は恐怖に震えて唾を飲んだ。ここにいたら、この火事も人殺しも、みんなぼくらのせいにされる。
 ぼくらじゃない、と洋一はつぶやきながら、ともだちを助け起こす。そのときには、ジョンが意識を吹きかえして立ち上がり、二人を助けていた。
「おめえたち」とジョンは大声で言った。「いってえ、なにがあった! こりゃあ、なんの騒ぎだ」
「こっち」
 洋一は大人たちの視線を恐れ、まだボンヤリしている太助とジョンの腕をひっぱった。
 洋一はジョンの倒れていたすぐ側に蛇の頭が落ちているのを見た。間一髪だった。あの大頭に噛まれていたら、ジョンだってひとたまりもなかったろう。
「モーティアナが出たんだ。すぐにここを出ないと」
 ジョンもすぐさま事態を飲みこんだ。そうでなくとも、彼らはお尋ね者なのだ。背後では野次馬たちが、逃げるぞ、武器を持ってこい、と喚いている。ジョンは太助を抱えると、洋一の手を引いて宿の奥へと進んでいった。事務所らしき部屋を通り抜け(そこでも宿の奥さんが死んでいる)、裏木戸から外へ出た。薄暗い路地が塀に沿ってのびていた。洋一の体を冷たい風が包んだ。こどもたちや近所の奥さんたちが、三人の面妖な様子に悲鳴を上げて飛び下がった。
「このままじゃあ、街の門を閉じられちまう。捕まったら縛り首だ。急いで、ここから出よう」
 ジョンは洋一を背負い走りだした。太助はどこも骨を折らなかったようだ。すぐにジョンの腕から降りて脇を走った。


◆第三章 シャーウッドの隊長と副隊長、イングランドに再会すること

◇章前 モーティアナ

 モーティアナは嘆き悲しんだ。所は王宮。彼女はジョン王に与えられた一室にいて天蓋のついたベッドの中央に水晶球をおいている。その玉にぶつぶつと話しかけている。彼女自身は跪いて、怒りに身を震わせていた。
「お許し下さい尊師。きゃつらめを取り逃がし申した」
 ウィンディゴは水晶球の内から鼻を鳴らしたようだった。「さすがは牧村の一族よ。幼年といえど訓練は受けていたと見える。伝説の書を使いこなしおったわ」
 モーティアナは舌打ちをしたい気分だった。憎むべきは刃物を持った異相の少年。あろうことか彼女の大切な蛇をおぞましい刀剣術で斬り裂きおった!
 が、この失態もウィンディゴはおもしろがっているようである。モーティアナはウィンディゴと少年らの関係を疑った。いったいどういうおつもりか。
「やつらめロビン復活をあきらめておらんと見える。小僧共の考えそうな事よ」
「好きにさせますので」
「そうではない……」
 とウィンディゴはここで声を潜めた。モーティアナは彼の言葉を聞き逃すまいと膝立ちのままにじり寄った。彼女は承諾の声を上げ、小刻みに頷く。それは一興、一興! 水晶球のウィンディゴが揺れ残忍な笑みを浮かべた。
「手はすでにうっておる。やつらがその窮地を切り抜けるか見物よ」
「――つきましてはやつらの守護者のことにございます」
 モーティアナは奥村とミュンヒハウゼン男爵の行動について語った。二人がシャーウッドの森に出たこと、モーティアナ自らがおもむき、その手で森を焼き払ったこと。
「軍勢を率いて攻め立てましたが、きゃつら森の残党どもに手を貸し、窮地を切り抜けました。今はリチャードの子息のいる居城に立て籠もっております。ノッティンガムの州長官をそそのかして、城を攻めさせる手筈にございますが……」
「しぶといやつらよ。どうあがいた所で、すべては我が手の内にある。伝説の書もあの小僧もわしのものだ!」
 はっ、とモーティアナは平服したが、ウィンディゴの声が外に漏れはしないか冷や冷やした。そして、モーティアナは奇妙に思った。ウィンディゴはあの洋一という小僧をすぐに殺す気がないと見える。それどころか小僧共が力をつけるのを喜んでいる節がある。ウィンディゴは水晶球より立ち消えたが、モーティアナはいぶかるように玉を見つづけた。が、そこからは自らの年老いた顔が見返すのみだったのである。

□  その一 死刑囚になったロビン・フッド

○     1

 三人はふたたび馬を奪い、ひたすら南を目指して走った。シニックに向かうためである。洋一と太助は伝説の書に書きこんだ内容について話し合った。伝説の書は文章を吸いこんだ。文字は確かに書く後から消えていった。それに洋一には本が自分の願いを受け入れたという奇妙な手応えをつかんでいる――けれど、それは確信などではないし、事実がどうなったかはわからない。ただそう感じるだけなのだった。一方で、太助は洋一の言葉を全面的に信用しているようだった。洋一は伝説の書の唯一の持ち主だ。本は持ち主を選ぶ。ということは、この本は牧村洋一がつかったときに一番にその能力を発揮するはずである。問題はジョンにシニック港に行くことを納得させることだった。港に到着したはずのロビンを探さねばならないからだ。なにせジョンはパレスチナまで飛んでいく気になっているから、説得は骨のいることだった。
「ジョンにほんとのことを言おう」と太助は言った。「ロビンに会ったことなどないと話すんだ」
「でも」
「どうせ、ロビン本人に会えば、ぼくらが会っていないのはわかることだ。伝説の書のことも話すしかない。信用するかはわからないが」
「会えるかどうかはわからないじゃないか」
 太助は洋一を見もせずに言った。「会えることを祈ろう」
 洋一はほとほと泣きたくなった。非難が怖くなったのである。

 洋一と太助はある晩にちびのジョンと本格的な話をした。ジョンはモーティアナの襲撃に不思議がっていたから、この話にはすぐに乗ってきた。
 三人はジョンの起こした火を囲んでいる。あぶっている肉はジョンが得意の弓で射止めた鹿である。前回の街で塩など旅に必要な道具をそろえていたから(軍資金はノッティンガムで奪った馬を売ることで仕入れたようだ)、食事は割りに豪勢だった。
 彼らの背後では二頭の馬が木にくくられ、火から顔を背けながら、ときおり鼻音を鳴らしている。洋一は話した。自分たちがウィンディゴという、モーティアナよりもずっと恐ろしい男に狙われていること。その男が狙っているのは彼らの持つ本だということ。モーティアナがウィンディゴの手先になっていることはもはや疑いようがなかったのだ。
 彼は伝説の書をジョンに渡した。このごろ、本が誰かの手に渡るとチクリと心が痛むのだった。まるで、伝説の書をつかうたびに、本とかれとのつながりが深まるみたいだ。
 ジョンは唖然としているようだった。
「この本が……この本を狙う連中がいるってのか?」
「ただの本じゃない」と太助が口を挟んだ。「信じられない話だが、その本は書いた内容を現実にする力を持っているんだ」
 ジョンは驚き、そんな馬鹿なという顔をして本を見おろした。
「こいつをモーティアナが奪いに来たって? こんな、こんな、なにも書いてないじゃないか」
 とジョンはページを繰った。
「でも、ぼくらは宿で書いたんだ。ロビンが生きてパレスチナからもどってくるって。彼がシニック港についたことを書いた。十字軍とヨーマンの仲間に守られてると書いたんだ」
 ジョンは心なしか首を左右に振っている。少年らのことは信用している。けれど、こんな話を信用できるだろうか? ジョンは魔法とは縁遠い世界の人物なのだ。
「モーティアナにはウィンディゴが力を与えてるんだ」太助は熱心に言った。「あの宿の様を見たろう。ぼくらは――父上とミュンヒハウゼン男爵とずっと旅をしてきたが、あいつには敵わなかったんだ。あいつに対抗できるのはロビンだけだ。だから、ロビンを助けたかったんだよ」
「だけど、お前たちはあいつの使いで――」
「うそなんだ」と太助は言った。ジョンがひゅっと息を飲み、洋一は申し訳なさそうに目を伏せた。
「ぼくら、ロビン・フッドにはまだ会ったことがない。ロビンに会いに来ただけで、生きているロビンの確認はしていないんだ」
 ジョンはなにかを言おうとした。罵声を浴びせようとしたのかも知れないが、またも息を飲んで首を振った。
「うそだ。いまさらなにを言いだすんだ。俺はどれも信じねえぞ――」
「うそじゃない」と太助は声を励ました。「ぼくらがイングランドに行ったのは、ロビンを助けるためだった。けれど、ロビンはいなかった」
「だったら」とジョンは遮る。「なんでおめえたちはあんなことを言った。俺をここまで連れてきた? お前たちは」とつばをのむ。「モーティアナやジョン王の味方なのか? いったい……」
「モーティアナはぼくらの敵だ。ぼくらの敵とつながってるから」
 と洋一は言った。ジョンにそんなふうに思って欲しくなかった。洋一の心は悲しみで満たされた。ちびのジョンの敵だなんて。
 彼はこの小さな大男が前以上に好きになっていた。誠実で臆病で勇敢な人だ。なによりもやさしい人だった。今だって、自分の心配なんて少しもしていない。洋一はこんな人にあったことがない。ちびのジョンが数百年の長きに渡って人々に支持されてきたわけが、今こそ分かった気がしたのだ。
「それがウィンディゴなんだな?」
 ジョンの問いに二人はうなずいた。
「俺はどうすりゃあいい。この本がおめえの書いた言葉を現実にしたなんて、そんな突飛もねえ話信じるのは無理だ」
「信じてくれというつもりはない。ただ確かめてくれ。ロビンがシニックの港についたかどうかを」
 太助の真剣な言葉にジョンの心は動いたようだった。
 洋一もいやに低い声でぼそりと言った。
「本当はぼくらも伝説の書をつかったのは初めてなんだ。この本は危険だって男爵に言われていたから。だから、この本が本当にそんな力を持っているのか、ぼくたちどうしても確かめたい。ぼくの父さんがなにを守ってきたのか知りたいんだ」
 いぶかるジョンに、太助が言った。
「洋一は伝説の書を守ってきた一族の最後の生き残りなんだ。彼の両親は、ウィンディゴに殺されてしまった」
 ジョンはそのことをまるで悼むように目を閉じた。そして、顔を開けると、
「わかった。おめえたちの言うとおりにしよう。俺はおめえたちだから正直にうちあけてえんだ。そんな本の話は信用できねえ。だけどな。俺はおめえたちのことは、腹の底から信用してる。そのことだけはわかってくれ」
 二人はジョンの率直な言葉にいたく感動を覚えた。もともとちびのジョンはこういう人物だったのだ。ジョンは旅が進むにつれて本来の自分をとりもどしているみたいだった。ロビン・フッドに近づくことで。
「すまない、ジョン」と太助は言った。「だけど、騙すつもりだったんじゃない。ぼくらはロビンを救いたかった。君が死んだって、ぼくらでロビンを守るつもりだった。そうだな、洋一」
「ぼくらモーティアナとウィンディゴを倒すのは、ロビン以外にはいないと思うんだ」
 太助はきちんとお辞儀をしてすまないと言った。洋一も真似た。二人は大人の侍がそうするようにきちんと謝罪をしたから、ジョンも大いに照れてしまった。同時にその赤本のことが、ほんのちょっぴり怖くなった。二人の本気がよく分かったからである。
「よせ、いまさら聞きたくねえ」口調に反して、その顔は泣き出しそうに優しい。「だってお前らは俺を命がけで助けてくれたもんな。俺にロビンを信じる気持ちを呼び起こさせてくれた。俺はそのことに感謝してる。詫びがなぜ必要なんだ?」と彼は言った。「お前たちに助けが必要ならいつだって力を貸すとも。だって、俺はお前たちを信じたから。一度信じたら、二度と疑わねえのがヨーマンの流儀だ。馬鹿かもしれねえけど、俺はそう育てられたから、お前らのことは絶対に疑わねえ」
 ジョンとこどもたちは手をとりあった。もう辺りはとっぷりと闇である。モーティアナがどこからか三人を狙っているのかもしれないが、その瞬間だけは互いの存在を心強く感じた。
「ああ、ロビンはいるとも。俺にはわかるんだ。ロビン・フッドの、ヨーマンの魂は地上にある」

○     2

 シニック港についたとき、陽は暮れかかっていた。巨大なお椀で抉りとったような入り海、湾岸には町並みが広がっている。北側には山がある。格好の漁場のようで、まだ漁船が出ていた。
 ちびのジョンは深更になり、人が集まる時間を待って酒場に向かった。洋一と太助は山中でジョンの帰りを待った。ジョンが向かったのは、街でもさびれた小さな酒場である。旅の僧に変装もしてずいぶんと念入りなことだった。
 さて、ちびのジョンが街の小さな酒場に潜りこみ仕入れてきた情報は次のようなものだった。このところ、名無しのこじきが絞首刑になることに決まっており、街の人間の噂の的になっていること。街にフランス貴族が到着し、その処刑を観覧する予定であること。
 こじき風情が絞首刑でさらされるのも異例のことである。街の人間はこじきが相当な悪事を働いたと噂しているが、そのこじき、誰がどう見てもふぬけの阿呆なのだ。それをフランスからきた貴族がわざわざと見物するのも妙な話だった。無法者でなければよもやこじきを絞首刑にするはずもない。あのこじき、振りをしているだけなのではないか、という者もあった。
 時は夜更け、三人はいつものように焚き火を囲んで話し合っている。そのこじき、ロビンなのかな、と太助が訊いた。
「まさか、ロビンはおめおめつかまりゃしねぇ。それに十字軍じゃ大将だったんだぞ。名無しのはずがねえ」
 ジョンは元の姿にもどっている。変装の達人の名にたがわぬ早業振りだ。
 洋一も太助もそんな話は信じなかった。物語は変転を遂げている。フランスが物語に関わったのは、ウィンディゴが何事か仕掛けているからにちがいない。街にはその貴族の連れてきた銃士と呼ばれる連中が威張っているとジョンが言ったから、もう決定のようなものだった。
「銃士? 銃士が街にいるの? 鉄砲を持ってるやつらのこと?」
 洋一が聞くと、ジョンは鉄砲のことは知らない。この時代には存在しない代物なのだから当然だ。だが、銃士と呼ばれる連中は、新式の武器を持っていて、それをみなおっかながっているそうだ。
「それが、鉄砲なんだ」と洋一。「弓矢よりずっと強力な武器だよ」
「俺も見かけたが、そうは見えなかったぞ」とジョンは首をひねった。「あんなものが本当に使えるのか? 細っこい棒じゃねえか。玉っころが出るらしいが、そんなに威力があるとは思えねえな」
「侍もそう言っていてやられたんだ」
 と太助が洋一に囁いた。どうも戊辰戦争の聞き語りを言っているらしいが、これは洋一にすらピンと来なかった。それよりも、銃士だ。物語の狂いは加速している。そんなやつらが登場したとあっては、決定的にまずかった。

 その夜、ジョンが寝静まってから、洋一と太助は三度話し合いの場を持った。当初、この世界には銃士なんていなかった。もちろん有名な三銃士の物語はあるが、ロビンの物語とはまったくの無関係だ。時代がちがうし、書き手もちがう。銃が出てくるの自体ずっと後の話である。
「ウィンディゴだよ。あいつがまた物語をねじ曲げたんだ」
 と洋一は言った。そうやって、邪魔をしてくるからには、その縛り首になるというこじきはロビンと見てまちがいない。
「だけど、なぜふぬけの阿呆なんだ? なんで縛り首になるんだ」と太助はも首をひねる。「これも伝説の書のつじつまあわせなのかな?」
「ウィンディゴのちょっかいのせいに決まってるよ」と洋一は否定した。伝説の書を信じる心が強くなっていた。「それで物語がいっそうおかしくなったんだ」
「ともかく、処刑は数日後だというぞ。もう日がない」
「でも、ぼくらロビンの仲間も一緒に帰ってくると書いたろ?」
 太助はうなずいた。
「それなら、アラン・ア・デイルや、赤服ウィルだって、この街にいてもおかしくないよ」
「そいつらを探すのか?」
 と太助は腕を組んだ。その腕を下ろすと、
「明日、ぼくらだけで街に出てみないか。昼間の街に。変装してもジョンは有名すぎるから置いていこう。服をかっぱらって、変装すればばれやしないさ。ぼくらは元の物語を知ってるから、ジョンよりもちがいがよくわかる。洋一、聞いてるか?」
 洋一は、はっと焚き火から目を上げた。「聞いてるよ」
「そうかな。最近、ぼうっとしてるぞ」
「そんなことあるもんか」
 と洋一は腹を立てた。太助は鼻から吐息をついて、
「しかし、その銃士というのはやっかいだな。そのフランス人はモルドレッドというんだろ?」
「うん」
「デュマの物語には出てこないな。銃士と関係のある人物で、モルドレッドか……」
「ウィンディゴのでっち上げかもしれない。きっとあいつの創作した人物だ」
 ともあれ、ウィンディゴの手先、あるいは息の掛かった者と見てまちがいなさそうだった。
「とにかく、時間がない。夜だけじゃなく、昼間も動くべきだ。ジョンだって、休息は必要なんだし」
 洋一は太助の言葉がどんどん小さくなるのを感じた。そうして森の奥から、ふふふ、とこどもたちの笑う声を聞いた。洋一は森の奥をかえりみた。太助がどうしたんだ、と訊いた。なんでもないよ、と洋一は答えた。焚き火に目を戻し考えこむ振りをした。太助は不審がったが、それ以上なにも訊かなかったのでほっとした。けれど、自分の中の異変が少しずつ、それも悪い方に変わっていくのに気づいてもいたのだった。

 洋一と太助はこの国に紛れられるような格好をして街に出た。帽子を深くかぶり注意深く見てまわった。なるほど、黒服で軽装の連中がサーベルを下げて歩き回っている。銃こそ持っていないが、街の連中の恐れる様子からみて、黒服の男たちこそ銃士のようだ。洋一と太助は街にこじきが多いのにも気がついた。そして、そのこじきたちは、古傷や生傷を抱えている。きっと激しい戦闘をくぐり抜けてきたのだ。十字軍の残党らしかった。
「やっぱりこの街には十字軍が流れ着いてる。伝説の書は君の願いを叶えたんだ」
「でも、ぼくらじゃロビンの仲間の顔までわからないよ。どうやって、あいつらを味方につけるんだ?」
 と洋一が言ったから、太助は妙な顔をした。
「だって、ぼくらだけじゃ、捕まったロビンを助けられないよ。アランや十字軍の力を借りないと」
 太助は感心したようにうなずいた。
「名案だが、ロビンが捕まったぐらいだぞ。アランたちだって昼間うろつきはしないだろう」と言った。「今日は最も大きな酒場にもぐりこもう。ジョンについていくんだ。うまく行けば、銃士たちの武器が見られるかもしれない」

○     3

 二人は宣言どおり、いやがるジョンにむりやりついていった。ジョンはこどもなど連れて酒場にいれば、怪しまれるし、目立つと自由に行動できないといってしぶった。が、太助はどうしても銃士の持つ武器を確かめておきたかったのである。彼の世界にも旧式の銃は多くあった。それも先込めならまだましだ。だが、後込めの連発銃なら勝負にならない。ロビンたちの武器は弓と剣槍がせいぜいである。そうなってはおしまいだ。

 一階の酒場は二階まで吹き抜けとなっていて、天井が高い。たばこの煙でくすんでみえた。ランプの淡い光の下で、男たちがざわめきあっている。船乗りの姿が多かった。宵の口だというのに、もう酔っぱらっている。客をひく女もたくさんいるようだ。ジョンがテーブルにつくと、洋一と太助は彼を挟むように座った。
「見ろよ、銃士がいる」
 太助はコップに口をつける振りをしながら、帽子のツバの隙間から銃士たちの様子を観察した。いいぞ、と彼は思った。うまい具合に先込め式だった。たぶん、三銃士の持っていたのとおなじマスケット銃だろう。火縄式らしく、かなり初期の代物だ。それでも二十秒に一発は撃てるはずである。刀のとどく距離にちかづかないと危ない、不意をついて斬りたおしてしまうか、と太助は油断なく目をはしらせた。
 その黒ずくめの男たちは壁にもたれてしゃべらず酒も飲まずにいる。そのうち太助は銃士のことをこっそり見る必要はないことに気がついた。店のものはみな興味深げにあるいは恐ろしげにこの寡黙な連中のことを見やっていたからだ。
 太助はすぐにこの連中がある男を無遠慮に見つめていることに気がついた。その相手はちいさなテーブルで、一人でビールを飲んでいる。フードを目深にかぶり、太助は顔を確かめられなかった。どうも、飲む振りをしているだけのようだ。ひんぱんに傾けているのに、のど仏が動いていない。というよりも、銃士たちの重圧に押されているようだった。
「ジョン、あいつら、あのテーブルの男を狙ってる」
「なに?」
 ジョンは驚いて、ぐっと顔を伏せると、脇の下の隙間から太助の指さす方を見るようにした。
「フードの男か?」
「あいつら、あからさまだよ。きっと店から追いだして、撃ち殺す気なんだ」
「あの人が仲間なの?」と洋一が訊いた。
「ここからじゃなんともいえねえ」
 だが、ジョンの胸は興奮に震えていた。そのとき、男が立ち上がるのが目の端に見えた。フードの端にのぞく端正な横顔……。
「アランだ。あれはアラン・ア・デイルにちがいねえ」とジョンは目を仰天で丸くしながらけれど気づかれないよう首をすくめながらささやく。「痩せとるが、まちがいねえ。あのやろう、生きとったぞ」
「銃士たちが動いたぞ」
「あいつら、アランをつかまえるつもりだ」と洋一。
「くそ、アランは十字軍で立派に戦ったんだぞ。それがなんでお尋ね者にならなきゃならねえ」
 ジョンはすぐさま後を追おうとしたが、太助が止めた。
「まだすわってるんだ。後からついていって挟み撃ちにしよう」
 ジョンはほかにも仲間はいないかと素早く酒場をみまわした。
 そうしている間にも、アランは戸口を出て行った。三人の銃士は酒場の男たちを押しのけながら後につづく。船乗りたちが歓声を上げた。みなこの捕り物に気づいているのだ。
 太助はマントの下に隠した刀をとりだすと、柄にビールをさっとかけた。
 ジョンが立ち上がった。「行くぞ。アランを救うんだ」
 洋一がその腰に抱きついた。「ジョンは銃のことがよくわかってないよ。あれはほんとに威力があるんだ。胴体にくらったりしたらまちがいなく死んでしまう。鉄の玉がめりこむんだよ。わかる?」
 ジョンは動揺した。鉄の玉が腹を引き裂くのを想像したのだ。むろんそんなものを治す医療はこのイングランドのどこにもない。
「火薬をつかう武器だ。古い銃だから、どの程度きくかわからないが――」
 太助もだまった。ジョンが聞いていないことに気がついたからだ。ちびのジョンは目を閉じ、ややうつむいた。彼は長い付き合いとなった泣き虫ジョンと激しく罵り合っていた。彼の心は泣き虫ジョンに押し戻されそうになった。だけど、パレスチナへと旅立ちようやくもどってきた仲間だ。ここまでどんなにか苦労してきたろう。そのことを思うと、自分がノッティンガムでのうのうと生きてきたことも相まって、ジョンは涙しそうになったのだ。だめだ、こんなこっちゃいけねえ。ようやく会えたアラン見捨てるのか? そんなの駄目だと彼は思った。死んでいたと思っていた仲間が生きていたことだけでも彼にはありがたい。泣き虫ジョンは彼の中からどんどん退いていった。感謝の念が、恐怖を駆逐していったのだ。
 ジョンは青ざめているけれど、血色もさしてきた中途半端な顔を上げ、ズカズカとカウンターに近づいた。途中男たちに幾度もぶつかってその度にビールが零れたがまるで頓着しなかった。なかで調理をしている男の腕をつかみ、
「そいつをよこせ!」
 と炒め物が乗ったフライパンを奪いとった。
「ジョン!」
 と洋一は言った。ジョンはフライパンの中身を振るい落としている。待ってろよ、アラン。今俺が助けてやるぞ! 宿中の男たちの注目が集まる中、ジョンは左手にフライパン、右手に剣を手にして、体に巣くう臆病者を打ち払うべくこう吠えた。
「さあ、行くぞ! アラン・ア・デイルを救うんだ!」
 ちびのジョンは二人の少年を従えると、悪魔を吹き飛ばすような大股で店の外へと駆け出て行った。

○     4

 太助が早口にまくしたてる。「あいつらの銃は装填に時間がかかる。一発目を躱すんだ。そのすきに近づいて斬りたおしてしまおう」
 この時代の銃は、弾丸と火薬を先端から流しこみ、さらに棒でつついて押しこまなければならないはずである。ひどく面倒な代物だ。
 むろんジョンは銃の構造などてんで知らない。ともかく、初弾をかわすことだけを心にとめた。
 ジョンが剣を背中に隠す。月光を跳ね返さないようにするためだ。太助が刀の鯉口を切った。洋一が遅れているのを気にしている。
「洋一、無理をするな!」
 アランの姿はもう見えないが、銃士たちの翻すマントは見える。裏地の赤は夜目にも鮮やかだ。 
 ジョンの視界から銃士たちは姿を消した。アランが路地に逃げこんで、彼らもそれを追って左に折れたのだ。ジョンは大股を飛ばしてアランの後を追った。
「いたぞ、アランだ」
 視線の先には深い闇に包まれたか細い路地が伸びていた。L字型の角ではアランが追い詰められている。
 ジョンが立ち止まると、こどもたちもようやっと追いついた。ジョンは仁王立ちしている。こどもたちは、ジョンが昔の臆病風に吹かれたのかと思ったが、そうではなかった。ジョンはようやく出会えた古くからの仲間が殺され掛かるに及んで、とうとう激高したのだった。
「おめえたち! アランから離れろ!」
 ジョンが大音声で呼ばわるのと、銃士たちがふりむくのは同時だった。三つの火縄の明かりがぽつりと見えた。ジョンは立ち止まった。太助風にいえば居着いてしまった。あれが、銃か? どんな武器だ?
「ジョン!」
 ジョンが迷ううちに、洋一が夢中で腰に組み付いてきた。太助がしゃがみながら足がらみをくわせたから、さすがのジョンも尻からすとんと地面に落ちた。マスケット銃の轟発が路地に轟き、ジョンの鼓膜を激しく揺らした。弾丸が頭上に突き刺さり、彼の頭髪を浮き立たせる。ジョンのうなじに悪寒が走った。ブロック塀がガラガラと落ちてくる。
 ジョンと洋一は粉塗れになっていたが、太助が
「三発鳴ったぞ、走れ!」
 と我先に走りだした。ジョンはすまねえとばかり、洋一の体をおしのけると、脇に落ちていた剣をひっつかみ、太助を追って駆けだした。「アラン! 待ってろ!」
 銃士たちは新手の三人に気をとられすぎていたのだ。アランが細身の剣を抜き放ち、一人を背後から串刺しにするのが見えた。今は浮浪に身をやつしてはいるが、元はシャーウッドからロビンに従う勇姿である。隣にいた男が銃を捨て、アランにまっこう斬りつけた。危ういところでアランが受けた。
 残りの一人が紙の早合を噛み破り、火薬と玉を銃口から流しこんでいる。太助は装填の時間を与えまいと、飛ぶようにして距離をつめた。男はさく杖と呼ばれる棒を引き抜いて、薬室に弾丸を突きこんだ、銃を立て火皿に火薬を入れたが、もう銃を構えて狙いをつける時間がない。太助が手元に躍りこんできたからだ。男は銃を投げ捨て、サーベルを抜き合わせようとしたのだが、太助はそれよりも早く間合いを踏み越え、男の胴を真っ二つに薙ぎ払った。彼は体をくの字に折り、バッタリと座りこんでしまった。
「でかしたぞ!」
 ジョンは太助の脇をすり抜けると、剣戟の音高く打ち合うアランの元へ駆け寄った。死体を飛び越えて突きを繰りだす。二人の打ちだす火花が轟々と顔にかかった。ところが、銃士はこの攻撃を読んで左へ身を躱した。まるで後ろに目玉があるようだ。ジョンの視界から男が消え、アランの驚愕の顔が迫る。危うくアランを突き刺すところだ。ジョンは刃先を下げるのが精一杯。肩からアランに打ち当たると、二人はもつれ合って転んでしまった。ジョンは、背中がヒヤリと硬直するのを感じた。背中がガラ空きだったからだ。
 ところが、その銃士も仲間がやられたのをみて動揺していた。ジョンがふりむくと、太助が男に斬りかかるのが見えた。太助は敵の側面へと体を沈ませる。男には少年が視界から消えたように見えた。視界の左端でなにかが走ったと思ったときには、その首には鋭い刃筋が食いこんでいた。ズルリ―― 刃滑りと共に肉が裂け、噴血が舞い上がった。銃士はゴボゴボと喉音を立てながら、ジョンの脇を数歩後ずさる。壁にどっと背中を打ち当てると、血の筋を引きながら滑り落ちていった。ジョンも初めて目にする早業だった。
「居着いた貴様の負けだ」
 太助の声を聞きながら、ジョンは、アランが自分の下で剣を振ってもがいているのに気がついた。巨体のジョンがのしかかるものだから、起き上がりようがないのだ。
 アランは貴族と見まごう色男だが、その顔も無精髭におおわれ、さんざんに薄汚れている。
「貴様ら、何者だ。なぜ俺を助ける」
 ジョンも暴れるアランをもてあました。
「よせ、アラン。俺だ。リトル・ジョンだ」とフードを脱ぎ捨てる。「長い軍隊生活で俺を忘れたか」
 しばらくの間、アランは口をきかなかった。闇のなかで、大男の顔を見上げ、
「まさか、ジョン、君か?」
「ああ、俺だとも」とジョンは言った。「アラン、おめえはなんでこんなところにいる。ロビンはどうした?」

 太助とジョンはその答えに気をとられていた。だからそのとき、異変に気づいたのは路地の先でまだ倒れている牧村洋一だった。洋一は自分の見ている物が信じられずに目を瞬いた。
「なんだ、あれ?」
 洋一は体に乗ったブロックを押しのけながら、暗闇の先を空かし見た。倒れた銃士の上でなにかがヒラヒラと踊っている。洋一は目をしぶりまた開いたが見まちがいではなかった。なにかが死体にまとわりついている。
 おかしいおかしいぞ。
 洋一は伝説の書に文を書きこんで以来、妙に五感が冴え渡るのを感じていた。頭に浮かんだのは、ウィンディゴの憎たらしい笑顔だった。銃士があいつの創造物だというんなら、どうして普通の人間だと考えたんだろう?
「気をつけろ……」
 と洋一はささやく、粉を吸って咳きこんだ。腰にのった煉瓦をのけて立ち上がると、友人に向けて叫んでいた。
「気をつけろ! そいつらまだ生きてる! 人間じゃないぞ!」

○     5

 路上には真新しい血臭が、力強く立ちこめていた。太助はややボンヤリとした顔つきで、先ほど斬りたおした男を眺めていたのだが、友人の声にいち早く顔を上げた。
 彼は洋一を見て、それから、もっとも最初に死んだ男に視線を移した。アランが突き殺した男だった。
 なにかが男の体を覆っている。
 男にまとわりついているのは、自身が流した血液だった。血液が戻るたびに、男の筋肉がぼこりぼこりと沸騰するかのごとく、ふくれ上がった。
 そのとき、男が血塗られた指を伸ばして、彼の足首をつかんだ。彼は足首ではなく、直接心臓をつかまれたような気になった、その手はすでに冷たくなっていたからだ。
 太助は悲鳴を上げると、刀を打ち振るい、その手首を切り落とした。夢中で飛び下がると、死体につまずいた。その死体にも血が結集しはじめている。
「気をつけろ、そいつら生きてる!」また洋一の声がしたが、太助にはひどく現実感がない。「死んでるけど動いてるぞ!」
 なにを言ってるんだ?
 太助は徹頭徹尾、現実的な人間だ。そうした面でも洋一とはずいぶん違っていた。銃士たちが死ななかったのだと思ったのだ。斬りごたえは十分だったが。体重の乗せ方が甘かったのかもしれない。
 背後で風切り音と肉を断つ音がした。アランが死体の首を斬り落としたのだ。
「首を落とせ、復活するぞ小僧!」
 太助は考えるよりも早く動いた、自つまずいた死体の首を切り落とした。
 最後の一人を斬ろうとした。
 彼が動きを止めたのは、切り落とした手首が、すごい勢いで、持ち主の体にもどっていったからだ。
 流れ出た血液の大半をとりもどしている。
 太助は飛ぶようにして身を寄せると、刀を振りかぶる。地面に転がったままでは落としにくいため、襟首を掴もうとした。
 男は突然四肢を立てると、太助が捕まえるよりも早く宙に飛び上がった。斬りかかる暇もない。男は五メートルばかりも跳躍して、壁に張りついたからだ。
 太助は瞠目する。なんだ、あの跳躍力は?
「まずいぞ、死兵に変わった! 二人とも気をつけろ!」
 アランが言った。
 その銃士は闇の中を飛び回っている。驚いたことに、建物の合間を飛び交っているのだ。
 その間も、銃士の体はどんどん膨れ上がっていく。路地に黒い気体が噴出し(地面からガスのように湧き出てくる)、男に向かって集まっていくのが見えた。
「大きくなってるんじゃねえのか……」
 とジョンが震える声で言った。
 上からなにかが落ちてくる。太助は頭をかばって腰を屈めた。化け物が建物の間を飛び交う内に、煉瓦がどんどん突き崩れているのだ。
「くそ、気体がじゃまでよく見えない! ジョン……!」
 黒雲をはねのけるようにして、毛むくじゃらの妖怪が牙を剥いて降ってきた。太助はとっさに身を投げだす、化け物は地面に拳を突き立てる。路面は衝撃でクレーター型にへこみ、石畳は粉々になり周囲に散った。太助はそのクレーターの脇を二転三転して起き上がる。
 喧噪はひどくなる一方だ。アパートの住人たちが騒動に耐えかねて騒いでいるのだ。明かりこそつかないが(そんな設備がないのだろう)、逃げ出しているのがここからでも分かる。早く決着を付けないと、と太助は焦った。ぼくらまで捕まったらおしまいだ!
 ジョンとアランが二手に分かれて斬りかかる。
 太助は男の腕はきっとつぶれたにちがいない、あんな勢いで石に当たったら骨がグシャグシャになったはずだと思った。
 男が腕を引き抜いたとき、その拳はどす黒い血に覆われていたが、同時に泡が立ってもいた。男はジョンの剣を二の腕で受ける。獣の咆哮を上げたかと思うと、ジョンを殴った。腕が壊れていてはできない打撃だ。巨体のジョンが文字通りきりきり舞いをして、壁に頭をぶつけている。
 その間もアランが攻撃しているのに、男は痛がる様子も見せない。アランの斬撃はたしかに化け物を傷つけている。けれど、泡が噴き出し、どんどん回復してもいた。
 太助は、こうなっても首を刈れば死ぬのかといぶかったが、そもそも刀の届く位置に首はない。あの銃士は、元は一七〇そこそこの体格だったのに、今では二メートルを超えている。そもそもあんな太い首を切り落とすには、腰より下まで押し下げてやるしかないだろう。こうなったら、足を切り飛ばしてでも、首の位置を下げるしかなかった。
 太助は上段から真っ向唐竹割りに斬りつけた。尻の下部から腿裏をスパリと斬ったが、瞬く間に治ってしまう。「くそ、両断するしかないぞ!」
 アランが体当たりを喰って昏倒している。太助は袈裟斬りに足を狙ったが、後一歩の所で躱される。男がこちらに向かって体をひねりつつ拳を飛ばした。正拳突きともいえない出鱈目な攻撃だったが、太助は刀を引き戻すのがやっとだった。迫る拳に峰を絡ませるが、刀ごと押し戻されて彼は吹き飛んだ。太助は腰を丸めて丁寧に転がったが、それでも突きの威力で頭が揺れた。
 起き上がろうとしたが、筋肉がうまく働かない。
 アランとジョンは気絶したのか動く気配もない。
 太助は脳震盪を起こしながらもどうにか刀を握った。
 こいつはかなわない! みんな殺されるぞ!
「洋一、よせ!」
 と太助は言った。火縄のついたマスケット銃を拾い上げるのが、化け物の股越しに見えたからだった。

○     6

 鼓膜がどうにかなったらしい。平衡感覚が狂っている。真っ直ぐ歩けない。ぶれて三つに見える火縄を目指してそれでも歩いた。あの銃士は装填の途中で放りだした。あのとき弾丸と火薬はこめたはずだ。彼は太助から火縄銃の装填手順を一通り聞いていた。
「使える、あれは使えるはずだ」
 足首の力が抜けて変な方に曲がった。ジョンがやられると洋一は小走りになった。マスケット銃は近くで見ると思っていたより大きかった。洋一は膝をついて、ズッシリと重みのある銃を拾い上げた。路地の先ではアランが化け物を相手に狂ったようにサーベルを振り回している。
「くそ! 下がれ!」
 とアランがいうのが聞こえた。彼のサーベルは怪物の重い胴に跳ね返されて根本から曲がっている。
「火皿、火皿だ!」
 洋一は銃身の横にある皿のような装置に目をこらした。いじってみると、水平に動く部品がある。どうやらこれが火蓋らしい。ちゃんと開いているが、火皿に着火薬(口薬)が詰まっているのかはよく見えない。暗すぎるのだ。引き金を引けば、火縄のついたバネが下りて、火皿に火点を押しつける仕組みのはずだ。口薬がなければ火縄を押しこんでも玉は出ないはずである。
 そうする内にアランがやられて転倒するのが見えた。太助は今やたった一人で化け物と相対している。
「太助!」
 洋一はもうやるしかないと覚悟を決めた。祈るような気持ちで、マスケット銃を持ち上げる。すごく重くて気を抜くと銃口が下がってしまうほどだ。それにどの程度命中力があるのか分かったものではない。太助に当たるのが恐ろしくて、洋一は思い切り近づくことにした。ジョンはあんな弾っころでは死なないと言った。ジョンは死ぬだろうが、あの化け物につかうにはまったく心許なかった。気づくな、こっちに気づくなよ、と祈るような気持ちで歩を進めた。太助が拳を喰らって(と彼には見えた)ついに昏倒している。自分に向かってなにかいうのが聞こえたが、洋一には銃口についた目当てと火点しか見えない。洋一は銃を突きだせば男の後頭部をつつけるほどの位置まで近づいた。彼にはその銃士が狼男の現実版にしか見えない。それにしてもひどい悪臭だ。腐りきった死体の臭いがする。
 彼は短く息を吸いこむと、目をつぶって引き金を引いた。火縄が下りると火薬が爆発して、巨大な炎が銃の側面に噴き上がった。炎は火穴を通って銃内の火薬を炸裂させる。弾丸が勢いよく飛び出して、怪物のこめかみを突き刺した。
 洋一は反動で火縄銃を抱えて転がる。後頭部を打って、朦朧となる。とどめだ、とどめをささないと。洋一は銃を持ち上げようとした。が、もう玉がない。そして、怪物となったその兵隊は脳に弾を喰らっても死なないらしかった。ゆったりと首を巡らし、彼を睨み、唸り声を上げたのだった。

 太助が刀を杖に立ち上がった。銃士はすでに洋一に向かって足を踏み出している。
「こいつ待て!」
 太助は夢中で斬りつけたが、膝が揺れている。それでもむちゃくちゃに刀を振り回して怪物の体という体、ところかまわず刃筋を走らせた。脳に食いこんだ玉のせいか動きが鈍くなっている。ゆっくりとこちらを向く太助と目があう。まるでこうるさい蚊を見るようだ。太助は無我夢中で体を回し、男を斬りつづけた。息のつづくかぎりに。真っ黒な血が周囲に散って男の傷口からはどす黒い気体が立ち上りだした。
「だめだ!」と彼はとうとう動きを止めて怒鳴りつけた。「こいつ死なないぞ!」
 銃士の眉間から大剣の切っ先が突き出てきたのはそのときだった。昏倒から立ち直ったちびのジョンが背後から男の後頭部を串刺しにしたのだ。男の背丈はジョンよりも高い。だから斜め下の延髄から眉間までを貫く形となった。男の頭蓋がグボリと砕け、左の目玉が飛びだした。銃士は犬のような唸り声を発した。
「下がれ、こいつ!」
 とジョンは柄を力任せに押し下げて、男の腰を折ろうとする。さすがに脳を貫通されて銃士の動きは目に見えて鈍くなった。が、体中の黒気がもっとも重い傷口に集まり細胞の復活を始めている。
「ジョン、動かすな!」
 と太助は刀を振るったが、かれも疲労と恐れで目測を誤った。首の半ばまでは断ち割ったものの、ジョンの剣に打ち当たって両断できない。
 太助が刀を引き抜いたとき、アランが口の端からダラダラと血を流して立ち上がった。そのままフラフラと近づくと、銃士の膝裏を力任せに蹴り飛ばした。さしもの怪物も膝を折った。ジョンが大剣を捻り回すと、まるで首を差しだすような格好になる。太助は脇差しをすっぱ抜くと気合いの罵声を放った。脇差しを水平に薙ぐ。首は真っ二つに斬り裂かれた。
 化け物の首がようやく胴を離れると、ジョンはその重みでつんのめる。剣が下がって、首級は大剣から滑り落ちた。まるで水の詰まった風船が弾けるようにして中の液体をまき散らした。どす黒い血の海には砕けた骨が散らばったのだった。そして、胴体は気体が抜け出ると共にしぼんでいった。あっという間に腐敗が進んでいったのだった。
「洋一、そんなもの捨てろ」
 と太助は友人に駆け寄ってマスケット銃を取り上げた。洋一は放心したように亡骸を見ている。
 ジョンがアランを助け起こしていった。
「すぐにここを離れよう。警備隊が来ちまうぞ」

□  その二 ロビン・フッドと伝説の王

○     1

 ジョンはアランを抱えて路地を先へと進んでいった。体に感じるアランは昔日の面影がない。
「おめえこんなにやせ細って……」
 とジョンは涙ぐんだ。なるほどアランの体重は全盛期の半分ほどしかない。
「一体、なんであんな連中に襲われてる。あいつら一体何者なんだ」
「あの連中はモルドレッドの部下だ……ロビンを追ってここまで来たんだ」
「モルドレッドって、フランス貴族の?」と洋一は訊いた。「ロビンはあいつと戦ったの?」
 アランは首を振って否定する。「元は十字軍の仲間だった。だが、銃士たちを見たろう。やつらは昼間は並の兵隊だが、夜間では無敵なんだ。死んでも蘇って敵味方の区別なく襲うそうだ」
「そんなやつらがなぜ十字軍に?」
「俺たちもそんな話は信じなかったからさ。負けたサラディンの言い訳ぐらいにしか思わなかった。だが、噂は本当だった。やつら本物の化け物だ」
 アランは苦しそうに腹を押さえた。
「おめえは一人なのか? 噂じゃあこじきが縛り首になるって話だが」
 ジョンたちはアランの顔を盗み見た。アランはひどく苦しそうな顔つきをした。
「いやみんな生きてる」
 とアランが言ったから、ジョンはほっとした。それから洋一の顔を盗み見た。あの本の力なんだろうか? そこまではわからなかった。
「ガムウェルもスタートリーも一緒だ。俺たちはパレスチナからロビンを守って逃げてきた。だけど、ロビンはもう元のロビンじゃないんだ。ロビンは自分から守備隊に出頭しちまった。このままじゃ明後日に縛り首になる。この街の長官はロビンにかねてから恨みを持っていたんだ」
 じゃあ、あのこじきというのはやっぱりロビンか?
「だが、なぜロビンが? イングランドにもどってこれたってえのに、なんで自分から捕まるような真似をしたんだ」
「仕方あるまい。ロビンはモルドレッドに魂を抜かれたんだ」
 ジョンは手を離した、アランは壁にもたれかかった。太助と洋一も呆然としたが、ジョンの自失した様は胸が悪くなるほどにひどかった。洋一はジョンの腕を引いて励ました。ジョンはアランの胸ぐらを掴み上げた。
「いってえなにがあったというんだ! 魂を抜かれただと? そんなことが……」
「本当なんだ!」とアランもジョンを突っぱねた。「ロビンはな、パレスチナで、魂を抜かれちまったんだ! あいつの魂はパレスチナに残ったままだ! ロビンは抜け殻になっちまった。ウィルと俺たちはここまでロビンを守ってきたが、もう駄目だったんだ。ロビンは生きる気力すらなくしてる。俺たちのことだって、忘れちまってるんだ」
「なんてこった……!」とジョンは頭をかかえた。自らに起こった忘却も、そのことが遠因だったような気がした。「先に十字軍から戻った連中は、ロビンが死んだといっていたんだぞ!」
 アランの体から、力が抜けていった。満足に食べていないのに、激しく動いたせいだ。血の気がすっかり抜けている。ジョンはアランの体を逆に支えることになった。
「ロビンが魂を抜かれた現場をみてそう思ったんだろう。誰でもそう思うさ。現に十字軍は、あの戦いでサラディンにさんざん追い散らされたんだ。イギリス軍は散り散りになってしまった。獅子心王もその戦いで死んだ。ロビンさえ健在なら、あんなことにはならなかったのに」
「そんなこと、そんなことが……」
 ジョンはよろめいた。
「事実だ。俺とウィル・スタートリーは、あのときロビンのすぐ近くにいたんだ。ロビンの胸の辺りから、輝く玉のようなものが出てくるのがみえた。そのとたん、ロビンはバッタリと倒れて動かなくなってしまったんだ。ロビンの体は冷たく、意識が目覚めることはなかった。時間がたつと、ロビンは少しずつ手足が動かせるようになった。もっと日がたつと、言葉をとりもどしはじめた。だけど、以前の記憶もなければ、性根も変わってしまったんだよ」
 ともあれ、ロビンは、魂を抜かれてこのかた、飯も一人で食えない痴呆者に成り果ててしまった。わずかな物音にも怯え、すべてに絶望しているようだった。アランたちは海峡を渡り、シニック港にたどりついた。だが、イングランドはすっかりジョン王の勢力下となっていた。シャーウッドを戻るすべを探しているうちに、ロビンが姿を消した。すべてに絶望したロビン・フッドは、自らの命を絶つため、ボルドーの守備兵に、我が身を投げだしたのである。この港町にも国王の息の掛かった者がいて、処刑の邪魔が入る前に、ロビンを殺そうとしている。
 ともあれ、アランはモルドレッド・デスチェインという男を呪い上げた。
「リチャード獅子心王の討ち死にも、やつの裏切りのせいだ。俺たちが助かる道はロビンにしかないのに、あの状態では、救い出してもジョン王と戦うことは不可能だ。ロビン自身が死をのぞんでいるんだぞ」
 むろんアランたちはロビンを救出するつもりでいた。だからこそ危険な街に出て情報集めに努めていたのである。
 一同は言葉をなくして、むっつりと歩きつづけた。たとえ、救い出しても、ロビンはもう以前の彼ではない。よしんば助け出せたとしても、今のロビンに行くべきところはどこにもないのである。
 アランは、海岸の近くで、巨大な排水溝へと降りた。下には歩道があり、水の流れる溝は、船が通れるほど広かった。海が近いせいか、潮風が冷え冷えと吹き、服の隙間に入りこむ。歩道には、アランたちの仕掛けた罠がところどころにほどこしてあった。人が通ると音が鳴る仕掛けである。アランは、鉄のパイプを叩くと、巧妙に隠された蓋を外した。遠くでパイプを叩いたらしい音が、かすかに響いた。アランはパイプに向かって呼びかけた。
「ガムウェル、アランだ。俺たちの副長がやってきたぞ。五人ばかり連れて行く。攻撃しないようにいってくれ」
 アランは晴れ晴れとした顔を上げた。「さあ、行こう。粗末なアジトだが、雨風はしのげる」

○     2

 ロビン一味のアジトは、排水溝の出口付近にあった。目をそばめると、格子の外はすぐに海のようだ。洋一は、波の音を聞いた。もう、何十時間も経った気がするのに、その実、夜は明けていないのだった。歩道には、土嚢が高く積み上げられ、簡便な要塞のように見えた。土嚢の前に立っていた男が、後ろにいる仲間に告げるのが聞こえた。
「ジョン・リトルだ、本当にちびのジョンがやってきたぞ!」
 ジョンは、アジトから顔をだした男たちを見て、喜色に満ちた声を上げた。
「あれは赤服ウィルだ。顔をだしたのは、粉屋のマッチだぞ。ああ、見ろ。みんながあそこにいる。一体いつ以来だ!」
 ジョンの脳裏に、シャーウッドでの栄光の日々が、音を立ててやってきた。あの連中が、自分の元を去って、もう三年が経っていた。その間、なにもしてやれなかった自分がもどかしく、ジョンは、我知らず駆けだしていた。
 背の低いマッチは、傷だらけの顔に、ぽろぽろと涙をこぼし、ジョンの腰にしがみつく。か細くなった、我が身の置き所が三界のどこにもなく、それだけで、心細かったのだろう。元は粉屋で、平穏無事に暮らしていた男である。ロビンのためなら、命もいらぬと十字軍に参加したのに、肝心のロビン・フッドが、あんなざまになってしまった。
 自分に負けないぐらいの大食らいで、太りじしのマッチが、人並みの体に細っている。それだけで、ジョンは涙した。
「おめえたち」
 ジョンの目は、アーサー・ア・ブランドにうつった。瞳の上で、燃え立つような巻き毛がほつれあう。潮風の湿気で、爆撃を食らったような頭だが、その下のひどい童顔は、昔のままだ。
「ひでえ面だアーサー。ガムウェル、おしゃれのおめえがなんてざまだ」
 赤服ウィルの肩を叩く。ウィル・ガムウェルは、ロビンの甥だ。不器用だが、その怪力無双で、幾度となく一味の危機を救ってきた。赤毛のアーサーとおなじく、不屈の魂をもった男で、この二人の赤は、不思議とうまがあう。
 ともあれ、洋一は、心底ほっとした。伝説の書は、ちゃんと自分の願いを叶えてくれたのだ。ウィンディゴの横やりもあって、結果はひどい様だが、それでも、ロビンが死んでいるよりはましだった。
 洋一が、物珍しげにアジトを覗くと、焚き火があった。壁には弓矢が立てかけられ、いつでも迎撃の姿勢がとれる体勢になっている。海側の歩道は、火明かりを隠すために、板塀が張り巡らされていた。排水溝には、逃走のためのボートがあった。そして、焚き火の側には、一目でイングランドの騎士とわかる男が寝そべり、二人の男の看病を受けていた。
「ウィル・スタートリー、おめえも無事だったか」
 ジョンは、土嚢の上に涙をこぼす。どの顔も頬こけ、目が落ちくぼんでいた。ここまでの道程の困難さを、物語っている。陽気のウィルが、ふてくされたようにそっぽをむいた。ジョンが来てくれて、うれしいやら我が身を嘆くやらで、心中忙しかったのだ。
「ジョン、なにしにきた」と、ひねくれ者のウィルは、泣き声で訊いた。「お前まで死にに来たのか」
「ああ、ちびのジョン」傷を得ている男は、リチャード卿だった。ゆっくりと首を傾け、火明かり揺れ、涙に濡れたジョンの顔を見上げた。その傷は、パレスチナを出たころより軽くなっていたが、十分に立ち上がることは、できないようだった。「君はやってきたのだな。ロビンの最後を見届けに……」
「サー・リチャード、あなたが生きていたことを心から神に感謝する。だが、俺はロビンを救うためにきたのだ。あいつをシャーウッドに連れ戻すために」
「ロビンを連れ戻すだと」スタートリーが、荒声を上げる。「守備隊がロビンを捕まえてるんだぞ! ロビンの魂は、パレスチナに残ったままだ! 救ってどうなる。あいつは死にたがってるんだ! 俺はな、俺は、腑抜けになったロビンを、ずっとみてきたんだ。あんなロビンをみるぐらいなら、十字軍の戦いで死んでおけばよかった」
 ジョンは、面くらった。「どうしたんだ、あいつは?」と、アランに囁いた。アランは肩をすくめた。
「ロビンが居なくなって、いじけちまってるのさ」
 思うに、ウィルはふだんから陽気な男なだけに、こうした鬱屈とした事態に耐えられないのだろう。
「そんな風にいうな、ウィル」と、ウィルの隣にいた、騎士が言った。「せっかくの仲間との再会ではないか。もう嘆くのよせ」
「彼は、ギルバートだ」と、アランがジョンに説明した。十字軍では大将だった男で、ボルドーでも、敗残兵のまとめ役を買って出ている。端正な顔も、今では髭に覆われている。獅子心王の側近として、弱年のころより、戦場を渡り歩いてきた。
 そのとき、アジトの隅に座りこんでいた男が、のそりと身を起こした。一目で異国人とわかる、異相の男である。頭にはターバンをまき、人相を隠している。
 ちびのジョンが、「ムーア人か?」と訊いた。
「心配するな。あいつも、ずっとロビンに従ってきた男だ」
 アランが言った。洋一が、土嚢に身を乗りだし、
「アジームだ」
 と、叫んだ。アジームと呼ばれた男は、顔にかけた布を落とした。真っ黒な肌と、それよりも黒い髭と、ちぢれた髪が、火明かりに照らされる。映画でみたアジームの顔そのものだ。来ている鎧まで、洋一の記憶と一致している。
「なんで俺の名を知ってる」
「そ、それは」
 洋一はまごまごと言った。まさか、映画で見たことがあるとはいえない。
 また、新しい登場人物だった。ロビンの世界は、物語の筋が狂っているだけじゃない。新しい人物が、どんどん出てくる。まるで、本が、新たに創作しているようだった。洋一は考えこんだ。これは、本当にウィンディゴ一人の力なんだろうか? 男爵は、ウィンディゴが本の世界の登場人物だ、と言った。つまり、あいつはミュンヒハウゼンと、おなじ人種に当たるのだ。
 なんの本だろう? と、洋一は自問する。ウィンディゴという名前には、心当たりがない。彼は男爵に会いたかった。会ってこのことを話し合わなきゃ。男爵は、本の力が弱まって、創造の力を無くしたのに、なんであいつだけが特別なのか。
 洋一は、太助がなにか知っているかと彼の方を見たが、太助は刀に腕をかけて、油断なく、ロビン一味を見回している。この中に、ウィンディゴの仲間がいるのではないかと、疑っているのだ。
 太助が、洋一に代わって言った。「あなた方のことは、父上から聞いている。ぼくたちは、モーティアナを倒すために、イングランドに向かったのだ」
「モーティアナだと? 誰のことだ?」
 アーサーが訊いた。そこで、ジョンはアーサーらに、イングランドの近況を語りはじめた。五人のイギリス人にとっては、久々にきく、故郷の情報だった。
「モーティアナは、本物の魔女なんだ」と、ジョンは言った。「ジョン王の側近で、裏から操ってるのかもしれねえ」
 ジョンは、モーティアナに襲われたときのことを、語って聞かせた。普通なら信じられないような話ばかりだが、ロビンが魂を奪われるのを目撃した後だし、それもアランは死兵に出くわした後だから、妙に信憑性があった。
 洋一が、ジョンを見上げる。「ロビンが魂をとられたのだって、ウィンディゴの仕業なのかもしれない」
「そうかもしれねえな」
 そこで、洋一がウィンディゴの話を慎重に語りだした。もちろん、本の世界については、うまく省いてのことだった。太助は、ウィンディゴの話を聞いて、妙な反応をする者がいないか、じっくりと見ていたが、怪しい顔つきをしたやつはいなかった。
 銃士が町にいると聞いて、剛強のロビンの部下たちも震え上がった。ウィルが、怒りに燃えて言った。
「あの野郎、ロビンに止めを刺すために、ここまで追ってきやがった!」
「ロビンが死なない限り、あいつの魂は、モルドレッドが握っていると考えるべきだ」とアジームが言った。「モルドレッドが側にいない以上、俺はロビンの魂をとりもどす見こみはない物と考えていた。だが、モルドレッドは、この街にいる……」
 赤服のガムウェルが、サー・リチャードの耳元に口を寄せる。「まだなんとかなるかもしれません。ロビンの魂さえ取り戻せれば……」
「だが、ロクスリー(ロビン・フッドのこと)は二日後には縛り首なのだぞ。魂をとりもどしても、ロクスリーが死んではどうにもならん」
「それに、モルドレッドの軍隊と、どう戦うんだ」マッチが言った。「この港には、俺たちの仲間は残っていないぞ」
 ギルバートが、「いや、ここには十字軍の生き残りが、大勢流れこんでいる」
 どれも、十字軍の敗北で、行き場をなくした連中ばかりだ。
「そいつらを集めるのか」とアラン。
「まさか十字軍の」リチャード卿は言葉をなくした。「彼らは敗軍の兵ではないか。もはや軍隊ではない。弱体化した十字軍で、どう戦うというのだ」
「だが、ロビンの部下だったやつらも大勢いる」 
 赤服ウィルが言った。
「しかし、彼らは」リチャード卿が、声を荒げた。「彼らを頼って、最後の賭に出るというのか。それは進められない。巻き添えを増やすだけだ」
「彼らは、行き場をなくして浮浪者になっているだけです。元は歴とした騎士たちだ。戦い方を知っている」と、ギルバートが言った。「このままでは、その連中とて、銃士とジョン王に追い散らされることになる。生き残るためには、結束するしかありますまい」
「モルドレッドの恐ろしさは、連中が身に染みてわかっているさ」ガムウェルが言った。「地中海では、異教徒を赤子にいたるまで殺しまわっていたやつだからな。浮浪者となっているとはいえ、十字軍の残党を見逃すとは思えない」
 洋一は、一同の話を注意深く聞いている。太助も熱心に話し手の顔を見た。二人は、ウィンディゴが、どこまでこの状況に干渉しているのか分からなかった。けれど、ここにいる二人の少年だけは、対抗勢力であることにまちがいはない。つまるところ、洋一たちがロビンの世界に乗りこむことで、ウィンディゴの意図通りには事が運ばなくなってきている。その証拠に、泣き虫だったちびのジョンも、今ではすっかり立ち直り、元の本分を果たそうとしている。
 ジョンは急に黙りこんで、仲間たちの会話をむっつりと聞いている。実のところ、彼はすっかり腹を立てていた。戦力がどうだとか、誰が味方かなどと、そんな話は聞きたくもない。ジョンの脳裏には、天地に向かって立ち上がる、ロビンの姿がいつもある。ジョンは、あいつのそんな姿が見たかった。自分が死んだって見たかった。あいつを救ってやりたかった。他の誰もやらないなら、自分が成り代わって、あいつに恩を返すべきだと思った。
 俺こそがあいつを救わなきゃならねえ。あいつの義侠に答えてやらなきゃならねえ。俺とロビンだけは、正しいヨーマンであらなきゃならねえ
「ロビンはいつだって人を救ってきた。自分がどんなに劣勢でも泣き言も愚痴も言わない。あいつは訊くために、人の願いを叶えるために、いつだっていてくれたじゃないか」ジョンは立ち上がり、仲間たちに訴えた。「このままじゃ、ロビンは名無しの無法者として縛り首だ。そんな屈辱を、ロビンにあたえられん。あいつを救おう!」
「弱体化したとはいえ、十字軍は戦争のプロだ」アジームは、我が意を得たりとうなずいた。「そいつらが、この街に集まっている。偶然とは思えん」
「シニックは景気にわいてるが、俺たちゃしみったれだぜ、アジーム」
 行儀の悪いウィルが、また寝転がる。
「ならば、ロビン・フッドを助けることだな」
 と、アジームが言い、ウィルは鼻を鳴らして答えた。
「だが、ロビンの魂をどうとりもどすというのだ」リチャード卿が訊いた。勇敢な男だが、長い闘病生活で、いくぶん弱気になっている。「我々は、死刑台のロクスリーをも救わねばならん。街にいる十字軍はいかほどなのだ」
「四百ばかりでしょう。武具をもっていない連中もいます」
「その後はどうする。どうやってシニックを出る?」
 脱出の案は、すぐにまとまった。というよりも、安全で確実な方法はひとつしかなかった。私掠船である。フランスからイングランドに戻るのに、アランたちは彼らを頼ったのだ。普段は海賊行為をしているが、歴としたイングランド海軍だった。
 問題は、やはりロビンの魂だった。ちびのジョンが、洋一に目顔で合図してきた。
 ジョンは、洋一と一緒に、伝説の書のことを話しはじめた。
 仲間たちの反応は、太助の想像したとおりだった。彼らは伝説の書のことを、頭から信じなかったのだ。
「じゃあなにか、俺たちが生きてここにいるってのも、その本のおかげだってのか!」と、ウィル・スタートリーは怒って言った。「そんな馬鹿な話はねえ。おめえが本に書きこんだのは、ついこの間の話だろう。俺たちが何ヶ月苦労して、旅をつづけてきたと思う!」
 アランは意見を求められたが首をひねり、
「戦いは勇敢だったが、その本というのはどうかな」
「おめえたち」と、ジョンは言った。「俺を信用しろって。この子たちに会えなけりゃ、俺だってここにはいなかった」
「その子たちを疑っているのではない。その本のことを聞いているのだ」
 と、ギルバートも態度を硬くした。
 洋一もしつこく食い下がった。
「それを言うなら、ロビンが魂を抜かれたって話もどうなのさ。それこそ嘘みたいな話じゃないか――」

 その話の間中、太助は違和感を拭いきれなかった。最初のうちは、肉体の疲労と痛みで、洋一の変化に気づかなかったのだ。妖怪と化した銃士との戦いは、彼の幼い体には、あまりに負担が大きかった。節々が痛み、体がバラバラになってしまいそうだ。本当は迫り来る敵のことは忘れて、ゆっくりと体を休めたかった。けれど、今は気を抜くわけにはいかない。
 太助は、洋一のことを注意深く見守った。洋一が一味を相手に熱弁を振るいだすと、太助の違和感は、いよいよ深くなった。洋一とは、こんな人物だったか? こんなに、能弁だったろうか。
 洋一は、ロビンの部下たちの反駁に、ひとつひとつ懇切丁寧といっていい調子で、反論し説諭している。伝説の書の力を力説し、自分はうまくつかえたと言いはった。そのことも妙だ。以前は本をつかうことに、あんなにためらい、不安がっていたのに。
 一回の成功で自信をつけたというには、彼の変化は極端すぎた。むしろ、伝説の書を、礼賛しているともとれる態度だ。
 ロビン・フッドの魂をうばった不可思議な魔術に対抗するには、伝説の書をつかうしかない、とは彼も思う。だけど、その危険性は、洋一とて、よく熟知しているはずだ。とにかく伝説の書には、不確定要素がありすぎる。なるほど、ロビンはイングランドに戻りはしたが、あのざまだ。
 男爵がいれば洋一を止めてくれるのに、と、太助は思う。
 伝説の書を使いこなすのは難しい。そのことはわかる。だからこそ、洋一を戸惑わせるようなことを、言うべきではないかも知れない。彼が、彼らしくない、まるで別人のようだ、などとは、言うべきではないかもしれない。
 太助が思い惑う内にも、一味の意見は、伝説の書とやらに頼ってみてはどうかという意見にまとまってきた。それはそうだろう。ロビン側には、そのような不可思議な魔術に対抗する術が、まるきりないのである。
 洋一は、伝説の書に力を発揮させるためには、事実を詳しく書きこむ必要がある、と言った。だから、現場でモルドレッドの様子を見たいのだ、と。モルドレッドの人となりを、少しでも描写しようという案には、太助も賛成だった。
 話がこちら側にまとまりだすと、洋一は、ニヤニヤと人の悪い笑みをもらした。そのたびに、太助はこの少年が恐ろしくなった。洋一、というよりも、この少年に棲み着いた、なにかが。
 太助は、大人たちの誰も、このことに気がつかないのだろうかと疑った。そのとき、アジームと目があった。彼は彼で、太助の迷うさまを、見抜いていたと見える。
 アジームは、太助から目を反らして、「俺とスタートリーで洋一についていこう」
「ロビンを救うつもりが、ガキのお守りとはね」
 と、ウィルは土嚢にもたれかかったが、ことの重要性には気づいている。
 太助は冷や冷やした。
 アジームという男、洋一が失敗したら、あいつの首をはねるつもりじゃないのか。
 最後にジョンが、それでいいか、という同意を、太助に求めてきた。太助はすぐに返事をしたかったが、できなかった。そのとき、洋一がじっと自分を見つめていることに気づいたから、自分がどちらの意見を口にしようとしたのかは、ついにわからず仕舞いになった。

○     3

 ジョンたちの行動は早かった。
 ギルバートを中心にした陽動隊は十字軍に作戦の決行を伝えに行った。十字軍は、勇敢に戦ったにもかかわらず、思うような結果を得られず、野盗と化すものも多くいた。シニックに流れついた十字軍は、リチャード獅子心王と行動をともにしたイングランド正規軍が多かったにもかかわらず、恩賞もなく正規軍からも放置されていた。彼らは肉体的にも精神的にも疲弊しきっている。戦うほかに生きるすべを持たない騎士たちにとって、局面を打開するには武装蜂起の他はなかったのだ。
 もっとも、弱体化したとはいえ、十字軍には歴戦の軍人がそろっている。銃士に対して、武器の面では見劣りするが(銃を撃てるものも少なかった)地の利を得、組織だって戦えば、ぶざまな戦いをするはずがないと思われた。
 そして、大人たちが戦いの準備に時間を費やす間、奥村太助は牧村洋一につきまとっていた。洋一の様子はやはりおかしかった。これから大変な戦いが起こる、その戦いの主役はおそらく彼になる、少なくとも正否を握るのは洋一だというのに、まったく集中していない。それどころか行動がおかしかった。なにかを熱心に見ているのにその先にはなにもなかったりした。夜も寝ていないみたいだ。誰もいないのに一人で話していたりする。独り言かと思ったが、ちゃんと受け答えをしているようだ。太助は彼に声をかけたり、体に触れることでその状態から呼び戻したが、洋一自身は自分のしていることに気づいていないのだった。
 伝説の書だ。やっぱりあの本だ。あの本に文を書きこんでから洋一はおかしくなっている。太助は安易に伝説の書を使わせたことを後悔した。洋一のために、はっきりとウィンディゴとモーティアナを憎んだ。けれど、太助が看破したとおりの変化を洋一自身は気づいていないのだ。
 この話を下手に切りだして、洋一が文を書くのに失敗したら? その結果がどうなるのか、彼は知らない。けれど、伝説の書をつかってきた人は、何千何万といるし、その人たちの顛末が概して不幸なのだった。
 太助がついに話を切りだしたのは、洋一が伝説の書を開いて熱心にページに見入るようになってからだった。そこにはむろんなにも書いていない。
「洋一、しばらくその本を手元から放してはどうだ?」
 と彼は言った。洋一は勢いよく顔を上げた。彼を見た目は明確な敵意を宿していたので、太助は驚いた。
「なにを言うんだよ! ぼくはこの本をつかって、ロビンを救わなきゃいけないんだぞ!」
「わかってるよ。ただ、最近様子がおかしいから……」
「おかしい!? おかしくもなるよ! 死体に狙われて魔女に狙われて、こんな重役を任されて、普通でいる方がおかしいじゃないか! おかしなことを言ってるのはお前の方だ!」
「そんな言い方はないだろう! ぼくは君のことを心配していってるんだ!」
「大きなお世話だ」
 洋一は本を持って立ち上がった。
「なんだと?」
「大きなお世話だと言ったんだ! なんだって言うんだ! 創作のことなんか君にはまるでわからないだろう! ぼくは集中して、どんな文を書くか練っていたところなんだ! これからこの本をつかうのに、手元から放せって!?」
 洋一は太助を押しのけた。
「じゃあ、君は刀を放せって言われたらそうするのか? ぼくに言ってるのはそういうことだぞ!」
「刀には魔法がかかってない、そいつはただの本じゃないだろ! 危険だから言ってるんだ!」
「いまさらなんだよ!」洋一は本気で腹を立てた。癇癪を起こして側の机をひっぱたいた。「この本に文を書きこめと言ったのはお前だぞ! そんないい加減なことがよく言えるな! もういいよ! ぼくは一人でやる! お前はロビンを助ける方に加われよ! お前がそばにいちゃ集中なんてできな……!」
「おい、二人ともいい加減にしねえか!」
 ジョンが見かねて口をだした。二人の声を聞きつけてやってきたのだ。太助と洋一はばつが悪そうにそっぽを向き合った。ジョンは大いに弱って二人をかき口説いた。
「その本の効果を疑ってるやつらは大勢おるんだぞ。そんなこどもみてえな喧嘩をしてちゃ信用されねえぞ」
「ぼくらはこどもだ」と洋一。
 ジョンはとりなすように言った。「ともかく話は俺が聞くから。こんなこたあ言いたくねえがな。でも、みんないつ死ぬかはわからねえんだぞ。それは俺やお前たちだっておんなじだ。なのに、喧嘩をしたまま別れるのか?」
 この言葉はさすがにこたえた。太助があやまると、洋一もごめんと言った。けれど、すぐに部屋を出て行ってしまった。
 ジョンは胸をはって威嚇するように太助をみおろした。
「さあ、太助、どうしたっていうんだ。洋一はともかく、おめえがあんな大声だすなんてよ。おめえの方が年も上だろう?」
「そうじゃない。洋一の様子がおかしいんだ。さっきだって……」
「太助」とジョンは遮った。「そりゃあ、仕方のねえこった。あんだけの戦いがつづいた後だぞ。俺だってあの銃士の様子は夢にまで見る。おめえだってそうだろう?」
 確かにそうだった。
「あの子はおめえとちがって剣も使えねえしな。そりゃ、素手で大人につっかかっていくようなもんさ。それでもよくやってきたじゃねえか」
「そんなことは言われなくてもわかっている」
 と太助は怒って言った。がその声はちいさく、ジョンは太助が納得したと勘ちがいしたようだ。
 そうだ、彼はよくわかっている。実際に洋一はよくやった。それどころか、あの一発の弾丸がなければ二人ともいまごろ命はなかったろう。
「洋一が伝説の書をつかうのに反対なのか?」
「そうじゃない。洋一の力がどうしても必要なことは分かってる。だからこそだよ」
 太助はこのもやもやをうまく言葉にまとめられない自分を呪った。
「ジョン、あれは書きこむ内容が大事なんだよ。伝説の書は彼の文を受け入れたけど、もし今度がそうでなかったら? なにが起こるかぼくらは知らないんだ。洋一が本の持ち主だって事はわかってるし、ぼくはそう信じてる。あいつはきっと本をつかいこなすって」
「だったらいいじゃねえか。あいつを信じて任してやれよ」ジョンはかがみこんだ。「一番近くにいる人間が信じてやらなくてどうする」
「わかってるよ。だから、ぼく、黙ってようと思ってた。でも、万全の状態じゃなきゃうまく使えるはずがないよ。洋一は様子がおかしいじゃないか。伝説の書は持ち主を拒否することだってあるんだ」
 ジョンはうーむと考えこんだ。
「だけどよう、もうどうしようもねえんじゃねえのか? あの本を使えるのはあの子だけだって、おめえ言ったろ?」
「そうだ。それが問題なんだ」
「ともかく、もう洋一を動揺させるようなことは言っちゃだめだ。あの子をベストな状態で送りだしてやるつもりなら、喧嘩はやめるべきだと思うぞ」
 ジョンは言葉通りに肉料理を無理算段で仕入れてはこどもたちを喜ばせようとした。けれど、こどもたちの関係は改善しなかった。太助はもちろん洋一の心を引き戻そう、なんとか彼を説得しようとしたけれど、彼は訊く耳をもたなかった。取りつく島すらなかったのだ。
 処刑当日。
 ちびのジョンと十字軍は、ロビン救出のために、変装をして港街に散乱した。この連中は、作戦がはじまれば、処刑場に集まるてはずである。

○     4

 ジョンの言ったとおりになってしまった。太助と洋一は本当に喧嘩別れをしてしまったのだ。もちろん太助は洋一の後についていきたかった。でもあいつはお前が来たら成功するもんもしなくなるといって彼を断固拒絶したのだ。そのせいで、彼は広場の人混みの中にいる。洋一はいまごろ、この会場(と言っていいだろう。この国の人々は処刑をお祭りのように考えている節がある)のどこか高い場所にいるはずだ。太助は心配で仕方なかった。やっぱりあの洋一はふつうじゃない。本だ。あの本が洋一の心を喰らっているとしか思えない。というよりも、洋一に文を書きこませたがっているんじゃないだろうか?
 太助はこう考えた。恭一おじさんがあの本を封印したのは、ウィンディゴから守るためではなく、洋一を本から守るためだったんじゃないだろうかと。だけど、もう遅い。彼には洋一がどの建物にいるのかわからない。
 こうとなっては、友人の無事を祈るばかりだ。

 ロビン・フッドの処刑は街の中心部にある時計台の下で行われることになった。巨大な首つり台が引き据えられた。普段は市の開かれる大きな広場だが、今は兵士と市民に埋め尽くされている。まるで、街中の住民が集まって、すし詰めになっているかのようだ。けれど、三分の一は、変装した味方のはずだ。
 首吊り台の後ろには、大がかりな物見台が設けられている。まるで国王の玉座のように絹の衣で着飾っている。太助は吐き気がした。壇上には、街の長官が座っている。隣の若い女は長官の娘だろう。あんなところで処刑を見おろす女の気が知れなかった。物見台には護衛の兵士が詰めかけているが、銃士たちの姿も幾人か見えた。裏の階段をつかって壇上にモルドレッドが登場すると、広場の盛り上がりは最高潮に達した。

○     5

 ジョンは人波に押されている。少年を見失わないよう帯をそっとつかまえていた。ジョンは大柄だが、今では並の人間と変わらぬ背丈まで縮んでいる。乞食になりすましているのだ。おかげで目をとめる者はいなかった。
 一方、太助は足首まであるローブをかぶり、そこに刀を隠している。二人ともロビンの到着を今か今かと待ちわびていた。
 洋一が側にいないのが不思議な心地だ。斬り合いの助けにはならないが、心のどこかであの少年の存在をずいぶんと頼もしく感じていたのだった。太助は最後に洋一と喧嘩をしたときのことを思い出し、哀しみに胸を締め付けられた。こども同士の喧嘩を彼は生まれて初めてやった。でも、こどもの喧嘩は、仲直りをして初めて終了となるんじゃないだろうか? 太助はしっかりしろと心細くなる胸を叩き、ローブの下の刀を握った。ロビンが死んだらどうにもならないぞ。洋一とこの世界を抜けだすんだろ

 やがて群衆の後方で騒ぎが起こった。ロビンを乗せた馬車が広場に到着したのだ。粗末な荷台に乗り、首には縄が掛けられ、まったく囚人以外の何者でもない。若者たちがこぞってこじきをはやし立てるのを兵士たちが追っ払っている。ロビンは誰かに殴られたのか、顔には痣がいくつもあった。
 ちびのジョンは、かつての首領の無惨な姿に呻き声を上げた。心中では自分の心臓をかきむしっていた。彼を傷つけたのは、第一にロビンの目つきだった。ジョンは涙でにじむ目玉を瞬いた。垢じみた皮膚、ろくでなしのように伸びた髪、汚れた髭もジョンは許したろう。だがあの目つきだけは我慢できなかった。眼光鋭く周囲を圧したロビンの威光はどこにもない。生きているのに死んでいるかのようだった。ロビン、おめえはどうしちまったんだ――あそこにロビンの魂がないのなら、確かにあのロビンは生ける屍なのだろう。ジョンは、こう呻いた。
 なぜなんだロビン。
 まるで、群衆も兵士も消えて、広場には自分とロビンだけになったかのようだった。ジョンは周囲に気づかれるのも構わず背を伸ばした。まわりの男たちがぎょっとなった。ジョンはその男たちを突き飛ばしてロビンの元に向かいはじめた。太助が夢中で後を追った。
「なぜなんだロビン! なぜこんなことになった! なぜお前が死ななきゃならねえ、答えろ、ロビン!」
 壇上の長官らがすでに騒ぎ出している。太助は無念さにはがみした。この騒ぎに兵士たちはいち早く乗りだしてくるだろう。作戦はきっと失敗してしまう。
 広場の外れでは、ギルバートが仲間たちに攻撃の準備を命じていた。十字軍の騎士たちはロビンを救おうと結集し、中央へと向かいはじめた。
 ジョンからそう離れていない場所では、粉屋のマッチがジョンを哀れむかのように顔を伏せている。マッチも作戦の崩壊を予感していた。けれど、仕方のない、仕方のないことだ。あのようなロビンと顔をあわすのは、ちびのジョンは始めてなのだから。
 こうとなっては、ジョンと死のうと、マッチは懐に忍ばせた短剣に手を伸ばすのだった。

○     6

 太助はジョンに追いつき、その手をとった。ロビンを乗せた馬車はあっという間に広場を横切り、処刑台に到着している。長官がジョンに気づいて急がせたのだ。
 太助はジョンの腕をひっぱったが、彼の力では大男は止まらない。
「ジョン、どういうつもりだ! 身を隠さないと駄目じゃないか!」
 しかし、ちびのジョンには、太助の姿すら目に入っていないようだ。
「俺の前であいつは二度も死ぬのか。そんなことはあっちゃならねえ。世界があいつを見限っても、俺だけはロビンを信じなくちゃならねえ」と彼は言った。「俺はロビンが大好きだった。俺の目の前に見えるあいつは、今じゃ魂をなくしたかもしれねえ。それでも俺は、あいつのために命を張りてえんだ。もう止めるな」
「ジョン!」
 ちびのジョンは太助の手をふりはらい、ロビンの元に向かいはじめた。太助の視野の中で大きな背中が群衆に飲まれていく。
「ジョン、待て!」
 太助は慌てた手つきで水筒の蓋を外し、柄に水を振った。柄巻きをギュッと絞ると目釘を湿らせた。こうしておけば竹の目釘が膨張して、柄の強度が増すからだ。
 顔を上げると、意を決して処刑台を睨む。そして、この場にいない友人に声をかけるのだった。
「洋一、すまないが、ぼくもこの場で命を捨てるぞ。ジョンを放っておけないんだ」
 太助はジョンの後を追い、群衆の合間をすり抜けはじめた。救出作戦は思わぬ形で始まりはじめた。


□ その三 パレスチナのロビン・フッド

○     1

 洋一は時計台の鐘の下にいた。そこからだとすし詰めとなっている群衆がよく見えた。
「どうだ、小僧。モルドレッドは見えるか?」
 とスタートリーが訊いた。ロビンの古参の部下は、このスタートリーとアジームだけだった。後は十字軍の騎士たちが五人。この人たちはちゃんと武装している。街にいたときは浮浪者然としていたが、さすがに甲冑を着こむとちがうものだった。五人は敵の侵入を防ぐために、階下へと下りていった。
 アジームとスタートリーは、洋一に不審を抱くようになっていた。このところずっと様子がおかしかったし、どうみても情緒不安定である。今も不安げな顔をして、二人の顔を見ようともしない。アジトで一同を説得した洋一の姿はどこにもなかった。やはりこんなこどもに大役を任すのは無理があったのだ。
「小僧、訊いてるのか?」
 スタートリーは苛々として洋一の肩を叩いた。自分を見上げた少年の不安げな表情をみて、背後にたつアジームに顔を向けたのだった。その顔にははっきりとした困惑が刻みこまれていた。さっきまであんなに自信に満ちていたのに、どうしたんだこいつ?
 洋一は大人たちの不信をはっきりと感じていた。彼は自分の中から、何者かが急速に引き上げたのを感じていたのだ。今まで、本をつかうぞ、文を書きこむんだとそのことばかり考えてきたのに、伝説の書を広げ処刑場を見おろしたときには、創作の衝動はすっかり枯れ果ててしまっていた。彼は自分が一体なにに熱中していたのか、それすらわからなくなったほどだ。太助にはあんなふうに答えておきながら、自分が書きこむべき文章もその内容もまったく考えてこなかったことに気がついた。あんなにうんと考えてきたはずなのに、一人の時間もうんとあった(なにしろ太助とはうんと離れて行動していたのだから)。これまでどう時間を過ごしてきたのかもはっきりしない。
 そういえば、太助がなにか話していなかったか?(実際は怒鳴ってこなかったか?)伝説の書に関することを。
 洋一は全身の血管が裏返るほどの焦りと気味の悪さを覚えた。首根っこをつかまれるとはこのことだろう。彼はもうどうしようもないと思っている。書く内容がない。なのに、今さら書かないなんてとてもいえない。どころか、アジームは疑惑の目を向けてくる。あの奇妙な刀で彼の首を切断するつもりかもしれなかった。でも、彼は自分が書けないのを知っていた。だってゴーサインが出ていない。だから、洋一はこう思った。こいつは成功しない、失敗だ。
 そのとき、けたたましい笑い声を聞いた気がして、洋一は天井に吊られた巨大な鐘を見上げる。伝説の書を拾い上げて、お前がやったのか、ぼくをはめたんだな、と胸裏に問いかけた。
 ともかく、もうロビン・フッドは処刑場についたようだ。歓声はいやまして、アジームたちは時計台から身を乗り出している。
「太助は、太助はどこ!」
 と洋一は訊いた。スタートリーはめんどくさげにこう応えた。
「あいつならこの下だ。お前がそうしろって言ったろ」
 洋一には記憶がない。ともあれ、自分はこの窮地を一人で乗り切らねばならないらしい。
「おい小僧、どうなんだよ。書くならさっさとしねえか! もうギルバートたちが仕掛けちまうぞ」
「わかってるよ! ただ、このまま書いたってうまくいかないんだ。だってぼくはモルドレッドがどんなやつかも知らない」
「言い訳はいい」とアジームは三日月刀をつきつけた。洋一は喉首の下に冷たい刃を押し当てられ息も出来なくなった。「御託を述べる前に書きこめ。出来ないならそう言え。俺は下りてロビンを救う」
「おい、なにをしてるんだよ」スタートリーが割って入った。「小僧を脅してもどうにもなるもんか。おい、小僧、おめえに力がねえのなら、怒らねえから正直にそう言え」
「なにも嘘なもんか!」
 洋一は怒って腕を振り回した。二の腕が剣に触れたから、アジームもようやく三日月刀をひっこめた。
「情報だよ! 情報がもっといるんだ! モルドレッドが魂をどう扱ったのか、どこにしまったのか、あんたたちそれすら知らないじゃないか! 下手なことを書いたら、この本はどんなつじつまあわせをするかわからない! 本当はもっとこと細かに書くべきなんだ!」
「どういうことだ?」
 と二人の大人は同時に訊いた。洋一は焦りでおかしくなりそうだった。下の喧噪はますますひどくなる。暴動が起こる寸前だ。
「だから、書くんなら、事実に忠実に書かないとぼくらの思い通りにはならないってことだよ! あんたたちにはロビンの魂をどうとりもどして、その後どうするのか、そのプランがなにもないじゃないか!」
「今更なんだ!」とスタートリーも腹を立てた。「そんな必要があるんなら、なんで先に言わねえ!」
「洋一」とアジームは洋一の肩をつかまえた。洋一はやむなく入れ墨の男を見た。「そういうことなら、魂はモルドレッドが持っている。ロビンから抜けだした輝く玉が、あの男の胸に入っていくのを見た」
「輝く玉?」
 洋一は光明を見る気がした。彼にはその場面がたやすく想像できた。
「それはどうやったら出てくるの?」
 二人は今度こそ顔を見合わせた。
「なにを言ってる。それをさせるのがお前の役目だろう」
「ちがうよ、それを実現させるアイディアが必要なんだ。それをこの本に書きこめば……!」
「このくそ餓鬼、そんなものたった今思いつくもんか!」
 スタートリーは釣り鐘を叩いたから、ゴオンという鈍い鐘の音が頭上に響いた。護衛の騎士が何事かと様子を見に来たが、アジームは手を振って追い払った。
「それはどうしても必要なのか?」
「わかんないよ。どうなるかなんて検討もつかない。だって、この本のことぼくはなにも知らないんだ」
 スタートリーはナイフを引き抜いて詰め寄った。頭に血が上って、ジョンの忠告すら忘れている。
「だったら、なんで俺たちをここまで連れてきた。ガキの戯言を聞かせるためか!」
「待て、スタートリー」今度止めたのはアジームだった。大人たちもこの千載一遇のチャンスを活かそうと必死なのだ。「洋一、俺たちはロビンを救うために最善を尽くしたいだけなんだ。お前も協力してくれ。俺たちを説得したときはあんなに自信に満ちていたろう」
 それはぼくじゃないんだ! 洋一は心中で悲鳴を上げていた。でも、口に出してはとてもいえない。本に嵌められただなんて。自分が本の持ち主というより、本に呪われた被害者かもしれないなんて今更いえない。
 洋一は涙目になった。アジームに気づかれないよう時計台の端により、手すりから物見台にいるモルドレッドを見おろした。本物のモルドレッドがそこにいる。その外見を描写することだってできる。問題はその先だ。これが小説の一場面だとしたら、と考える。仲間たちの呼び声にロビンが答えるというのはどうだろうか? モルドレッドの体から魂が抜け出る。処刑場を飛び交うさまを描いたとしたらどうなるだろう。 
 ふと気がつくと、処刑場の人混みは激しく動くようになっていた。守備兵らが処刑場の中央を目指して突き進んでいる。誰かを捉えようとしているようだが、そうすることでさらに混乱を大きくしているのだ。処刑の観覧にはモルドレッドの私兵も参加していたが、まだ傍観を保ち、整然とした隊列を崩していない。洋一は太助の姿を探そうとしたが、もちろんこんなところから豆粒のような少年を捜すのは無理だった。
 今のアイディアに矛盾があるとは思えない。書こう、と洋一は心に決めた。動機としては弱い。だけど、ゴーサインが出たのかどうか、こんなに焦った状態ではわからない。頼むぞ……と彼は万年筆をみつめてつぶやいた。
 洋一の決意を感じとり、アジームとスタートリーは息を飲んだのだった。
 洋一は石の欄干に本を広げた。高層の風にページが揺れた。
『モルドレッドはまだ三十代の壮年だった。人並みのひげを蓄え、茶色の髪で、どちらかというと平凡な顔立ちに見えた。背丈もウィル・スタートリーと変わらない。やせぎすで、ジョンやアーサー・ア・ブランドのような筋骨はかけらもなかった。けれど、その魔術とカリスマ性は彼を実際より大きく見せていた』
 アジームとスタートリーは感心して呻いた。伝説の書はまだその力を欠片も見せていなかったが、見たこともない複雑な文字(漢字のことだ)をこんな少年が操っている。
『モルドレッドはその体内に魂を抱えていた。彼がロビン・フッドから奪い封じこめた人魂だった。モルドレッドは異変を感じた。それは彼の耳がちびのジョンの呼び声を聞き、ロビンの魂が――』
 洋一はあることに気づいてペンを止めた。
「文が消えない……」
 喉が少し震えた。紙の上には文字が残ったままだった。スタートリーが後ろから肩をつかんだ。
「おい、なんだ、なんでやめる! もう全部書いたのか?」
「ちがうそうじゃない。本が文を吸いこまないんだ! いつもはすぐに消えてくのに……」
 そのときページが独りでにバラバラとめくれだした。
「だめだ!」
 と洋一は言った。
 伝説の書から風が吹き上がっている。重い釣り鐘を揺らすほどで、アジームたちもたじろいだ。そして、紙の上で文字が揺れている。まるで、伝説の書が文を追い出しているみたいに見えた。インクで出来た文章が、本から浮き上がり、左右に身をくねらせる。
 洋一は風にも負けずに前に出た。両手で文を押さえにかかった。スタートリーも後ろからのしかかる。三人の手の下で、洋一の書いたへたくそな文字が、紙から離れようと鳥みたいに暴れている。バタバタバタ。洋一は肩が外れるほどの衝撃に耐えかねて悲鳴を上げた。だめだ、こいつぼくを疑ってた、ぼくを見抜いてた! このアイディアじゃ駄目だって知ってるんだ!
 洋一は懸命に訴えた。「やめろ、文をすいこんでくれ!」
 そのとたん、洋一の体は大きく後方にはじかれた。彼は釣り鐘の真下に落ちて、鉄の巨大な空洞を覗くかっこうになった。そこへ紙を離れた文字たちが群がる。洋一は転がったままメチャクチャに腕を振り回した。二次元の文字が周囲をぐるぐると周りながら、爆撃機のように降ってくる。洋一は体をふって逃げ回ろうとしたが、額や頬にペタペタと貼りついた。
「うわ、うわあ!」
 アジームが空を躍る文字に向かって三日月刀を振り回した。スタートリーもナイフで突いた。ところがなんの手応えもない。
 洋一の顔はどんどんインクに覆われていった。今では伝説の書からは洋一の書いた以上の文が吐き出されていた。洋一が悲鳴を上げると、その喉にも文は飛びこんだ。頬がみるみるうちに痩けていき、目が眼下に落ちくぼむ。その下には大きなクマができた。血液が抜けていく恐ろしい感覚を味わう。彼は生命力を吸い取られている。手足があっというまに痩せていった。筋肉がなくなり、皮膚が骨に張りつく感触が自分でもわかる。肌はまるで皺だらけで老人だ。体の水分がごっそり減って、喉が渇き血液は濁り息苦しさに喉をかきむしる。アジームとスタートリーではどうにも出来なかった。騎士たちが二人上がってきたが、やはりこの光景に唖然となった。
 呪われた文字は洋一の生命力がすり減るごとに数を減らしていった。
 バタンと大きな音がした。アジームがふりむくと、伝説の書がページを閉じていたのだった。まるでこの小僧からはもう搾り取るものはないといっているかのようだった。伝説の書は、つまらぬ文章に、それを書いた張本人に、厳しい断罪を下したみたいに傲然としている。洋一は体が空っぽになった感触に苦しみ(なぜか猛烈に腹が減った。背中とお腹がくっつくようだ)、おちくぼんだ頬に手をあてた。指の先でかさついた肌――まるで干物みたいだ。ぼくは干物になっちゃった――アジームが抱き起こすと、彼は本に殺される、と乾いた唇で言う。すると、皮膚が裂けて、下唇から滴が落ちた。
「なんてこった」とスタートリーが言った。「あの本は本物だった。でもって小僧は文を書くのに失敗した! なんてこった!」
 だが、彼らの苦しみはそこでは終わらなかったのだ。下から悲鳴が聞こえて何者かが上がってくる、ブーツが石を叩く高い靴音がした。上にいた二人の若者が剣を抜いて階段口に向かったが、下から躍り出た男に一人はたちまち頭蓋を割られ、もう一人は胸を串刺しにされた。男はそのまま騎士を抱くようにして階段の残りを上ってくる。アジームは迎え撃とうと、洋一たちの前に出た。
 男の姿が階上に出、陽の光のうちに入ったとき、ロビン一味の剛強、ウィル・スタートリーは、うめき声を上げたのだった。
「モルドレッド……」

○     2

 洋一はアジームの腕の中で震えている。恐ろしいやつならなんどもあった。恐ろしい目にも遭ってきたのだが、存在そのものに圧倒されたのは、これが二度目のことだった。モルドレッドは彼が書いた以上の存在だったのだ。その恐ろしさときたら、ウィンディゴに引けをとらない。人の魂に大きさがあるというのなら、モルドレッドの魂は、その場にいた三人を飲みこむほどに大きかった。
「小僧」とモルドレッドは言った。「貴様なにかをしようとしていたな。このモルドレッドを害する気があったのだ! ちがうか!」
「ぼく――ぼく知らないよ。なにもしてない……」
 洋一はいったが、舌が干からびてほとんど言葉にならない。わずかに残った水分も涙となって抜けていった。
 モルドレッドは黒剣で伝説の書を指した。「あの本はなんだ。そんなものでなにをするつもりだった」
「ぼく、ぼくちがう。ぼくはなにも――」
「黙れ、小僧!」
 アジームは洋一をそっと床に寝かせた。頭蓋骨と皮膚の間の肉が無くなって、石の硬い感触が生々しく骨に伝わるのを感じた。アジームがちょうどいい、とつぶやくのが聞こえた。
「こちらから出向く手間が省けた。ロビンの魂は返してもらうぞ!」
「笑わせるなわっぱども」
 とモルドレッドは巨大な黒剣を死んだ騎士から引き抜いた。ウィル・スタートリーが言った。
「なにをしにイングランドに来た! なぜロビンを狙う!」
「狙う? ロビンをだと? それこそ笑止よ! この俺がなぜあんな小物を相手にする! 俺はこの俺のための玉座をとりにきたのだ。数百年の間簒奪された王位をだ」
「なにを言ってる?」
 スタートリーはじりじりと移動して、弓をとり矢をつがえた。その間の牽制はアジームが引き受けた。
 スタートリーは不敵に笑ったが、その片面は引き攣っている。「貴様は不死身を名乗っているそうだが、おつむは相当に弱いな。リチャード王を殺せば王権が自分に転がりこむとでも考えたか」
「お前はなにもわかっていない。王権はもともとが俺のものだ。リチャードこそが簒奪者だ!」
「ばかをいえ、戯れ言はもうたくさんだ!」
 スタートリーは弓弦を離そうとしたが、モルドレッドはそれよりも早くウィルの懐に飛びこんだ。アジームが身動きする暇もない。モルドレッドはスタートリーの利き腕をつかむと、逆巻きにねじって骨をへし折った。
「国王に弓引く気か、それでもイングランドの民草か!」とモルドレッドは言った。「俺こそは大ブリテンの王、アーサー・ペンドラゴンの息子、モルドレッド・デスチェインである! 控えろ!」
「アーサー? アーサー王だって?」
 洋一は頭をもたげた。その脳は答えを得て火花を散らした。その名前なら聞いたことがある。彼らは勘ちがいをしていたのだ。モルドレッドがフランスの貴族だときいていたから。ここはイングランドが舞台なのだから、ウィンディゴが登場させた人物とてイングランドの関係者のはずだ。そして、モルドレッドという名前の出てくる物語、それは――
「アーサー王だ……」
 と彼はつぶやいた。そのときスタートリーが、モルドレッドに答えて怒声をあげた。
「ばかを言うな。イングランドの王は、貴様が罠にはめ、殺した獅子心王をおいて他にない!」
 モルドレッドは哄笑をあげた。
「ジョンもリチャードも真の王不在の折をついた簒奪者にすぎん。イングランドの王たりえるのはこの世に俺をおいてないのだ!」
 モルドレッドはスタートリーを突き放した。スタートリーは悲鳴を上げながら、アジーム、アジーム、こいつを殺せ、と言った。アジームはすでに斬りかかっていたが、モルドレッドはまるでいくつも目玉があるみたいに、死角からのこの攻撃をやすやすと外した。黒剣の攻撃は、巌のように重く硬かった。アジームは三日月刀ごと吹き飛ばされ、釣り鐘に頭をぶつけて混濁する。洋一の上に鐘音が超音波のように振ってきた。アジームは洋一のすぐ足下に腰から落ちてきた。
 洋一は骨だけになったような体を(力がまるで入らない)どうにか動かしてうつぶせになり、
「ウィンディゴだ、こいつウィンディゴの手下なんだ」
 モルドレッドはかっと目を剥いた。彼の目玉は赤く光り、そして、目玉の奥に無数の目があった。
「控えろ、小僧! このモルドレッドがいかな男の下につく! 王は偉大なり、あのアーサーよりも! 我は不死であり、三つの呪いを背負いし王だ! 五百の赤子の魂をまとい、マーリンの血を受けし王! 我より偉大なものがどこにいる!」
 洋一とアジームは、モルドレッドの怒声を受けて、文字通り平伏した。
 どれも聞いたことのある話ばかりだ。それはそうだろう。彼はこの男の物語を読んだのだから。だけど、二つの物語が混ざり合ったりするものだろうか? ウィンディゴのやつ、そんな真似までできるのか?
 アジームは後頭部から血を流し、クラクラと頭を回している。傷口から脳がはみ出ていないのは幸いだ。ただ出血がひどかった。
 洋一は気丈にも立ち上がろうと、手を突っ張った。でも、足がいうことを聞かない。洋一は、手足を地面についたまま、モルドレッドを見上げた。
「ロビンの魂をかえせ! ウィンディゴの手先め!」
「この俺が誰の手下だというのだ。この俺こそが世界の王だ!」
「あいつはなにを言ってるんだ」
 朦朧とするアジームがつぶやいた。
 洋一が言った。
「だから、アーサー王だよ。あいつはアーサー王の息子なんだ」
「ばかな、アーサーなど、何百年も昔の人物だろう」
 と、アジームは震える声で言いかえした。彼は、血液まじりの唾を垂らしている。とても戦えそうにない。
 洋一は、動かない体がもどかしかった。本に力をとられなかったら、こんなやつ!
「卑怯者! この卑劣漢! 円卓の騎士なら、正々堂々ロビンと勝負しろ! 侍ならそうする。お前なんかに負けない。お前なんか、ぼくの知ってる侍なら……」
「小僧! 俺を円卓の騎士と呼ぶな! 俺は王だ!」
「うそだ! お前は王なんかじゃない! 一度も王になんてなれなかった。お前はアーサー王に勝てなかった! お前は敗北者だ。王なんかじゃ……」
「黙れ!」
 洋一が顔を上げたときには、モルドレッドは目の前にいた。アジームは力なく両腕を伸ばしたが、それはどうみてもモルドレッドに救いを求めているようにしか見えなかった。モルドレッドは無慈悲にも少年を蹴転がした。洋一の心が恐怖に燃え立った。その炎で内蔵が焦げたかのようだ。スタートリーが、逃げろ、呪われ小僧、といったときはもう遅かった。モルドレッドは右腕を高く上げ、洋一の額に指をめりこませた。まるで骨などなく、豆腐でできているかのようだった。
「ちくしょう、やめろ!」
 ウィル・スタートリーの折れた腕が揺れている。モルドレッドが叫んだ。
「俺を円卓の騎士と呼ぶな! 俺はあの者どもと同列などでは断じてない。俺は王だ! 中世より生きつづける不死の王だ!」
 洋一は、ぼくは死んだ! と悲痛な叫びを心に上げたが、不思議なことに痛みはなく、血も脳漿も流れなかった。ただ、脳をまさぐる指の感触を生々しく感じた。モルドレッドの指が電気を発したかのように、頭の奥で、ぱちぱちという音がする。
「貴様に呪いを植えつけてやる! 我が魂の爪痕を、貴様も味わうがいい!」
 洋一は、やめろ、と叫んだ。釣り鐘が揺れるほどの大声で叫んだはずだった。けれどその舌は言葉を求めて震えるばかり。口端からは涎が一滴垂れただけだった。まるで死体になって、魂だけが心に残ったかのようだ。痩せこけた体が冷えだす。声もでず息もできない。活動のすべてが隅に追いやられている。血流が脳に集まって、二倍三倍にふくれ上がる。
 呪いを植えつけられるその刹那、彼はモルドレッドの心に触れた。いまや洋一とモルドレッドは、呪いを通じてたがいに深く結びつきあっていた。洋一はモルドレッドに起こった数々の出来事を知り、その苦悩の人生に怖気をなした。こんな目にあって正気を保っているこの男はどうかしている。こいつに封じられているのはロビンだけじゃない。五百の赤子もおなじじゃないか! 彼の魂は救助をもとめて叫びまわった。恐慌をきたした狂おしい叫びに、モルドレッドもたじろいだ。それは何者かが洋一の声に応えて、雄叫びを上げたからでもある。
 モルドレッドは洋一の頭から指を抜き去り飛び下がった。彼の胸が光を放っている、モルドレッドはその光を両手で押さえようとする。洋一はその眩しさに目を閉じた。モルドレッドの苦悶とともに、金色に輝く魂が、モルドレッドの指を突き抜け宙に躍り出た。
 モルドレッドはその光り輝く玉を追った。
「ロクスリー!」
 ロビンの魂は宙を旋回して、モルドレッドに襲いかかる。モルドレッドは攻撃を防ごうと黒剣で身を守る。アジームは床に転がった洋一を抱きかかえると、スタートリーの側に避難した。スタートリーは、ロビン、ロビンと懐かしい名を呼んだ。もう何世紀もロビンの姿を見なかったようだというのに、その魂の輝きを目にした途端、二人の心に熱い親愛の情があふれてきた。ロビンは魂だけだというのに、仲間を救うたびにふたたび立ち上がったのである。
 ロビンは二度三度とモルドレッドを襲う。モルドレッドが黒剣をふるい、なんと釣り鐘をたやすく斬り裂いた。
「ロビン、ロビン逃げろ! 俺の仲間を助けてくれ!」
 とスタートリーが言った。アジームが彼のナイフを奪い、モルドレッドの胴を突き刺した。モルドレッドは不意をくらってよろめく、貴様、と眼光鋭くアジームをにらんだ。洋一は恐怖に震え上がる。アジームに刺された傷口が、死兵とおなじあぶくをたてていたからだ。
 ロビンの魂はモルドレッドの顔をうち、つぎに傷口にとびこんで、そのまま彼を引きずりだした。モルドレッドはたたらをふんで、欄干に腰を打ち当てる。アジームが後を追う暇もなかった。ロビンの魂はモルドレッドともつれあって彼を時計台から突き落としたのだ。
 アジームとスタートリーはすぐさま欄干に駆けよって下をのぞいた。下界の樹木の隙間にモルドレッドのものとおぼしき足が投げだされているのが見えた。すでに人が集まりだしている。
「あいつは死んだのか?」
 とスタートリーが訊いた。
 アジームはわからんと答えたが、モルドレッドがやすやすと死ぬはずのないことは、この二人がよくよく分かっていたのである。

○     3

 洋一は悲鳴をあげて転げまわる。右手の中に、灼熱の痛みがあった。
 アジームが伝説の書をもってもどってくる。
「みせてみろ」
 ウィル・スタートリーが洋一の指をひらくと、手のひらには、どす黒い亀裂がひらけている。肉はなく、血もなかった。まるで、大地の亀裂のようだ。亀裂の後には暗黒が漂っている。アジームはうめいた。「あいつの毒だ」
 洋一は痛みのあまり涙をながす。アジームは彼の胸に気休めみたいに本を置いた。
「どうなるの?」と洋一は訊いた。
「十字軍で、おなじ傷をもつ死体をなんどもみた」アジームはつぶやくように言った。「その傷跡は、やがて全身に広がりお前を喰いつくす。パレスチナで広がった奇病だが、あいつのせいだとは知らなかった」
「いったい、どうなってる」とスタートリーがアジームに訊いた。「あいつはフランスの貴族じゃないのか?」
「ちがう。あいつは本物なんだ」洋一が言った。額には脂汗が浮いている。「あいつに呪われたときに、いろんなものを見せられたんだ。あいつはほんとに中世から生きてる。本物のモルドレッドなんだよ」
「そんなばかな」とスタートリー。「いくら王家の人間でもそんなに生きられるはずがねえぜ」
「聖杯だよ。円卓の騎士は聖杯をさがしだしたじゃないか。あいつは永遠の命をえるために、ゴブレットの生き血を飲んだんだ」
「三つの呪いとはそのことか?」とアジーム。
 洋一は震えながらうなずいた。「マーリンだよ。全部、マーリンが仕組んだんだ。マーリンはモルドレッドが生まれたとき、五月一日に生まれたこどもが災いをもたらすって予言した。五百の赤子っていうのは、そのとき小舟で海に捨てられたこどものことなんだ。その中にモルドレッドもいた。船の中は、赤ちゃんの死体でいっぱいだったのに、あいつだけは死ななかった」
「もともと不死身だったってえのか?」
 ウィルの言葉に洋一は首を振った。
「そうじゃない。死ななかったのは、マーリンが自分の生き血を飲ませたからだ。あいつはモルドレッドを自分の手下にしたかったんだ」
「待てよ、伝説じゃあマーリンはアーサー王を助けたんだろう」
 とスタートリーが言った。
「もとのマーリンはそうだった。でも、マーリンは夢魔と人間の間に生まれたんだ。マーリンのお母さんは、マーリンをまっとうな人間にするために、教会で洗礼を受けさせた。マーリンから悪の心がぬけて、不思議な力だけが残ったんだ。でも、悪のマーリンも生きつづけた。そして、善のマーリンを殺して、なりかわった」
 マーリンのもくろみどおりになった。モルドレッドは古の血とイングランド王家の血筋をもつ混血となったのだ。
 海峡をわたったモルドレッドはフランス貴族に拾われ育てられる。やがて、育ての親を殺したモルドレッドは、イングランドにもどり、円卓の騎士の一員となる。彼はマーリンと結託して、父王アーサーを追い落とそうとする。モルドレッドはアーサーと戦い、その槍に胸を貫かれる。だが、アーサーもまた深傷のために亡くなってしまう。マーリンは円卓の騎士を壊滅させ、モルドレッドもまた父王殺しの呪いをうけてしまった。
「モルドレッドは死ななかった。そのときには、聖杯の生き血を飲んでいたから。だけど、マーリンは動けないモルドレッドを、迷宮に封じるんだ」
「そこから、出てきたってえのか。復讐のためにリチャード王を殺し、イングランドの王位につこうってのか」ウィル・スタートリーは釣り鐘の下を歩きまわった。「こうしちゃいられねえ。ロビンを救わねえと」
「まだあるんだ」と洋一はひきとめた。「ジョン王の側近のモーティアナは、自分はマーリンの弟子なんだって言ってた」
「なんてこった……」
 スタートリーがうめく。洋一もおなじ気持ちだった。イングランド王家の血を引きながら、マーリンの生き血を啜り、五百の赤子の呪いをうけ、聖杯の呪いを受けし男。さらに父王殺しの呪いまで背負っている。ウィンディゴに勝るとも劣らないやつだ。
 洋一は右手をかかげて傷口をとっくりとながめた。傷口の闇は、まるで暗黒の霧であるかのようにうごめいていた。洋一の心は絶望に冷えた。ただの傷口なんかじゃない。本物の呪いがそこにあった。 あんなすごいやつがいたんじゃ、ロビンが復活しても、きっと……
「洋一」アジームがやさしく少年の肩をゆさぶった。「すまないが、いまは一刻を争う。立てるか?」
 洋一はアジームに抱え上げられる。左手で傷ついた腕と伝説の書を抱え、痛覚を楊枝でほじくられるような痛みに苛まれながら。脳裏では友人に語りかけている。
 アジームが走り、洋一は体が揺れ、頬を流れる一滴の涙を風が揺らすのを感じる。幼い友人がどこかでおなじように走っているのを感じる。
 あいつに謝らなくちゃ、ぼくのために忠告してくれたのに、ひどい口をきいてしまった。それに伝えないと! モルドレッドのことを、あいつがどんなに危険かって……
 洋一はアジームの腕のなかで本を開こうとしたが、体が奥底から震えて指がうまくつかえない。本になにかを書きこむには、彼は傷つき、かつ疲れすぎていた。
 彼は表紙に掌をおいた。伝説の書がしっとりと息づくのを感じる。本は味方でないと知りながらも願わずにはいられない。
 彼は、太助太助死ぬなと心中に言葉を発しながら、意識を薄れさせていった。太助に伝えるんだあいつを助けるんだと念じながら、彼は意識をなくしたのだった。

○     4

 ジョンは必死に走りつづけた。ロビンの元をめざし、群衆を掻きわけていく。フードは脱げ、武器も丸出しになっていたがそれにも構わなかった。ちびのジョンは無意識のうちにつぶやいていた。
「ロビン、ロビン待ってくれ、死刑囚などにならねえでくれ」
 群衆にもまれるジョンの大向こうで、ロビンは死刑台に引き上げられる。あのロビンが犬のように両手をついていた。それだけでジョンの胸は張り裂けそうだ。あれはロビンじゃねえ、あんなものロビンであるもんか!
 彼は怒りの唸りを上げた。
「おめえら、おめえらにロビンを殺す権利があるのか! あの男は真っ正直に生きたんだぞ。名無しの浮浪なんかじゃねえ、やめろ!」
 ジョンは周りの人間を残らず蹴散らし、ついに兵隊たちが目をとめた。処刑台の兵士たちは、ジョンを捕らえようとする者と、処刑を執行しようとする者、二手に分かれる。ジョンは剣を抜き放ち、逃げまどう人々の中を突き進んだ。ロビンは首に縄をかけられ、ぐったりと頭を垂れている。もう死んでいるようにも見える。
「ロビン、ロビン・フッド! 目をあけて俺を見ろ! おめえの副隊長がきたんだぞ!」
 兵士たちは壇上に並んで槍を突きだしてきた。鰯の群れのような穂先が彼の行く手を阻んだ。ジョンは仰け反りながらそのけらくびを斬り上げ、たった一人で槍ぶすまを突き進んだ。
「くそう、邪魔をするな!」
 兵士たちはジョンを叩き落とそうとするが、大勢でいっせいに槍を繰りだすものだから、いっかなジョンには当たらない。ジョンは棒で叩かれ、穂先に肉を削がれながらもロビンを救おうと猛り狂った。そのうちにジョンのもとに仲間の騎士たちが駆けつけ、弓の援護がはじまった。
 広場へつづく二つの道路から十字軍が津波のように押し寄せてきた。守備隊の陣形が崩れたち、死刑台にも動揺が走った。ちびのジョンはそのすきをついて、剣を風車のように振りまわし、死刑台の上の足を払ってまわった。血が飛散し、台を濡らし、ジョンの顔を撫でまわす。兵士たちが敵わずとみて飛び下がると、ジョンは巨体を踊らし、死刑台に飛び上がった。
「俺はジョン・リトル、イングランドのヨーマンだ! ロビンを返してもらうぞ!」
 太助も日本刀を手に駆けつけた。彼は死刑台から落ちた槍に足をかけて跳ね上がる。ジョンに近づく敵兵を斬り倒した。ロビン側の騎士たちは威勢を駆って台に上がり、敵兵を追い落とした。
 ちびのジョンは夢中で叫んだ。
「太助、ロビンだ、ロビンがいたぞ!」
「ならばロビンの縄を解け!」
 銃声が轟いた。太助の周りで騎士たちがバタバタと撃ち倒された。銃士隊だ。モルドレッドの連れてきた私兵隊が、死刑台の右手から攻撃を加えている。太助は身を投げだすと同時に兵士の落とした盾を拾った。太助は盾の陰に身を隠しながら、死刑台の周りを見回した。もう、敵も味方も入り乱れての混戦となっている。一方で銃士隊は区別をつけずに発砲してくるのだから始末に終えない。銃弾が盾に当たって貫通した。太助は盾の銃痕を裏から見ながら、火縄銃とはこんなに威力があるのかと瞠目した。これでは新式銃にも劣らない。
 仲間たちは幾人も壇上に上ってくるが、後から後から撃ち殺されている。太助は堪らず叫んだ。
「ジョン、早くしろ!」
 ロビンの脇では、司祭が手を合わせて命乞いをしている。ジョンはこの老人の手を取り追っ払うと、ロビンの体をしがみつくようにして抱き上げた。
「ロビン・フッド!」
 ロビンが顔をもたげる。その虚ろな目が、ジョンの脳髄を突き刺した。
「俺がわからねえのか?」
「なんだ、貴様……」
 とロビンが言った。ジョンの瞳に涙が浮いた。昔日のロビンが脳裏にいくつも蘇る。彼はまぶたをしぶると、震える胸をのみこみ言った。
「俺が来たからにはもう大丈夫だぞ。シャーウッドに帰ろう」
 帰ろう
 その声はひび割れ、言葉の終わりはかすれて消えた。だが、その暖かな呼びかけも、ロビンを呼び戻すには至らなかった。ジョンが縄をほどこうとすると、ロビンはいやがるように身をよじらせる。やめろ、と拒絶したのだった。
「俺だ、ちびのジョンだ!」
「貴様など知らん」とロビンが言う。「俺は今死にたいのだ」
 ジョンは本気で腹を立てた。地響きのするような唸り声を上げた。ロビン・フッドはこんなことを言わない、生きるために、仲間を生かすためにどんな力も発揮した男がいまさらなんだ! ジョンはロビンの肩を揺さぶりだした。
「パレスチナがなんだ! 魂がなんだ! 貴様の体は今ここにあるだろうが! さあ、目を開けて俺を見ろ! 俺の名を呼べ! 俺は誰だ!」
「やめろ、貴様!」
 もみあう二人の周囲にも銃弾が飛び交いだした。銃士たちが周囲の建物にあがって、下界をめがけて銃撃をはじめたのだ。
 太助はもう盾を捨てて戦っていたが、たまらずジョンの元に下がってくる。「ジョン、なにをしてる! 銃隊だ! 皆殺しにされるぞ! ロビンを下ろせ!」
「こいつはロビンじゃねえ! 俺はロビンのために命をはるんだ! おめえがロビンじゃねえのなら、俺はお前を助けねえ!」
「ジョン、意地を張るな!」
 首吊り台の木片が散り、三人は首をひっこめた。
 奥村太助は首吊り台の根本にうずくまりながら、怒りのうなりを上げた。無差別な銃撃で市民たちが折り重なるように倒れていくのが見えたのだ。
 彼は生まれてこの方、私心を捨て公のために生きる侍の教えをたたきこまれてきた。公とは民草のことだ。供に旅した大人たちがこの小柄な少年に叩きこんだのは、侍の理想像にほかならなかった。すべての人民のために、侍は命をかけるのではないのか。銃士は侍ではないが、騎士はその近くにあると聞いている。
 太助は怒りに震えて立ち上がると、銃士めがけて呼ばわった。
「貴様らの所行しかとみとどけたぞ。天が許そうとも侍たる自分がお主らを許さん! そこをおりて剣をまじえろ! 無抵抗の者を狙うな!」
 太助、やめろ、とジョンは言った。そう言いながら彼は、ロビンの前に仁王立ちとなった。弾丸が幾度となくかすめて頬を焼いた。彼の眼上では銃弾が煙を噴いて飛び交っている。銃士たちが進撃して、処刑台の正面に回りこんできた。
「そんなにロビンを殺してえなら、俺の命をとってみろ! そんな鉄の玉っころで死ぬもんか!」
 彼らは群衆より高い位置にいて格好の的になっている。銃士が折膝の姿勢をとって銃を構えだす。ジョンは顔を背けなかった。これまで長年月そうしてきたようにロビンのために体を張っている。ロビンはそこをどいてくれと懇願し、ジョンはどくもんかと言い張った。太助もついに呆れかえった。二人ともだだっ子みたいに強情だ。
「なぜそんな真似をする。俺などを救ってどうなる。俺は食い、寝、排便するだけの下らん存在だ……もう誇りもなにもない」
 ロビンは十字架に縛られたまま、鼻水を垂らして泣いている。ジョンは涙に頬を濡らしてつぶやいた。
「俺にはお前が必要なんだ。必要なくたって必要なんだ。絶望するなら、精一杯やってからにしろ!」
 ロビンはジョンの背中に語りかけた。君は、自分などのために死ぬべきではない。自分は君など知らない。自分は生きていてもしかたのない人間だとかき口説いた。
 ジョンは涙した。かつてのロビンは生命力に満ちあふれた人間だった。絶望にあっても活路を思い、どんな窮地も切り抜けてきた。くそったれ、とジョンはロビンに腹を立てた。何年ぶりかに帰ってきておめえの無様なざまはなんだ。俺に弱音を吐きにもどってきたのか
「何百万の敵にだって角笛をならして立ち向かったおめえはどこに行った! どんな相手にも体を張ったおめえはどこだ! 立派な生き様をする気がねえのなら、立派な死に様をする資格だってねえ! 俺たちがそんな人間に成り下がったんなら、天は俺たちを殺すべきだ。ともに死んでやるから、ともに行こう、ロビン・フッド」
 ジョンはついにどかなかった。銃弾がその体を揺らした。腕に食いこみ、胸に当たった。けれど、ジョンは歯を食いしばり耐えた。呻き声すら上げなかった。ジョンの足下を濡らす血溜まりが、ロビンの目にも見えた。
「やめろ、なぜこんなことをする!」
「だまれ、名無しの無法者!」
 とジョンは吠えた。ロビン・フッドがこの天地にいないのなら、彼はこの男と一緒に死ぬつもりだったのである。


 ロビンはパレスチナからこちら、自分がなにを見、どんな目にあってきたのかを言いつのった。ロビンが世に絶望したのも無理はない、と太助は思った。仲間とはぐれては、虐待にあい、戦乱に巻きこまれ、虐殺の現場に立ち会ってきた。魂をなくし、赤子のようになった人間が、そんな目にあってきたのだ。だが――
 太助は目を細め、硝煙にけぶる広場を見渡した。処刑台に集まる銃撃はますます数をましている。刀の腹に弾が当たって、彼は柄を取り落とす。愛刀がガラリと台場に落ち、太助は血に塗れた台を這って刀を拾った。
「洋一!」
 と彼は言った。ぼくらを助けてくれ!
 その声が聞こえたわけではあるまい。まして、彼は洋一が文を書くのは失敗したろうと信じこんでいた。
 もうおしまいだ。自分たちは父上と男爵に会えぬまま、この街で死ぬんだ。
 太助は血で滑る掌をぬぐうと、刀を握りなおして壇上を降りようとした。鉄の玉に殺されるぐらいなら、敵兵と戦い斬り死にしたかったのだ。
 そうして、処刑台から駆け下りようとしたとき、時計台のあたりから光がたち去るのが見えた。彼は雲の下で光を見失ったが、光はすぐに現れて、広場を旋回し、銃士たちの頭上を飛びこえて、敵兵の生き肝を抜いた。
 ロビンの魂だ!
「ジョン、見ろ!」と太助は言った。「洋一のやつ、やったぞ!」
 光が処刑台を目指して飛んできた。ジョンの体を突き抜けて、ロビンの胸に突き刺さる。
 その間も、ジョンは朦朧としつつ、まだ巨体をたてていた。こめかみを弾丸がかすめると、ジョンは大きく身を蹌踉めかせる。ロビンは、ついにその名を呼んだ。
「やめろ! やめろ、リトル・ジョン!」
 ジョンは驚いて意識をとりもどした。よろめいたおかげで、半身の姿勢となって、それでロビンと顔を合わせる結果となった。フルラウンドを打ち合ったボクサーのように茫漠としたジョンの意識が、このときだけは明瞭となった。
 ロビンの顔は涙に濡れていたが、その瞳は燃え上がる義憤に輝いている。さきほどまでの弱々しさは微塵もない。ジョンは、おおと口元を両手で隠した。涙があふれると、その手で目玉を覆ったのだった。リトル・ジョン。なんて懐かしい呼び名だろうと思った。それはロビンが、本気で怒ったときに口にする言葉だ。聴きたかった声だ。いまこそ、こいつはロビン・フッドだ!
「リトル・ジョン! 俺のいうことが聞けんのか! 下がれ!」
 ジョンが言われた通りに身をしゃがめると、ロビンの右肩を弾丸が掠めた。ジョンが悲鳴を上げ、太助が刀を回し、ロビンのいましめを切り裂いていく。
 その間も弾幕が乱れ飛ぶが、ロビンはびくともしなかった。太助が足の縄を切ると、首にかかった縄をほどきつ、死刑台から身を乗りだしたのだ。
「アラン・ア・デイル、弓をもて! ヨーマンよ、我が元に集え! 我が敵を討ち果たせ!」
 ロビンの呼び声に十字軍は奮い立った。銃士隊が旧装備の騎士たちに押されはじめた。
 ジョンはロビンの側で膝をついていた。かつてのままのロビンが、突然出現したかのようだった。彼は他のどんなものより人間らしかった。まさしく正しい人間がそこにいた。自分がどんなに飢えても、困っている人間には手をさしのべる男――不信に苦しみ、猜疑にとらわれた人間も、ロビンならば信用するだろう。なぜなら、ロビン・ロクスリーはどんなことにだってその身を投げ出して立ち向かう男だし、どんな困難にも決して後ろを向いたり道を逸れたりしなかった。人のいるべきど真ん中にいつだって立っている男だ。ジョンは、この男のこの姿が見たかった。ヒーローに憧れる少年のように、彼はこのロビンにこそ会いたかったのだ。
 手近にいた騎士たちが、ロビンのもとへと駆けつけてくる。
「ロビン……」とジョンは友人を見上げる。
「ちびのジョン。お前に会うのもずいぶん久方ぶりだなあ」
「ああ、ああ」
「ジョン、おかしいのだ。ここは戦場だというのに、この穏やかな気持ちはどうしたことだろう」
 ロビンは自分を付け狙う矢弾が別世界のことであるかのように、ゆったりと目を閉じた。まわりに居並ぶものは、身を隠すことも忘れて彼に見惚れた。
 ロビンは自分をとりまく日の光や風を、心ゆくまで味わった。細胞の一つ一つが目覚めていき、そのたびに喜びがわきおこる。力がふつふつと踊るように湧いてくる。
 天が地上にいる人間に味方をすることがあるのだとしたら、まさにこのときだったろう。奥村太助は、この男こそ、この物語の主人公、ロビン・フッドにまちがいないと強く感じた。自分に心服する男たちを従え、悠然と目を閉じている姿は、まさしく侍そのものだった。
 ロクスリーのロビンは、古い友人をかたわらにつぶやく。
「長い暗闇の中にいたようだ。ジョン、見ろ、この日の光を。潮風をかげるか。曇り空すら美しいではないか。俺はたった今生まれたようだぞ」
「ロビン、あぶねえ」
 ちびのジョンは弾丸から守ろうとしたが、ロビンは彼を追いはらった。
「かまうな、ジョン。今下で死に玉を恐れず戦うヨーマンたちを見ろ! なぜ俺だけがひっそりと隠れることができようか! さあ、みな陽の下に顔をさらせ、俺たちは誇りたかきヨーマンだ!」
 そのとおりだ!
 ジョンはロビンに唱和したかったが、のどは涙につまり、なにも言葉にすることはできなかった。
 ロビンは壇の上からふりむいた。
「ジョン、長いあいだ苦労をかけたが、それも最後だ。これからはともに苦しみ、ともに喜びをわかちあおう。ともに行こう、兄弟よ!」
 ジョンはむせび泣いた。
「俺にはその言葉だけで十分だ。そして、許してくれ。お前の苦しみを、俺はたった今までとりのぞくことができなかった」
「なにを言うジョン。その苦しみすら、今日の喜びを得るためにあったのだ! さあ、今こそ戦いの時だ! 俺たちは、ヨーマンだ!」
 二人のまるで似ていない兄弟たちは互いの背を叩き合った。太助が、兵隊より奪いとった長弓と一束の弓矢をさしだした。ロビンは少年の肩をたたき、武具を受け取る。
「これこそ最上の贈り物だ」とロビンは言った。「さあ、太助、ともにつづけ!」
 ロビンは次々と矢をつがえながら絞首台を飛び降り、ちびのジョンが後に続いた。
 奥村太助は二人の勇姿を見送った。ロビンの口にした言葉にとらわれている。
 ロビン、ロビンはぼくのことを知ってる。
「洋一……」
 太助は、牧村洋一がいるだろう方角に目を向けた。そこには曇り空が広がるばかりで、友人の安否はようとしてしれなかった。

○     5

 ロビンはまるで軍神のように、フランス銃士隊の前に立ちふさがった。伝説のロビン・フッドが弓をとるに当たって、獅子十字軍はついにその息を吹き返した。
 銃士が処刑台を囲みだすと、ロビンたちは得意の弓で応戦した。ジョンの棒術が男たちを遠ざけたし、運良くとりついた者も太助によって斬られてしまった。
「ちくしょう、ロビン、あの銃ってのがやっかいだぜ」
「俺の弓ほどあたらん。心配するな」
 ロビンが肩を叩いても、ジョンはちっとも安心できない。ロビンの弓ときたら、外れたためしがないし、それより劣るのは当たり前ではないか。
「大通りにはギルバートと十字軍がいるぞ」
「ギルバート、あいつもか」
「そうだ。あいつらがフランス軍をひきつける。俺たちはその間に、港に走るんだ。仲間の船が待ってる」
 ロビンは軽快な笑いをあげた。「まったく君みたいなまめで義理堅い男は見たことがない」
「俺はお前の副隊長だぞ」
「ああ、そのことを天地に感謝するとも」
 群衆に交じっていたロビンの仲間たちが、その正体を現して、処刑台に集まりはじめた。彼らは市民とおなじ格好をしていたので、銃士たちも手こずった。ために、本物の市民を誤発するという事件も起きた。ロビンの古い仲間たちは、隊長の下を目指して一散に駆ける。ロビンは彼らを救うために弓を引き絞りつづけた。長い眠りの中にいたというのに、ロビンの弓は衰えるということを知らなかった。
 アラン・ア・デイルが、ロビンに向かって叫んだ。
「ロビン、ロビン、隠れろ。銃士が君を狙っているぞ」
「なんの、その身をさらして戦う部下がいるというのに、俺一人が身を隠せるか。さあ、存分に戦え。矢弾は俺が引き受けたぞ!」
 矢弾を一手に引き受け奮戦するロビンの周りに、懐かしいシャーウッドの仲間が集まってきた。彼らは得意の弓で銃士隊を押し返しはじめた。
 マスケット銃は、どれも先ごめ式だ。装填に時間がかかっているのをみて、ロビンは仲間の周囲を飛び回り、右に左に指揮してまわった。このため、満足に弾ごめもできなくなった。
 不利を覚った銃士たちは、黒い玉に火をつけて回り、つぎつぎと遠投をはじめた。ソフトボールよりも大きな玉が、ドテドテとジョンの方に転がってくる。
「ロビン、ありゃなんだ!」
「伏せろ!」
 ロビンがジョンに組みついた、爆炎とともに、炎と鉄片が二人の体を叩いた。
「炸裂弾か」
 とロビンは言った。粉屋のマッチが、
「あいつら、十字軍に参加してたやつらだ。サラディンの武器をまねやがったんだ」
 ジョンはあわてて太助の姿を探した。少年は騎士たちの一団に守られて無事だった。
 体勢をたてなおした銃士たちが、弾ごめを終え、いっせいに射撃を開始する。
「処刑台だ、処刑台の裏へ回れ!」
 ロビンが叫ぶと、アランたちはすぐさまその意図を察して、処刑台を土台から担ぎ上げ、横倒しにした。銃弾と、炸裂弾が轟々と倒れた台座を突き崩す。
「弓の達者なものは集まれ!」
 マッチは呵々大笑した。「それじゃあ、おおかたきちまうぜ」
「なら、手頃に集まれ」とロビンはやりこめた。「いいか、火薬をつかうやつを残らずしとめて回れ、それ!」
 ロビンたちは弓の射角を上げ、銃士たちの真上から矢を振り落とした。炸裂弾の炎が敵陣に上がる。マッチが、大穴の隙間から向こうを覗いて言った。
「どうだ、まっすぐしか飛ばねえ銃弾にはできねえ芸当だろう!」
 ロビンは処刑台をよじ登ると、真上に身を乗り出して、自慢の弓をきりきりと引き絞る、隊長と見られる男めがけて射はなった。ロビンの矢は、男の胸当てを貫き通し、深々とうまる。男は倒れることもままならず、真下に膝から崩れ落ちた。イングランドでも滅多とお目にかかれない、見事な威力と正確さだ。
「弓だ、もっと矢を持ってこい!」
 それからロビンはジョンに耳を近づけ、
「ジョン、君は斬りこみ隊を連れて行け。俺たちは銃士どもをやっつけるんだ。弓隊集まれ!」

 ロビンが懐かしいヨーマンとともに銃士隊の囲みを突破しようとするころ、ギルバートひきいる十字軍は大通りと広場をはさんで、守備隊と激しくぶつかりあっていた。
 ギルバートは、処刑台のロビン・フッドに銃士たちが群がるのを見た。彼は仲間の背中を押しながら言った。
「処刑台のロビンを生かせ! あの男を死なせるな!」
 ギルバートはロビン救出にあたって、部隊を三つに分けていた。広場にのりこむ部隊、ロビンを逃がす隊、そして、守備隊をおびきよせるため、退路を固める部隊である。彼は、それぞれの隊を区別するために、色分けした布を騎士たちの腕に巻かせていた。いま、ギルバートのまわりにいるのは、赤布を巻いた決死の男ばかりである。彼らは大将のギルバートを下がらせようとしたが、ギルバートは引かなかった。
「俺たちはリチャード王を死なせた。サラディンに敗れ、このままではジョン王に討たれるだろう。だが、ロビンがいれば、俺たちはもう一度戦うことができるのだ!」
 彼はロビンにこそ大儀があると言いたかったのだ。仲間の背をおし、死体を乗り越えながら、騎士たちを鼓舞してまわった。騎士たちは喚声をあげて守備隊を切り崩しはじめた。
 甲冑の音が、ギルバートの耳をつんざいた。銃弾が鎧にうち当たっているのである。すでに、かれ自身も身に数発の弾丸を受けていた。
 敵と切り結ぶギルバートの脳裏に遠き故郷の姿がありありと浮かんでくる。両親や、妻、娘たちの姿がなんども浮かんではそれをふりはらうために剣を振るった。
 生きて帰る、俺は生きて帰るぞ!
 十字軍は守備隊を二つに断ち割った。ギルバートの目に、ジョンや仲間にかこまれたロビンの姿が見えた。ギルバートには、あれこそイングランドの雄々しき魂だと思えた。ギルバートたちはロビンを中心に逃すまいとする守備陣を打ち破った。銃士隊が追ってこなかったのは幸いだった。モルドレッドがいないために組織だって戦えなかったのだ。

 ロビンが海上で待つ私掠船団を目指すころ、洋一もアジームにおぶわれて仲間の後を追っていた。モルドレッドの呪いを受けて以来、まったく目を覚まさない。その右手には大きな亀裂が口をあけ、銃士が放っていたのとおなじ黒気を漂わせている。
 牧村洋一は、そうして異国人の背に揺られながら、伝説の書と戦っていた。彼の本は主人の心を食らいつきに掛かっていた。
 以下はその顛末である。

○     6

 洋一は闇の中を漂っていた。そうして闇を漂いながら、多くの人々の声を聞いていた。それは大半がくだらない願いで、大半が醜かった。それは本に閉じこめられた人々、本に魂を喰われた人々の声だった。昔本は中立だったのに、本に願いを書きこんだ物書きたちが、伝説の書を汚してしまった。洋一は人々の呪詛の声や、妬みや恨みを聞きつづけて悲しくなった。もうやめて欲しい。もう聞きたくないよ。もうたくさんたくさんだ……
 そうして彼は泣いていたから、自分がいつのまにか闇を漂うのをやめ、硬い闇に(おかしな表現だが)横たわっているのを感じた。洋一は首を巡らした。自分の姿が見えるようになっている。他にはなにもなく声もしなくなっていた。
 動悸が激しかった。フルマラソンの後みたいに、汗をぐっしょりとかき、あえぎながら目を瞬いている。洋一が起き上がると、ぱさぱさになった筋肉の腱が、今にも斬れそうに軋みを上げた。
 くそっ、と彼は小声で言った。側におぼろな影が立っていた。ウィンディゴ……。恐怖のなかでつぶやいたとき、そのうっすら光る影は幾重にも分裂し、十二の人体となって彼を囲んで回りだす。やめろ! 大声で叫んだ。右に左に走ったが、影たちは彼につられて環を動かし、逃げられない。
「小僧!」
 その声は、十二の塊となって洋一をうちのめした。彼は環のなかで倒れ伏した。
「ウィンディゴだな」
 懐に手を入れる。だが、そこにあるはずの本がない。
「お前は幻だ! だまされないぞ!」
「そんな様で親の敵などとれるものか。呪われた体でなにができる」
「そんなことない。ロビンだってちゃんと復活したぞ」
「お前は失敗した。その証拠に伝説の書に生命を奪われたではないか」
 洋一は反論できなかった。本に殺されるかと思ったあの瞬間を思いだすと、今でも心が震えてくる。
「お前はなんの力もない小僧だ、父親からなにも教わらなかった」
「そんなことない」
「お前に本を持つ資格はない、伝説の書をわたせ、小僧! お前にはすぎたるものだ!」
「ぼくのだ、あの本はぼくのだ」
「本に取り殺されてもかね」
 ウィンディゴの回転はどんどん速くなっていった。洋一は自分が回っているようにすら感じる。胃袋の中身が逆流し、地面に伏せる。片手で口を押さえながら、洋一はしっかりしろ、と自分に言い聞かせた。
 洋一はぼくをおかしくしていたのはこいつらなんだと考えた。こいつらがぼくにおかしなことを吹きこんだ。ぼくと太助の仲を割った。ぼくが聞いてたのはこいつらの声だった。
 こどものころもおなじようなことはよくあった。聞こえない声に耳を傾け、見えない誰かに物ごたえをしていたらしい。恭一は見つけるたびにきつく叱って、注意を促した物だった。本に呪われた者の哀れな末路を、たどらせないために。今思うと、彼は伝説の書の声をあのころも聞いていたのだ。恭一が声に対処する方法を教えてからはそうした声は遠ざかった。物心がつくころには本からのささやき声はほとんど聞こえなくなった。それは、きっと恭一が伝説の書に結界を施してくれてからだろう。
「お前、お前なんか、お前なんかに渡さない。お前は本の世界に来られないんだ」と吐き気を飲む。「お前のやっつけ方なら知ってるぞ。追っ払い方なら知ってるぞ」
 彼は本当に吐いた。影はゲタゲタと笑う。悪意に満ちた歓喜が、洋一をねじ伏せる。彼は本の世界に取りこまれかけていた。
 負けない、負けちゃだめだ。死んじゃ駄目だ。あんなやつらの仲間になんかなるな!
 洋一は曲げていた体をぐっと伸ばし、顔を上げた。ウィンディゴの笑いが止まった。
「色は匂へど、散りぬるを!」
 洋一の声は、まるで魔法のようだった。光を帯びて、十二の影をぶっ叩く。回転が弱まり、ウィンディゴたちは苦痛に耐えかねたように体をゆがませよろめいた。
「我が世誰ぞ、常ならむ! どうだ! おっぱらい方なら知ってるって言っただろ! ぼくを笑いやがって! 本を持つ資格がないなんて嘘だ! 有為の奥山、今日越えて! さあ、どうだ、言葉ならたくさん知ってるぞ! 古い言葉の力だぞ! 浅き夢見じ、酔ひもせず! お前の負けだ! さあ、ぼくを自由にしろ! お前が伝説の書の影なら、ちゃんとぼくに従え!」
 影たちの手が一つ一つ離れていった。バラバラとなり、倒れ、そして、闇へと解けていく。形をなしていた闇が、ほどけていくようでもある。闇だ、あいつらは本物の闇だったんだ、と洋一が思ったとき、かれ自身も脳の血が抜けるようにして意識をなくし、地面すらない闇の中へとけこんでいった。
 洋一は、
「父さんになにも習わなかったって。バカをいえ」
 とウィンディゴに向かって叫び、そして、闇の世界から現実へと立ちもどっていく。
「洋一、洋一」
 誰かが手を握っている。洋一が目やにでくっついた瞼をどうにか開けると、顔の上に太助がいた。洋一は少年の隣に両親が立っている気がしたけど、その部屋にいるのはこどもたちだけだった。
 木で出来た狭い部屋で、彼はベッドの上に寝かされている。頭の上には丸いガラスの窓があって、ときおり体が揺れている。
「ここは?」
「船の上だよ。みんな助かったんだ。君がやったんだぞ」
 と太助は言った。洋一はこれまでのことをみんな思い出して、体を起こした。
「ぼくは君の忠告を聞かなかった。伝説の書が……」
「全部聞いたよ。大変だったな」
 と太助はいたわるような顔をした。洋一は言いたいことが全部抜けて、ただ唇と瞳を震わせる。太助が全部受け止めてくれたからだった。洋一は枕に頭を戻した。天井に目線を戻す。頭の下で海が揺れている。はらはらと涙が落ちて、耳際を伝い枕に落ちた。太助は困ったように頭をかいたが、ずっとそこに座っていた。

 二人はメインマストの見張り台にのぼった。マストの天辺にいると海は果てがなく、波間はキラキラと輝いていた。二人はこの期間に起こった色々なことを話し合った。
 中世の王モルドレッドの話。伝説の書に命を吸い取られたこと。処刑台での戦い。
「とにかく父上と男爵をさがさなきゃ」
 と太助は言った。二人は望楼の欄干に寄りかかり潮風に吹かれている。話は伝説の書の危険にうつっていった。創作に失敗したときの結果は恐れていたが、ここまでひどい真似をするとは思わなかった。洋一と来たら、飢餓に苦しむ戦災孤児だ。水を散々飲ませて肌の艶はいくらかもどっていたが、一時は不整脈を起こして危なかった。こうなってみると、洋一は自分が本の持ち主というよりは単に呪われているだけのような気がしてくる。やっぱり恭一はウィンディゴから守るためではなく、かれ自身を伝説の書から守るために、この本を封印したのだろう。それならば、これまで彼に伝説の書のことを語ってこなかったことにも納得がいく。
 洋一は、この本は持ってるだけじゃ駄目なんだ。この本は――本の中にいる連中はぼくの命を狙ってる。ぼくを仲間に引き入れたがってるんだ、と考えた。
 洋一は帆船に乗るのもこんな高い所から海を見おろすのもはじめてだった。彼には経験していないことがまだまだあった。
 気持ちのいい風だった。気分のいい景色だった。それらのすべてが少年たちの心を癒し落ち着かせる。洋一は広い海で過ごす内に少しずつ自分をとりもどしていった。伝説の書が自分に働きかけていると自覚して、それに対処するよう努めた。太助とジョンは喜んだ。
 洋一はいつのまにかこの世界をなんとしても抜け出そうとは思わなくなっていることに気がついた。彼は本を使い、失敗もすることで、この世界でやっていく自信のようなものをつけたのかもしれない。
 洋一と太助は欄干によりかかって、くだらない打ち明け話をしたり、カモメの数を数えたりした。洋一はそうして話をしてくれる太助がひどく好きだった。そしてそうした時間がひどく大切なものに思えたのだった。

◆第三部 果てしない物語のちょっとした終幕

◆ 第一章 ノッティガムを攻めたロビン・フッド

□  その一  シャーウッドのロビン、ノッティンガム州長官にふたたびおまみえすること

○     1

 ロビンは三艘の船を率いて、シャーウッドを目指していた。彼は十字軍の男たちを甲板に集めた。その船にはギルバートもふくめて五十名ばかりの騎士たちがいる。
 どの顔も憔悴し、ジョン王の謀略に腹を立てていた。国王は、十字軍で勇敢に戦った貴族たちの領土を没収していたからだ。騎士団の身分は剥奪され、家族は散り散りとなっている。大陸での浮浪は、イングランドにもどっても変わることはなかったのだ。
 イングランド各地では諸侯が反抗し、田畑の荒廃は著しい。そこにモルドレッドが加わっている。ギルバートたちの絶望は深かった。

 さて、ロビンのかたわらにはシャーウッドの男たちが控えている。目前には、獅子十字軍の騎士たちが居並ぶ。みな地べたに座りこみ、立つ気力もないように見えた。
 ロビンは騎士たちを前に、箱の上に立ち、じっと目を閉じていた。やがて、怒りに満ちた空気は静まり、どの男もロビンの言葉を待つようになった。
「どうするんだ、ロクスリー」とギルバートが言った。彼はもはや立つこともできない。「俺たちは領土を没収され、もはや騎士ですらない」
 お主も今ではただの人だ、とは、ギルバートも言えなかった。しかし、伝説の男ロビン・フッドの周りにも、今や傷ついた二百名ばかりの人しかいない。
 我々だけで、国王軍と戦うのか、と誰かがつぶやいた。ざわめきが起こった――ジョン王はロンドンにいる。王都を落とせるはずがない。いや、王都はすでにモルドレッドに制圧されたという噂だ――心配が次々と皆の口に上りだし歯止めがなかった。
 ロビンが目を開くと、人々は一人また一人と口を閉ざす。彼はそのざわめきが尽きぬうちに言った。「なにを騒いでいるのかわからんな」
 ギルバートたちは殺気だった。彼らは口々に反論したが、ロビンは負けずに騎士たちを沈めた。
「シャーウッドにいたころから、我々が優勢だったことはただの一度もない。こんなことはざらにあることだし――お前はもう慣れっこだな、ちびのジョン」
 いかにも、とジョンは言った。長い付き合いのジョンはわかっていた。ロビンは外見に似合わず、短気な男である。不遇の時代を長く過ごしたせいと、その強い意志の力で押さえこむことはできるが、不平不満ばかり述べる騎士たちにすっかり腹を立てていた。ロビンは口辺に怒りをみなぎらせ、力強く次のように述べた。
「不満や愚痴を口にするものは、人のせいにしはじめる! それではなにも変わらない! 今必要なのは沈黙、後は行動あるのみ! 十字軍で勇敢に戦った君たちが、なぜ今になって臆病風に吹かれている! 足りないのは身分、兵力、大儀か! 人が行動を起こすのに必要なのは、そんなことではない!」
 ギルバートたちはロビンの言葉に傾聴しはじめた。ロビンの声に宿る熱気が人々の身を今一度振るい立てようとしていた。傷ついた騎士たちの心に、ロビンの言葉が熱した鋼を打つ槌のごとく響いた。
「兵がいないというなら外を見ろ。イングランドに心ある人々はいくらでもいる。シャーウッドに集まった義賊はじつに多くたのもしかったぞ。俺はイングランドを救うために立ち上がる人たちはかならずいると信じている。俺はそれらの人のために力を尽くしたいのだ。彼らが俺を信じるなら、俺はこの身が滅んでもかまわない!」
 ウィル・スタートリーが折れた腕を抱きながら、おごそかに告げた。「俺はあんたに従うぜ、ロビン・フッド」
「供が必要だろう、おじき」
 とガムウェル。アランたちが、それぞれ武器を取り上げこれにつづいた。最後にジョンが一同を代表して進みでた。
「俺はロビンとともに死にてえ。俺が言いてえのはそれだけだ。俺は生まれてこの方、ヨーマンでしかなかった。そのことに、誇りをもってる。だから、俺を育ててくれた人に誓いてえ。イングランドのために、働くって。俺のこの身は正しい事をするためにあるんだから。ロビンといれば、それができるんだって信じてる」
 一座はしんと静まった。人々は口を閉ざし、けれどその奥底では何万という言葉が声となってうねっているようだった。彼らは口を閉ざしているけれど、ついに目を覚ましたとみてとれた。
 ギルバートが剣をついて立ち上がる。
「ロクスリー、許してくれ。俺は身の不運を呪うばかりに自分が騎士であることを忘れていた。騎士とは剣を肩に受けなるのではない。行いで騎士たることを示すのだ。俺は騎士の家に生を受け、騎士として訓育を受けてきた。両親、先祖のために今は戦いたい」ギルバートは騎士たちをかえりみた。「俺はロクスリーとともに行く!」
「俺もだ!」
「俺もだ!」
 賛同の声は重なり合い、大空に轟くようだった。獅子十字軍で立派に戦った人々は、ついにその勇気と義侠心を取りもどし、口々に雄叫びを上げ、互いの体を叩き合ったのだった。
 マストの上では太助と洋一が、そんな大人たちの様子を見おろしていた。
 こうしてロビン・フッドは呪われたこどもたちを連れて、ようやくシャーウッドへの帰路についたのだった。

○     2

 ロビン・フッドが海上にて旗揚げをしたころ、ロンドンは落城しかかっていた。国王軍はわずか三千名ばかりのモルドレッド軍をいともたやすく弾きかえしたが、夜間になり形勢は逆転した。城壁をとり囲んだ黒衣の軍隊は、無敵の強さを発揮しはじめた。その部隊が王都に進入すると、城門は閉じられ、王都は阿鼻叫喚の地獄図絵と化した。その兵にはわずかな明かりすら必要なかった。伝説に聞く悪魔の数々が市民を襲う。彼らが血肉を食らいはじめると、国王軍の大半が戦意を喪失した。ロンドンの民間人は逃げ場すらなくし屋内に閉じこもった。
 闇と殺人の猛威の中で、人々は暗闇に息を潜め、隣人の悲鳴に耳を閉ざし、こどもたちの口をふさいだ。パレスチナでサラディンの味わった恥辱の数々が、イングランド人の身に降りかかった。
 モルドレッドの正体を知っていたのは、たった一人だった。
 国王軍を蹂躙すると、軍隊は市民の殺戮を繰りかえした。銃士隊がついに王宮へと迫ると、彼女は王宮の地下へと逃げこんだ。

○     3

「あ、あやつここまで追ってくるのか。どういうつもりじゃ」
 モーティアナは二匹の蛇をつれ、地下水をはね散らかし、もつれる足を急がせていた。立ち止まると、背後をかえりみ、男の存在を感知する。懐をまさぐり、水晶球をとりだした。体温が異様に上がり、彼女は苦痛に喘いでいる。老いさらばえた心臓が血液の流れる速度に耐えかねる。体温を上げているのは血液自体。管が焼けるようだ。その事実のすべてが、マーリンに呪われし、もう一人の帰還を告げていた。まちがいない、あやつ本物じゃ――
「ああ、尊師、やはりあやつめであります。あなた様のおっしゃるとおりでありました」
 モーティアナは水晶球をなでながら、そちらを向いていなかった。洞穴の入り口側に目を向けていたのだが、水晶が輝き、ウィンディゴが姿を現すとそちらに向き直った。
「わたくしめはどうすればよいのです。あやつは化け物、何者にも従わないとあなたが申したとおり……」
「手筈ならばすでに申したはずだ、モーティアナ」
 底響きのする声を聞くと、モーティアナは不思議に落ち着きをとりもどした。
「忌々しいのは小僧どもよ。本当にロビンを復活させおった」
「まさか、あの小僧がそうしたとでも」
「すべては本の力よ。よいか、伝説の書のことは、モルドレッドには申すな。わしが出ればあやつは従うまい。やつに取り入り、背後から操るのだ。うまくやれ」
「はっ……」
 モーティアナは深く頭を垂れた。それよりも、モルドレッドはすぐそこまで迫っている。彼女は水晶球を大切に布に包み岩棚に押し上げると(岩に置くときは、失礼いたします尊師、と労りをこめて口にした)、自身は別の物を抱え、モルドレッドを待ち受けた。

○     4

 モルドレッドは怒りにくれながらも謎の女を追っていた。モルドレッドは五百の魂を体内に巣くわせる男である。体に対する感受性も五百人分だ(だからこそ人並み外れた身体操作能力を引きだすことができるのだが)。だが、痛覚もおなじだ。なぜだ? いったいなにが起こっている? なにがあったというんだ?
 そのとき、彼の脳裏に浮かんだのはたった一人、三百年前に彼を闇に葬った男であった。
「マーリンか? やつが生きているとでもいうのか?」
 だが、そのはずはない。マーリンが死んだからこそ、彼は自由になったはずである。モルドレッドは全身に跳ね返る焔を押さえながら、女の元に急いだ。彼はそやつに会ったこともないというのに、老婆であることを知っていた。マーリンから受け継いだ呪われた血液が相手が老婆だと教えているかのようだ……。
 モルドレッドは足を止めた。視界の先に小柄な人影が現れたからである。
「何者だ?」
 怒りとともに黒剣を抜くと、彼の筋肉は反するようにして痙攣を起こし剣を取り落とす。
「モルドレッド卿……」
 と老婆は言った。両手でなにかを抱えている。布に包まれているようだった。
「ほう、俺を知っているか」
 モルドレッドは剣を拾わなかった。老婆の並々ならぬ力を感得したからである。彼は足を滑らせつつ、老婆の正面から身を外した。無駄と知りつつもより深き影へ身を潜ませる。
「そうか、お前が王家に仕えるという魔女か。ここでなにをしている。なぜこの洞穴に逃げこんだ!」
「お気づきでありましょう。アーサー・ペンドラゴンが遺子、モルドレッド・デスチェイン卿。いや、円卓の騎士、最後のお一人と申すべきでありますかな」
「なんだと?」
 こやつ、なぜ俺の正体を知っている?
 モーティアナは話を進めた。「あなたはお気づきなのではありませぬか。ここは師マーリンの残せし洞居にございます」
「師? 師だと? お前がマーリンの弟子だと申すか!」
「御意。ようやく仕留め申した。それというのもあなたを解放せんがため――」
「ふ、ふふふ、なにをいう。マーリンの弟子だというなら、貴様もただの年ではあるまい。俺を知る貴様が、俺の味方だと申すのなら、なぜこれまで行動しなかった! 何百年も放擲したのはなぜだ! なにを企む!」
「お気づきなのではありませぬか」
 モルドレッドはハッと黙りこんだ。モーティアナは彼の気をこめた怒声にもまるで動じていない。
「わたくしめはマーリンの血を受けただけの者。あなたとおなじく。師にかのうたのは師の力が弱まりしため。ゆえにあなたを救いだすことに成功いたしました」
 モーティアナの声は左からした。モルドレッドがくらむ視界をそちらに向けると、老婆はすぐ脇に立っていた。
「あなた様にはこれを……」
 モーティアナが手にした物から布をはぎ取る。そこにあったのは人の生首であった。
「ジョンか?」
「いかにも、宿敵リチャードの弟であり、現国王、ジョンにございます。くだらぬ、フランスから渡りし、似非王朝の血筋の一人……」
 モルドレッドは黒剣を拾った。モーティアナが飛び退き、その手からジョンの生首が落ちた。
「ジョンの首は差し出し物に過ぎませぬ。あなた様はお気づきでありましょう。我らの体に流れし血の巡りを。この血の響きがあなた様の力を強くする」
「マーリンの力か。俺には不要なものだ!」
 モルドレッドは黒剣を振るったが、モーティアナも幻術を使い、その剣先から逃れた。モルドレッドがその姿を追ったときには、モーティアナは遙か後方にいた。
「わかっておられませぬな。あなたの敵は現王朝などではない。あなたとおなじ古の血族どもにござりまするぞ! あなた様も魔術は使えぬ。ゆえにわたくしめの微力が必要ともなりましょう」
「やはり解せんな」
 モルドレッドが腕を振るうと、モーティアナの体内で、マーリンの血が荒れ狂った。細い血管をかけめぐり、年老いた心臓を破裂させようとする。血流が脳に集まる。ふくらむ。ふくらむ。頭蓋骨の中で二倍にふくらむ。目玉が押し出され、モーティアナは身を反り返らせ、
「お、おやめ下され! わたくしはあなたの味方……」
 モルドレッドは術を解き、モーティアナの体は地に落ちた。モルドレッドは腕を返す返す見つつ、
「力が強くなったとは嘘ではないとみえる。お前の望みはなんだ」
「宿敵の抹殺……」
 とモーティアナは長い爪を舌になすり、そこから流れでた血を指先にすくいとると指輪をさすった。闇の中に二人の少年と老人、もののふの姿が浮かび上がる。
「こいつは……?」
「憎むべき小僧共にあります」
「だが、この者は」とモルドレッドは少年の一人をさした。「この者ならば俺の呪いで死に瀕しておるわ。貴様の宿敵とはこんなやつらか」
「あなどるなかれモルドレッド卿。いや、真王。あの小僧めは只者ではありませぬ。ロビンを蘇らせたのはやつとやつの三人の守護者にあります」
 なんだと? モルドレッドの心に疑念が差した。確かに妙だ。ロビンは魂を抜かれあのまま死に至るはずだった。なぜ呪いを跳ねかえすことができたのだ。
「俺の力を跳ねかえしたのはこやつの仕業だとでもいうのか」
「御意」モーティアナは取りなすように言った。「わたくしめも古のイングランドの血筋、フランスより渡り来たプランタジネット朝など認めておりませぬ。この国の真の王たり得るのは今は滅びしアーサー・ペンドラゴンの血を引く貴方様のみでござります」
 モルドレッドは黙りこんだ。慎重な目付きでモーティアナの顔を舐めるように見た。確かにロビンは魂をなくしあのまま死に至るはずだった。俺の力を跳ね返したのはあの小僧か。
 モーティアナは五百の目玉に深々と心を覗かれるようだった。
「よかろう」と彼は黒剣をおさめた。「だが、貴様を信用したわけではないぞ。逆らえば必ず殺す。マーリンの力ならば、奪い取ればすむことだ。俺が聖杯の力を得ていることを忘れるな……」
 モーティアナは応えず、深々と頭を下げた。モルドレッドはやや薄気味悪げにその場を後にした。モーティアナの側にウィンディゴが現れほくそ笑んでいることには最後まで気づかなかった。

○     5

 シャーウッドに帰り着いたロビンにもたらされたのは、ロンドン落城の凶報だった。モルドレッドはイングランドを大混乱に陥れている。
 多数の噂がロビンの元にもたらされた。が、ロビンの周りにもシャーウッド以来の仲間と十字軍がいるばかり。ジョンら義賊一党は歯噛みをして手をこまねくしかない。
 ロビン・フッドは、兵力が整うのを待つしかなかったのである。

 シャーウッドの状況は悲惨だった。なつかしい森はアジトを中心に焼き討ちにあい、立派なブナや樫の巨木も炭となって無惨な姿をさらしている。ロビンは以前のアジトよりさらに奥深くへと拠点を移した。ロビンの新しいアジトは(古いアジトもそうだったが)森役人が近くに寄ってもおいそれとはわからないよう、樹木の合間に網を渡して蔓を這わせ、アジトの内部がのぞかれないよう何重にも封鎖してあった。ロビンがいざというときのためにあらかじめ用意して、そのまま放置されていた古いアジトだったが、作った本人たちもすっかり忘れていたのだからなんとも具合がよかった。モーティアナに告げ口する者もなかったし、蔓草がすっかり成長して分厚い壁となっていたからだ。ロビン帰還のうわさが伝わると、さっそくノッティンガム州における困窮した貧民たちが彼を頼って集まりはじめた。それとともに、タック坊主たちの現状もわかった。彼らはモーティアナの襲撃をうけたあと、バーンズデイルの森に退き、そこで、リチャード卿の息子の保護を受けていたのである。
 洋一と太助は森を歩きながら今後の方針を話し合っていた。まずは奥村とミュンヒハウゼンに会わなければならない。モーティアナやウィンディゴには殺されていない、きっと生きているはずだった。その上で、モルドレッドのことを伝えなければ。少年たちの悩みはつきない。
 太助は急に立ち止まった。「その右手は大丈夫なのか?」
 洋一は右手を持ち上げて(まるで腕自体が錘になったみたいだ)、呪いの箇所を見た。
「海に出てから痛みもましなんだ。たぶん、モルドレッドが近くにいないせいだよ」
 太助は安心したようにうなずいた。それから周囲に誰もいないのを確かめるように後ろをみた。大人たちはみんな離れた場所にいる。ともあれ森中に難民がいて二人は過ごしにくかった。異相のこどもはとにかく目立ったのだ。
 太助は首を戻し、
「その呪いを解くためにもウィンディゴを倒そう」
 太助は洋一をうながしてふたたび歩いた。
「リチャード卿の城は州長官に攻められてるって。きっとウィンディゴだよ」
 と洋一は言った。落ち延びた森の仲間に、二人の異国人が混じっていたという話を聞いていた。
「男爵と父上はきっとリチャードのお城にいるにちがいない。タック坊主たちと城に立てこもっているんだ」
「だから、ウィンディゴは州長官に攻めさせたんだよ。ロビンたちは作戦会議をしてる。みんなを助けに行くつもりだ」
「ぼくらも絶対に付いていくぞ。ロビンだって、ウィンディゴや魔女と戦えるわけじゃない。魔術に対抗するなら、男爵と伝説の書が絶対に必要なんだ」
 洋一はうなずこうとしたが、不安のあまりうつむいた。
「男爵はもう創造の力が使えないじゃないか。ウィンディゴが言ってたんだ。創造の力でわしと勝負だって。だけど、ぼくは……」
「洋一、男爵は力をまったくなくした訳じゃない。それにあの人の知識があればうんと助かるはずだ。恭一おじさんとだってつながりがあったんだ。君の名付け親だぞ。伝説の書にだって詳しい……どうしたんだ?」
 と太助は急に涙をためた洋一に驚いた。彼が涙ぐんだのは太助の言葉がありがたかったからじゃない。恭一おじさん……。よく考えると、この少年の口から父親の名前が出たのはこれが初めてだ。それに父親のそんな呼ばれ方を耳にしたのは初めてだった。彼はただ、父親と深いつながりのある友人がすぐ側にいることが分かって急に心がゆるんだのだ。
「ごめんよ、泣くつもりなんかなかったんだ。ただ、ぼく……」
「いいんだ。君にばかり任せてすまないな」と太助も肩を落とした。「ただぼくの剣術はあいつには通用しない。ロビンだってあいつには敵わない」吐息をついた。「それにイングランドにもどってから、ぼくも変な感じなんだよ」
 洋一はふいに涙が引っこんだ。
「モルドレッドはロンドンを攻めてるんだろう? ロビン・フッドは軍隊を集めてる。規模がどんどん大きくなってるだろ?」
 つまり太助はもう個人の戦いを超越して手に負えなくなってきている、ということをいっているのだ。
 洋一も気落ちしていった。「こうなったら、ぼくらじゃあ……」
「うん。だからこそロビンから離れずついて行かないといけないんだ。要するにウィンディゴは悪い方に物語を創造してるんだろ? ぼくらも創造の力で対抗するしかない。あいつはその勝負をしたがってる」
 洋一は少し驚いた。勝負をしたがっているとは変わった物の見方だ。太助が顔を上げて洋一を見た。
「ロビンをフランスに呼び寄せたように、物語を導くことはできるはずだ」
「うん……」
 と洋一は返事をしたが、その声に力はなかった。肩も沈んで目も地面ばかり見ている。太助の役に立ちたいとは思った。でも、あまりに責任が重すぎる。ウィンディゴの恐ろしい姿が頭に浮かぶとそれだけで胸が締付けられる、足が震えてしまう。
 太助が励ますように肩をつかんだ。
「大丈夫だ。今度は男爵がいる。君はぶっつけでもうまくやったんだ。先生がいればきっと大丈夫だとも」
「先生? 男爵が?」
「そうさ。男爵なら本の使い方を教えてくれる」
「う、うん」
 今度はもう少し強くうなずいた。
 太助は先を急ぎながらつぶやいた。「だけど、不気味なのはモーティアナだな」
 洋一も気がついた。「あいつ、ぼくらがシャーウッドに戻ったのに手を出してこない」
「ウィンディゴはモルドレッドとモーティアナに手を組ませるはずなんだ。あいつの魔力に銃士たちが加わったら厄介だぞ」
「それに二人ともマーリンと関わりがある」
「あいつらに手を組まれたら厄介だ。もどって食事をとろう。すんだらすぐに出発の準備だ。ウィンディゴは男爵のことを憎んでたから。きっと自分の他に創造の力を持つ人物を許せないんだよ。早く助けに行かないと」
「州長官もやつらの手先なのかも」
 二人はさきほどよりずっと急いできた道をもどっていった。だけど、洋一は気づいていなかった。その右手の黒みが増して、モルドレッドの元を離れて以来弱まっていた痛みが僅かずつぶりかえしてきたこと、死の呪いが膿があふれるようにして皮膚から浮き出てはあらたな宿所を求めてのたうっていることに。

○     6

 サー・リチャードは自らの城が包囲されていると聞いて、真上を見たまま沈黙してしまった。口にこそ出さないが、動かない体が歯痒かったのだろう。
「ロビン、シャーウッドには街の者たちも集まってる。森を空けるわけにはいかねえぞ」
「仕方ない。ギルバートら半数は残そう」
「モルドレッドの前に、州長官と戦うのか」
 リチャードはほんのり笑った。イングランドにもどって以来のロビンの忙しさがおかしかったのだろう。
 ロビンは城に立て籠もったという昔の仲間をタックたちだとみた。森に残っていたという話をジョンが聞いているし、ミドルはタックを頼ってシャーウッドに向かったからだ。
「わたしの城にいた兵隊は四十人ほどだった。タック和尚たちを加えても百名とはいまい」とリチャード卿が言った。
「今は、イングランドの貴族に檄文を回しているところだ。彼らが集まるまで待った方がいいのではないか」とギルバート。
「彼らが集まるのか俺にはわからん。貴族たちはみな十字軍の遠征で疲弊しているし、そのうえジョン王に反乱を起こした者も多いと聞く。それに彼らはモルドレッドと戦うために集まるのだ。リチャード城の奪還に手を貸すとは思えない」
「結局頼りは俺たちだけか」ウィルが吐息をついた。彼は自慢の腕をへし折られて弓も使えない。「あの男に首を刈られるのだけは勘弁だぜ。州長官を破るいい方法は?」
「状況をみないとなんともいえん」とロビンは心許ないことを言った。ともあれ、相手の数もわからないのだからいたしかたない。「この場はギルバートに任せて、我々は出発しよう。州長官側の布陣をみたい」

□  その二 呪われた一座の再会について

○     1

 午前十時を過ぎたころ、事態は変わりはじめた。シャーウッドの森は、石を畳んだ古代の街道や獣道が縦横に走っている。東南の街道でアーサー・ア・ブランドは見張りに立っていた。木の根元で疲れた体をいやしていたが、騎士たちの騒ぎ声を聞きつけて目を開けた。
 生け垣に駆けつけたアーサーが目にしたのは、草原を連れ立って歩く難民の姿だった。服はズタボロに裂かれ、乾いた血もそのままだ。まだ血を流している者もいた。戦闘に巻きこまれたものとアーサーは見た。騎士たちがそれらの人を保護している間にも、一人また一人と難民はやってくる。
 時間が経つほどに難民の数は増えていった。数十、数百の単位でまとまってやってくる。荷車に家財道具を積んだものもわずかにいたが、彼らのほとんどは無手で命からがら逃げだしたものと見受けられた。
 アーサーは彼らがどこからやってきたのか尋ねさせた。彼らの多くが答えた場所は、ノッティンガム。

○     2

 ロビンは出発を前にして難民の対応に追われることになった。甥のガムウェルが、
「難民の数が多すぎる。アジトに入れるわけにはいかないぞ」
 アジトの小屋に一味の残党が集まっている。
「この状況で外に放りだすわけにはいくまい。君とアジームで鹿狩りを行うんだ。まずは飢えたものを食わせてやれ」
「やつらノッティンガムから来たといってる」とジョンが言った。「州長官も銃士隊とは戦ったみてえだ」
「城を空けた隙をつかれたと考えるべきだろう。落城の前に引き上げたのなら、タックたちも落ち延びることができたはずだ」
「銃士隊がノッティンガムを襲ったんだ。パレスチナでサラディンがやられたことを、こっちがやられてる」
 ウィルの言葉に、ロビンはうなずいた。ちびのジョンに、
「君とアランは銃士と戦ったんだな。やつらはサラディンのいうとおり、化け物に変わったのか?」
「ああ、まちがいねえ。太助と洋一も一緒だった。首を狩らねえ限り死ななかった」
「ロンドンを落としたのもおなじやつらにちがいない」とアラン・ア・デイル。
「たった数十人でノッティンガムを落としたって噂だぜ」
 ジョンはうなずく。「あいつらならやる。普通の兵隊にあいつらを殺せるはずがねえ。サラディンも、リスベをとれなかった」
 リスベはモルドレッドが死守したパレスチナの小都市である。
「ロンドンが落ちたのも夜間だ」アランが言った。「だが、あの処刑台では、やつらは変わらなかった。サラディンの話と符号する。やつらも昼間はただの人だ」
「長期戦ができないなら、陽のある内に決着をつけるしかない」とガムウェルが一座を見渡した。「となると、これだけの人数では……」
 ロビンは黙った。アーサー・ア・ブランドが庵に入ってきたからだった。
「ロビン、来てくれないか」
「少しまて。今――」
「すぐに来てくれ。州長官が君を待ってる」

○     3

 最初のうち、ロビンはそれが誰であるかわからなかった。身に付けているのは下着だけで、それも泥と血で汚れている。カールを巻かせていた髪は無惨に刈り取られていたし、そこからのぞく耳は片方がない。上着はぼろ布同然となって首の周りを垂れていた。かつて州長官であった男は森の隙間から落ちる陽光さえ恐れるかのように、木の根元に這い寄って、手足を抱きガタガタと震えている。
 ロビンが目の前に立ったとき、ロバート、と州長官は言った。「お前か」
 州長官は目を見開いてロビンを見つめた。震えは止まったが、州長官は目を伏せてぶつぶつと呟きはじめた。生きていたのか、いや、しかし、などという単語だけがわずかに聞き取れる。ロビンは彼のすぐ側に膝を落ち着ける。州長官はビクリと肩を震わせ呟きを止めた。わずかに体を傾けて、ロビンを見ようとした。
「一体、ノッティンガムでなにが起こったのです。あなたの軍はどうした?」
 ロビンが尋ねると州長官はバッと顔を上げ表情をゆがめた。かと思うと唸りを上げはじめた。
「お前のせいだ。お前のせいで私の城は無茶苦茶になったんだぞ。来い、あそこへ行って全部見ろ! あの魔女がやったことを確かめろ」
 州長官はロビンにつかみかかったが、その腕はおかしな形に曲がっていた。アーサーたちは州長官を諫めようとしたが、よく見ると長官の指はすべてへし折られているのであった。ちびのジョンは、そっと脇を抱くようにして州長官を引き離した。長官は彼のことすら気づかないようだった。難民の人々が見つめる中、長官はおいおいと泣きはじめた。
「やつらは引き裂くんだよう。私の周りにいた者も全部なんだ。おい、あれを見ただろ!」
 と長官は立ち上がり、自分を遠巻きに見る群衆に言った。
「お止しなさい。みな怯えている」
 ロビンがいうと長官は荒い息をつきながら、地面をにらむ。その様子は自分の見た物をなんとか理解しようとしているかのようだった。
「やつらは叩いた。そうだあいつら私の部下を叩いたぞ。豚の肉かなにかみたいに叩いてつぶして、それだけじゃない。やつら噛みついたんだ。人を食ったんだ」
 その痛ましい話に、ロビンの部下たちも互いに顔を見合わせた。そして、そのような話を聞いたこと、その場に居合わせなかったことを恥じるみたいに顔を伏せた。
 ロビンはノッティンガムの落城を信じる気になった。果たして人はそんな目に遭ってまで戦意を駆り立てられるものだろうかと。最初は憎しみに駆られたかもしれない。けれど、その憎むべき相手が不死だとしたら。死人を相手にする恐怖ならジョンとアランは骨身に徹して知っていたし、サラディンの勇猛な兵ですらわずかな銃士に敗れ去ったのだ。
「ノッティンガムにモーティアナがいたのか。そいつが俺にロンドンに来いと言ったんだな」
 州長官は左手で髪をかきむしり、右手ではロビンを指した。
「ロンドンには行ってはならん。どんなに急かされても行っては駄目だ」長官は木の幹に寄りかかり、こどものように目を拭った。「みんな死んでる。モルドレッドには従うしかないんだ」ギョロギョロと視線をさまよわせる。「お前でも、きっと無理だ」
「それはあなたの本心か」
 ロビンは訊いた。それは悲しげな口調でもあったので、長官は鼻を拭いふりむいた。
「あなたとは長年いがみあってきた。私はあなたを憎み、あなたも私を憎んだ。だが、私はあなたのそんな姿を見たいとは思わない。私に言いたいことはそんなことではあるまい。州長官、あなたに訊こう。あなたが私に望むものはなんだ」
 州長官はロビンの頬を張った。
「やるというのか! 私の願いをお前が聞くのか! 私はお前を殺すことばかり考えてきたんだぞ!」
 ロビンは張られた顔を上げた。その頬は州長官の折れた骨のせいで、赤く腫れ上がっている。
「過去にこだわるには、我々はあまりにも無くしすぎた。積年の怨讐も今は置こう」
「私を許すのか」
 ロビンはうなずいたが、州長官は折れた腕で両目を覆っており、彼のことを見ていなかった。けれど、その無言の間を彼は了解と心得た。
「ロビン、あいつらを追い払ってくれ。妻や娘の敵を討ってくれ。頼むよ」
 州長官は膝を折り、天に向かい戦くようにして泣いた。皆は州長官の家族に起こったすべてを察し、ある者は帽子を取り、ある者は胸に手を当て哀悼の情を示した。
「みんなの仇を討ってくれよお。私は、私だってやりたい。憎いあの魔女を殺したいんだ!」
「いいだろう州長官」とロビンは言った。「俺はロンドンに向かい、モルドレッドとやつの軍隊を打ち払う。ロビン・フッドが、やつらをイングランドより閉めだしてやる!」
 最後の言葉は周りの群衆に向けられたものだった。傷ついた人々は歓声を上げることすら控えているようだった。事の困難をわかっていたし、喜びを受け入れるには心が疲れすぎていた。けれど、人々は自らの希望の光をみた。ロビンはその光となるべく、また歩みはじめたのだった。

○     4

 ギルバートはロビンの行動に難色を示す。
「本当にロンドンに行くのか。どう考えてもまずい。それは罠だ。いいか、昼間なら、やつらも化け物に変わりはしない。だが、ロンドンではすでに変わってしまっている」
 ちびのジョンは恐れるように身をすくめた。変わっている、という言葉はなにか不気味な気がした。
「行かなければやつらはイングランド中の町や村を襲う。そうなったら手がつけられん」
 ロビンの言うとおりだ。ギルバートは黙る。
「やつらの兵力はいかほどだろう」とアーサー。
「三万人とも聞いたが?」とアラン。
「それは誇大だろう」ロビンは言った。「ロンドンを攻め落としたので数が誇張されているのだ。十字軍のころとさほど数は変わっていないはずだ。おそらくは三千から五千といったところだろう」
「実際の兵力は数倍と見た方がいい。数人掛かりでなくてはあいつらは倒せない」とジョンが言った。
「ともあれ、タックたちは無事のようだな。生きていれば、噂をきいていずれはここに現れるはずだ」
「それにしても、数が足りない」ギルバートが言った。「卿らの軍を入れても五千人を少し越えるばかりだ」
「これ以上の数は望めまい。俺に作戦がある」
 太助がテントの幕を払って乗りこんできたのはその時だった。ジョンは驚いて少年を見た。
「なんだ、おめえ、今は入ってきちゃだめだ」
「ちがうんだ。洋一の様子がおかしいんだよ。すぐに見てくれ。呪いに取り殺される」
 ジョンが息を飲むのと、男性に抱えられた洋一が天幕に入って来るのは同時だった。洋一は右腕を腹の上に乗せ、それを左手で抱えている。まるで大事なものを隠しているようだったが、ジョンはその指の隙間から真っ黒な呪いがヘドロのように滴るのを見た。
「ちくしょう、モルドレッドか!」
 ジョンはそんなものは役に立たないのに大剣を掴み上げて洋一の元に走った。洋一は、血走り涙ぐんだ目で彼を見上げた。鼻水が垂れ、辛そうに呼吸をしている。
「ちくしょう、ロビン、この子を助けてやってくれ。どうにかしてくれ!」
 ジョンは大喝したが、手だけはやさしく洋一の額を撫でている。
「誰かなんとかしてくれ。なんとか……」
 ジョンがふりむいたとき、天幕にいた者は誰も彼の方を見ていなかった。太助が濡れた目を光らせて大刀を抜きはなった。
「なぜお前がここにいる!」
 天幕の奥から進み出てきたのはモーティアナだった。ロビンたちはみんな老婆のことを見ていたのだ。一番近くにいたウィル・スタートリーが、鋭く短剣を抜いて老婆の胸を突き刺そうとした。
「そう急くでないよ」
 モーティアナは一瞬でヘビに変わり、スタートリーの二の腕を這い上りだした。ロビンが帯剣用の剣で抜き打った。正確に頭部を薙ぎ払ったが、ヘビはロビンの太刀筋を読んでいたように身をひるがえし、天幕の奥に飛んだ。みなの目が後を追ったときにはまた元の姿にもどっていた。
「みんな、待ってくれ、そいつはただの使い魔だ」と太助が鋭く静止した。「それに呪いをかけたのはこいつじゃない。こいつを斬ってもどうにもならない」
 蛇は、きえ、きえ、きえっと笑った。
「一番頭をつかうのがこの小僧だとわね。ロビン・フッドが笑わせよる」
「お前がジョン王の宮廷魔術師か」とロビン。
「ちがうね。モルドレッド卿の魔術師さ」
「やっぱりお前が」太助は前に進み出ようとしたが、今度はジョンに止められた。「モルドレッドと組んでたんだな。後ろにいるのはウィンディゴか。知ってるぞ!」
 モーティアナはケケケケッと、細首をのけぞらせて笑う。
「だから、なんだと言うんだい。それが重大な秘密だとでも。あたしゃね、こう言いに来たのさ。新しい王からの伝言だ。兵を連れてノッティンガムに来い。そこで再決闘をやろうじゃないか。フランスじゃあお前を取り逃がしたからね。そこの小僧もだ! 二人とも連れてこい!」
 モーティアナは唾を飛ばし、蒸気を吹き上げ、鬼の形相で太助を指さした。
 ロビンは帯剣を捨てると、愛剣を取り上げて、スラリ抜き放つ。
「呪いをかけたのはモルドレッドだろう。貴様ではない。殺しても問題はあるまい」
 と歩み寄った。モーティアナが手を挙げると、洋一が苦しみだし、呪いが一気に吹き上がった。洋一を抱えていた男は思わず彼を突き放した。ジョンと太助が互いに武器を放りだして、洋一の体をつかまえた。
「忘れたのか。あたしもマーリンの弟子なんだよ」
 ロビンはその様子をみて、憤怒の形相でふりむくと、気合いとともに老婆の首を薙ぎ払った。
 モーティアナの首は天幕の隅に飛び、柱の一つにぶつかり、ドン、と鈍い音を立て地面に転がる。生首はしかし、生きているようにロビンの足下まで転がり、真っ赤な目で彼を睨み上げた。
「お前も直に死ぬ。次に転がるのはお主の首だ」
 ロビンが両手で剣を持ち上げ、止めを刺そうとしたときには、モーティアナの生首は激しい煙を上げて(金属と硫黄の臭いがした)、パチパチと音を立てながら、元の蛇に戻った。
「どういうことだ。やつはロンドンを攻めていたはずだろう。ノッティンガムにいるのか?」
 とアランが訊いた。アジームが、
「だめだロビンどう見ても罠だ」
「だけど、あいつがノッティンガムにいるならチャンスだぜ。銃士の主力はロンドンだ。今ならあいつをやれるかも……」
 ウィル・スタートリーは沈黙した。洋一のうめき声が空気を引き裂くように伸び、少年を心配して名前を呼ぶジョンの声が部屋中を満たしたからだ。
「大丈夫か、洋一」
 洋一はどうにか目を開けた。まぶしい物を見るように、太助とジョンを見た。
「ありがとう、ジョン。ましになったよ」
「よかった。死んじまうかと思ったぞ」
「呪いはどうなったんだ」太助は一瞬片手拝みをすると、洋一の胸元をそっとめくった。昨日見たよりもいっそう広がっている。洋一の乳首が見えないほどだ。
 太助は無言で服を下ろした。洋一の目をじっと見た。洋一が弱々しく、だけどなにかを伝えるようにしてうなずいた。太助は立ち上がった。
「ロビン、ぼくらを連れて行ってくれ。あんたも見ただろ。あいつらがつかうのは本物の魔術なんだ」
「馬鹿な」ガムウェルが叱りつけるように前に出た。「本で対抗するとでもいうつもりか。相手はあのサラディンも叶わなかったやつだぞ」
「あいつの裏にいるのはウィンディゴなんだ。それでモーティアナもモルドレッドも力が強くなってる」
 と少年は言った。みんななぜか話している太助よりも洋一少年の方を眺め下ろした。洋一は力なくジョンの腕の中。みんなのことを見上げている。
「男爵と父上ならウィンディゴと対抗できる。ずっとあいつと闘ってきたから」
「おめえたちの親父のことか」とジョン。「だが、今どこにいる?」
「タック和尚たちといるはずなんだ」
「その連中なら、魔術に対抗できるのか」
 とロビンが割りこんだ。
「もちろんだ」
 太助は胸を張って応えたが、洋一がそっと目を反らしたのをロビンは見逃さなかった。ロビンは言った。
「いいか、城の包囲は解けている。すでにタックたちにはこちらに来るように使いをだした。その中にお前たちのいう二人が混じっているならよし。いなければ我々だけで闘う」
「でも、ロビンだって、パレスチナであいつに魂を盗られたじゃないか。普通に闘ってもあいつには勝てないんだ。みんなみんな、あいつに殺されたんだぞ。剣や弓じゃ殺せない、殺せないんだ!」
「だめだ」
 ロビンの声は厳しく表情は冷たいものだった。太助は上から突き放されたように感じて黙りこんだ。
「ノッティンガムでもロンドンでも大勢人が死んでいる。一刻も猶予はない。兵が集まるまで一日だけ準備を整える。その間に、お前たちの親父が現れることを祈ろう」
 太助はおや? となった。ロビンは本に頼らないと言ったのに、二人が現れるのを祈るような口ぶりだったからだ。モルドレッドの魔術を一番に受けたのはロビンだったし、モルドレッドの体内にいただけに、洋一の力はなんとなく感じていたのかもしれない。
「ジョン」
 と太助は声をかけて、洋一の体を無理矢理背負った。彼は大人たちの静止も聞かず天幕の外に出て行った。二人で男爵と父親を捜すつもりだったのだ。

○     5

 太助は洋一を連れて北の街道を目指した。リチャード卿の城はその方角にある。ロビンの連絡を聞いたタックたちはその街道を通るはずだ。ウィル・ガムウェルとスタートリーもついてきた。太助は洋一を背負ったまま森を出て行こうとしたが、ガムウェルが止めた。
「タックたちは必ず来る。その中に親父がいることを信じろ」
「いなかったら」
 太助はさらに歩こうとしたが、ガムウェルは前に回りこみ、膝をつくと、その肩を押さえた。
「外は敵だらけじゃないか。洋一はまともに動けないんだぞ。またモーティアナに襲われたらどうする」
 太助は強情に顔を背けた。洋一がおろしてくれと背中で言った。
 太助は心配げにふりむいた。「大丈夫なのか?」
「大丈夫だ。病人扱いするなよ」
 太助は木の根元に彼を下ろした。洋一が幹に背をもたせかけると、ガムウェルが乾いたパンを千切って少年たちに渡した。スタートリーが銅の筒から冷めたスープを椀に注ぎ、やはり二人に渡してくれた。
「焦るのはわかるが、もう一日しかない。それにモルドレッドのことは俺たちに任せておけ」
「分かってないよ」太助は怒ったようにパンをほうばりながら(口いっぱいにほうばったので、しゃべるとパンの欠片が散った)、「モーティアナはぼくらにもこいって言ったじゃないか。あいつは使い魔を斬られて怒ってる。ウィンディゴの手下だから、ぼくらが何者か知ってるんだ」
 ガムウェルは少年がなにを言っているのか分からずに不審げに眉を寄せた。スタートリーは吐息をつきながら少し離れた幹にもたれてしまった。
 ロビンの部下たちも見張りに出ていた。洋一と太助は無言でパンを食べ、ときおり街道を見た。本の世界に入って以来、一体どれほどの時間が流れたのかさっぱりつかめないほどだった。ガムウェルは洋一の右腕に包帯を巻いて首から吊すようにしてやった。呪いの影響で彼の右腕は動かなくなっていた。
「動くようになるかな」
 と彼はこの父親ともとれるほど年の離れた青年を見上げた。「腕が、右腕が動かないと文が書けない。そうなったら……」洋一はまた涙ぐんで目を落とした。ガムウェルは励ますように肩をはたいた。
「今はあせるな。養生するんだ」
 太助はそんな二人を見られなかった。洋一を心配できる心の余裕がなかった。ピタリとも街道から目が離せなくなっている。父上は死んでいるかもしれない。太助はふてくされたような気持ちで、側の草を千切り、葉を落として茎を噛みはじめた。自分でもどうしていいものやらわからない。彼の精神は行動的に出来ていたからだ。じっと立ち止まって考えこむなんて、父親か誰かがすべきことだった。けれどこれまでそれをしてきた人たちは一人また一人と彼の元から去っていったのだから、父親がそうなってもちっともおかしくはない。そのことが恐ろしく、その恐ろしさを吐きだすみたいにちびちびと草をはんだ。
 太助がその草を捨てたのは街道の遠くに大勢の人の姿を見たからだった。
「洋一、人だ!」
 と彼は大人たちが飛び上がるほどの声を上げて友人を呼んだ。洋一もガムウェルを突きのけるようにして(実際にはこの青年に支えてもらわなくては立てなかったが)立ち上がった。
 太助は街道に向けて駆け出そうとしたが、すぐに気がついたように駆け戻り呆けたような顔をして洋一の手をとった。人の群れ目がけて走り出そうとしたが、また二人のウィルに止められだった。
「落ち着け、みんなすぐに到着する。親父たちがいるか、すぐに分かる」
「でもっ」
「落ち着け。洋一を見てみろ」
 スタートリーに言われて太助はふりむいた。彼に引っ張られて洋一は転んでしまっている(そんなに強く引いたつもりはなかったが)。太助はごめんよと謝罪しながら街道を見た。
 太陽が差しているようだった。曇天で風も冷たくなっているのに穏やかな光が辺りいっぱいに降り注いでいるみたいだった。街道の人の群れはどんどん大きくなっていく。ガムウェルは森の中で待つようにいったのだが、太助はその手をふりはらい洋一の手を引いて彼を助けながら下生えを越し、街道の石畳の上に足を置いた。
 太助はずっと不安だった。父親が死ねば、中間世界の侍はすべて死に絶えたことになる。自分が生き残ってこられたのだから父親も、とは思いたかった。けれど、侍が敵なしの存在であるならば、鬼籍に入った人たちも、いまごろみな自分の側にいてくれたはずである。
 太助には目に映る父親の姿が一人でなく、百人の侍の姿に見えた。もどってきた、父上が、侍たちがもどってきたと思った。草原の葉がパラパラと鳴った。その街道が大昔からあってあの群衆も遠い過去から来るようだった。彼は遠い未来にいるからあの人たちもここにはたどり着けないんじゃないかと思った。彼はこう叫びたかった。おおい父上、ぼくはここにいる、ぼくはここだ!
 それから彼はやってくるのは死んだ侍たちで、ともに死んだ洋一と彼を迎えに来ているのだと思った。それならまあいいかと思った。ウィンディゴのこともモルドレッドのこともまあいいかと思った。そんな自分をおかしく思い、二の腕で眼を拭った。洋一に覚られぬようにしたが、つい鼻をすすってしまった。
 洋一は呆けたようにしてまるで初めてお座りをした赤ちゃんのように足を投げ出して座っている。
 人影が大きくなった。そのうちその群衆の中に動揺が起こった。群衆の後ろから誰かが前に出てこようと人を押しのけているのだった。太助は一瞬我慢して下を向いた。顔を上げたときには我慢できずに走り出していた。
「やっぱりだめだ。ごめんよ、洋一」
 だから、もう我慢しなくて良かった。涙も流れるに任せてしまった。彼は袴を振り乱し股立ちをとるのも忘れて精一杯に体を運んだ。遠くで父親が群衆の列を抜け、彼に向かって腕を広げおなじように駆けてくるのが見えた。
 洋一は、二人のウィルと一緒に歩きだした。走ろうとしたが、その度に膝が抜けてまた歩いた。まるで呪いの粒が全身の関節で遊んでいるみたいに頼りない。遠くで太助とおじさんが抱き合うのが見えた。おじさんが太助を小さな男の子みたいに振り回しているのが見えた。洋一はそれをまぶしい物を見るみたいに見た。本当にまぶしかったから、腕で目を覆って泣いた。ぐしぐしと音を立てて泣いた。悔しくて腹立たしくて、そして嬉しかった。
「父さん、父さんの馬鹿野郎」
 と彼は言った。誰かがやさしく背を叩いたのにも気づかなかった。親子の側で陽気に騒いでいた男爵が洋一に気がついて駆けてくると、洋一は肩の手を払って走った。なんどか転んだが、その度に立って走った。
 男爵は老体にむち打って走っていたのだが、そのうち洋一が近くになり、この名付け子の様子が分かるにつれて胸を刺したのは純然とした恐怖の錐だった。なんということだ。この子は今すぐ死のうとしておる。驚愕の余りこの老人はその場から一歩も動けなくなった。
「洋一その姿はなんだ、まさか本をつかったのか、ウィンディゴめにやられたのか、くそおあやつめ」
 男爵は金切り声を上げるみたいに一気にまくし立てた。その声に驚き、太助と奥村でさえふと顔を上げたほどだった。男爵は腕を上げると、洋一につかみかかるみたいに走った。洋一も駆け寄ろうとしたけれど、数歩よろめいただけだった。
「まったく今までどこにいた。無茶ばかりしおって一体なにをやっておったんじゃ!」
 男爵は形相もすさまじく迫ってきたから、洋一はとっさに身を固くした。彼が喜んでいると分かったのは、洋一が強く男爵に抱かれて胸にかき抱(いだ)かれてからのことだった。
「もう無茶をしてはいかん。もう無茶をしてはいかん。二度とわしの側を離れるな。二度とわしの側を離れるな」
「ぼ、ぼく……」
 と洋一は言った。彼は言おうと思った。男爵がいなくなってどんなに不安だったか、どんなに心細かったか。これまであった苦しいことも。自分がどんなに立派にやったか、太助と協力しあったかを。けれどそのことを思うたびに彼の心は詰まり、ついには声を上げて泣いたのだった。そして、洋一がこんなに盛大に声を上げて泣いたのは、この世界に来て以来のことだった。太助もおなじなのかもしれない。

○     6

 リチャード城の攻防戦は激しいものだった。州長官のみならともかくモーティアナも加わっていたから、苦闘もはなはだしく戦死者も大勢出していた。今も旅の一座は(リチャード卿の子息、スティーブンも城を放棄して駆けつけている)怪我人だらけ満身創痍の者ばかり。ミュンヒハウゼンと奥村の力添えがなければとっくに落城していただろう。
 二人はやはりシャーウッドの森に出ていたようで、そこでモーティアナの焼き討ちに合い窮地に陥っていたタック坊主らの戦闘に加わった。もともとミュンヒハウゼンは自分の物語でも騎兵隊長だったし、奥村にいたっては百戦錬磨の侍をまとめ上げてきた男である。
 出先にモーティアナがいたことでも、本の世界への進入にウィンディゴが手を加えていたことが分かる。一つまちがえば四人ともいまごろ命を落としていたかもしれない。よく助かったな、と洋一は今更ながらひやひやした。
 男爵と奥村は今では攻城戦の将軍格に祭り上げられていたから、そのこどもらが見つかったことで、みな疲れと痛みを忘れておおいにさざめきあった。洋一は周りの大人たちの興にものせられて、イングランドについてこの方の冒険を多少の腹立ちも交えて語って聞かせた。泣き虫ジョンに会ったこと、ロビンを助けるための数々の戦い。そして、モルドレッドとの苦闘。
 太助は父親に会えただけでもずいぶんと満足したらしく(それに危険をくぐり抜けるのも慣れていたから)話すのは洋一に任せておとなしかった。周りの大人たちと他人事のように笑っているものだから、洋一はますます腹を立てたが、それでも彼は楽しかった。ようやく雁首が揃った。こうして役者は顔をそろえたのである。よく考えるとその世界に来て四人が顔をそろえたのはこれが初めてのことだった。洋一は奇妙に心強くなり、今では伝説の書だって自在に使いこなせる気がした。
 笑いさざめく人々の声が途絶え、足も止め、激しい感情の波にその身を震わせはじめたのは、アジトまでの道中半ばを過ぎてのことだった。騒ぎを聞き付け駆けつけてきたのは、ロビン・ロクスリーとその一味の者たちだ。リチャード軍に加わっていた古い一味の面々も、ロビンと親交のあるリチャード城の騎士たちも、信じられないものを見た。
 ロビンだ、ロビンが生きてた。本当にロビン・フッドが生きていた。
「あれがロビンか……」
 とミュンヒハウゼンは感に堪えたように首を振った。
 みなはようやくもどってきた首領の元に一散に駆け出し、イングランドの人民に希望と絶望をもたらしつづけた男をもみくちゃにした。
 洋一はその様子をみてニコリともせずうなずいた。物語が悪い方にねじまがっても、この人たちはみんなロビンの味方なのだ。
「やっぱりだよ、男爵。ウィンディゴはこの世界に手を出せるけど、支配してるわけじゃない。あいつの創造の力だって、なんでも自由に作り替えられるわけじゃないんだ」
「わしもそう思う。ウィンディゴとてロビンの世界観には縛られておる。無理をすれば矛盾が起きるのは当然のことだ」
 と男爵はうなずき、それはこちらもおなじことだ、と言った。
 奥村はこどもたちの頭をそれぞれ一つずつ叩くと、ロビンの方に歩いていった。ロビンフッドが部下を従えてこちらにやってきたからだった。イングランドの義賊は手を差し出し、侍はその手をとった。奥村はその手の先に並々ならぬロビンの力量を感じ取っていた。
「部下がまことにお世話になり申した」
 とロビンは言った。奥村はすぐには答えず、唇をわずかの間噛み締めた。「二人の息子に無事会えたのはあなた方のおかげだ。私の方こそ礼を言わねばなりません」
 ロビンは笑顔で頷いた。ちびのジョンがいそいそと近づいてきたが、ロビンが胸を叩いて止めた。
「もういい、ジョン。互いのあいさつはすんだ」
 ジョンは不満に口をへし曲げながらも引きこんだ。ロビンはきらりと目を光らせた。
「さっそくだが、ノッティンガム攻略戦について話し合いたい。これまでどおりご助言願えますか」

□  その三 罠にはまったロビン・フッド

○     1

「モーティアナがつれていた銃士は百名足らず。大方は死人となったと見ていいでしょう」とロビンは現況を説明した。「だが、やつらは昼間を嫌う。陽の高いうちは屋内に閉じこもって出てこないのです。すくなくともパレスチナではそうでした。攻めるとしたら早朝。が、疑問がある。我々の闘ったモルドレッドは慎重な男でした。やつがロンドンを捨て、単身で出向いてくるとは思えない」
「モーティアナのでたらめなのかも」
 洋一は無意識のうちに右腕を撫でている。その言葉には多少の期待がこもっていたが、男爵は否定した。
「ウィンディゴは何重にも策を巡らすやつだ。裏にやつがいることを忘れるな。そして、ノッティンガムにはモーティアナがいる。やつは魔女だ。おそらく魔術の力でロビンと我々を引きはがそうとするだろう。不信を植えつけ分断し、各個撃破するのはやつのよくつかった手だ」
「しかし、死人になった銃士は知能がなくなるようだった」とアラン。「モーティアナのいうことを聞くはずがない」
 奥村が、「ノッティンガムが堕ちてどのぐらいが経ったのです」
「二日は経っています」
「ウィンディゴには十分じゃ」と男爵。「ウィンディゴはのう。かつてのマーリンかそれ以上の存在だといえばわかりやすかろう。やつは直接手を下せんが、配下の者に力を与えておる。モーティアナは力を増し、モルドレッドもまたそうじゃ」
 奥村が、「ノッティンガムの危険よりもモルドレッドとモーティアナに手を組まれることの方が厄介だ。危険だが、ノッティンガムのモーティアナをまず叩くべきだ。モーティアナが倒せないならば、モルドレッドも倒せまい」
 なぜならば、モルドレッドの方がウィンディゴの力を色濃く受けている可能性が高いからだ、とは奥村もいえなかった。
「だけど、あいつはロビンを狙ってるぜ。どんな手をつかってくるか……」
 スタートリーは不安のあまり言葉をきってロビンを見た。ロビンは一同の意見を吟味するように目を閉じている。彼はいいだろう、といって目を開けた。
「ギルバートとタックはここにのこって、引きつづき諸侯と連絡をとってくれ。ロンドン奪還の準備を進めるんだ。我々はノッティンガムでモーティアナを討つ。攻撃は明朝――」
 明日――
 洋一は愕然となった。その暗澹たる思いは、兵士たちの恐怖心をすべて飲みこむほどに深かった。モーティアナとやる。そう聞くだけで、洋一の手足は一挙に冷えていった。そして、冷えた体のうちを妙に熱い息が流れていった。明日……
 洋一は待ってくれと言いたかった。ぼくはなんの準備もできていない。それをいえずに唾を飲んだ。今、モーティアナと闘うなんて無理だ、と洋一は思った。あいつはロビンだけじゃなくて、太助とぼくのことも狙ってる。あいつの使い魔を斬ったから。洋一は伝説の書に力を吸われてやせ細った自分の体を見おろした。彼にとって唯一戦う手段は本しかない。伝説の書と、創作の力。
 洋一だって、最終的には本に頼らざるを得ないことは分かっている。でも伝説の書は彼をいったんは拒絶したのである。
 洋一は不死身の男まで登場させたウィンディゴの力を恐れていた。男爵たちが戦いの場に本の世界を選んだことをようやく理解した。みんなウィンディゴにはかなわないからだ。でも、あいつが手を出せなくとも、モーティアナが、モルドレッドがいる。彼は伝説の書を胸にかき抱いたが不安は去らなかった。たかが小学生の想像力で、あんなやつらと戦えるのかはなはだ疑問だった。自分が伝説の書に呪われているとわかってからはなおさらだ。
 意識の混乱する耳にロビンの声が聞こえた。
「みな、今日は疲れた体を休めろ」
 洋一はよろめきながらも顔を上げた。ちびのジョンらがロビンの命をうけて森の奥へと引き返していく。洋一はミュンヒハウゼンの後に付いていく。その顔からは、保護者にあえた喜びは完全に消えていた。こどもには似つかわしくない切迫した表情でつぶやいている。
 書かなきゃ。伝説の書が使えるのはぼくだけなんだから。と洋一は考える。書くんだ、ぼくは書くぞ……
 書くぞ……

○     2

 男爵と奥村はこの勇敢な少年らの育て親として、ロビン一味の歓待を受けた。二人の前には食料が山と積まれ、泡立つビールが用意された。
「しかし、モルドレッドが物語に加わるとはどういうことだろう」
「それに、あの手の痣はひどい。あの呪いは本物に見えます」
 男爵は怒りもあって力強くうなずいた。「あれはかなり痛むといっておる。呪いはやがて全身におよんで、死に至るという話だぞ」
「モルドレッドを倒せば、呪いはとけるのでしょうか?」
「わからん。だが、ここは物語の世界だ。必ず世界観が存在する。アーサー王の伝説と混じり合っているようだが、二つの話が関係してくるはずだ」
 奥村は男爵の言葉をよくよく考えた。「アーサー王の伝説の中に、呪いを解く鍵があるかも知れないということですか」
「そう思う」
「ともあれ、ロビン・フッドはモルドレッドと対決するつもりのようですな」
「我々も参加するしかあるまい」
「洋一と太助はどうします」
「連れて行く。わしはもう片時も二人をそばから離したくないのだ」
 奥村も同感だった。
「洋一はやはり伝説の書に呪われてしまっていたのだな」
 不憫なことだ。と男爵は言った。哀れむように洋一をみた。
 奥村はモルドレッドの謎を解く鍵は伝説の書にこそある気がした。いや、もうやるしかない。方法がなかろうとも、自分が中世の王を斬り殺すまでだった。

○     3

 日没の荒野を走っていた。だだっ広い草原で隠れるところはどこにもない。太陽はもう沈もうとしていて、丘の起伏の影からは死人たち。彼が弱るのを待っている。洋一は沈む太陽に向かって叫んだ。待ってくれ、まだ沈まないで! 陽が消えたらあいつらに殺されるんだ!
 洋一は草に足をとられて転んだ。すると、太陽から黒点のようにウィンディゴが飛んできた。
「小僧!」
 ウィンディゴが彼を追い抜き行く手を塞いだ、その暗黒のベールは大空を覆うカーテンのようにでかかった。彼の恐怖でふくれた世界一巨大な兵士だった。洋一は後ろを向いて逃げだそうとしたが、細腕が腰に巻きつき食い止められた。モーティアナだ。老いさらばえた手で彼の足にからみついてくる。モーティアナは下半身が引き千切れており、ローブの下からは大腸が垂れ下がっている。あやうく失禁しそうになると、硬い指が彼の股をまさぐった。
「やめて、やめてくれ!」
 背中になにかが被さる。小僧! と呪いの声を上げて彼の肩に上膊を投げだす。洋一が悲鳴を上げるたびにモルドレッドの体がとけた、それは死の呪いとなって体の中に染みていく。
「助けて誰か助けて」
 と洋一は自由な腕だけを前方に伸ばして悲痛な声を上げた。
「助けるのはお前だ!」
 ウィンディゴが落雷のような声を落とす。洋一が恐怖に耐えかねて目を開くと、目の前に伝説の書が浮かんでいる。本だ、ぼくの本だ、と手を伸ばした、すると、つかもうとするたびに、本はヒラヒラと彼の指をすり抜ける。
「どこへ行くんだ、こっちに来い!」
 洋一が叱りつけると、突然本の表紙が開く。ページの中央から血がしみだして、それはたちまち紙いっぱいに広がってボタボタと垂れ落ちだした。その血液の真ん中に目が開き、誰かの頭がぐっと突き出てくる。
「本が欲しいか? でもお前もこうなるぜ」
 洋一はギャアとわめいてたちまち失禁してしまった。モーティアナがゲラゲラと笑いながら、彼のふくらはぎに食いついた。
 ウィンディゴが言った。「どこへ行く小僧。お主の目的はわしを討つことのはず」
「仇討ちなら……」
 と洋一は震える声で言いかえした。本当は叫びたかったのだが、情けのない声しか出てこない。仇討ちならもういい、なんて口が裂けても言えなかった。言いたくない、言うもんか、と強情をはる。拒否だ、断固拒否するぞ
 体の内に入りこんだモルドレッドが彼の体を操作しているのだ。瞼が勝手に開き、目玉がひとりでに動く。前方から、ヨタヨタとゾンビのように不格好な歩きでやってくるのは、誰あろうロビン・フッドその人だった。体中に銃痕があり、どうやらすでに死んでいるらしかった。「俺を助けるんじゃなかったのか小僧」
「ぼく、ぼく助けるつもりだったよ、書くつもりだったんだ!」
 目玉がまた動いた。左からやってくるのは、ミュンヒハウゼン男爵だ。こちらは頭蓋骨が半分むき出し、やはり死んだ後だった。白目をむいて、彼を指さし、
「お前にはがっかりだ。これが名付け子だとは嘆かわしい」
 洋一は反論しようとしたが、もう息も出てこない。ちびのジョンが右からやってきて(モルドレッドはご丁寧に、そちらに首を向かせた、鎖骨を肉の中で自由に動かし、添え木のように据え付けている。もう首も動かせない)、血を反吐のように吐きながら彼を非難した。
「おめえは嘘つきだ! おめえのやってきたことは全部嘘だった! この大嘘つきのコンコンチキ! おめえはヨーマンでもなけりゃ侍でもない! ただの薄汚い小僧っ子が、みんなを騙しやがって! みんなをお前が巻きこんだんだ! 両親の敵を討つなんて笑わせるな!」
 洋一は今では大粒の涙を流していた。だけど、モルドレッドが目を閉じさせてくれない。だから、彼は最悪の罰のように仲間たちの死体を脳裏に刻みつづける。
「ぼくはやるつもりだった! ぼくは……!」
 最後まで洋一が気に掛けていた少年は、すぐ足下のぬかるみにいた。モーティアナはいつのまにか死んでいたが、太助は傷つきながらもまだ生きていた。太助少年は泥の沼に下半身をずっぽりと埋めながら、洋一に向かって手を伸ばしている。
「洋一、ぼくを助けてくれないのか?」
 それはあまりに痛々しく悲しげな声だったので、洋一はひゅっと息を吸いこんでしまった。太助の背後から腕を伸ばし、底なし沼に引きずりこもうとしているのは、実の父親なのだった。
「やめろ、やめろ! おじさん、太助を連れて行かないで」
 身をよじると、腰に寄りかかっていたモーティアナがブラリと腕をひねって落ちた。洋一に同化したモルドレッドが、背骨の真ん中から第三の腕をはやしている。彼の頭を抑えつけ、友人がよく見えるようにした。
「ようく見ろ小僧。これが事の顛末だ。みんなお前のせいだ。お前はしくじった。なんの役にも立たない無能なガキだ。俺たちに逆らうなどと大それた事だったんだ。その結果がどうなったか、ようく見ろ!」
 モルドレッドの絶叫は最後には団野院長の声と重なった。モルドレッドと院長、それにウィンディゴまで加わって、彼の頭を抑えつける。太助の顔が近くなる。
 洋一は涙の海におぼれるようにして意識を無くしこうつぶやいたのだった。
 もうやめて、ぼくの降参だ、もう降参だ……

○     4

 洋一が、激しく吐息して目を開けたのは、太助の死に顔を見た後だった。夢だったのか、と彼は声に出さず口の中でつぶやいた。洋一は毛布にくるまって寝ている。もちろん暖房には足りなくて、地面と接した背中はすっかり冷えていた。中央の焚き火は真っ赤に燃えている。脇を見ると、先ほど死んだ太助少年が、毛布にくるまりスヤスヤと寝息を立てている。
 洋一はホッと息をついた。闇の中で顔を赤らめながら股間を確かめる。良かった。どうやら失禁してはいないようだ。洋一はもう一度太助を見る。いつもなら、すぐに目を覚ますのに、今日はワインを飲まされたせいか、それとも父と会えた安心からなのか、グッスリと眠っている。洋一は羨ましさと安堵感が入り交じった複雑な顔をした。太助がそんなふうに気を抜いてくれて、本心は嬉しかった。
 その後すぐに伝説の書を確かめにかかった。
 彼は布を腹巻き代わりに巻き付けている。本の感触を布越しに感じた。大丈夫だ、本は盗られてない。でも、今にも本の表紙からさっきの男が飛び出し彼の腹を食い破りそうで、ちょっと怖かった。
 洋一は身震いをした。
 周囲にはそうした焚き火のグループがいくつもあった。歩く人の姿が見える。モーティアナの夜討ちを警戒して、見張りがたっているのだ。
 毛布から抜けだすと、悪夢から逃れるようにして焚き火に背を向ける。見上げると、梢の隙間から大きな月が複雑なモザイクに切り取られて彼を見おろしていた。洋一は本の世界の月は不思議に大きく見えるなと思った。現実の月とこの世界の月がおなじである必要はまったくないことに思い至って、軽く首を振り笑みを漏らす。それから、ウィンディゴは次はどんな仕掛けをしてくるだろう、どんな創造をするつもりかと考えて、また身震いしたのだった。
 焚き火を少し離れると、土地が下り、土手のようになった場所に出た。そこに腰を下ろした。土地が起伏しているせいか、そこからだと空の隙間がよく見えたからだ。さきほどの月とは反対方向で鮮やかな星だった。洋一は学校で良くそうしていたように体育座りをして息を吐き、一人になったなとぼんやり思った。星を見上げていると、目尻から自然と涙がこぼれたが、自分ではそのことに気づいていなかった。あれが夢であったことに馬鹿のように安心していた。まだしくじったわけじゃない。まだ取り戻せるんだ。
 後ろでカサカサという音がした。夢の帳は遠くなった。彼は目尻の涙を急いで拭いてふりむいた。ミュンヒハウゼンだった。
 男爵は奇妙なほど悲しげで冷静な目をして彼を見つめながら、更地を行くような滑らかな足取りで森を横切った。洋一は男爵が軍人で騎兵隊長も勤め、トルコ軍とも戦ったことを思いだした。いずれも物語の世界での話だった。
 男爵は隣にきて実の祖父がそうするように彼の隣におなじ格好で腰掛けた。
「男爵は月に行ったことがあるんでしょ?」
 男爵はうむと頷いた。
 それから男爵は月の話やそこでの仲間たちとの活躍をひとしきり話してくれた。彼は座談の名人で話は面白かった。けれど、二人を見おろす星々と周囲の冴え冴えとした空気はすぐに彼の心を現実に引き戻した。
 眠らないのか、と男爵は訊いた。
 眠れないんだ、と洋一は応えた。
「男爵、ぼくに本の使い方を教えてよ。明日はきっと本を使わなきゃいけなくなる。そんな感じがするんだ。男爵もそう思うでしょ?」
 ミュンヒハウゼンはこどもように膝を揺すって微笑んだ。なぜか悲しそうだった。すぐに下を向いた。
「お主はのう、伝説の書に少しこだわりすぎだと思う」
 洋一は真っ赤になってうつむいた。「でも、ウィンディゴがぼくに言ったんだ。どちらの創造の力が勝つか、勝負だって。あいつはモルドレッドをロビンの世界に連れてきた。物語を悪い方に作り替えてる。不死身の兵隊まで創ったじゃないか。それに対抗するって事は、伝説の書をつかうことだと思うんだ」
 ミュンヒハウゼンが洋一の肩を揺すった。洋一は顔を上げた。
「わしはそうとばかりも思わんのだ。なぜならば、わしもお主も、本の世界で行動することで、ウィンディゴの策略を打ち砕いてきたからさ」
「どういうこと?」
「では、泣き虫ジョンが本来の姿をとりもどし、ノッティンガムを出たのはなぜだね? ここにロビンを信じる多くの仲間が集まったのは? シャーウッドの無辜の民がモーティアナの魔術にも命を落とさず生きながらえたのは?」
 洋一は涙がみるみる乾いていくのを感じた。
「それはのう、わしやお主が登場人物と一緒になり、敵と戦うことで物語をよい方向に導いてきたからじゃ。――もちろん本を使わないということではない」
 ミュンヒハウゼンは洋一に向けてやさしく微笑んでいた顔を、ふいに正面に向けた。洋一もおなじ方を見た。
「だが、本を使うことばかり考えてはだめだ。ロビンや仲間たちを救ってきたのはこの本ではない」とミュンヒハウゼン男爵は洋一のおなかを叩いた。「お主の知恵と」と言って額を指で突く。「勇気だ」
 そうして胸を突かれると、洋一の心にも男爵の心がポトリと落ちた。洋一はさっと顔を背けて下を向いた。涙がにじんだからだ。
「その本のせいで恐ろしい目にも遭ってきたろう」
 とミュンヒハウゼン。洋一は驚いて顔を上げた。
「知ってるの? この本に閉じこめられた人たちのこと」
「大勢見てきた」と男爵はうなずいた。「その本はあまりに魅惑的だ」
 洋一も無言でうなずいた。その沈黙には本に飲みこまれた人物たちへの深い共感があった。同情も。
「お主にはおなじ末路を辿って欲しくない。どうしても本を使わねばならん時は自ずと来るじゃろう。わしとて本の力を使わずにロビンが勝てるとは思っておらん」とミュンヒハウゼン。「だから最初の質問に戻らねばならん。お主はわしに本の使い方を教えてくれ、と言った。わしは生憎と本の使い方は知らんと答える。というよりも、その本は誰にでも使えて、誰にとっても危険なものなのじゃ。むろん作家の持つ創作の手段は非常に有効じゃ。じゃがのう、ここには生憎と作家と呼べるのはお主一人しかおらん」
 作家と言われて洋一は妙に気恥ずかしくなった。なにやら一人前の大人みたいだ。
「本を使いこなす唯一の方法があるとするならば、それは本に負けぬ強い心というほかない。そして、これはおおむね心の問題であって、使い方ではないという事じゃ」
「じゃあ、ぼくには本は使いこなせないじゃないか」
「父親を信じることじゃ」と男爵は言った。「お主をちゃんと育ててくれたとな。これまでの自分と人とのつながりを思いだすんじゃ。伝説の書の力を執行するのは、お主の信じる力だからじゃ」
「自分を信じろって、どうやって?」
「お主に秘めた才能を信じろなどとはいわん。それでは慢心にしかならん。それは自信とは似て非なるものじゃ。これまでやってきたこと。人がこれまでやってくれたことを思い出せ。みんなに感謝せい。そうすればお主は一人ではない。お前が生まれてこれまで何千何万という人がお前に関わり育ててくれたじゃろう。それこそがお主の力なんじゃ」
 洋一は自分の人生を振り返ったが、おおむね出てくるのは学校生活ばかりだった。友人や先生のことを思いだした。洋一は自嘲するように笑って首を振った。
「大切なのは、なにを書くのか、どう書くかということだ。おそらく実現不可能なことでは本は願いをかなえまい。無理なことがらでは、世界に亀裂が生じることと思う。本は無理を埋めるためにつじつま合わせをするじゃろう。ウィンディゴがモルドレッドを登場させた。それはいい。だが、モルドレッドは強く元の世界に縛られておるじゃろう?」
 洋一は思いだした。ロビンをイングランドに呼ぶそのつじつま合わせがどうなったのかを……。
 最後にミュンヒハウゼンは、物語を生みだすとは空白を埋める作業なのかもしれんな、と言った。けれど、その空白という名のピースを埋めるにも、周囲の形に合わせなければならない。
 できるだろうか……?
 二人は元の場所に戻り眠った。当然のことながら、洋一に押し迫る不安と重圧の重しは減らなかった。頭の中では様々な想念が渦を巻いていた。ロビンはモーティアナをやっつけられるだろうか? ロビンを守らないと。でもあいつは太助のことも狙ってる。モーティアナはどうやってみんなとロビンを引きはがすつもりだろう。食い止められるのかな? 洋一は、そうして、雑多なことを思い浮かべては不安をかきたてていた。けれど、眠りに落ちる直前に彼が思いだしたのは、男爵の次のような一言だった。
 最後には本の力が必要になるじゃろう。

○     5

 洋一はほとんど眠れず、しょぼつく目を開けた。周囲は闇が消えて、鳥が梢を渡り、梢の隙間から木漏れ日が落ちている。その光の光線は四辺形の不思議な図形を幾つも伸ばしている。美しかった。物語の世界がこんなにも美しくて、洋一はふと涙が出たのだった。横たわったまま、目尻を一筋また一筋と涙がこぼれる。ぼくはもっともっと世界を見てみたいこんな所で死にたくないと強く思った。ぼくはあんなやつらに殺されない。父さんと母さんはずっとぼくを守ってた。ウィンディゴに狙われたのはそのせいだ。彼は遠の昔から自分が呪われていたことを知っている。両親はそのことを隠匿し、使命を擲ってでも息子を守ってきたのだ。洋一は、お父さんお母さん、と心の中で呼びかけて、赤子がするようにもどかしげに手足を捩った。仇を討つぞ絶対にあいつをやっつけてやる。
 ふいに視界が遮られ、太助の目玉が彼を覗いた。「大丈夫か」と彼は訊いた。
 洋一は無言でうなずいた。
「でも泣いてる」
 洋一はうなずこうとしたが、分厚い涙と鼻水の固まりがどっと出口に押し寄せて、彼は溺れないよう顔を背けた。少し咳きこんだ。
「ぼくは怖い……」
 しぼりだすと、もう我慢できなくなり、洋一は両手をついてまるで吐瀉するように嗚咽を上げた。
 太助は困ったように、でも慈しみをこめてその背を撫でた。
「しっかりしろぼくが付いてるぞ。ぼくが手助けするとも。一緒にウィンディゴをやっつけるんだ」
 太助は小声で、けれど友人にちゃんと聞こえるように耳に口を近づけて囁きつづけた。だから彼は気づかなかった。彼らの守護者とでもいうべき二人の人物が、そんな少年たちを温かく見守りつづけていたことに。その悲しいけれど素敵な朝だけはウィンディゴの脅威が遠ざかっていたことにも。こんな朝はもう当分訪れないのだけれど……。

○     6

 曇天から、夜は立ち去った。牧村洋一と奥村太助は何日かぶりにノッティンガムにもどってきた。思えば、あの日は下水をつかっての逃避行で、街の上部をみる余裕もなかった。けれど、これほどまでに様変わりをしたのでは、かつての城塞都市を知る人たちもその比較は難しかった。
 戦いの到来を告げる不気味な空の下、ロビン・フッドと主な人たちはノッティンガムを下方にのぞむ丘まで来ていた。ノッティンガムはその空の下で沈黙している。城門は開け放たれたままだった。慌てて逃げだしたらしく、街道には大八車や家財道具が散乱している。そして、その隙間を埋めるように死体がいくつも転がっているのだった。その城塞都市は所々から黒煙を上げているが、それも霞のように薄く、家々の帳を抜けると空と混じり合って見えなくなった。あの下に何千という死体があるのを感得して、洋一は懐を抱いた。
 そのうちロビン・フッドの命令が人々の口から伝わってきた。
「死兵とは戦うな。狙うはモーティアナだ。老婆を見つけろ」
 兵士らの大声に洋一は無意識にうなずいていた。
「いよいよだ。あの宿での決着を付けるぞ」
 と隣で太助が言った。洋一は小さくうなずいた。もうずいぶん泣いたから気持ちはすっきりしていた。後ろ向きになったり逃げだそうとすることもなかった。けれど、恐怖心だけは漬け石のように乗っかってどこうとしない。奥村にいうと、恐怖心だけは決してどこにも行かないものなんだそうだ。
「恐れと縁を切ることは出来ないよ。うまく付き合うしかない」
 とおじさんは言った。そのとおりかもしれない。
 洋一は震える胸をそっと撫で下ろす。彼は蛇が嫌いだが、もう一生ものになりそうだった。

 進軍は始まった。
 ロビンフッドと三百の兵隊は、ノッティンガムの城門を抜けた。ロビンの周囲ではその閣僚たちがすわ死兵かと武器を抜いて身構えたが、街はそれ自体が死体と化したようにシンとしている。
「みろよ、ロビン」
 ウィル・スタートリーが戦くように言った。路傍に石のごとく転がるのは死体だ。女性も幼児もたくさん混じっている。口は悪いが女こどもに優しいスタートリーを痛く傷つけた。スタートリーは剣と歯を食いしばりみんなを追い抜くように足早になった。つられて全軍の速度が上がる。ロビンはスタートリーを諫めようとした。なんの罠があるか分からない。列の後尾が門を抜け終わったとき、ロビンがふりむいた。
「おい、待て! 門を閉じるな! 開けるんだ!」
 ノッティンガムの城門が凄い速さで閉まっていく。大地を削る音がロビンの耳にも聞こえたが、門を閉める者は誰もいなかった。近くにいた兵士たちが、門扉に取りつき突然の閉門に抵抗した。城門に働く力はすさまじく兵士たちは弾かれあるいは引きずられた。挙げ句の果てには三人の男たちが門に挟まれ圧死するのが見えた。胴体を引き千切られた仲間の上半身が地に落ちる。騎士たちはまるでなにかにすがるようにロビンに目をやった。ロビンはもうその方角を見ていなかった。彼は前方に目を向けていた。「くそ」と彼は言った。道に転がる無数の遺体が、起き上がり始めていたからだ。
 どう見ても死体である。半ば腐敗が進んでいるし、みな白目を剥いている。内蔵を垂らしているものもいる。動かないのは首がもげた者だけだ。あんな大けがを負って生きていられるならば、この世で死ぬ者はいないだろう。
 どういう理屈かしれないが、あの老婆、死体を操れるものらしい。
 ロビンがとっさに剣に手を掛けると、固い鞘の感触はなく、どろりとした粘着質の液体が彼の右腕を飲みこんだ。ロビンが目を見張って見おろすと、剣を中心に、まるでコールタールのように真っ黒な液体がしたたり落ちて、彼の下半身を飲みこんでいる。ロビンはその液体から足を引き抜こうとしたが、膠のようにへばりつきピクリともしない。
「ちくしょう、ジョン!」
 そう叫ぶわずかな合間に、その黒いヘドロは津波のように立ち上がり、真上からロビンの体を飲みこんだ。
「ロビーン!」
 ロビンは息も吸えず、動くことも出来なかった。
 ジョンは夢中でヘドロをかきわけた。他の仲間たちも、黒泥をいやとかぶりながら、泥をかきわけロビンを救い出そうとする。けれど、ロビンに近づくことは出来なかった。ヘドロが後から後から湧いてくるのだ。ジョンは大きく息を吸いこんで、頭からヘドロに突っこんだ。夢中で手足を振り回し泥の海を泳いでどうにかロビンの手を掴んだが、その時にはジョンも力つき、意識が遠くなっていた。二人はヘドロの中で、体が引っこ抜かれるような感覚を覚えた。そして、臀部に固い地面の感触と痛みを感じて目を開けた時には、ヘドロに包まれたまま見知らぬ場所に舞い落ちていた。モーティアナの術中にいとも容易く嵌ったことを、どちらともなく呪ったのだった。

□  その四 呪われたこどもたち、狂った魔女と対決すること

○     1

 ロビンが消えると、ヘドロは一瞬で地面に染みこむ。石畳に茶色の跡を残すのみとなった。アジームは真っ黒なままロビンの立っていた場所に飛びこんで、変色した石畳を手のひらで激しく打った。
「ロビンがいないぞ! モーティアナの仕業だ!」
 と彼が叫んだ時には、後方から駆けてきた奥村真行が、愛刀を振りかざして、呆然自失とする仲間を叱咤していた。
「グズグズするな! 隊列を整えろ! 隊伍を組むんだ! なにをしている!」
 彼の呼びかけにもロビンの部下たちは、唖然とした表情を隠さなかった。そりゃそうだ。目の前で頼りとする首領が消えたのだから。
 アランもウィル・ガムウェルも、泥を頭からかぶってアジーム以上に真っ黒になっている。そして、部隊の中央では牧村洋一がやはり呆然とつぶやいたのだった。
「あのときだ。ロビンは使い魔を斬った。あんなに簡単に斬れるのはおかしかったんだ!」
 モーティアナはあの瞬間に、ロビンの剣に仕掛けを施していたのだろう。だが、洋一の叫びも後の祭りだった。
「貴様ら言うことを聞け! 戦わんか!」
 奥村は必要とあれば、仲間を殴ってでもシャンとさせようとしている。ロビンの閣僚たちが目を覚まさなければ、三百名いる騎士たちも烏合の衆だ。
 アジームが真っ先に立ち直った。兵士たちはじわじわと迫り来る死体から遠ざかるようにして下がり自然に円陣を組んでいく。ズタズタに引き裂かれた女も、どこにも外傷がないように見えるこどもも、頭部の砕けた男も、胸ごと腕のない老人も、出来損ないのからくり人形のようにギクシャクした動きで近づいてくる。
「話がちがうぜ、死兵はいないんじゃなかったのか!」
 と騎士が言った。
「あいつらはただの死体だ。ノッティンガムを襲った化け物とはちがう」と奥村は答えた。
「こりゃあ、まるでゾンビだぜ」粉屋のマッチが十字を切った。
「動かしているのはモーティアナだ」奥村はアラン・ア・デイルの肩をつかむ。「いいか、モーティアナはノッティンガムでモルドレッドが待つと言っていた。ロビンはモルドレッドの元に送られた公算が高い」
「だが、どうすればいい? ロビンを探すのか?」
 奥村は首を左右に振った。「モーティアナを殺すんだ。ロビン・フッドの言葉を忘れるな。我々の目的はモーティアナを倒すことだ! お主らの隊長をとりもどしたくば、魔女を討ち取れ!」
「でも、あいつらはノッティンガムの市民だぞ! それを斬れってのか!」
 とスタートリーが言った。
「今はちがう! 攻撃しろ!」
「そんな……」
 奥村は仲間が逡巡するのをみた。みなキリスト教徒で、死体を痛めつけることを恐れているのだ。
「なにをしている、死にたいのか! 剣を構えろ! よく動きを見るんだ! あれが生きた人間か! 引導を渡すのは貴様らだ! 見てろ!」
 奥村は真っ先に列を飛びだすと、手近にいた老人を見事袈裟斬りに斬って落とした。老人は肩から胸まで一刀、両断にされて地面に転がったが、まだ手足をばたつかせて指を伸ばしてくる。
「わかったろう! 動きは速くはないが死なないのだ! 群がる前に動けないようにしろ!」
 奥村が言う間にも、アジームが生来の剛胆さで、三人の死体の足を狙って次々と斬り飛ばし。
「首だ、首を狙え! 首を切り落とせ!」
 騎士たちは奥村の言葉に突き動かされるようにして、死人の首を切り落としていく。ミドルが近づいてきて、「すまねえ、奥村」と言った。奥村はうなずいた。
「こいつらは死体だ。が、後味は悪いな」
 奥村は左右の敵に身を寄せては首を刈りとったが、死人はそれでも動いている。闇雲に襲いかかって、しまいには同士討ちすら始めてしまった。
 騎士たちは心を鬼にして死人たちに斬りかかる。騎士らしからぬ戦いの中で、兵士たちの中には涙する者まであった。死人を動けなくするには五体を切り刻むしかなかったからだ。死体だから血を噴き出さないが、家畜にするよりもひどい人肉の解体である。どれも肉が腐り軟らかくなっているから、斬りにくいといったらない。奥村はいよいよ怒りを深くしたが、部隊を統率するためにどうにか気を静めた。
「おかしいぞ。こいつらは動きが鈍い。こんなやつらで我々の足止めをしようとはしないはずだ」
 アジームが容赦のない殺戮に閉口しながら側に来た。「数で押すつもりなのかもしれんぞ」
「いや、モーティアナの力とて無限ではない……」
 奥村は言葉の途中で身を伏せた。突然の銃声に体が無意識に反応してのことだった。アジームはほとんど彼の体にかぶさっている。どうもこの侍を守る役目を買って出たらしい。二人の真上を銃弾がどしどしと行き過ぎていった。
「まずいぞ、奥村!」とアジームが耳元で言った。「銃士隊の生き残りがいやがった! 厄介なことになるぞ」
 アジームのいうとおりだった。こっちの動きは鈍るのに、死人たちは飛び交う銃弾をものともしない。
 奥村は兵に指図して、仲間を左右に散開させようとしたが、死体に行く手を阻まれてうまくいかない。銃士たちはそのまごつく所を狙い撃ってきた。
 奥村もこの世界で銃撃を受けたのは初めてである。
 洋一のいったとおりか! ウィンディゴめ、この世界に銃戦をもちこみおった!
 奥村は騎士たちを統率すると、建物を背中に負って、銃弾をさけては死人たちと戦った。
「弓隊を前に出せ! 銃士共に反撃しろ!」
 奥村の指図に駆けこんできたのは弓矢を大量に抱えた連中である。騎士たちもこんな銃戦が初めてだが、奥村はいやというほど経験してきた。戦い方を知っている。
「まずは銃撃を黙らせるぞ! 弓隊を援護するんだ!」
 みなはこの隊長が銃弾も怖れず、弓隊の前に出ては死人の急襲から守ったから、勇気を起こして奥村に続いた。
 ロビンは三百名を六つの部隊に分け、内の五十名は選りすぐりの射手を集めていた。この連中も仲間の援護に勇躍してさかんな射撃を行った。銃士たちの姿が即興のバリケードの向こうに見え隠れする。死人どもを前面に出し、矢ふさぎにしているのだ。無数に矢を受け蠢いている死人の姿はなんとも酷い。奥村たちは手こずったが、弓の名手ロビンが考案した作戦も巧妙だ。射手たちは数列に分かれては交代射撃を行った。彼らの飛ばす矢は銃士どもの銃撃の数を上回って、ついにその射撃を弱まらせた。
 奥村はこの機を逃さじと叫んだ。
「アラン・ア・デイル! 五十名を連れて脇道から回りこめ!」
 奥村はその隙にモーティアナの姿を探す。あの老婆がウィンディゴから与えられた力も無制限ではないはずである。これだけの数の死人を動かすなら、どこか近くにいるはずだ。どこだ?
 そのとき、アジームが彼の肩をつかんで、
「いかんぞ奥村! 部隊がすっかり間延びしてしまった! 洋一と太助が危ないぞ!」
「しまった!」
 奥村は部隊の統率に夢中で少年らの姿をすっかり見失っていた。
 ウィル・ガムウェルが側に来て、
「ここはもういい! 小僧共を助けてやってくれ!」
 みなあの少年の重要さをわかっているのだ。奥村とアジームはともに後方に駆けだした。
「俺たちはあの二人にはりついて、モーティアナを狙うんだ! 必ず出てくるぞ!」
「わかった! だが、モーティアナの力がこれほど増しているとはな! やつを斬れば死人もおさまるか!
「そう願うしかないあるまい!」
 若者が二人がかりで死体に抱きつかれている。アジームと奥村はたちまち救いだした。そうする間にも中央道にやってくる死体は次々と数を増している。
「こうも数がふえては厄介だ。みな集まれ! ばらばらに戦うな!」
 奥村は道々で各個戦う騎士たちを手近に揃えた。
「あの女は近くにいる。遠隔からこれだけの力を振るうことは不可能だ。モーティアナと太助らの姿を探せ!」
 奥村は死体と戦う愚をなるたけ避けた。騎士たちは奥村を守りながら後方へと進撃した。そのうちに、死人の群れに囲まれた一団を見いだした。その中央にいるのはミュンヒハウゼンと少年らである。
「いたぞ! 救い出せ!」
 奥村は夢中で死体の群れに飛びこむ。手練の血刀は無数の煌めきと化して、死人らの手といわず胴といわず斬り飛ばしていく。洋一まであと少しというところで、奥村は驚愕に身を凍り付かせた。洋一の姿がたちまち変化して、眼球をくり抜かれた西洋人の少年に変わったからだ。太助もミュンヒハウゼンも見知らぬ死体で、まるで奥村をあざ笑うかのように牙を剥いてくる。腐った血と唾液が、口中でネバネバと糸を引いていた。
「くそ」と奥村は言った。「幻術だったのか! 洋一じゃない!」
 隣にいたアジームもおなじものを見たようだ。二人は錯愕の顔を見交わす。
「まずいぞ奥村。幻覚を解いたということは二人が捕まったのかもしれん」
 奥村はアジームの声さえ遠くに聞いた。顔面は蒼白になり、今にも愛刀を取り落としそうだ。彼は近くに寄ってきた死人を突き飛ばすと、道の奥へと走りだす。自分の迂闊さを呪いながら。
 洋一、太助、死ぬな……!

○     2

 最初から罠だったんだ……
 ロビンもとられた。自分たちはゾンビに囲まれている。暗澹たる思いというのが、血の気をすら引かすということを、このとき洋一は初めて理解した。彼は部隊の真ん中にいて、死者たちの人影は兵士たちの体の隙間からしか見えなかった。けれど、嘔吐するには十分だった。これは内蔵の臭いなんだろうか? と洋一は思う。彼の冴えた嗅覚はなかなか麻痺してくれない。
 死人たちは剥き出しの臓腑をものともせずに向かって来る。歴戦の騎士たちですら恐怖に凍り付き、剣の冴えを鈍らせる。洋一は口元を拭い、懐から伝説の書をとりだした。その手を押さえたのは男爵だった。彼は激しく怒った顔で本をむりやり懐に戻す。
「しまえそんなものは!」
「なんで! 今こそみんなのピンチだ! この連中を見てよ!」と洋一は言った。「伝説の書を使わなかったら切り抜けられないじゃないか!」
「どう書くつもりだ! ロビンがどこにやられたのかもわからんのだぞ。状況に不明な点が多すぎる。どう書くつもりだ!」
 洋一は昨晩の言葉を思いだした。彼には本にどう書きこむべきなのかがまったく見えなかった。こんな状態でいい知恵なんて出るはずがない。
 ミュンヒハウゼンは洋一の耳に口を寄せた。
「今、本をつかうのは危険だ。万一のためにとっておけ」と言って、洋一のすっかり細くなった腕をとる。そのとき老人の瞳が揺れていたので、洋一はそれ以上反論できなかった。「お前はもう一度本に生命力を吸い取られておる。二度目は命を落とすかもしれんのだぞ」
「でも、モーティアナはきっと出てくるよ」と太助が囁いた。「あいつはぼくと洋一のことを怨んでるんだ」
 最後には本を奪うつもりだろう、と太助は思った。
 その言葉通りに、三人を狙う死体はどんどんと増えていった。まるでノッティンガム中の遺体を操っているかのようだ。大人たちが押されて戻り、中央にいた洋一と太助は鉄の鎧に押しつぶされそうになる。太助は父親の元に駆けつけたかった。せっかく会えたのに死んだらどうするんだ。ところが、男爵が肩を押さえて許さない。モーティアナは死体から本を奪うつもりなのかも知れない。自分で手を下す気がもうないのかも知れない、と彼は思った。洋一と伝説の書を守らないと。
 死人は素手だが、あまりに数が多すぎる。そのうち、銃士隊の射撃が始まると、円陣はみるみる崩れて、死人と生き人入り乱れての乱戦になった。
 周囲の鎧が引っぺがされて、太助はようやく人心地をついて、刀を抜いた。
「洋一、ぼくの背中に回れ!」
 彼の背に洋一が手を置いた。ミュンヒハウゼンはどういう因果か、おなじ年格好の男性を退けている。悪気が充満しているのか、今朝よりもずっと年老いているように見えた。
「ぼくの側を離れるなよ。二人でいなきゃだめだ」
 と太助は言った。洋一がうなずいているのが、見なくてもわかる。そうして互いを守るようにして立つ二人のこどものところへ、ヨタヨタと女の死人が近づいてくる。太助は急に気後れをして刀を引いた。洋一が太助の背に押されて、不審に声をかけた。太助はそれでもジワジワと下がる。なぜ金縛りにあったように斬りかかれないのか、自分でも理由が分からない。母上など見たこともないだろうしっかりしろ、と彼は自分に言い聞かせた。母親の悲惨な死もあって、母性に対する憧憬がどうしても抜けないのだ。第一、侍たちは女こどもを守るためにずっと戦ってきたのではないか。斬るのか? と太助は自分すらをも疑った。
 背後で、父さんと母さんだ、と洋一が言った。太助は一瞬だけふりむいた。洋一は、左手からくる男女の死体に釘付けとなって震えている。洋一にはあれが両親の死体に見えているのだ。
「洋一! しっかりしろ! 見ちゃだめだ!」
 太助は洋一を背後に抱えたまま斬りかかれずにいる。女は血まみれの腕を上げて襲いかかってきた。
「くそ!」
 太助の頬を爪が切り裂いた。刀を上げたが、斬れない。武器をもたない女は太助の喉元に食らいつこうとした。太助は硬直したまま、女の血塗られた犬歯をみた。そのときになって、ようやくこの女が金髪碧眼で、母とは似るはずもないことに気がついた。
 ミュンヒハウゼンが脇から女を蹴転がしたのはそのときだった。その勢いのまま身を寄せて、サーベルを一閃、女の首を斬りとばす。太助の目線は地面を転がる女の首を追った。
「あれはもう人ではない! ためらうな!」
 太助は悔しがり、周囲の建物にむかって叫んだ。「モーティアナめ、卑怯な幻術をつかうな! 隠れてないで出てこい!」
 戦場はもう節度のない殺しの場である。騎士たちも死人のあまりの多さに、目の前の敵を退けるだけで精一杯だ。太助はミュンヒハウゼンと一緒に洋一を挟んだ。
「洋一、しっかりせい! 幻を見るな! 自分を保て!」
 男爵はもう洋一の頬を引っぱたいている。
 太助は半眼をとって、無心になろうと勤めた。脱力だ、居着くなよ、と自分に言い聞かせる。
「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」
 と太助は口の中でつぶやいた。なにかに集中しなければとてもやっていけない。
「南無阿弥陀仏、観世音菩薩」
 太助は表情を変えていなかったが、内心嫌悪せずにいられない。けれど、自分よりも小さなこどもの首を切るには心を無にするしかないと思った。彼は古伝の正中線に集中しながら、居着かぬように居着かぬようにと努めた。死人の背後にモーティアナを見ようとした。あの魔女め、絶対に揺るさんぞ! 太助はいつもの度胸をとりもどすと、迫り来る敵を斬りたおした。
「モーティアナ、モーティアナはどこだ!」
 敵を蹴倒し、洋一の側に駆け戻ろうとする。その視界の隅に、なにかが入った。背筋に寒気が走った。斬り結び合う騎士たちの向こうにフードをかぶった老婆がいたのだ。邪悪な笑みを口元に浮かべ(目は影で見えない。でも見ているのは自分の方だ)彼を手招いている。宿で斬った使い魔とおなじ姿だ。そのとたん、魔女の高らかな笑い声が頭に響く――
 ウケケケケ……
「男爵、いたぞ! モーティアナだ!」
 ミュンヒハウゼンが顔を上げなにかいったときには、太助は夢中で走っていた。あいつを、あいつを殺せば死体も止まるぞ!
「洋一! 待ってろ!」
 老婆は側の屋敷に退き、扉をそっと開けると中に身を隠す。
「待てえ!」
 太助は掴みかかる死体の手をすり抜けて、屋敷を目指した。洋一の呼び止める声も、血気にはやる少年には届かない。
「逃がすもんか、今度こそ仕留めてやる!」
 太助は死体を飛び越え、モーティアナを目がけて一散に駆けた。

○     3

 モーティアナの逃げこんだアパートは、周囲の建物とは画然としている。まず戦場のまっただ中にあるというのに傷がひとつもない。その一軒だけが夕暮れの中にいるように曇って見えた。そして、建物を囲むように白い灰が蒔かれている。右足がそれを踏みつけたのに、太助は気づかなかった。わずかな階段を駆け上がると、刀を眼前に立てるようにして、気息を整える。必殺の意思を刀にこめた。
「待ってろ洋一、今あいつを仕留めてやるぞ」
 そして、わずかに開いた戸の隙間から、モーティアナの待つ暗闇の中に押し入った。戸口に体を滑りこますと、壁を背にして大上段に振りかぶる。おかしいぞ――
 視野を広げ左右の闇を推し量るが、伏せている人はない。そして、奇妙なことに気がついた。戸を閉め切った様子もないのに、そこはわずかな光も差さない真の暗闇だったからだ。
「モーティアナ!」
「来たかえ、小僧……」
「モーティアナ……」
 後ろで戸がカチリと閉まった。太助は思わずノブを回そうと剣を片手に背後を探ったが、そこにはなにもなかった。なんの手応えも。扉は消え、ノブは消え、家の中ですらなくなっている。
 太助はついに自分が罠に落ちたことを知った。迂闊だった。死体共を止めたくて焦っていた。あの宿で魔女の力は熟知していたはずなのに、使い魔を斬ったことで慢心したのだ。男爵も洋一も入ってこれないだろう。魔女はまんまと彼を罠にはめ、彼をひとりぼっちにした。
 太助は落ち着けと自分に言い聞かせながら、背筋を伸ばし刀に両指をはわして、正眼に置いた。三白眼で闇を透かしてもなにもない。
 奥から声が響いてくる。
「ぬけぬけと追ってきたね。あたしを斬り倒したいのかい」
「ああ、やってやるぞ!」闇の恐怖を払うべく声を上げる。胸は声に呼応し、激しく震えた。心臓の高鳴りはこらえようもない。モーティアナが、あいつが見えない。見えなければ斬ることは不可能だ。太助はモーティアナの気配を探りながら挑発した。
「卑怯者め、隠れなくてはぼくの相手も出来ないか!」
 モーティアナは、キャハハ、と笑った。それは心底意地悪で、それでいて華やいだ声だった。魔女は念願を叶えようとしている。彼女の少年を殺そうとしている。
「小僧、よくもあたしの蛇を殺したね!」
 モーティアナの声は四方から聞こえた。これでは出所が探れない。太助は無念さを噛み殺して、剣先をわずかに下げた。モーティアナの声は喜びと怒りで震えていた。彼女はにじり寄りながら涙すらこぼしていたのだが、太助の目には見えなかった。
 恐怖で呼吸が速くなる。彼はもはや両眼を閉じた、必死に直感を働かせようとした。モーティアナの匂い、少しでいい、魔女の熱をさぐりたかった。時間を稼ぎ、柄に這わせた指をそっと振り、緊張をゆるめようとする。心身がこわばって平常心ではいられない。彼は北辰一刀流にいう鶺鴒の尾を無意識の内にやっている。剣尖を揺らめかしながら、モーティアナの先を切って落とそうとしていた。見えないならば、気配を探って斬り裂くまでだ。
「さあ、来い!」
「お前はウィンディゴ様の信頼を奪った。たかが小僧があたしの邪魔をした。許さない。許さないよ。お前は許さない。どうなるかわかるかい。どうなるか教えてやろうか。お前のせいで。お前のせいで、あたしがどんな目にあったか、その恨みを五体に受けるがいい! お前の恐怖をあたしにくれ。骨を砕かせろ。筋を千切らせろ。毒と恐怖でお前の肉をめちゃめちゃに搾ってくれる! ああ柔らかい子羊よりも、柔らかいシチューにしてくれる。お喜び下さるだろうよ。ああ、ウィンディゴ様はお喜び下さるとも」
 モーティアナの声は不可思議にどんどん大きくなっていった。まるで洞穴で木霊する声のようだ。あちこちで反響して太助の身体を激しく打った。彼は幼い身体を蹌踉めかせながら、それでも必死に立っていた。呼吸を整え、気力を剣に託し、必殺の一撃に備えたのだった。
「手土産はお前、次は小憎らしい侍の父親、ミュンヒハウゼンとかいうじじいも目玉をくり抜いて殺してやるとも。生きたまま舌を抜いてやる。次は洋一とかいう小僧だ。あいつはただではすまさん。ウィンディゴ様の持ち物を奪い、馬鹿げた力であたしの計画を食い止めおった。だから、指を引き千切るんだ。馬鹿げた文が書けないようにだよ。足の指もだ。逃げられないようにだよ。そうしてやってやる。あいつの皮をはいでやる。小さなちんちんを磨り潰してやったら、どんな顔をするかね。ハハハ、玉もだ。玉もやってやる。そうなったら、生かしておいてやるさ。たった一人で生かしておいてやる。そうなったら、あいつは死ぬかね? ああ、首を括ればいいのに。見物だ。見物だとも」
「お前の思い通りにはならない」太助は言った。その声は緊張と興奮で震えてもいた。「ここで死ぬんだ」
「どうかな?」
 その声だけは奇妙に小さくなり、驚くほど近くでした。シュルシュルと地を這う音が聞こえたとき、太助はついに目を開けた。なにも見えないが、巨大でザラザラした物体が自分の身体に巻き付くのを感じる。その蛇の長い総身は、彼の全身をすりあげ締め上げる。鼻をつく生臭い匂い、嘔吐きが起きた。腕を封じられ、骨をきしませる激痛に大刀が落ちた……。彼は敵の術中に嵌ったのだった。
「死ぬのはお前だ」

○     4

 太助は万力の中に身を挟まれているようだった。このままでは強大なローラーの下敷きになるみたいにペシャンコにされてしまうだろう。肺が押されて空気が抜けた。横隔膜が圧迫されて激痛が喉にまで走る。全身の骨が音を立てる、肋骨が変形し内臓が切られそうだ。幼い体が柔軟性を持つのを幸いモーティアナは歓喜の雄叫びを上げながらギュウギュウと締め上げた。太助の目は力なく、液体が零れる。朦朧としながら、洋一や父のことを思った。これの次は――次があるんだ。
 真っ赤な茹で蛸のようになり――脳が酸欠で空気を求めて体中の血液を集めている。もう目玉が飛び出しそうだ――そんな状況だというのに、友人のことを思った、父親のことを思った。彼らを助けるんだと彼は思った。血液が抜けて痺れる指を動かし、ドサリと鞘に引っかける。モーティアナは絶叫を上げ、さあ、いよいよだ、まだ死ぬなまだだ死ぬな毒を回して肉を溶かしてやる、生きたまま身を焼かれるがいいや! と真っ赤な口から鋭い牙を生やして、彼の喉元に噛みついた。太助は一瞬目を見開き、次にあきらめたように力を無くすと声にならぬ声を発した。これ以上の激痛があるとは信じられなかったが、本当だった。老婆の牙は食道を食い破るほどに深く刺さって、熱い毒を流しこんだのだ。
 太助は舌を垂らして(その首はほとんど無気力となってブラブラと揺れた)、それでも柄に手をかけた、手首だけでそろそろと抜いた。蛇は生きたスプリングのように彼の体を巻いていたが、刀を持っていた右腕だけは、その隙間から突き出ていたからだ。意識はないのに、身体を必死に突き動かす。脇差しが鞘から伸びて刀身を露わにしたが、老婆は狂った犬のように太助の首に噛みついてグルグルと首を振り回している。舌で夢中で血を吸い取っている。うまい、うまいぞ!
 太助は身体を振られていたから、鯉口をどうにか切った、体が左右に揺らめいて脇差しがぐっと抜け出た、後は重みで鞘から落ちた。指を引っかけるようにしてその確かな感触を掌に包む。体はもう真っ赤にむくんでいた。ああ、と声を上げたような気がしたが、実際には息すら漏れていなかった。
 洋一……と彼は最後に思う。彼にとっては最初にして最後に出来た友人だった。鼻と口から血が噴き出し、声すら上げられない。手の内で刀を回して、モーティアナの身体に押し当てたときだけは、開ききった瞳孔に光が戻った。
 太助は倒れこむようにしてモーティアナに身を預けながら、無理矢理腕を伸ばし、老婆の首元に刃を押しこんだ。
 蛇の目を見開いたのは、今度こそモーティアナだった。

○     5

 洋一と男爵は無駄と知りながらも、建物を包む結界に拳を打ち当てていた。二人は夢中で体当たりを繰り返している。剣を打ち付け、蹴りをくれるが、人骨の粉を巧妙に配した魔方陣は、強固な障壁をつくり、彼らではとても突き崩せない。
「なんということだ。太助は殺されてしまうぞ!」
「そんなことない! あきらめちゃだめだ!」
 周りに目をくれようとしない洋一とミュンヒハウゼンに手を伸ばしていた死人たちが、もう一度ただの死体に戻ったのはその時だった。辺りの喧噪が突然静かになった。聞こえるのは遠くで響く銃声と剣戟の音。アランたちがまだ銃士らと戦っているのだった。けれど、死人たちはまるで自らを吊る糸が切れたようにクシャクシャと、どれも地面に倒れている。洋一が手を伸ばすと、障壁が消えていた。そこへ奥村左右衛門之丞が血刀を手に鬼をも斬らんばかりの勢いで駆けこんでくる。
「おじさん、太助はこの中だ!」
 洋一の声がやむ間もなかった。奥村は彼の息子がそうしたようにわずかな段を踊り越え、その勢いのまま、足を伸ばして固い扉を蹴り開けた。
「太助!!」
 奥村は敵の待ちかまえる予感にも関わらずに大声を上げた。家屋はいまだに暗闇――モーティアナの魔術が残っている。奥村は視線を伸ばした。戸口の光は黒煙にも似た闇をわずかに払っている。その光の先で、袴を巻き付けた小さな脚が倒れている。
「太助!」
 奥村は夢中で息子の傍らに膝をついた。男爵が周囲を警戒しながら後につづく。「なんということだ」
 太助は刀を握ったまま、自らの流した血の海に舌を垂らしている。目は閉じ。剥き出しの腕には、なにかに強く締められた痕。のど元には大きな穴が真紫に開いている。
「モーティアナだ。モーティアナにやられたんだ。毒にやられてる」
 と洋一は呆然として、けれど無意識に足を踏み出していた。闇に入った。彼が思いだしたのは今朝の太助の姿だった。一緒にウィンディゴを倒そうと彼の背を優しく撫でた小さな手が力なく伸び、自らの血にまみれて落ちている。彼に様々なことを語った唇も真紫に染まり乾いていた。強く優しい友人が、今孤独にも死の床に就こうとしている。
「太助……」奥村は、そっと息子の顔に指を這わせる。体の下に腕を入れて、息子を抱き上げた。あんなに元気だった、あんなに勇敢だった息子が全身の力を無くして、別人のように手足を垂らしている。もう言葉もない。
 太助を側の客間に運び入れた。狭い部屋の中央で、奥村は息子を抱いて座った。
 太助の息はかすかだった。奥村はふと色々なことを思いだしていた。息子が生まれたとき、今とおなじように抱き上げたこと。妻の亡骸に立派な侍にすると誓ったことや、死に行く仲間から息子の後事を託されたことを思った。なによりも息子との思い出が幾重にも頭を巡る。彼は頭を傾け、そっと涙が流れるに任せた。ああ、この息子がどんなに自分に尽くしてくれたことか。自分がどんなに息子を思ってきたか。その積年の思いが胸を塞いで彼はなにも言えなかった。その人生がどんなに得難いものだったか、ついに彼は息子に伝えず仕舞いだった。息子が生まれてこの方どんなにありがたいと思ってきたことか、その事の万分の一も彼は息子に伝えられなかった。申し訳なさが涙となり、ポトポトと頬を流れた。息子の顔に落ち、彼の息子が、泣いているようにも見える。
「息子は、息子は天下一の孝行者でござんした。これほどの、これほどの息子がいて、拙者は天下一の果報者にござんす。その息子に報いることが一度たりとも出来もうさなんだ。そのことが悔やまれて、悔やまれて。積願が果たせずともかまいもうさん。拙者息子のためなら、腹を切り申す。主君を持たぬ浪人ゆえ、せめて家族のために腹を切り申す。なのに、何故息子が父より先に死なねばならんのか」
 ミュンヒハウゼンは老いた手で顔を覆う。彼は一息に何十年も年を食った。
 洋一は呆然とその光景を見つめている。目の前にいる三人は何万光年の彼方。現実の事とはかけ離れて見えた。
「拙者は、拙者は我が儘でござんした。息子はどんな生き方でもできるのに、拙者の我が儘で側に置き申した。命を狙われていることも、預ける場所がないこともすべて言い訳でござんす。息子を手放すのが耐えられなかった。それ故に、このような若輩の身で死なせることになり申した。不憫でなり申さん。拙者の息子でなければと思い申す。かような苦労も、かような死に様もせずにすんだろう。申し訳、申し訳なく」
 洋一は急に腹が立った。奥村がなぜそんなふうに謝るのか彼には理解しがたかったのだ。あんなに強くてあんなに頼れたおじさんが、別人のように力をなくして肩を垂らす――うそだ、こんなの現実じゃない、目の前にある光景、あれこそがデタラメだと彼は思った。だって、彼は知っている。太助という少年がどんなに父親のことを誇らしく語っていたか、どんなに親を愛していたかを。太助の口が恨み言を発したことなんてあったろうか? 断じてない。いつも前向きだったじゃないか。
 それは彼が真っ直ぐな人間だからで、真っ直ぐな人間に育てられたからだと洋一は思った。太助を育てたのは今はひとりぼっちで泣きにくれている侍である。洋一はこんなのだめだと拳を握る。こんな結末誰も望んでるもんか。これが物語の世界なら、絶対に幸せな結末にするんだと。
「太助はおじさんと一緒に居られることを喜んでた。おじさんが育ててくれたことをずっと感謝してたんだ。太助は誇りを持って生きてた。だから、こいつは、ぼくなんかよりずっと偉いんだ」
 奥村が泣き顔を上げる。その泣き顔を見ると、洋一は今よりもっと腹が立った。太助は父親を尊敬してた。父親のこんな姿は見たくなかったろう――それが自分のせいというなら尚更だった。
「太助は死んだって後悔なんかしない。おじさんがしても、こいつはしない。後悔しない生き方はおじさんが教えたんじゃないか! 人を羨んだり、生まれを悔やんだりしない生き方の方がずっと大事だ! 学校に行くよりずっと大事だ! だから、ぼくは……!」
 洋一は、その幼い友人をどんなに尊敬していたか、言葉に出来なかった。だから、彼は唇を噛みしめて涙をこらえた。
 洋一の言葉が胸に刺さり、その言葉は奥村の胸につかえていた感情をどっと押し流した。それですべてが報われたわけではない。ただ洋一のことがありがたかった。そのようにして息子に接してくれた初めての友人のことがありがたく、ひとえに頭の下がる思いがした。それが太助にとってどれほど支えになったことか、このときハッキリと分かったからである。
 沈黙が影に落ちた。奥村はがっくりと肩を落とし、息子の腕に手を添えている。洋一は伝説の書を懐からとりだし(胸当てを固く縛っていたから苦労してとりだした)、上から手を当てる。自分になにができるのかはわからなかった。でもなにをすべきかはわかっていた。洋一は奥村の、優しいけれど血に塗れた手を見ながらつぶやいた。
「男爵、ぼくを太助と二人っきりにして欲しいんだ」
「書くつもりか?」と男爵は尋ねた。「だがどうやるというのだ。太助はもう……」
「太助は死んでない! 二人にして欲しいんだ。ぼくと太助二人きりだ!」
 奥村は太助をそっと床に寝かせると、洋一に膝を向け、深々と頭を下げた。
「お頼み申す」
 男爵は迷ったが、ややあって、
「わかった。奥村部屋を出るんじゃ」
 奥村は力なく首を垂れる、さ迷うように出て行く。最後に洋一を見て微笑む。男爵は残った。
 背の高いミュンヒハウゼンが膝をついて、洋一と頭の位置をおなじにした。
「いいのか?」
 洋一はうなずいた。ミュンヒハウゼンはやや不安げな表情をその皺顔に貼り付けて、洋一の肩に手を置く。男爵は迷っていた。洋一にやらせるべきか。けれど、太助が蘇るのならばわずかな可能性にも賭けたい思いだ。この少年はひ弱に見えながらも、伝説の書をどうにか使いこなしてここまでやってきた。男爵はその可能性に賭けたかった。本来ならば自分はこんな事をいうべきではないと思う。洋一は、太助とおなじく忘れられた一族の最後の生き残りである。下手をすると、ミュンヒハウゼンはその二人共をも失うことになるだろう。けれど、彼は言わずにはおられなかった。この二人は力を合わせ、どんな艱難をも乗り越えてきたのだから。この窮地にすら期待するなというのは無理というものだ。彼はこの名付け子まで失うかもしれないという恐怖心を脇に押しやった。
「ここが本の世界だということを忘れるな。物語には世界観が必ずある。ウィンディゴですらその世界観に縛られておる。お主は本の書き方を父親から教わっておろう。その鉄則を守るんじゃ。物語を作るとき、自分がどうしてきたかを思い出せ」
「ぼく、ぼく、やれるよ。大丈夫だ」
「物語の世界に法則があることは分かったはずだ。あの魔女が実際の魔力をつかったように、ここは現実の世界とは大きく相違する。その法則を見抜くことだ。そしてここはあくまで物語の世界。実現するアイディアがあるならば、書きこんだことは必ず現実になるはずだ。残念ながら、わしには文が書けん。お主にすべてを任せるのは、申し訳ないが……」
 立ち上がり、背を向けて歩きはじめたミュンヒハウゼンを、
「男爵」と呼び止める。「ぼく、太助と話してたから、あいつの気持ちがわかってたんだ。こいつがおじさんや男爵に感謝してたの、嘘じゃない」
 ミュンヒハウゼンは振り返り、淡く優しい顔をした。洋一は顔を下げていたからその笑みは見えなかった。
「でも、怒鳴ったりして悪かったよ。このことが終わったら、おじさんに謝ろうと思ってる」
「わかった」
 男爵は出て行った。洋一は改めて奥村太助を見下ろした。その顔はまったく青白い。死体かゾンビでもこれほどひどくはないだろう。彼の友人は呼吸もほとんどしていないように見えた。狭い路地に面した窓から、明かりがかすかに落ちて、彼は懐から伝説の書をとりだした。

○     6

 あれは今朝のことだった。洋一は太助とのやりとりを思いだした。自分を励ますように背中を撫でてくれたこと。彼の語った言葉を逐一思い出していた。洋一は太助の死を悲しんだ。ああ、こいつはこんな所で死んじゃ駄目だ――この一人ぼっちの友人に、いろんなものを見せてやりたい、自分の持っているものを分けてやりたいと思った。太助がなにも望まないのは、元もとなにも持たないからなのかもしれない。だけど、もっと求めていい。いろんなものを手にしていい。誰にでもある権利を行使して欲しかった。ささいなことで、おだやかなことでいいから、戦いや痛みや血や涙のないところに彼を連れ出してやりたかった。生まれて死ぬのが平等なら、普通に生きる権利だって持っているはずだ。蘇れ、と洋一は太助の肩を撫でながら思った。彼は声に出さず、口の中で舌を動かし奥村太助に訴えかけた。二人でウィンディゴをやっつけるんだろ? 一緒にやってくれるっていったじゃないか。いつものように立ち上がり、いつものように前向きに、自分を導いて欲しかった。洋一は太助が平凡に生きられないのなら、一緒に歩いてやるつもりだったのだ。
 そうして牧村洋一は、また奥村太助と二人ぼっちになった。戸を閉め切り、日中の湿った空気の中で、父親が教えてくれたことを思い出そうとした。自分の指を見たが、情けなくも震えている。彼は、くそっ、と小さな声でつぶやいた。泣くつもりなんかないのに、涙がにじんでいる。彼は自分のことを情けないと思った。おじさんや男爵にはあんな啖呵を切ったのに、自信がないのだ。太助が死ぬのも自分が死ぬのも恐れている。こんなことをしてる場合じゃない、うまくやるアイディアを練らなけりゃと思ったけれど、体の奥底が震えてそれで全身が強張っている。喉がカラカラだ。
 お父さん、お母さん……、と彼は思った。けれど、もう代わりをしてくれる誰かはいない。この部屋にいるのは彼と太助だけだった。
「才能なんてないじゃないか……」
 洋一はびくりと腰を上げた。今聞こえたのは自分の声なのに、自分がつぶやいたことにも気づいていなかった。彼は泣き出してしまった。
「やっぱりぼくには無理だよ。太助ごめんよ」
「お主の友人は死ぬ」
 洋一はまたぎくりと身を起こした。低い声がすぐ側で聞こえた。「ウィンディゴ……?」辺りを見回すが誰もいない。彼の身動きで塵が舞うばかりだった。ウィンディゴがここにいるはずない。あいつは本の世界には入れないんだ。
 洋一は立ち上がって、部屋を見回した。薄暗くて、それに死の臭いがちょっぴりする。その死の臭いは足下の少年が発している。洋一はもう一度、太助……とつぶやいた。太助のすぐそばに自分の置いた伝説の書が落ちている事に気がついた。
 ――本だ。ぼくは伝説の書の悪い部分とも向き合っている――さきほどしゃべったのは、この本だったのだ。そうしてみると、赤い表紙は邪悪にもニタニタと笑っているようにも見える。彼に創作をさせたがっているのはまちがいないが、本を形成する大半の部分は彼に失敗させたがっている。そのうち、伝説の書が一人でにパラパラと開き、洋一はひっと尻餅をついた。耳の奥でブンブンと唸る声がし始める。大半が意味不明な外国語だ。伝説の書に飲まれた人物たちが、彼が本を使おうとそして弱い心に負けようとしているのを見取って出てきたのだ。洋一は鼓膜に噛みつくような無数の声に耐えかねた。
「うるさい、誰も死ぬもんか、向こうへ行け!」
 叫び声とともに、鼓膜に巣くう無限の音は追い払った。背後でカチャリと音がする。誰かがノブを回そうとしたが、また元の位置に戻った。洋一はほっと息をついた。二人は彼を信じて、事を託している。
「心だ、伝説の書を扱うのは、強い心なんだ」洋一は伝説の書に手を伸ばし、本を閉じると、固い表紙の角を掴み上げた。その本を顔の高さにまで持ち上げると、「本の持ち主はぼくだ。主人はぼくだ。まちがえるな。わかったら、いうことを聞け」と囁いた。洋一ははっと足下を見おろす。太助がうめき声を上げている。彼は膝を滑らすようにして、顔の側に手をついた。
「しっかりしろ。目を開けろよ」
 と耳に近づき囁く。喉元からあふれる血を目にし、肩を揺するのだけは我慢する。洋一はふいに、自分がどんなに太助を大事に思っているかに気がついた。共にすごした時間はわずかなものなのに、血を分け合った兄弟のように感じている。そして、実際に血を分け合った肉親はもういない。洋一は二人がいなくなったときのぽっかりとした空虚感を、今もまたおなじ強さで味わった。
 いやだ。頼むから、いなくならないで。
 洋一は言ったが、喉からは息すらでない。
 そうした大切な人間が、まるでちっぽけで、まったく価値のないやつみたいに、あっけなくも死のうとしている。彼に様々なことを語った口から血を流し、頬に涙の筋を残し、あっけなく死のうとしている。洋一は太助の死を受け入れられなかった。いつの間にかこの侍の少年を決して死ぬことのない無敵の存在のように崇めていた。だから、そんな人間が無言で力なく横たわっていることを信じたくなかったのだ。
 しっかりしろ、ぼくなら太助を救えるんだ。夢のとおりにするつもりか。
 ああ、そういえば、父親は、書くときは心を鎮めるようにいっていたっけ。
「だけど……」
 脳裏には父親の残像が居残っている。洋一は必死に考えをまとめようとしたが、ヘドロが脳の回路をせき止めたみたいになにも出てこない。
 このままじゃだめだ。やり方を変えないと。
 洋一はよろめくように立った。彼は自分に言い聞かせた。この臆病者、しっかりしろ。男爵は期待してくれたじゃないか。太助だってそうだ。おじさんだって信じてる。本の力を引きだすのは信じる力だって男爵が言った。
 そういえば父さんはいろいろ教えてくれたな、と彼は思った。母親が持ってきてくれた、コーヒーとジュースの甘い香りを、ふと思いだす。
 駄目になったときのことは、駄目になってから考えればいい、と奥村少年ならいうかもしれない。だけど、洋一は言い訳がしたかった。頭は結果を考えたがっている。恭一は思考の流れをコントロールする方法を彼に教えたが、洋一にはついに理解できなかったし、今もってそうだ。結局のところ、恭一がなにかを伝えるには、彼は幼すぎたのだ。洋一はもう無理だと思った。なんども助けてくれた少年が、目の前で毒を盛られ血を流し死につこうとしているのに、落ち着いて文をまとめるなんてできるだろうか? そんなの無理だと彼は思う。うまくいかなかったときの恐怖、おじさんや男爵らの落胆を思うと吐き気がする。それどころか文を書き終わったとき、彼の肉体は骨しか残っていないのかもしれない!
 奥村の落胆を思いだすと、洋一は暗澹となった。つまりあれは自分自身の姿だった。両親を失った自分自身と重なり合ったのだ。
 だからこそやらなきゃ駄目だ。太助が義兄弟だというんなら、今度こそ家族を救うんだ。
 洋一はカッと目を開いて、太助を見る。ぽとぽとと涙をこぼしながらも本を開いた。
「書かなきゃだめだ……、ぼくが文を書かなきゃ太助は死ぬんだから」
 そういえば、こいつはいっていたっけ、いつでも最高の力を発揮するために、いつでも準備をしておくんだって。
 Qを出せ。Qをだすんだ、洋一は我知らずつぶやく。洋一が口を酸っぱく教えられたのは、Goサインが出るまで書くな、ということだ。書いていてつまらなかったら、それはGoサインの出ていない合図である。Goサインが出るまで、Qを出せ。いいQを出せば、いい答えは必ず出るからだ。
 恭一は、こどもにもわかりやすいよう、Q&A方式という言葉で教えてくれた。今思うと、彼の父親はなかなかにいい教師だった。行き詰まったときは、Qを出せ。答えを探すのはそれからなのだ。
 洋一は恭一のように、頭で理論的に理解しているわけではなかった。けれど、感覚的にはそのことがわかっていた。記憶にむかってうなずくと涙を拭った。
「Qをだすんだ」
 喉は焦りにヒリヒリしている。そこに唾を押しこんだ。図書館のどでかい机に座り、恭一の教えを受けているつもりになる。そうして父の教えを思い出そうとした。
 漠然と考えちゃだめだ、ポイントはなんだ? どうすればいい?
 小説を教えるとき、恭一はいつも右隣にいて優しく彼に語りかけてくれた。洋一はソファに座り、友人から流れ出る血液がじっとりと絨毯を濡らすのを見ながら、自分のすべてを賭けようとした。
「ぼくは書く。ぼくは書くぞ」
 洋一は父親の万年筆を握りしめた。このとき、大人用の立派な万年筆が、いやにか細く感じられたのだった。

□  その五 ロビン・フッド、不死の王と対決すること

○     1

「ジョン、大丈夫か?」
 とロビンはその見知らぬ土地で起き上がった。ジョンも剣を支えに立ち上がる。
「ああ」
「どうやら、武器は持ってきたようだ。が矢のほとんどをなくしてしまったな」
 ロビンが体を確かめると、腰の剣はある。が矢筒の中身はほとんど落としてしまっていた。自慢のイチイの矢も二本きりしかない。彼は肩に引っかけた弓を外して、矢を番えた。ジョンは大剣を左脇に引きつけるようにして立てて構え、ロビンの背後を守っている。
「一体、ここはどこだ?」
「わからねえ。どこかの部屋みてえだ」
 が、それがただの部屋でないのはすぐに知れた。下は豪奢な絨毯、右手には暖炉もあり、側には高級なソファーもあるが、すべてが霞がかっていて、おまけに壁だろう場所には真っ黒な影が漂っていた。ロビンが見上げると天井がなく、真っ黒なオーロラが揺らめいているようにも見える。モーティアナが生みだした異空間にいようとは、ロビンには知るよしもない。そして、その空の一角を切り裂くようにしてなにかがやってくるのが見えた。見えたというよりも、彼らが感じたのは邪悪な気配そのものだった。その怪鳥の影は速度を増し巨大になり、彼らの前に舞い降りた。
「モルドレッド……」
 ロビンはわずかに顎をだす仕草をした。ジョンがすばやく周囲を見回す。その間ロビンはモルドレッドの眉間に狙いをつけたまま、視線をそらさない。
「やつの他は誰もいねえ。一人だ」
 ロビンはかすかにうなずいた。
「どうやらモーティアナは本当にお前の部下だったようだな」
 モルドレッドが歩を進めてくる。「その部下に貴様は嵌められたのだ。イングランドで死ねるのはうれしかろう。この世界の王は俺だ!」
「ちがう。貴様はアーサー王の息子などでは断じてない! たとえ、貴様が真の王だろうと、俺は認めない。市民を虐殺し、化け物を飼い慣らしてなにが王か! 貴様がイングランドになにをもたらす! 王とは民のために存在すべきもの。貴様は死しかもたらさない……」
「言うことはそれだけか、ロビン・フッド……」
 モルドレッドは動いたとも見えない動きでいつの間にか剣をとりだしていた。その黒剣は周囲の黒気を身に纏い、吸い取るかのように巨大になっていく。モルドレッドは巨大な剣を軽々と操った。
「どのみち、貴様はここで死ぬのだ。諸侯を集め、俺への反撃を企てていたようだが、それらもすべては無用のことだ!」
 周囲の邪気はモルドレッドに反応するかのように伸び縮みしている。そのたびにロビンの視界は眩んだ。ロビンとジョンは方向感覚をなくしてよろめいた。
 ロビンはそうはいかんと呟き、なんとか身をまっすぐに立てた。
「悪略もここで終わりだ、悪童。貴様はここで殺す」
「あいにくと私は死なない。お前たちの小僧が言わなかったか。私が死なないのではなく、死ねないのだと。聖杯の力――」とモルドレッドは言った。「――神の力はいまだ私の体に宿っている。お前たちに私は殺せない」
 ジョンが否定するように鼻から強く息を吹く、首を左右に激しく振った。彼の全身がモルドレッドを否定している。
 ロビンは気合いの威声を放ち、弓弦を離した。その矢は部屋に満ちる黒気を飛ばした。
 ロビンはモルドレッドが手を振るのを見た。光と風が半円に広がり、ロビンの矢は幾重にも割れて吹き飛んだ。
 ばかな、とジョンが側で言った。ロビンの指は無意識に二矢目をつかんだが、残るのは一本切りだ。ジョンがそれを押さえるようにこう囁いた。
「あいつに矢は通じねえ。だが、太助はモーティアナの使い魔を斬ってる」
 モルドレッドが口元に拳を当て、ゲタゲタと笑う。ジョンはカッとなったが、今度はロビンが抑えた。
「お前たち、この俺をあの女の使い魔などと同一視するつもりか。ロクスリー、お前はかほどに間抜けなのか!」
 ロビンは弓を捨て、矢を腰に差すと、愛剣を引き抜いた。正直なところ彼には自信がない。まともに手を合わすのはこれが初めてだが、モルドレッドが驚異的な力を発揮するところはパレスチナでいやというほど目にしてきた。
「イングランドの人民が貴様ごときに希望をかけているとは、嘆かわしいどころか腹が立つわ! さっさと八つ裂きになり、この世からいぬがいい!」
 モルドレッドの怒声は衝撃となって二人の体を打ち据えた。ロビン・フッドが片膝をつき、ジョンが巨体を泳がせる。
「あのやろう、ほんとに魔法を使いやがる」
「あいつを殺るぞ! 右にまわれジョン!」
 ロビンは勢いよく跳ね起き、左に向かって駆けだした。ジョンは右へ。二人はモルドレッドの左右から呼吸をあわせて斬りかかる。ロビンが今ややつの首を斬り裂かんとしたところ、モルドレッドがマントを払い、黒光りのする大剣を手にとった。かと思うと、二人の剣をいともたやすくはねのけた。
 ジョンは負けじと体当たりせんばかりに斬りかかるが、モルドレッドの剛剣は彼の一撃をたやすく打ち落とした。激しい金属音がたち、折られると直覚したジョンはモルドレッドの威力を利用し体をひねると、剣を抱くようにして地面に転がる。ジョンが確かめると、両刃の剣は片側だけが無数の刃こぼれを起こしている。まるで戦場をいくつも渡り歩いたような有り様だ。ちびのジョンは目をしばたたく。モルドレッドの剣速は太助の抜刀術にまさらんばかりだったし、その力強さは比べものにならない。「なんて野郎だ」
 一方、ジョンの一撃を跳ね上げた黒剣は、ほとんど稲光となって片膝をつくロビンの頭上に降ってきた。ロビンは左に転がる、脇腹をかすめるようにして黒剣が滑り、大理石を切りとった。腹部に痛みを感じるが、かまっていられない。モルドレッドは丸太のようにでかい黒剣を風車のごとく回して後を追ってきたからだ。ロビンは夢中で床を転がる。もう顔を上げていられない。ゴオゴオという黒剣の唸りが耳を満たし、恐怖が五感を支配する。
 ジョンがモルドレッドの背後にまわるが、モルドレッドはすぐさま気づいて剣を飛ばした。ジョンはあやうく剣で受けたがたたらをふんだ。鉄片が飛んで、靴の下で音を立てる。
「くそ! なんだこの力は!」
 ロビンはその隙に大あわてで立ち上がる。
 モルドレッドは二人を威嚇しつつ、ゲタゲタと笑った。その表情の奥には五百の赤子が潜んでいて、二人の背筋は冷え冷えとした。
 あの剛力は赤子の力でも借りてやがるのか。
「俺は円卓の騎士の内でも最も強かったろう! ガウェインよりも力強く、トリスタンよりも速かった! 俺とまともに戦えたのはランスロットぐらいなものだ!」
 ロビンはモルドレッドの言葉が終わらぬうちに、真っ向から剣を振り下ろす。ロビンとて剣術は達人の腕だ。だが、モルドレッドは軽々と受けたばかりか、両腕を突き上げ、ロビンを宙に放り上げた。
 ロビンは鎖帷子を鳴らして地面を転がる。彼はすぐさま起き上がって、モルドレッドに駆け寄った。
 ロビンとジョンは互いに身を入れ替えながら、モルドレッドの体といわず足もいとわず、数十合と剣を見舞った。そのたびにモルドレッドの剛剣に押し返される。ロビンはもう大汗をかいている。肩で息をしながら、目をしばたたき、頭を振った。モルドレッドの姿がロビンの中でどんどん大きくなってきた。おそろしいことに、モルドレッドの懐に隠れて、こどもたちが幾人も自分を見返しているようだった。
 ロビン・フッドは自分自身を叱咤した。目を見開いて、あいつをようく見ろ! ここで殺さなくてどうする! だが、ロビンの目眩はどんどんひどくなる。視界の中で五百の目玉がグルグルと回りだした。ロビンはついに剣を取り落とした。
 ロビンが惑ううちに、ジョンは再度攻撃をしかけている。剣を上段に舞いあげると、黒剣がついてきた。男たちの頭上でふたつの剣がからみあった。
 ジョンは目をみはった。自分は両腕だというのに、片腕のモルドレッドが剣をやすやすと押しかえしてきたからだ。あまつさえ腰が浮き上がるのを感じる。この男の怪力と来たら、自分をこども扱いだ。ジョンは顔を真っ赤にして剣を押し返そうとした。そのとき、モルドレッドの空手がふところに伸び、さっと短剣を引き抜いたかと思うと、ジョンの肋を深々と刺した。
「あうう、あう」
「ジョン!」
 ロビンはハッと目を覚まして剣を拾った。
 モルドレッドはジョンの体を仰向けにすると、ブーツの底であばら骨を砕き、投げ出された片腕を踏みつけへし折った。ロビンは夢中でジョンを助けに行く。すると、モルドレッドはふりむきざまに、短剣で彼の頬を切り裂いた。
「他人の心配をしている場合か、ロビン・フッド!」
「くそっ」
 頬を拭い、その血を柄になすりつけ、モルドレッドにうちかかる。だが、モルドレッドの鉄壁をやぶるにかなわず、剛剣におしかえされて、否応なく腰が浮いてきた。
 まともにうけられん! だめだ剣ではかなわんぞ!
 ロビンは必死で攻撃をかわしながら一計を案じた。
 モルドレッドが斜斬りを繰りだしたところで、ロビンはわざと両手の力を抜いた。剣が勢いよく吹き飛び床をすべっていく。モルドレッドが虚をつかれその体が流れると、すぐさま懐に飛びこみ、腰にさした矢を引きぬいて、モルドレッドの目玉をしたたか刺した。
 モルドレッドが悲鳴を上げてよろめく。
「どうだ、悪童! 恐れいったか!」
 ロビンが剣を拾おうとすると、その手を小さな手がつかんだ。
 ロビンが見下ろすと、彼の腕をつかみあげているのは数人のこどもたちだった。ロビンはあやうく剣を離すところだった。その子たちは呪詛のこもる眼でロビンを見上げている。ジョンが、まさか、とつぶやくのが聞こえた。
「くそ、離せ」背後では目玉をつぶされたモルドレッドが盛大に呪いの声を上げている。ロビンはほとんど懇願するように、「かわいそうだが、お主らは死人だ。手を離せっ」
「ロクスリー!!」
 モルドレッドが右目を押さえて駆け寄ってくる。指の隙間からは血がダラダラと流れている。残った目玉は血走り、怒りの形相もすさまじい。ロビンは喉をつかみ上げられる、剛力がぎりぎりと筋肉をおした。気管がおしつぶされそうだ。
「ロクスリー、俺の体に傷をつけたな!」
 ロビンが膝をつく、ゴボゴボと喉音がたつ。それでもしゃにむに剣をつかんだ。こどもたちがしがみつくのも構わず、じわじわと腕を上げた。モルドレッドは両腕をつかってロビンの首を締め上げていたが、血で滑っているのが幸いだった。ロビンはその間に、歯を食いしばり、こどもたちの亡霊を引きずりながら、モルドレッドのみぞおちに深く剣を突き入れた。
 モルドレッドが目を見開く。けれど、ロビンの喉にかかる力は弱まらない。モルドレッドは血を吐きながらもさらに怒りを増し、ロビンの喉を揺すり絞め殺そうとしはじめる。
「ジョン……」
 長剣は確かにモルドレッドの脇腹を深く突き貫いている。その刃を伝う血液はロビンの指まで届いていたが、その血液が変化をはじめた。血溜まりから小さな腕が何本も生える。ロビンは眼を見開いた。その小さな手は刃にベトペタとまとわりつき、剣を押し戻しはじめたからだ。
 くそ、聖杯の力か
「ジョン、こいつの首を落とせ……!」
「首を落としても死ぬものか、聖杯の力を侮るなよ!」
 ロビンはついに屈して両膝を折った。ロビンは酸欠で真っ赤になりながら、押し戻そうとする力と戦った。
「貴様に俺は殺せんぞ。あのアーサーも俺は殺せなかった」
 ちびのジョンは隊長を助けようともがいた。だが、ロビンを邪魔したこどもたちが、今度は彼の体を抑えつけている。
「やめてくれ、俺にロビンを助けさせてくれ!」
 こどもたちは数人しかいないのに、五百人分の重さがかかっているかのようだ。こどもの一人が(女の子だ。五歳ぐらいの)彼の首に腕を回して何事かささやく。彼に死者の声は聞こえなかったが、唇の動きだけは感じた。古代の英語で彼に呪詛を吹きこんでいる。体温が急速に下がり、体が震えだした。そのとき、異様な気配を感じて、ジョンは顔を上げた。なぜかこどもたちもそちらを向いた。
 モルドレッドの背後になにかがいる。いるとしか思えない。それは空中に立ち上がる影のゆらめきのようだ。その妖気は、真っ黒なオーロラだった。モルドレッドの頭よりはるかに高い位置に、引き裂かれた赤い目がのぞいている。引き裂かれた口が見えた。いまや暗黒の男を形作ろうとしている。
「まさか……」
 ジョンはその男に畏怖を感じつぶやいた。思い出したのは、洋一と太助のことだ。あのこどもたちが言っていたことは、本当だったのだ。
「ウィンディゴか――」

○     2

 ロビンとジョンが死の危機に瀕するころ、牧村洋一も苦しんでいた。
 手の関節が白くなるほどに万年筆を握りしめている。足下にはちっぽけな少年が手足を投げ出して横たわっている。絨毯にジュクジュクと広がる血液の染みが、奇妙なほどに大きく見えた。ふいに初めて会ったときの太助の光景、船の上でともに甲板掃除をしたことや、暗い倉庫でいがみ合ったことが思い起こされた。それらはけして楽しいことばかりであったはずがない。なのに二人の絆を深めているように思われた。ともに楽しんだわけじゃない。ともに苦しんで、時に命を預け合ってきた。だからこそ、洋一はやろうと思った。彼はソファに深く腰掛け、膝に両肘をつき、腕を垂らし、首も両肩の隙間に潜りこませるようにした。そして、全身を垂らして力を抜いていったのだが、それは恭一がよくやっていたリラックス法でもある。父親が無意識にしていた仕草を、その息子も無意識の内に真似ていたのだ。
 どうする? と彼は自問する。目の前にある事態は、アイディアの煮詰まりにも似ている。太助は喉を食いやぶられ、全身に毒が回ろうとしている。時間はない。つまり、彼は半死人を魔法めいた力で救わなければならないのだ。
 父親は登場人物を窮地に追いこめと言っていた。それはおもしろいストーリーづくりの基本なのだけど、その窮地から脱する解決法を彼の頭は思いつかない。
 つまるところ、洋一がやろうとしていることは、伝説の書をつかって新たな物語の流れを作ろうということなのだ。足下を見つめ、もし、これが小説なら、と考えた。状況が行き詰まったときにこそ、Qを出さなければならない。
 よく考えてみると、Qをだすということと、状況を見抜くということは似ている。Qをだすというのは、つまりはポイントをつかむということだった。ストーリーも言葉とおなじで、一つ一つ積み上げていくことに変わりはない。肝心なのは、いい加減で安易な解決策を求めないことだ。ていねいにやりさえすれば、前半に広げた話もうまくまとまるものだった。
 洋一が考えるに、小説としての状況は今では広がりきっている。ストーリーでいえば、後半も後半の大詰まりで、話を纏めに入らなければならない段階である。だからこそ、ヒントはこれまで広げた話の中に見つけるべきだった。解決策はこれまで起こったストーリーにあるはずだった。そうでなければ、伏線などというものはなりたたない。
 問題は、これが彼が書いた話ではないということだった。いいストーリーは前後の話が密接につながっている。そう父親は言わなかったか? 洋一は父親の語った言葉を不完全にしか理解していなかった。彼には知らない言葉、理解できない概念が多すぎたし、洋一がそうした言葉を完全に掌握するには、もう十年ばかりかかりそうだ。けれど、彼の才能は、恭一の伝えたかったことをまさにボディ感覚で咀嚼していたのだ。
「だけど、どうしたらいいんだ?」
 とつぶやく。今までと違って、ボンヤリとはしているが、冷静な声でもあった。男爵は物語の世界観を見抜いてそれを利用しろと言った。ロビンの世界でだって、死人が生き返ったりはしないのだ。確かにこの世界に魔法は存在するし、蛇に化ける魔女だっている。問題はこの場に味方となる魔法使いがいないことだろう(その魔法使いが死者を復活させられるとは限らないが)。小説ならその前後を書き直すことはいくらでもできる。だけど、この世界のコマはすべて出そろっている。そのコマの中に利用できるものがあるはずだ。なければ太助は救えない……。
「どう書きこむ? どう書けばいい……」
 傷が塞がって毒も抜けたと書くのか?
 洋一は駄目だと首を左右に振った。それだったら、裏付けがなくちゃいけない。アイディアを底支えするアイディアがいるのだ。脈絡のない話が現実化しないのは、シニックで証明済みだ。洋一の深層意識は、そんなアイディアはボツだと叫んでいた。彼は確かにちびでプロ作家でもなんでもないが、それでも正しいアイディアのなんたるかは知っている。
「なにかあるはずだ……これは物語なんだから」
 だんだんと没頭してきた。創作という行為が彼の心をつかまえかかっている。洋一は相変わらず太助を見ている。けれど、心はまったく別のものを映し出そうとしていた。周囲の音も遠のいて、耳鳴りだけが残っている。ひらめきがくるのは決まってこんな時だった。
 利用できるものか……
 洋一はブラックアウトのように視界がぼんやりとなるのを感じた。彼は観察眼に優れた少年だった。父親が鍛えた部分はあるにしろ、それらはおそらく天性の物だ。その観察眼の中に、なにかが引っかかていた。
 右腕だ――
 洋一は自分の右腕をじっと見つめた。視界がだんだんとはっきりしてきた。人を蘇らすことは出来ない。でも、太助はまだ死んでないぞ、と洋一は思う。死にかかっているけど――でも、ぼくも死にかかっているんじゃないのか?
「呪いか……」と彼は言った。意識がまたしゃんとした。「呪いだ。こいつは死の呪いじゃないか!」
 右腕をわずかにもちあげる。そのせいで、掌から肘へと伸びた亀裂がよく見えた。アジームの言ったとおりだったのだ。死の呪いはどんどん広がっている。今もだ。亀裂の縁からは、暗黒の気体が小さな手のように触手を伸ばしている。その勢力を広げ、彼を死に至らしめようとしている。
 モルドレッドのことを思いだした。あいつはこう言わなかっただろうか? お前の体に死を植えつけてやると。つまりこの黒い気体は死そのものなんじゃないだろうか? だから右腕が動きにくいのでは?
 ぼくは生きてるけど、右腕は死にかかってる。
 洋一は右腕をさすった。今までは気持ち悪くて素肌はろくにさわらなかった。亀裂の気体は思った通り、ハチミツのようにドロリとして、砂漠よりも乾いている。洋一はもう一度モルドレッドの姿を思い起こした。
 ここには死が集まってる。
 あいつは死を操ってる。
 この世界では死を操るやつがいる。
「ぼくは死とつながってる」
 なにかが頭の中ではじけていた。洋一は興奮に目を開く。ひらめきが脳髄を叩いてはやし立てている。いけるかもしれない。これならいけると洋一は思った。ひらめきのもたらし手は(それがなんであるのかはわからないが)今や祝いの鐘を打ち鳴らしている。直観の力強さが彼のハートをうっていた。頭は不安を、不確定要素を考えたがっていたが、彼の胸はGoサインを出していた。洋一は、これならやれるかもしれないと思った。
「太助にあるのも死だ。だったら死を移せばいいじゃないか」
 問題は処理の仕方だ。このアイディアを実行すれば、かれ自身が死を引き受けるということになる。今度はこっちが死ぬだけだ。
「いや、大丈夫だ」と首を左右に振った。「ぼくはあいつともつながってる。やれる、やれるぞ!」
 洋一は床に手をついた。伝説の書をその場に起き、もどかしい手つきで乱暴に開く。ページは風もないのに独りでに捲れて、止まった。おいでおいでをしているようにも、欲望の熱を放っているようにも見える。彼はわずかに怖じ気づく。
「落ち着くんだ……」
 洋一は万年筆を持ったまま固まり、喉を湿らせようとした。これから最高の文章を書かなければならない。よい文でなくともいいから、力のある文章をひりだす必要がある。
 父親の懐かしい声がいう。文にするということは客観的に見るということだ――
「わかってる。やれるよ!」
 と洋一は久々に恭一に向かって答えていた。わかってるよ、お父さん。落ち着いて、淡々と書けっていうんだろ。タンタン、タンタン
 洋一はタンタンと呟きながら目を閉じまた開いた。いつもの文章とはちがうぞと思った。こいつはかれ自身のことをふくめて書かなければならないからだ。それも少し先の自分の姿を。「わかりやすく、わかりやすくだ」
「そうでないと、本はお前を取り殺すぞ」
 後ろから声がして、洋一はふりむいた。部屋の隅の天井の陰になにかがいる気がしたが、目をしばたたくと誰もいなかった。また伝説の書に目を戻した。
 洋一の発想は奇抜だったが、この世界では至極まっとうなものだった。モルドレッドは彼を呪うために、彼の体に死を植えつけた。それが太助を救う最後のピースだった。
 創作の興奮と死の恐怖で首はこわばり、気道が細くなる。指はやはり震えている。
 外からギャア! と悲鳴が聞こえた。洋一は驚いて飛び上がった。洋一は胸を押さえ、すぐさま本に立ち向かう。今は駄目だ。静かにしてくれ――彼は気を静めよう、大きく息を吸おうとしたが、唾を飲むばかりでそれすら喉につかえてしまった。
 ほとんど夢中で無心で書いた。本は狙い通り、文章を吸い取りはじめた。
『牧村洋一はモルドレッドの手により、その身に死を植えつけられていた。彼は死と密接につながっている。友人が目の前で死にかかる中、洋一はこう考えた。自分の身体が死とつながっているのなら、死の亀裂を通して太助の死をその体で引き受けることは出来ないだろうかと。つまり、彼はその死を自らの腕に引き寄せることにしたのだった。それは――』
「待ってよ……」
 震える声が喉から漏れた。洋一の腕から、死の霧が黒々と立ち上っている。その身に開いたどんな海溝よりも深い亀裂は、手首を遡り前腕を断ち割って肘を侵しだす。死の気配は煙のようにグワッと伸びて、体を取り巻きおいでおいでをするように頬を撫でる。
「待ってくれ、まだ早すぎるまだだ!」
 文を現実にする力は思いのほか速かったのだ。死が体をのっとりだしていた。太助に舞い落ちた死の力が、彼の体を戒めはじめた。
 続きを書かなきゃ!
 洋一はブルブルと震えながらも腕に力をこめる。ペンを取り落とさないよう、しっかりと掴む。紙が破れんばかりの筆圧で書いた。彼は自分の書く字を見て呻いた。ああ、なんて下手くそなんだ。
『果たして死の呪いは洋一の思惑通り、右腕の亀裂を通って洋一の体を立ち上りはじめた。そして、その死は洋一を死に至らしめるはずだったが、けれど』
「ああ――」
 洋一の呟きは残酷ほど絶望に満ちていた。太助はあまりにも死に近づき過ぎていた。その死を引き受けた洋一に広がる呪いもまた凄まじく性急だ。右目が白濁し、霞んできた。まるで眼球が弾けたみたいに、大粒の涙がこぼれだす。死をともなう黒い気体は右腕を冒し、黒い粘膜のように首を這い登り、体内に深く深く入りこむ。洋一は内臓がジワジワと死滅していくのをクッキリと感じていた。末期症状を迎えた負傷者よろしく震えながら、それでも文を書こうとしたが、指先はついにペンを取り落とした。
 腕が動かない。
 洋一はかすむ目でペンを探す。ない、ない! ペンを拾えない!
 死が肺を冒し、血を吐くに及んで、彼はついに絶望したのだ。
「ああだめだ」と洋一。「駄目だ駄目だ! もう、死んじゃう……」

○     3

 ああ、ウィンディゴ様……。
 モーティアナは血の海に倒れ伏していた。太助の最後の一撃はこの魔女の心の臟を貫いていた。マーリンから与えられた力も、血液と一緒に流れ出していくかのようだ。モーティアナはどうにか階段に辿り着き、外気をしぼんだ肺に吸った。彼女は懐から血にまみれた水晶球をとりだし、一段下の階段に置く。もう限界だ、もう動けない、ウィンディゴ様……。と彼女は自らが尊師と呼ぶ人物を呼び出そうとする。なぜ助けて下さらないのです――
 ウィンディゴは水晶球の先にはおらず、最初から彼女の内側にいた。そうして、彼女が苦しみ死ぬのをまるで愉快な道化を見るようにあざ笑っていた。貴様はもう用済みだ、とウィンディゴは言い、モーティアナは薄れゆく視界を、閉じようとする瞼をこじ開けようとする。
 お前では小僧を殺せなかったな、だが、牧村の小僧を追いこむことはできた。小僧はまたも本をつかった。貴様の力をもらうぞ、モーティアナ
 モーティアナは悲鳴を上げたかったのだが、その胸はああ、ああとかすかな蠕動を繰り返すだけだった。モーティアナは残った力をウィンディゴに奪われた。彼女は小さな小動物のような頭をことりと階段に落とし、意識を薄れさせていったのだ。

○     4

 ミュンヒハウゼンは走っていた。急速に年老いたせいで、心臓は焼けるような痛みにあえいでいる。膝はそんな老人をあざ笑う。水分はなくなり、筋肉は固くなり、それでも彼は走っている。まるで、速く走れば少年たちの死を追い抜けるとでもいうかのようだ。実際のところ、あの魔女さえ死ねば奥村少年を救えるのではないのかと、ありえない願いをかけて走っていた。
 彼はモーティアナの残した血の痕を追っていた。部屋の守りは奥村に任せてきた。いまの奥村には復讐すらもきつかろう。待っていろ、三人とも待っていろ、と男爵は思う。わしがあやつをやっつけてやるぞ。
 廊下の先は行くほどに明るさを増していく。勝手口が開いて、外気が内部のよどんだ空気を追い払っているのだ。モーティアナが階段に、醜い猿膊を伸ばしている。
 ミュンヒハウゼンはひゅうひゅうと息を吐きサーベルを引き抜いた。
 男爵は戸口にぶつかりながらモーティアナの真上に立った。老婆はかすかにふりむいたが、その瞬間に太助の刺した傷が醜く裂ける。老婆の苦痛の顔は、なぜか笑っているようにも見えた。
 この老婆が数百年を生きたマーリンの弟子であるとはもはやかれも疑わない。小さな頭蓋の下で、魔女とは思えぬ赤い血が階段をそめ滴り落ちていた。髪はごっそり抜けたようだが、右腕だけは救いを求めるように空中に突きだされている。ミュンヒハウゼンは荒い呼吸を懸命に胸のうちにおさめながら老婆をみおろす。老婆の腕は力なく階段に投げだされ、もはや魂を失ったようにも見える。ミュンヒハウゼンは背後に異様な気配を受け、名を呼ばれたような気がした。ウィンディゴか? と心に疑ったが、彼はふりむかない。女の胸元につるぎを当てると、すばやく振り上げる。
 心臓を突き刺した瞬間、モーティの背中から、笑声を上げる巨顔が突風のように吹き上がり、男爵の体に飛びこんだ。ミュンヒハウゼンは、「ウィンディゴ……」と叫びを残して、大きく後ろへ跳び、モーティアナの残した血の中に倒れこんだ。
「ミュンヒハウゼン、貴様は邪魔だ! 眠っておれ!」
 男爵は無言の悲鳴とともに、背後にどうと倒れた。そして、二度と動かなくなった。ウィンディゴの陰は、その上で優雅に漂い、ミュンヒハウゼンの様子を確かめた。
 牧村の息子は着実に力をつけておる。だが、お前はじゃまだ。
 そして、家の奥に目を向ける。
 ふふふ、侍の小僧を復活させおったか。まあいい。お前の名付け親は封じたぞ。どうする小僧……
 そうして、ウィンディゴの姿は宙に消えた。アジームが戸口に駆けつけたときは、息すらせずに眠るミュンヒハウゼンと、モーティアナの死体があるだけだった。

○     5

 その名付け親が死したころ、牧村洋一もまた自らの血の中に倒れていた。手足がビクリビクリと震えている。洋一は無念な思いの中で死のうとしていた。ただ両親に謝りたかった。お父さん、お母さん、せっかく助けてもらったのに、ごめんなさい……と。
 死を吸いとるなどばかげた案だった。太助の味わった苦痛が彼の中にどんどんと入ってくる。洋一は身動きもせずに涙を流している。気がつくと真っ黒な影が目の前に立っていた。彼を見下ろしている。
「助けて、助けて……」
 彼は悲しい悲鳴を聞いた。それはかれ自身の喉が上げる狂おしくもか細い悲鳴だ。洋一はその悲鳴に目を覚まし、それでもまだ悲鳴を上げゴロゴロと喉を鳴らし、血を吐きながら左手で落とした万年筆を探り当てている。
 死にたくない。まだ死ねない。
 だが、もう目が見えなかった。太助の苦痛が全身を支配して、ついに意識が遠のいていく。

○     6

 そして、それとおなじくして、この物語の主人公ロビンもまた死に瀕していた。
 モルドレッドの左腕はロビン・フッドの命を奪おうとしていた。剛強のロビンもその喉首をへし折られんばかりだ。モルドレッドは傷の痛みに呻き、苦痛をもたらすロビンの存在を呪い上げた。普通の人間ならばモルドレッドをここまで傷つけることはなかったろう。やはりこのロクスリーという男には不可思議な面がある不確定要素がある。いっそこのままここで殺すべきだ!
「お前はおろかだロクスリー。真の王たるこの俺に逆らうなどと俺を討ち果たそうなどと。貴様の夢物語はここで終わりだ!」
 そのとき、ロビンは見たのだった。モルドレッド・デスチェインの背後に闇の男が立ち上がるのを。ウィンディゴだった。モーティアナの元を離れ、モルドレッドを籠絡するべく暗黒の部屋にやってきたウィンディゴの姿を、ついにロビンとジョンも目にしたのだ。
 こどもたちに身を塞がれたちびのジョンは言葉をなくし、ついでロビンを救おうと躍起になって腕をついた。しかし、死人となったこどもたちは、一人また一人と増え、彼の背中にまとわりつく。万鈞の重みが掛かり、ジョンは肘をついて苦痛に呻いた。赤子たちの泣き声が頭蓋を震わし轟くと、ジョンは一歩も動けなくなる。
 モルドレッドの体はウィンディゴと共に膨れ上がっていく。ロビンの体は宙に浮いた。モルドレッドはウィンディゴの力を受けて強大となっていた。ロビンの体に死の呪いを流しこむ。その呪いは急速にロビンの身を引き裂いた。そして、異空間の部屋が崩れだしたのはその時である。術者であるモーティアナが引き裂かれた心の臓を止めために、その魔力も潰えたのだ。調度がガラガラと崩れる。部屋はまるで墜落する飛行機のように揺れ、激しく傾いた。
 ロビンが地を蹴ろうと虚しく足を動かす。ロビンは胸に広がる激痛にあぶくを垂らしだす。ロビン・フッドは無音の絶叫をした。死の亀裂が喉から胸に降り、ついで四肢を引き裂きはじめたのだ。
「やめろお!」
 モルドレッドはジョンの悲しげな声を喜ぶ。声を大にして笑う。仇敵どものもがき苦しむさまは愉快この上ない。
「我が苦痛を貴様も受けろ、ロクスリー!」
 モルドレッドが異変を感じたのはその時だった。異変は体内にあった。何者かが彼の魂に働きかけている。モルドレッドは驚いて左右を見たが、侵入者はいない。当然だ。その者が入ろうとしたのは、彼の心の中だったのだから。
 モルドレッドの笑みは消え去った。彼は精神に意識を集中した。どうやら何者かが自分とつながりを持とうとしている。
 なんだ?
 脳裏にうかんだのは、古ぼけた本をもつ少年の姿だ。モルドレッドは顔を上げ、呆けたようにつぶやいた。
「あの小僧か……」

 ジョンは大勢のこどもたちの下、もがくのも忘れてその光景に見入っていた。なぜかこどもたちも呆然としていた。
 死がやってくる。
 モルドレッドはロビンを締め上げていた腕を離す。突然開いた傷口に驚いてのことだった。それは太助に空いたのとおなじ蛇の牙痕だ。モルドレッドは紫に染まる首の穴を押さえこもうとした。鮮血が指の隙間から吹き上がった。ビチャビチャと床に散る音が聞こえた。ロビンは力なく床に落ち、頭を痛打して跳ね返る。その体は死の呪いで真っ黒だ。それとおなじ禍々しい亀裂が、モルドレッドの体を覆いはじめた。
 ちびのジョンにとっては最後のチャンスだ。ロビンを救うには今しかない。
「ちくしょう、離せえ!」
 ジョンは声をかぎりに絶叫し、モルドレッドはその声に応じてジョンを向く。だが、彼の目玉は白濁し、涙が滂沱として流れるばかり。足下のロビンにすら蹴躓き、激しく打ち倒れてしまった。
 ジョンはこの隙にロビンのもとに向かおうとした。こどもたちは口が裂けるほどに大口を開け、髪をつかみ皮膚をえぐる。ジョンはすっかり恐ろしくなった。彼らは何事か激しく叫び立てているのだが、彼にはちっとも聞こえないのだ。
 ロビンだ。ロビンを助けるなら、今しかねえ。
 ジョンが叫ぼうとすると、こどもたちは小さな手を喉に押しこむ。ジョンは唾を散らしながら、喉の奥までまさぐる冷たい手に苦しんだ。
 ジョンの揺れる視界にあるのは、死の呪いに苦しむモルドレッドと人以外のぼろ切れのように倒れ伏すロビン・フッドのみだった。ジョンはモルドレッドの背後で暴風雨を喰らった樹木のように揺れる影に見入った。
 ジョンは片腕で身を起こしながら、洋一の言葉を思い出していた。こどもたちの命を狙う男の存在を。同時にこの窮地を救ったのが誰なのかはっきりと悟ったのだ。
 ジョンは折れた肋をきしませ立ち上がる。迷っている時間はない。時空間はすでに歪み、彼の体を放りだそうとしている。モルドレッドは太助や洋一とはちがう。やつはどんな傷でも死なないからだ。飛び散った血液は持ち主の元に集まって、その肉体の傷を塞ごうとしている。復活の力が死の呪いと争っている。
 殺せる? いまなら殺せるんじゃねえのか?
 ジョンはくじいた足首を引きずりロビンの元に駆けつける。ロビンは死の呪いに覆われ、全身の亀裂から黒い気体を吹き上げている。地獄の番人共が彼の肉体に巣くって呼吸をしているみたいに、その気体は出戻りを繰り返している。ジョンは、ロビンが落とした剣をのろのろと拾った。
 こいつは死兵とおなじじゃねえのか、首を落とせばこいつだって
 モルドレッドの背後にいた暗黒の男が襲いかかってきたのはその時だった。ジョンは慌てて身を伏せる。その背中をウィンディゴがかすめ飛んだ。
「どうしたちびのジョン!」その声は太鼓から発せられたかのように不気味に震え轟いた。ジョンは恐怖のあまり這いつくばる。「来い、泣き虫ジョン! 俺と勝負をしろ!」
 ジョンは頭を抱えて、ロビンの体に手をのばし、その安否を確かめるようにペタペタとさわった。
「すまねえ、ロビン。俺にあいつは殺せねえ。だってあいつは……」
 ジョンがロビンを肩に担いだとき、今やうつぶせとなり、額を床につけていたモルドレッドが血まみれの顔を上げた。
「ロクスリー、お前は俺から逃れられんぞ。その答えはすぐわかる!」
 ジョンはなにか答えようとしたが、なにも言えなかった。揺れる床の上でロビンを抱えて立つのが精一杯。彼は逃げだそうとしたが、その部屋には出口などもちろんない。そのうち地面が割れてモルドレッドとちびのジョンは二つの方向に分かれていった。ジョンはモルドレッドの、おのれ、モーティアナめしくじったな、という声を聞いた。
 ジョンはロビンにかぶさるようにして絨毯に身を伏せた。が、わずかに残った部屋の床面も、端から削り取られるようにして小さくなっていく。暗黒がごおごおと風音をたてて二人を襲った。
 ちびのジョンが目を閉じるうちに、二人の姿は暗闇に投げ出されていたのだった。

◆ 第二章 ロビン・フッド、アヴァロンにいたる

□  その一 牧村洋一、グラストンリヴァーをさか上ること

○     1

 洋一は猫が日向でそうするように手足を丸め、なにかを請い願うようにうずくまっていた。そうして死ぬのを待っていたのだが、彼の予想した死はいつまで経っても訪れなかった。洋一は恐る恐る顔を上げた。目はかすんでおらず、ソファーの足もはっきり見える。洋一はゆっくりと身を起こした。伝説の書は目の前にあり、気絶する前とおなじページを開いていた。本を手にとった。文は消えていた。書いたのか? と彼はつぶやいた。左手で、あの苦痛の中、まともな文が書けたのか疑問だったが、どうやらうまくやったらしい。自分は死体じゃない。そして――
「太助!」
 と友人のもとに駆けつける。洋一は心臓に耳を当てた。動いている。息はあいかわらずか細いが、まだ継続しているようだった。それから彼は服の袖で、太助の首元をもどかしげに、だけど慎重に拭っていった。
 傷が塞がっている。
「勝った」
 と彼は言った。後ろによろめくと手をついた。
「やったぞ、勝った……! おじさん、やったよ!」
 奥村は部屋に一歩踏みこみ、そこで立ち止まった。
「おじさん……」
 奥村に呆然たる時間が訪れた。死人か彫像になったようにも見える。まさにそのとおり。息子が死んでいたら、彼の時間も今ここで止まっていたにちがいない。
 奥村は洋一を見る。生きている。ついでその視線は息子の上に釘付けとなった。彼は唾を飲んで、
「太助……」
 と血にまみれた息子に近づく。夢遊病者のように不確かな足取りで、枕元にひざまずく。そっと首に手を当てている。なにも感じなかったが、もうすこし強く指を押しこむと、脈動があった。彼は呼吸を止め、すこし震えながら、息子の胸に耳を当てる。衣服は血に塗れていたが、その奥にある肉体は温かく、確固たる心臓の音が聞こえた。生まれ落ちたときからしてきたように、息子の小さな心臓は脈打っていた。そのとたん、奥村の目からぽとりと涙がこぼれたのだった。
「生きている」
 と奥村はつぶやく。左顔を朱にそめ、息子の顔を見つめる。血色がさし、太助の肌は温かい。呼吸はひっそりとしているのに、今の彼にはむやみに力強いものに思えた。生まれたての赤子を見るように、息子の呼吸をじっと見た。やがて、首をがっくりと垂れ、はらはらと涙をこぼす。太助、太助、お前生きていたか、とそのことだけを噛みしめた。熱い固まりが胸におしよせ、彼はそれを嘔吐するように吐きだした。涙がどっと出て、今は静かに眠る息子の顔にかかった。太助お前生きていたか、とそれだけを思った。後は言葉にならなかった。
 洋一は疲労と痛みの中を漂っていた。自分が立っているのか寝ころんでいるのか、そのことも判然としなかった。呪いがついに脳におよんで、判断力の大半をかすめ取ってしまったかのようだった。奥村の歓喜を確かに味わった。自分のしたこと、自分の存在が、ようやく価値のあるものに思えてくる。その一方でひどく疲れ切ってもいた。本の力は太助に下った死そのものをモルドレッドに移しはしたが、彼の呪いは消えなかった。だから奥村の歓喜を噛み締めながらも心の奥底では楽しめずにいた。自分が早晩死に至ることをわかっていたからだ。
 洋一は無言でその歓喜の様を眺めていた。それから洋一は右手の呪いが消え残っていることをしげしげと眺めた。それどころか彼の呪いは肩まで広がり半身まで届いている。顔の半分を覆いつつある。洋一は今度は安堵ではない観念のため息をはいた。伝説の書は二人のこどもにかかる死を、伝説の王に移しはしたが、呪いを止めるにはいたらなかった。彼は呪いが消えるようには書かなかったし、もう一度挑むつもりもない。右半身に広がった呪いから目をそらすと、もう一度ため息をつく。それから口元を手の甲で拭い(血がべっとりとついた)、おそるおそる指で喉に触れ(血がべっとりとついた)、もう塞がっているが、蛇の傷口が醜い肉腫のように盛り上がっているのを感じた。
 奥村は息子の体を幼子のように抱いて立ち上がっている。洋一にはそんな太助がひどく小さく見えてまた少しうらやましくもあった。
 洋一は呪いが半顔におよび、唇が麻痺してうまくしゃべれない。
「息子のために命を張ってくれたのだな」
 洋一はどう答えていいかわからなかった。大人が泣くのにもなれていなかったし、自分が大それた事をしでかした気分でもあった。
「おおげさだよ。太助だってぼくを助けてくれたんだ」
 奥村はひどく優しい目になった。「このことを俺がどう感じるかだ、牧村洋一。俺はこの恩を生涯忘れない。お主は息子を命をかけて救ってくれたから、俺もお主のことは命を懸けて守る。我が息子にして我が主君と心得た」
「でも、ぼく、そんなに大したことやってない。文を書いただけだ」
 洋一はとうとう困って助けを求めた。
「男爵は、男爵はどうしたの?」
 奥村は目を背けた。洋一は妙な胸騒ぎがした。
「男爵は? 男爵はどこ? 男爵は……?」
 そのとき部屋に入ってきたのはアジームだった。
「洋一、男爵はだめだ」
 そのとたん洋一の胸を空虚な痛みが引き裂いた。
「だめ? だめってなに? ぼくはちゃんとやったんだ! 男爵に会わせてよ」
 アジームは部屋を出ようとする洋一の肩を押さえた。
「離して離してよ、男爵に会うんだ」
 洋一はアジームの手をふりはらい、部屋を飛びだした。廊下はモーティアナの魔術がまだ残っているのか、真っ暗なままだ。洋一は男爵を捜して廊下を走った。男爵のあの老人の顔が見たい。今思うと彼はミュンヒハウゼンに褒めてもらいたくて、この難関にも挑んだのだ。
 廊下の先の外階段、ほらふき男爵は青白い顔をして横たわっている。ロビン・フッドの仲間たちも集まっている。そばに膝をついていたアランとガムウェルがふしぎと落ちついた顔で彼を見る。
「男爵……」
 アジームが追いついてきた。「モーティアナにやられたのだ。やつは男爵が倒したようだが」
「心臓は動いているが、目を覚まさない」とガムウェルが言った。「モーティアナの呪いが男爵に入りこんだとしか思えない」
 洋一はミュンヒハウゼンに近づくことが出来なかった。名付け親のありさまを認めたくなかったのだ。
「ぼくはちゃんとやったのに、なんで……」
 アランが剣を鞘におさめながら立ち上がる。
「もう、ここを出よう。ロビンを探しに行かないと。さきほどの場所を見たが、ロビンは帰っていなかった。だが、モーティアナは死んだのだから、どこかにいるはずなんだ」
 アランの声は切実な願いをふくんでいる。アジームらがこの年老いたほら吹きな男を担ぎ上げた。モーティアナは倒したが、ロビンとちびのジョンは消え、男爵もまた目を覚まさない。結局この戦いは痛み分けとなったのだった。

○     2

 そのころ、ロビン・フッドもまたちびのジョンにおぶわれてあてどもない旅路についていた。二人は暗黒の部屋を放りだされて、見知らぬ土地に放りだされていた。けれど、ロビンの身に巣くった呪いは、おなじ呪いをもつ人物を感得していた。牧村洋一だ。
 ロビンは背中からジョンに指示して、洋一を感じる方へ彼の足を導いた。
 そうして、ロビンはかつての仲間と再会したのだが、そのときには彼の身を裂く死の呪いはあまりに深く、生命力は幾ばくも残されていないようだった。ロビンはそこで牧村洋一の話を聞くことになるのだが、それはまだ少し先のお話である。

○     3

 話は洋一少年が、奥村たちに連れられて、モルドレッドの目を逃れ、とある河原に身を隠した所からはじまる。
 洋一はその小屋の中央に太助とならんで寝かされていた。すぐ隣には奥村がすわり、小刀でオレンジを剥いているところだった。太助はまだ目を覚まさない。
 洋一はときおりぶつぶつとつぶやく。奥村はときおり手をとめて二人の様子を確かめる。
 洋一は太助の死をどうにかモルドレッドに移すことができた。けれど、かれ自身の呪いはより一層深まってほとんど動くことが出来なかった。亀裂は半顔にまで広がって、口もうまく動かず片目は見えなかった。そんな状態だったのだが、洋一は考えなければならなかった。この状況を打開する方法を。脳に死がおよぶ前に、思いつく必要があった。せめて、文字が書けなくなる前に。
 洋一は、ロビンが自分の元に向かってきているのを知っていた。二つの呪いは響き合い、それが互いの呪いを深める結果ともなっていた。けれど、彼にはロビンが必要だ。物語にはロビンというピースがいると、なぜかこのとき感じていた。ロビンがいれば、この状況を打破できる気がする。そのトゲのようなひっかかりは、抜けばアイディアがあふれだすことを彼に教えている。
 洋一は棘がだんだんと抜けていくのを感じた。理詰めで考えていくことで、無駄なアイディアはどんどん削られていった。そして、トゲはあるときポトリと抜けた。洋一は奥村を見上げて言った。
「おじさん、本を持ってきて。モルドレッドを殺す方法をずっと考えてたんだ」
 正確にはあいつが死ぬ設定を考えていた。あいつが不死身なのにはちゃんとした理由がある。聖杯の力、赤子の魂、マーリンの呪い、それらはいずれもアーサー王の世界のものだ。ロビンの世界にはモルドレッドを倒す方法がない、と彼は考えたのだ。そもそも元のロビンの物語にはモーティアナさえいなかったし、魔術もまったく登場しない。あいつはアーサー王の世界の人間だから、あいつを倒す方法もアーサー王の世界にあるはずである。そして、モルドレッドという宿敵を倒すのは、やはりアーサー王その人でなくてはならないのではないか? すくなくとも、アーサー王の持ち物をつかうべきなのでは? 洋一は今度もGoサインが出たのを知った。サインが出たら、すぐに書くべきである。時期をのがすということは、作品の風味までのがすということになりかねない。洋一は早く書きたくて苛々としたが、奥村にひととおりの話をした。
「洋一、まさか……」
「エクスカリバーだよ。アーサー王の力を借りるんだ。あいつを殺しそこねたのはアーサー王じゃないか」
「ああ――だが、洋一、アーサー王自体は死んだことになっている。ロビンのように蘇らせる気なのか?」
「ちがうよ。もっといい方法を思いついたんだ。アーサー王を蘇らせることもできるかもしれないけど、これは小説のようで小説じゃないでしょ? つまり、下手なアイディアなんか伝説の書が相手にしてくれないから」
 洋一は本を持ってきて、と言った。奥村はやれるのか、と訊いた。
「やれなきゃぼくら本の世界を抜けだせない。みんなモルドレッドに殺されておしまいだ」洋一は、「ロビンが近くにくるまで待とう。それで、文を書く。それまで、力をためておかないと。アイディアはいけると思うんだけど、伝説の書がどんなつじつま合わせをしだすか、読めたもんじゃないし……」
 洋一は奥村が妙にニコニコとしているので奇妙に思った。「どうしたの?」
「いや、ずいぶんたくましくなったものだと思ってな。お主は伝説の書をすっかり使いこなしているように見えるぞ」
 洋一は照れたように笑いながら、頭を枕にもどし、妙にまじめな顔をして天井を見上げた。ノッティンガムでの一件が洋一に自信をあたえているのだ。洋一は離れて眠る名付け親を見た。口には出さずこう言った。待ってて男爵、今度はぼくが男爵を助けて上げるからね。

○     4

 洋一が書いたわずかな物語はまたしても本の力が吸いこんでいく。初めて目にするアランたちは、その不可思議な力に驚いた。伝説の書がすっかり文を吸いこむと、辺りに霧が漂いだした。突然のことに表の兵士たちが騒ぎはじめた。
「うまくいった」と洋一は言った。「後はロビンがやって来るのを待つだけだ。そんで、ぼくと行ってもらう。どうなるかわからないけど。もうこれしか方法がないと思うんだ」
 奥村は無言でうなずいた。胸裏ではもちろん不安と疑問が渦を巻いているが、もはやこの少年が伝説の書に書きこんだ以上、そのとおり行動するほかない。反すれば、痛いしっぺ返しを喰らうだけのことである。

 ロビンとジョンは洋一の言うとおりの方角から、言うとおりの時刻にやってきた。二人ともひどい格好で、ジョンはあちこち骨を折っているし、ロビンにいたっては呪いで死にかかっている。
 二人はその足で洋一の説明を聞くことになった。そのころには目の前のグラストンリヴァーにアジームらの手によって、ボートが用意されていた。
 洋一が久方(のような気がする)に見るロビンの様子はまずかった。呪いは彼以上の勢いでロビンを襲ったらしい。ロビンは担架に身を横たえてろくろく身を動かすことも出来ない。呪いに支配され、体の自由がきかないのだ。結局、太助と男爵の隣に寝かされることになってしまった。
 そこは川にほど近く、小川につくられた小さな水車小屋である。ロビンは藁の上でまさしく川の字となって洋一の話を聞いている。
「アヴァロンに行くだって? ばかげてるぜ、そんなもな!」ウィル・スタートリーはイライラとして言った。「もうアーサー王はたくさんだぜ。みんなアヴァロンがなんなのか知ってんのか。まともな話をきいたことがあるのかよ」
「お前の話を聞こうか」とロビンは言ったが、声はまったく弱々しい。
「黙ってくれよ、今話してるだろ。考えをまとめさせてくれよ、まったく。アヴァロンの話なんてよ、ガキのころ寝物語に聞いたきりだぜ。そんな島、現実にねえけどな」
「だが、モルドレッドはいたろう。死の呪いもあった。あいつは本物だ」
「アヴァロンってのは死者の島だろうが。アーサー王が埋葬された島だろ? そんなとこ行ってなんになるんだよ。なんで行かなきゃならねえ。だいたい、そんな大昔のよ、ことによりゃモルドレッドの味方かもしれねえ野郎の了見を、なんで俺たちが飲まなきゃならねえ!」
「エクスカリバーだよ。モルドレッドを殺せるのはエクスカリバーだけなんだ」
 洋一が言うと、スタートリーは血相を変えて首を上げたが、物憂げに考えこむ洋一をみて黙りこみ、頭を元の位置に戻した。まったく半死人ばかりじゃないか。
 アジームが、「この川をさかのぼればアヴァロンに行けるのだな?」
 と言ったので、みなは驚いた。異国人の(それも異教徒の)アジームは、一番にこの話を信じまいと思っていたからだ。
「たぶん」と洋一も心許ない。「ぼくは本にそう書きこんだ。でも、問題もある。アヴァロンは死者の島だから、死人しか入れないんだ。この中ではぼくとロビンだけだ」
「なんでおめえとロビンなんだ」
 ジョンが目を剥いて言った。洋一は話した。自分とロビンだけが死の呪いに冒されたこと。それにより半分死に浸かっていることを。
「エクスカリバーなら」とロビンが真上を見たまま言った。「モルドレッドの首をとれるんだな?」
 洋一は迷った。そのことについては彼にだって確証がなかったのだ。この手の古い話に詳しいのは男爵の方なんだから!
 ウィルはとうとうすねてしまった。「ちぇっ、他の仲間が生きてるかどうかもわからねえのによ。アヴァロンに行きたあい、だなんて、正気の沙汰たあ思えねえや。つまんねえ連中についてきたもんだよ。俺のこと笑えたのはどの口だよ。どれもこれもあほ面下げて、アヴァロンでもどこにでも行くがいいや! 俺はここで釣りでもして待ってるからよ。片腕だってなんだってできるんだ。みやげでも持ってきてくれよな。食い物だってみつくろえ。せいぜい腹空かして待ってら」
 スタートリーはみなに背を向けた。みなこの男の口をもてあまして、苦笑をみかわすのみだった。ウィル・スタートリーはその後もぶつくさ言っていたが、
「で、いつ行くんだよ」
 と最後にはこのひねくれ者も折れて言った。彼らは魔女とも対決したし、スタートリーにいたっては、モルドレッドの邪法に腕を砕かれている。伝説のエクスカリバーも今では信憑性がある気がした。
「古の力に対抗できるのは古の力だけかもしれん」
 ロビンは観念したように吐息をついた。アランが立ち上がり、外気をとりいれようと、大きな両開きの扉を開けにいった。
「ちくしょう」
 とウィル・スタートリーがうめくのが聞こえた。汗にまみれた彼の額を冷えた風が吹きさらす。小屋の外は濃密な霧がおおい、一寸先すら見えなくしていた。その霧は真に濃く、真の暗闇のように白かった。
「見ろよ、伝説の書とやらあ、俺たちをとっぷりと捕まえてるらしいぜ」

○     5

 ようやく目を覚ました太助ともすぐさま別れとあいなった。出発前、洋一は奥村と太助の三人で話をした。
「どう思う?」と洋一は二人の考えを訊いた。
 太助はまだ動けずに伏せっている。彼は隣で眠る男爵に目をやって、
「君だけで行くのは反対だ。ロビンは動けないし、もどっても来られないかもしれない」
「ジョンみたいなことは言うなよ。ぼくらしか行く資格がないんだ」と洋一は言った。「伝説の書にはそう書いたし、それが一番いい方法だ」
 奥村が、「が、エクスカリバーで本当にモルドレッドを殺せると思うか? ジョンとロビンの話ではあやつ本当に不死身らしい」
「男爵は物語を利用しろって言ったでしょ。今回は……」と太助に目を落とす。「それでうまくいった。モルドレッドはアーサー王の物語の登場人物だから。エクスカリバーは絶対に利用できる。もちろん、もう一度本をつかうことになるかもしれないけど」
 奥村はうなずいた。確かにこのまま座していても、ロビンも洋一も死を待つばかりだった。
 太助は寝床で汗を滴らせている。
「ありがとう洋一。命を救われたな」
 洋一はなぜかどきりとして目を伏せた。「今回はな……」
「次回もあるように言うな」
 太助は苦笑をして、愛刀を差しだした。洋一は手を振って退けようとした。
「いらないよ。向こうにいるのはどうせ死人だ」
「それでも持っていて欲しいんだ。持って行け」
 と刀を振った。洋一はなんとなく太助の気持ちがわかったので、受けとった。

 困ったのはジョンだった。寝転がって首も動かせないロビンにくどくどと反対をはじめたからだ。
「おめえはろくすっぽ動けもしねえんだぞ。洋一と二人で行かすなんてとんでもねえ。なにがあるかもしれねえんだぞ。そんな所におめえらだけでアーサー王に会いに行くなんて正気の沙汰じゃねえ」と言った。「なあロビン。あいつはまだこどもじゃねえか。弓矢をとって戦ってくれるわけじゃねえんだぞ。一体誰がお前ら二人を守るってんだ」
 そのこどもを偉く買っていたのは、どこのどいつだとロビンはおかしがった。
「死者の島に弓は不要だよちびのジョン。洋一はいざとなれば役に立つ男だ。俺のことはあいつに任すさ」
「もうあきらめろジョン」とアジームが見かねて口をだした。「お主には行く権利がないのだ」
 ロビンがやさしい声で、「お主はここにいて準備を頼む」
「準備ってなんだ。おめえ、動けもしねえじゃねえか」
「それでもだ、ちびのジョン。後のことは任せたぞ」
 ちびのジョンは泣きたくなるのをぐっと堪えた。「わかったよ、ロビン・フッド」と寄る辺のないこどものような声で言ったのだった。
 仲間たちはやれやれと肩をすくめた。

○     6

 グラストンリヴァーの濃霧は薄れることがなかった。液体のように肌にまとわりついてくる。
 ロビンと洋一は四人乗りの大きなボートに乗りこんだ。ロビンは船底に横たわる。洋一はボートを漕いだことなどなかったのだが、それでもともかくオールを握った。船縁で仲間たちが見下ろしている。太助は父親に背負われ、その肩の隙間から心許なげな顔を覗かせている。洋一はその友人の刀を足にたてかけた。なんだか自分が馬鹿になったように感じる。オールはやたら太かった。ミニチュアのおもちゃになった気分だ。
「洋一」とジョンが言った。「ロビンのことは頼んだぞ」仲間を振りかえり、「洋一だって体がきかねえんだぞ。川上なんて辿り着けるはずがねえ」
「こんな霧が出ていてもかね、ちびのジョン」と奥村が言った。彼にはこの霧こそがアヴァロンへの道しるべのように思えたし(あまりにも魔術的な出来事だ)、洋一の確信に満ちた態度も信頼をよせるには十分なものだ。この少年には、その直観で、なんども命を救われてきたのだから。
 ロビンは濃霧にのみこまれている。弱々しい声で言った。「俺たちは必ず戻る。お前たちこそ、身辺には気をつけろ」
「今のあんたに心配されちゃ、世話ねえや」
 とスタートリー。ロビンが合図にうなずくと、アジームは杭のそばに身を屈め、三日月刀を勢いよく振り下ろしてロープを斬った。
 ボートが恐ろしい速さで動きだしたのはそのときだった。ちびのジョンには手を伸ばす余地すらなかった。ボートはあっという間に霧の中に飲まれていく。「洋一!」と太助の声がした。
「おじさん、太助、ジョン!」
 と洋一は言ったが、目の前では霧が流れるばかり、みんなの姿はたちまち見えなくなり、自分を呼ぶ声も聞こえなくなった。洋一は恐ろしくて、太助や奥村の名を幾度も呼んだ。
「ロビン、ロビン、船が勝手に動いてるんだ! ぼくらすごい勢いで流されてる!」
「川上か? 川下か?」
「わからないよ。でも、向きは変わってないから、川上だと思う」
「ならば予定通りだろう。心配するな」
 とロビンは言って長い吐息をついた。洋一はオールを握りしめながら、舳先を見つめた。

□  その二 アヴァロン島のアーサー王

○     1

 モルドレッドはロンドンの王城に舞い戻った。右目を押さえ、うなり声を上げる。その目玉からは煙が噴き上がり、どんどん回復してもいた。
「おのれ、ロクスリー! ゆるさんぞ!」
 背後に何者かの気配があった。モルドレッドが振りむき、ぎょっと残りの目玉を剥いた。背後で悠然と椅子に座っているのは、かつての師、マーリンではないのか?
「ウィンディゴか……」
 とモルドレッドは冷笑した。身内のマーリンの血が騒いでいる。
「モーティアナは死んだようだな。俺に憑依を鞍替えか」
「そう言うな。あの女の持っていたマーリンの力を貴様に譲りにきたのだ」
 モルドレッドはロビンに受けた傷が完全に回復し、あまつさえ、強力な呪術が身内にやどるのを感じた。が、彼は鼻で笑い、
「悪趣味な男だ。今更なぜマーリンの姿で出てくる」
「モーティアナは確かに死んだ。が、ミュンヒハウゼンの動きは封じている。侍共もたった二人ではなにもできまい。小癪なのはあの小僧よ」
「ばかな」とモルドレッドは吐き捨てる。「あんな死にかけの小僧になにができる。ロビン・フッドとて、いまごろ朽ち果てておるわ」
「だといいがな」
 今度嘆息したのは、ウィンディゴの方だった。
「癪に障る男だ。いまさらやつらになにが――」
「小僧どもが、エクスカリバーを取りに行ったと言ったら?」
 モルドレッドは瞬息呼吸を止めた。「エクスカリバーなら俺を殺せるとでもいうのか」
「案ずるな」
「だが、どうやってだ? エクスカリバーは五百年の間、歴史の表に出ていない。どうしてやつらが手に入れられる?」
「アーサーだ。エクスカリバーはアヴァロンのアーサー王が持っている」
「アーサー? やつか。だが、アヴァロンは死者の島だぞ」
「小僧の力――伝説の書の力を侮らんことだ。あの小僧は死の呪いを利用してアヴァロンに向かっている」
 モルドレッドは意識を洋一に併せた。彼と洋一は呪いを通じてつながっている。
「どうやら本当らしいな。呪いを利用しおったか」
「やつもある程度の修行を積んでいる。創造の力――を身に付けていると言っておこうか。が、伝説の書さえ奪えばあの小僧にはなにも出来ん。しかもだ」
 とウィンディゴは言葉を切る。
「エクスカリバーを手に入れればお前は堂々と王権を主張できる。聖剣の力はお主も知っていよう。問題は銃士の大半が使えなくなったことだ。真昼に動ける銃士は千名もおるまい。いくら不死身の貴様でも、大軍を一人で相手には出来まい。死なずとも勝てなくては意味がない。やつらは死兵が昼間は使えんことを知っている。そこで提案だ――」
 とウィンディゴは自分の考えをモルドレッドに伝えた。聞く内にモルドレッドの目玉は大きくなった。
「そんなことが可能なのか?」
「俺が牧村とおなじ創造の力を有していることは知っていよう」と鼻で笑い、「この世界ではお主の影でしかないがな」
 忌々しいことだ、とウィンディゴは自嘲した。
「実のところ、俺が欲しがっているのは、伝説の書よりも実体を持つあの小僧の肉体よ。二つを手に入れるためにもお前の力がいる」
「ふん。互いに利用価値があるということか」
「互いを信用していないところもおなじだろう?」
 モルドレッドは快活に笑う。
「気に入ったぞ。貴様のいうとおり事を運ぼうではないか。ロクスリーめ、俺のためにわざわざエクスカリバーを運んでくるとはまぬけな……」
 モルドレッドがふりむいたとき、すでにウィンディゴの姿はなかった。
「もう消えおったか。せわしいやつだ。が、アヴァロンに向かったのは、牧村という小僧だと言ったな……」

○     2

「ロビン、なにも見えないよ!」
「落ち着け、洋一」とロビンが言った。「こうとあっては、身をあずけるより他はあるまい」
「そんなのいやだ」
 洋一は必死にオールを動かした。得体の知れない連中に行く手を決められるのがイヤだったし、真っ白な景色の中にいると気が狂いそうだ。それにすごく寒い。あらゆる角度から風が吹いて、体に当たっている。まるで、誰かが息を吹きかけているみたいだ。洋一はもちろんそれは死人だと思った。呪いに冒された真っ黒な顔で、このままじゃぼくらも死んじゃう、と歯をガチガチ鳴らしてつぶやいたのだった。そして――
「声がする。ロビン、誰かいるよ」
 ロビンはもう答えない。死の呪いが深くなり、意識が混濁しているようだ。洋一の恐怖が深くなるにつれて、それらの声は高まってきた。死者の声だった。
「ロビン、ロビン、起きてよ」
 洋一は悲鳴を上げてオールを落とした。オールの先が、なにかに当たったからだ。洋一はおどおどしながら、オールを置いた。ロビン、絶対なにかいるよ……。
 だが、ロビンに行動させるのは無理だ。洋一はおっかなびっくり舟の縁に手を突いて、中腰になり水面をのぞく。洋一はギャア! と自分でもだしたことがないような野太い声を上げて尻餅をついた。刀がぐらりと傾いて船底にガラガラと転がった。腐りきった死体がオールにしがみついている。
「ロ、ロビン……」
 洋一は腕を伸ばして揺すったが、ロビンはもう完全に気絶してしまっている。洋一は驚いた。ロビンの呪いが深くなって、顔まで覆っていたからだ。それは彼もだ。右腕は闇に覆われて素肌の部分が残っていない。右半身には感覚すらなかった。立ち上がろうとすると、足がこんにゃくのようにゆるんで、船底に倒れてしまった。洋一は懐を抱えて、
「くそ、伝説の書をとるつもりだな。わかってるぞ!」
 洋一は夢中で立ち上がると、オールを金具から抜きとった。立ち上がり高い位置から川を見おろしてみると、驚いたことに死体は魚並みに多勢で、ボートをとり囲んでしまっている。洋一は無我夢中で群がる頭をめがけて突きをくりだした。巨大なオールは重かった。洋一は振り回されながらも、体全体でオールを操り、酔っぱらいのように踊り狂った。その死体は水の中にいたから、すっかりふやけて腐っている。オールが当たるたびに、肉がずるむけになった。だから、洋一の視力が極端に落ちていたのは幸いだったのだ。けれど、体力も極端に落ちていて、筋肉もこわばり、体がうまく動かない。全身のあちこちに開いた亀裂が動きの邪魔をしている。それに動けば動くほど呪いが深くなるみたいだ! オールは鉄のように重くなり、死者を押しのけられなくなった。
「だ、だめだ、来るな」
 洋一はオールを捨てて本をつかむ。ボートの縁を皮膚のない指がつかむ。洋一は伝説の書で夢中で叩いた。死体の肉がびちゃびちゃと飛び散り、骨がむきだしとなったが、夢中で打った。そのうちボートをつかむ手は退いていったが、その作業は彼にとって多大な負担となってしまった。喘息にかかったみたいに胸の中心が熱くなる、痛みをともなう咳が出た。死の亀裂が猛威をふるって、内臓まで喰らいにかかっているのだ。それでこう考えた。アヴァロンには本物の死体しか行けないのかもしれない。
 伝説の書のやつ、きっとまたぼくを裏切ったんだ……。
 洋一が声を上げて泣くと、その声に腹を立てたみたいに猛烈な風がまともに吹き付けてきた。洋一はびっくりして、涙も声も引きこんでしまった。
 洋一はロビンのそばに身を屈めた。右腕をかばうように、左腕を下にして横たわると、幼児のように身を丸める。しくしくと泣いて、やがては眠ったのだった。

○     3

 洋一はそうして気絶していたのだが、冷や冷やとした風に目をあけた。彼はロビンの脇に倒れている。
 頭上を白い影が舞っている。ひらひらとはためくのは、真っ白な服のようだった。霧の中にうかぶその女は天女めいていたが、その顔はひどく恐ろしく、鬼のような三白眼に裂けた口で、怪鳥の叫びを放っている。
「モーガンルフェイだ……」と洋一は言った。それはアーサー王の異父姉の名だが、なぜか口を突いて出た。あながちまちがいではないかもしれない。彼らはロビンの世界を遠く離れ、本格的にアーサー王の世界へと彷徨いこんでしまったのだから。洋一は自分がウィンディゴの策略にはまったのか、それともこの物語の鍵を解こうとしているのかわからなくなってきた。
 ボートの舳先と船尾には真っ黒な人影がいくつもあって、死者の島への相席としゃれこんだものらしかった。洋一はロビンを守るために刀を抜こうとしたが、右腕には骨の残滓すらなくなって醜いゼリーのようにぐにゃりと体側に垂れ下がる。彼は刀と本をむなしく胸に抱きながら、また力尽きて倒れてしまった。
「ぼ、ぼくらはアヴァロンに行くんだ。アヴァロンに……」
 視野がぼやけ、視点はいくども回りつづけた。モーガンルフェイはそんな洋一を慈しむようになんどもキスをした。冷たいその口づけをあちこちに受けながら、洋一はふたたび意識を失ったのだった。

○     4

 波の音がする。
 それは寄せて、寄せては返し、洋一を眠りの縁から呼び覚ます。ロビンの胸の上で、眠っていたようだ。頭をもたげると、霧は幾分薄れ陽光も射している。ロ、ロビン、と洋一は言った。
「ロビン、波の音がする」
 今度も応えまいと思ったが、驚いたことに、ロビンが髪を撫でた。
「ここはどこだ?」
 声はか細くとぎれとぎれ。でも意識ははっきりしている(二人ともすっかり体温が下がり、呂律が回っていなかったが)。洋一は幾分勇気づけられ、どうにか片手をつくと身を起こした。ボートの人影はいなくなっている。
「洋一、どこにいる?」
 と訊かれた。洋一が下を見ると、驚いたことにロビンは目を開けている。
「ロビン、目が見えないの?」
 ロビン・フッドはかすかに首を縦に振る。
「ああ、見えない。そこからなにか見えるか」
 洋一は視野を巡らすが、すべてがぼやけて、薄ボンヤリとした陰にしかならない。彼にも視力は残っていなかった。それでも船壁から身を乗りだす。真下に砂浜が見える。波が寄せては返している。ボートはそこに打ち上げられていた。
「ロビン、砂浜だ。島に着いたよ」
 洋一はほとんど麻痺してしまった顔をゆがめてふりむいた。そのときまで、ボートの外に誰かが立っていることに気づかなかった。洋一は驚きで体勢を崩し、ボートの壁面に背中を打ち当てた。
「ろ、ロビン」と洋一は言った。そして、船底に転がっていた刀に目をとめ、身を投げだすようにしてつかんだのだった。


 牧村洋一は見知らぬ男たちと睨み合った。
「誰かいるのか、洋一」
 とロビンが身じろぎする。やはり動けないのだ。
 洋一は柄巻きを指に絡めようとしたが、呪いの亀裂は指先にまで及んでいた。刀を取り落とし、うめき声を上げる。このままでは自分もロビンのように寝たきりになるだろう。
 無理をするな、洋一、とロビンが言った。真上から声が落ちてくる。
「生者が島に来られるとは驚いたな」
「た、助けて……」と洋一は言った。それは疲れきった弱々しい声だった。「やめろ……」
 男たちが身を屈める、彼との距離がすごく近くなる。それでド近眼となった洋一にも男たちの人相がよく見えた。見事な金髪で豪奢なカブトをかぶっている。洋一がみたどのイングランドの騎士たちより立派な姿だ。カブトにはルビーや宝石がちりばめられていて、側面には深紅の羽根がはえている。死人にはとても見えない。
 円卓の騎士だ、ロビン、この人たちは円卓の騎士だと洋一は感動にほほを赤らめてロビンに告げたが、もう疲れきって声もでない。洋一は身は倒れるに任せ、また船壁にもたれかかる。
「あなたは円卓の騎士でしょう。ぼくらを助けて……」
 譫言のようにつぶやく。男が後ろを向く。なにかを受けとったみたいだ。
「これを食べたまえ」
 と男は腕をボートに差し入れる。洋一が目を瞬くと、真っ赤なリンゴが見える。洋一は途端に目眩がした。腹もぐううっと鳴ったけれど、それ以上に全身の細胞がそのアップルを欲しがっていたのだ。
 洋一はロビンと目を見交わした。驚くべきものを見た。二人の体を食い尽くし、収まり切ったかと思えた死の呪いが、活火山に変わったみたいに黒煙を吹き出しはじめたからだ。
「いやなら別にかまわんが」
 男がリンゴをひっこめようとする。気がつくと、洋一は夢中で手を伸ばしていた。
「ぼ、ぼくは食べる! 食べるよ!」
 死の呪いはいまや全身から煙を吹き出し、彼のリンゴをはたき落とそうとする。洋一は夢中でリンゴを抱きしめると、体を折り曲げ死の煙からリンゴをふせぎ、動かない口をいっぱいに広げてかぶりついた。死は怒り、腹を立て、無数の拳固をつくって、顔と言わず体と言わずにぶちはじめた。洋一は青あざをつくりながらも目を閉じてかぶりつづけた。
 右手の感覚がもどってきた。骨が生えて、筋肉もちゃんと動くようになっている。気がつくと両手をつかってリンゴをかじっていた。ロビンも騎士たちの手を借りてリンゴを食べている。二人から死の黒煙がズルズルと裂け目にひきこんでいき、その裂け目すらじわじわと小さくなってきた。それにつれて、視力や体の感覚ももどってくる。痛みもだ。洋一はその痛みを喜び、ふたたび活動をはじめた筋肉を使い立ち上がった。呪いがとうとう弱まったのだ。
「驚いたな」
 ロビンも自分の力で起き上がった。リンゴの汁を垂らして洋一を見た。
「ロビン、目が見えるんだね」
「ああ。このリンゴのおかげのようだ」
 ロビンはあらためて騎士たちに向き直り、
「あなたはランスロットですか?」
 と目鼻立ちの整う美形の騎士に尋ねた。
「いかにも、後ろにいるのはトリスタン。こちらはパーシヴァル卿だ」
 トリスタンはランスロットよりも大柄で、肩幅の広い戦士然とした騎士の顔立ちだ。頬骨が高く、立派な口ひげを生やしている。一方パーシヴァルと呼ばれた騎士は、先の二人よりもずっと年が若かった。透明感のある金髪をなびかせ、おだやかそうな人だ。
 ロビンと洋一はあからさまに喜色を浮かべて顔を見合わせた。とうとうアヴァロンにやってきたのだ。ロビンは本当にエクスカリバーが手に入るかも知れないと思ったし、洋一の感慨はロビンとはまたちがうものだった。洋一はパーシヴァルという名前が聖杯探索に成功した円卓の騎士の名と一致することを知っていた。彼は伝説の人物たちと本当に対面していたのだ。それも自分で書きこんだ文の力によって。
「我々に用があるらしいな」
 トリスタンは物憂げに船縁を叩く。
「そのとおり。我々はあなたがたに会いに来たのです」
「だが、君たちは死人でないはずだ」とトリスタンが言った。「なぜ我々を知っている。イングランド人なのか?」
「私はそうだが、この少年はちがう」
「そのようだな」
「あなた方は私を知るまい。我が現在のイングランドも。だが、あなた方はこの名を知っているはずだ。モルド……」
 ランスロットは手を挙げてロビンの言葉をさえぎった。
「もういい。続きはアーサー王とともに聞こう」と言った。「二人ともリンゴを食べきった方がいいな。その呪いはこの場所ではすぐに活性化する。リンゴの生命力が君たちにすぐさま作用したように」
「生命力? これは生命なの?」
「そうだ。地上に生まれる前のな」
 洋一は驚いてロビンと目を見交わした。
「じゃあ、魂じゃないか! ぼくら魂を食べちゃった」
 ランスロットたちは軽快な笑い声を上げた。
「リンゴは魂ではない。魂になる前のエネルギーそのものと言っていい。リンゴの姿をしているだけだ。安心して食べたまえ」
 洋一は少しほっとしてリンゴをかじった。不思議なほど甘かった。リンゴの姿をしているだけと言ったが、確かに洋一の望むとおりに味を変えるようだった。甘さはどんどん増していくし、囓ったときの感触も滑らかになっていた。そして、彼が望めば食べた場所もすっかり元通りになるのだった。ロビンと洋一は、アヴァロンのアップルを思うさま食った。
 ロビンが立ち上がると、洋一も刀を拾って、本を懐に押しこんだ。ロビンはボートを傾けながら砂地に飛び降りた。呪いはまだ残っていたが、激痛すらなくなっている。洋一が降りようとすると、騎士たちが手を貸してくれた。
「洋一、見てみろ」
 とロビンは指し示した。二人の食べているリンゴが島中になっている。
「これがアヴァロンのアップルか」
 とロビンは言った。アヴァロンはリンゴの咲き乱れる楽園という、伝説のとおりだ。
 五人は花咲き乱れる丘の小道をたどりはじめた。動物があちこちにいて、空には鳥もいる。気候は穏やかで過ごしやすい陽気だった。洋一がのぞめばそのとおりに風が吹いた。なによりも思い通りに体を動かせるのがうれしかった。
 丘を登り切った洋一は、「ロビン見て……」と言う。丘を下りきった平地にある大きな木の下に、巨大な円卓がある。円卓には一人の男性が座っており、周囲には数人の騎士たちが従っていた。ロビンが洋一の隣にきて、
「アーサー王か」とつぶやいた。ロビンはふりむいた。「死してあなた方は和解したのですね」
 ランスロットは無言で微笑んだ。五人は連れだって丘を下りはじめた。

○     5

 洋一は自分が勘ちがいをしていたのかと思った。アーサー王が死んだとき、彼は老人だったはずだ。それともここでは思い通りに姿を変えられるのかしれない。今のアーサー王は三十代の壮年で、年もロビンとかわらない。栗色の髪は耳に掛からない程度に刈られて、トリスタンとおなじ形の口ひげが威厳を持たせてもいた。兜はかぶらず、円卓に深く身を預け、この奇妙な来訪者たちを出迎えた。
 ロビンと洋一は誘われるまま円卓に腰を落ち着けた。円卓の椅子は不思議な材質で、まるで生きているみたいに洋一の体を包みこむ。円卓は様々な意匠で彩られる。そして、洋一が見る度に模様がちがうのだった。
 ロビンは語った。今のイングランドの現状、そして、モルドレッド・デスチェインを名乗る男の存在。アーサー王はときおり少し首を頷かせるだけで、口をはさむことは一度もしない。周囲にかしずく円卓の騎士らも王の言葉を待っているようだった。洋一の側にはトリスタンたち三人がいた。
「モルドレッドか。あの男は生きていたのだな」
 キング・アーサーは初めて口を開いた。それは少し嗄れて、それでいて洋一が聞いたどんな声より艶やかで深みがあった。
「あやつはいまだエクスカリバーを欲しがっているのだろう。エクスカリバーは王権の証なのだ。それを君は持ち帰るというのかね。あやつを倒すために」
「ご存じのようにモルドレッドは聖杯を使い、ために不死身なのです」とロビンは言った。「アーサー王、そのつるぎなら、あの男を死にいたらしめることができますか」
「我々にはわからない」とアーサーは首を左右に振る。「この中でいまだ死んでおらんのはあの男だけだ。それも我々のしくじりが原因だと言えるがな。だから、ロビン・ロクスリー。イングランドの現英雄よ。お主には我がつるぎと王権を委譲しよう」
「王権を?」ロビンはちらりと洋一を見た。「どういう事です?」
「エクスカリバーは王権を認められた者にしか、触れることができない」
 とアーサー王は、円卓にもたせかけていた剣を手にとった。鞘は黄金に輝き、深く彫りこまれた意匠を中心に光り輝くようだった。柄には剣の力を象徴するかのごとく、光芒をはなつ宝石がはめこまれている。どうも、王らのつかうのはただの宝石ではなく、不思議な魔力を持っているようだった。そして、大きな柄の滑り止めにはダイヤモンドが使われているようだ。反対にいる洋一の目にもそれらはキラキラと輝いて見えた。
「では、モルドレッドはその剣を扱うことは出来ないのですね」
「それはわからぬ。すべては剣の決めることだ。それよりもその少年」
 とアーサー王は洋一のことを指で差した。洋一はどぎまぎして、自分の指で自分を指した。
「ぼくですか?」
 アーサー王はうなずいた。「あの男の呪いが治りきっておらんと見える。こちらに来たまえ」
 ロビンは驚いて洋一の右手をつかんだ。掌にはいまだ亀裂が黒々と穴を開けていた。それは小さな十字星のようだったが、まちがいなく死の呪いだった。洋一は顔を上げた。
「リンゴを食べたのに、消えてない」
 ランスロットが背を押して、洋一はとまどいながらも円卓に沿ってまわった。ロビンが後についてきた。アーサー王は無言で右手をさしだす。洋一には意味がわからなかったが、そうっと自分の手をさしだし、アーサー王の暖かくて分厚い掌に指を沿わした。アーサー王はされるがままだった。やがて掌同士が寄り添うようになると、優しく洋一の手を握りこんだ。
 洋一はよろめいて、左手に持っていた刀を取り落とした。円卓の騎士たちがつるぎに手をかける。アーサー王の握る手の隙間からは輝くような死の黒煙が猛然たる勢いで吹き出してきたからだ。洋一はウィンディゴかと思った。そうではなかった。
 洋一は、黒風の勢いに負けよろめいた。ロビンがその背を支えた。
「この少年にとりついていたか、モルドレッド・デスチェイン!」
 アーサー王が始めて怒鳴った。瞬間に、洋一はすべてを理解した。死の呪いをうつしたあの時だ。洋一は伝説の書を通じて暗黒の王子と深く深くつながった、ロビンよりもずっと強く。死の呪いを逆用してあの男を殺害しようとさえしたのだ。モルドレッドの一部はその呪いをさらに逆用して、洋一の体に住み着いたのだ。
「アーサー!」
 邪悪な黒風はとぎれずに吹きつづけ、その黒い幕の中に裂け目ができ、両の目と口になった。聞こえてくるのはまちがいなくモルドレッドの声だった。
 モルドレッドはゲタゲタと笑い声を上げた。
「ちっぽけな島だ。お前の領土はこんなものか。円卓の馬鹿共を連れて御隠遁かね。俺はまだ生者の国にいるぞ。お前のいた島の真の王となっているとも」
「お前は王ではない!」とロビンは言った。「イングランドの人々が貴様などを認めるものか! 俺がおらずともちびのジョンやガムウェルたちが残っていることを忘れるな!」
 モルドレッドはさらに高く哄笑を上げた。「あんな普通の人間どもになにができる。犬のように吠えるとでもいうのか。みじめなのは貴様もおなじだロクスリー! さあ、俺様にエクスカリバーを献上しろ!」
「エクスカリバーは持ち帰る。だが、貴様のためなどではない」
 ロビンの声は小さなものだった。だが、怒りからくる闘争心に紛れもなく満ちていた。
「いいだろう、ロクスリー、呪われし小僧よ! 俺は現世にて貴様らの帰りを待つ! だが、いつまでもこの世の人々が貴様を支持すると思うな! 貴様らがたった一人でも立つことができるかどうかこの俺が見届けてやる!」
「俺は勝つまでやめない! それは貴様が現世を立ち去るまでだ!」
 モルドレッドは悲鳴を上げて身をくねらせた。トリスタンが手にした弓でモルドレッドの眉間を射貫いたのだ。モルドレッドはその矢に引きずられるようにしてグルリと回り、矢と共に空へと吸いこまれた。風は途絶え、洋一の身を震わし腕の腱をこわばらせていた圧力も消えた。
 洋一は乱れた息を整えるように胸に手を当て、アーサー王の掌からそっと右手を引き抜いた。掌を見た。じっとりと汗をかいているが、亀裂はもう無くなっている。呪いの痕が古い傷跡のように残っているだけだった。
 ロビンはモルドレッドの消えた虚空を見つめていった。
「アーサー王。失礼を承知でもう一度お聞きしたい。聖杯の力を得、五百の魂を縛るあの男を、聖剣の力のみで殺めることができるのでしょうか?」
 アーサー王は胸前に剣を掲げる。
「あの男を殺す武器はエクスカリバーをおいて他にない。これでやつが死なんのなら、お主が死者の島に舞い戻るまでだ」
 アーサー王もまた立った。円卓の騎士たちはわずかに退き、跪いた。
「ハンチンドン伯(ロビンのこと)、お主に我が不義理の息子を討つよう頼みたい。我らが長き因縁、五百年の年月死ねなかったあの者に最後の時を与えるよう、今ここで頼みたい。死者の島にいる我らにはその任を果たせぬ故」
 アーサー王の眼光は強く、その表情は一糸も乱れていなかったが、ロビンには奇妙に悲しげに見えた。
「我が王は死に申した。が、あなたは彼に劣らず偉大な王だ。このロビン、イングランドの人民に成り代わりお受けいたす」
 ロビンはわずか会釈しつつ、両腕を伸ばし聖剣エクスカリバーを手にとった。ここにアーサー王の王位は委譲され、ロビンは聖剣エクスカリバーを身に纏うことを許されたのだった。

○     6

 円卓の騎士たちはアーサー王を囲うようにして、ロビンと洋一を送りだした。この珍客が立ち去ることを惜しんだのだった。トリスタンは自慢の弓をロビンに貸し与えた。
 モルドレッドが洋一に取り憑いていたということは、こちらの動きはすべてわかっていたということだ。ロビンと洋一は急いでボートに乗りこんだ。
「ここから先は我らの領分ではない」
「十分です。世話になりました。必ず吉報をお届けします。が、死んだとしてもここに来られるわけではないのですね」
 アーサー王はうなずいた。アヴァロンは死者の世界の一領域にすぎないのだ。
「我々は君たちが来ることを望んでいる」
 アーサー王が言うと、円卓の騎士たちが笑い声を上げた。
「君の持つエクスカリバーの鞘には傷を癒す不思議な力がある。私は鞘を奪われることでモルドレッドに敗れた。必ず鞘を失わぬようにしろ」
「必ず」
 とロビンは言った。円卓の騎士たちがロビンを囲み、手荒く抱擁をした。その間に、アーサー王は洋一の前で屈みこんだ。
「その刀もすばらしいが、お主は不思議な本を持っている。その力がモルドレッドと戦うには必要となるはずだ。ロビンの補佐を頼んだぞ」
 洋一は頬を紅潮させてうなずいた。伝説の王にこんなお願いをされるとは、まったくすごかった。
「あなたと会えなくなるのは寂しいです」
「じきに会えるさ」とアーサーは笑った。
 騎士たちがボートを押し、船尾が砂浜を離れるとボートは瞬く間に霧の中に入っていった。洋一とロビンを乗せたボートは死者の川を下り、アヴァロンを離れていく。洋一は背後を振り返ったが、アヴァロンの姿はすでに霧に飲まれた後だった。
「アーサー王がじきに会えると言ったけど、あれはどういう意味かな」
「いずれ人は死ぬということさ。そう案ずるな」
 霧はどんどん濃くなり、視界は真っ白なベールに覆われた。


 洋一とロビン・フッドはこうしてアヴァロン島を後にした。もちろん洋一の長い冒険譚では様々な王に会うことになるのだけれど、それはまた別のお話。別の機会に物語ることにしよう。

◆ 第三章 ロビン一味、最後の戦い

□  その一 イングランドのロビン、呪われた都に討ち入ること

○     1

 太助とジョンは毎日河原に出て洋一たちの迎えに出ていた。二人が旅立ってもう一週間が過ぎていた。異変が起きたのは正午過ぎだった。あのときとおなじ濃い霧が川面を中心に張りだしたからだ。
 ロビンの仲間たちがすぐさま外に飛び出してきた。太助とジョンは川上を目指して走った。
「太助、ジョン!」
 洋一は声を聞きつけてボートから身を乗りだした。霧は洋一の周りではどんどん薄まっている。霧の向こうに透けて見えるのは懐かしいイングランドの景色だった。川に沿って走る土手、道の先には彼らが短い休息をとった小屋がある。そこで待つのは懐かしい仲間たちだ。川に沿って懸命に走る太助の元気な姿だった。

○     2

 ロビンはすぐさま行動を起こさねばならなかった。まずモルドレッドはロビンの首に懸賞金をかけ、彼の持つエクスカリバーを差しだすように命じている。この間にロンドンの周辺都市はモルドレッドの勢力下に置かれている。対して、タック坊主らが集めることのできた諸侯は、ウィリアム・ダンスター、トマス・ボーフォート・ウォリック、ロバート・ウォレスの三名だけである。残った諸侯は、モルドレッドに恐れをなしたか、日和見を決めこんだようだった。
 ロビン・フッドは夜を徹してロンドンに向かい、二日後の明け方には、市街を見下ろす丘に到達した。街道につづくすべての大門は固く扉を閉じている。城壁にはモルドレッドの銃士たちの姿がわずかに見えた。火事が起こっているのか、市街からは煙が幾本も立ち上っている。風とともに、死臭がおよび諸侯たちは顔をしかめた。
「ロビン、一万名でロンドンを奪うのは無理だ」とアランが言った。「こっちは死兵じゃないんだぞ」
「そこが付け目だ」ロビンはロンドンを指し示し、「あの城壁の広さをみろ。今は陛下の軍もいない。誰が守るというのだ」
 みなはあっと気がついた。城門の堅固さに気をとられて敵の少なさを失念していたのだ。
 アーサー・ア・ブランドはうなずいた。「銃士は化け物になると、知能がなくなるようだった。城門にいるのは生きている銃士だけだ。確かにあの数では門を固めることさえ容易じゃない」
「となると、問題は中に入った後だぞ」とウィル・ガムウェル。「化け物どもは光をいやがるから、屋内に隠れていると思う。しらみつぶしに狙うのか」
「ロンドンで生き残った人はいかほどいると思う?」
 ジョンが訊くと、ロビンは無言でロンドンを見下ろした。王都は深閑として、声も立てない。

○     3

 ロビンは天幕に四人の貴族を招き入れると、円卓を囲み協議をはじめた。ウィリアム・ダンスターは白髪の老人だが、息子を十字軍に出している(パレスチナで戦死している)。ロビンともわずかに面識があった。トマス・ボーフォート・ウォリックと、ロバート・ウォレスはもっとも若く、ともに三十代の壮年だ。二人は領地の守護は息子たちに任せて駆けつけている。ギルバートは家格こそ低いがロビンの隣にいた。みなロビンが膝に立てかけるエクスカリバーにチラチラと目をやっている。モルドレッドが懸賞金を賭けているだけに気になるのだ。
 口火を切ったのは年長のウィリアムであった。
「我々が布陣しているのに、モルドレッド側にはなんの動きもない。どういうことだ」
「私の聞いた話では、敵側の軍隊は一万に満たないそうだ」と、トマス・ボーフォート・ウォリックが言った。「あの数でロンドンを落としたのだ。野戦を行う兵力がないのではないか」
「それは妙だ。やつの軍隊は各地に散らばって戦っているではないか」ロバート・ウォレスが言った。「やつらは新兵器をつかうというがその威力はいかほどなのだ。ギルバート卿。あなたはフランスで戦ったはずだが」
 ギルバートはわずかに顔を背けた。そんなことは問題ではないと思った。が、沈黙を守り、ロビンに目を向けた。自分にはモルドレッドの銃士隊を打ち破るどんな策もないが、ロビン・フッドには作戦があるらしい。
 ロビンは一同の視線を受けると、やや厳しい顔つきで切りだした。
 ロビンはパレスチナとフランスで戦った銃士隊について説明した。昼間は並の人間とおなじように死ぬが、夜は無敵の兵として蘇ることも含めて話した。
 ウィリアムらイングランドの貴族はその話をにわかに信じることができないようだった。
「馬鹿なことを。死体が動きだすなど本気で言っているのか」
「だが、そのような兵隊をあの男が持っているならロンドンを落としたことも納得がいく」ロバート卿が言い、ロビンに向かってうなずいた。「私はその死兵とやらをじかに見たことがある。ロクスリーの言うとおり、あれは人ではない」
「問題は彼らが人間離れした身体能力を発揮することです」とギルバートがはじめて口を開いた。「しかも、斬っても傷がふさがってしまう。サラディンもついに打ち破ることはできなかった」
 なんと。あのサラディンが。
 天幕の外でもざわめきが広がった。サラディンの強さは音に聞こえている。ロビンが言った。
「私の部下が実際に死兵と戦っています。やつらは首を落とせば死ぬ」
「あなたの部下は死兵を倒したのか?」とロバートが食いついた。
 ロビンはうなずき、「サラディンがパレスチナで実証したことです。首を落とせば彼らも死ぬ」
「ロンドンから逃げだした兵らから、化け物と戦ったという話は聞いていたが、死人が動きだすなどと……」
「パレスチナでは我々もサラディン軍の虚報とみて信じていませんでした」
 ギルバートが言った。ロビンは少し声を大きくした。
「モルドレッドの死兵は今現在王都にいる。兵に化け物と出くわしたときは、首を落とすよう徹底してもらいたいのです。なんの知識もなく戦っては我々の兵は潰走することになる」
 トマス・ボーフォートが立ち上がった。「私は銃士と戦うことに賛同したが、化け物と戦うために貴重な兵を連れてきたわけではないぞ」
「彼らは光をいやがって隠れている。戦うとしたら昼間の今しかない」
「私の兵は化け物と戦うためにあるのではない!」
 ウィリアムが言った。「彼らはあなたをロンドンに呼んでいるのだろう。罠を張り巡らせていると思うが……」
「行かない限り、彼らはイングランド中の街々を襲うだろう」とロビンは言いかえした。「それともあなたはモルドレッドに屈するおつもりか。彼の言うとおり、正統な王権を認め、国王に戴くというのか。数万の市民を虐殺した男のなにが国王だ!」
「ノッティンガムも銃士たちに襲われたのです。市民の大半が難民となってしまった」ギルバートが言った。「市民はみな怯えている。私は後手をとるべきではないと思う」
 長い沈黙の後、ウィリアム・ダンスターは身を乗りだした。
「それで」と老人は言った。「そんなやつらとどう戦う」
 ロビンの作戦はこうだった。東門に戦力を集中させ、城門を奪取する。王都に進入した後は、部隊を三つに分割して進む。生存者を救い出し、ロンドンに火を放つ。
 すでに大量の油を乗せた大八車が大量に用意されている。城門にそい王都を囲うように火を放たせる手はずである。が、中央道には市民の脱出路とするために火を放たないことになった。
 問題はモルドレッドの居場所である。
「銃士隊もすべて死んだはずがない。城門にも姿は見えるが、こちらと決戦するつもりなら、手元に置いておくはずだ。後は夜になるのを待てばいい。が、やつは広い王都を守るだけの兵力がない」
「籠城戦か?」ウィリアムが訊いた。「王都の防壁は捨てて、内部の城にこもるつもりだというのだな。だが、どこだ」
 トマス卿が言った。「防備の固いのはチェスター城だ。大きくはないが堀もある」
「夜までに落とせるか」とウィリアム。「おとなしくやられる男ではないはずだ。罠を張り巡らしているだろうし、そこまで行き着けるかどうかもわからんのだぞ」
「決着がつかなければ、いったんは王都を出るべきでしょう」とロビンは言った。「夜間に彼らと戦うのは得策ではない。焼き討ちを行えば、モルドレッド側にも損害はでる。死兵は可能な限り殺しておくに限るのです」
 貴族たちは王都に火を放つことになかなか賛成しなかった。ロビンは粘り強く説得した。
「死兵とまともにやりあうのはかしこいやり方とはいえない。それに昼間は屋内に潜んでいる。すべての家屋を虱潰しに戦うことはできない」
 街を焼き払うのはパレスチナでサラディンが実際にとった戦法でもある。ロンドンは灰燼に帰すが、死兵を殺すことはできる。
「だからと言って、我々の手で王都に火を放つなど」ウィリアムは耳を疑った。「ばかな。そんな真似ができるか」
 貴族たちは王都への放火に抵抗を示した。第一これを命じているのは国王ではない。草莽の義賊であったロビン・フッドただ一人である。
「ヘンリー王子にお伺いをたてるべきではないか」とウィリアム。「戴冠をしてないだけで、今やイングランドの王はヘンリー王子ではないか」
「ジョン王が死んだと決まったわけではあるまい」とトマス。
「そこがやっかいだ」とロバート。「そもそもヘンリー王子のもとにはろくな兵がいないし、ジョン王を救うための招集に応ずる貴族などいるはずがない」
「ロンドンを焼き尽くして、その後の市民生活を誰が保証するのだ」ウィリアムが言った。
 ロビンは背後のロンドンをかえりみた。
「ロンドンからの難民が少なすぎる。あの男は門を閉ざし出さないつもりだ。王都に生きている者はほとんどいないかもしれない」
「なぜだ?」とウィリアム。
「モルドレッドは王になりたいのです。だが、彼の誤算は王都を奪うために銃士隊をつかったことだ。ロンドンの人々は彼の兵士が一度死んで化け物に変わり虐殺するところを目撃しているはずだ。そんな話が出回って、誰が彼を信奉するというのか」
「すべて隠蔽するつもりなのか……」
「ばかな、いつまでも隠しおおせるものか。ロンドンの市民は何万人もいるのだぞ」
「だからこそです。生きている者がいるうちに救うんだ」とロビンは言った。「王都をその目で見られるがよい。我々はパレスチナの戦場でこの目にしてきたのです。ロンドンでは八つ裂きにされた肉塊が放置されたままだと聞く。もはや屍殺場でしかないのです」
 貴族たちは黙りこんだ。ロビンのまわりでは草がはためく音しかしなかった。長い沈黙の後、ウィリアムが痩せた首を振った。
「やはり賛成できん。王都を今度は火葬場にするつもりか」
「死人になった銃士隊を一掃する手は他にない。夜になればやつらには敵わない」
 ロバートが訊いた。「ロクスリー、その作戦でモルドレッドに勝てるか」
「私はやつに一度負けた。二度負けるつもりはない。それに――」とロビンはエクスカリバーをとった。「聖剣はやつを討ち果たすことを望んでいる」
 この言葉にロバートは椅子を蹴立てて立ち上がる。
「よかろう。私はロビンに手を貸す。市内にもぐりこむことは可能。敵兵は少ない。死兵らが屋外に出てこられない昼間なら、勝てる見こみはある」
 ロビンは首をめぐらした。天幕の外にちびのジョンらの姿が見える。ロビンには貴族たちがひっそりと静まりかえり、互いの出方を窺っているのが見て取れた。このような不気味な話をするには、今日はよく晴れている。現実感がないのだろう。
「ロクスリー」とウィリアム・ダンスターは痩せこけた鼻柱をもみ上げた。「リチャード王はやつの策略にかかり死んだと申すか」
 ロビンは無言。ただうなずいた。
「私の息子は国王に従っていた。仇はモルドレッドということになる」ウィリアムは、痩せた体を力なく立てた。「私もロクスリー卿に助太刀いたす。心ある者は戦の用意をなされるがよい」
 ウィリアムは配下を引き連れ立ち去った。残る卿らも無言で天幕を去り、兵の元に向かった。

○     4

 ロビンは騎上、将士たちを鼓舞してまわった。彼の目前には歩兵射手が居並び、その後ろに長大な槍をもった軽騎兵がいた。ロビンの呼びかけに応じて集まったヨーマンらも三千名ばかり。総数は一万を超すが、史上この数でロンドンほどの大都市を攻めた例はないだろう。ここで敗北すれば日和見の諸侯はモルドレッドにつき、王太子の勢力は大陸まで駆逐されるはずである。
 ロビンが馬上で身を揺らしていると、春先の風がふわふわと漂ってきた。その風は春心地がしたが、硝煙と死の臭いがふんだんに混じっている。彼は戦場にいるのだった。
 ロビンは長らく戦いの人生に身を置いてきた。そんな彼を支えたのは、ちびのジョンやアラン・ア・デイルたちである。彼は自分がなんども敗北したのを知っている。だというのに長い盟友となったヨーマンらや目前に居並ぶ将士たちの期待に満ちた目線はどうしたことだろう? ロビンは遠くを見やる目付きをして、この苦闘をすらありがたいと思った。ジョンやスタートリーたちの助力がただひとえにありがたかった。その期待に応えるために身を捨てようと彼は思った。
 ロビンの背後には、ジョンやアランといった長年彼に付き従ったヨーマンたちがいて、彼の言葉を拝聴している。雑多な武器を持ち寄りロビンの元に馳せ参じた歩兵や弓隊の人々もおなじだった。人々のざわめきや角笛の音がロビンの身体を打った。
 ロビンは馬を左右に走らせ、大声を張り上げた。
「今日我が元に集った勇敢な男たちよ! 例え敵が化け物だろうと、我々は負けない!」
 ロビンが聖剣を引き抜くと、真昼だというのにその輝きは遠目にも明らかだった。エクスカリバーの放つ光芒は、伝説に聞くアーサーのみわざとおなじく、騎士たちの心を奮い立たせた。
「エクスカリバーは真の王を示しはしない! ただイングランドの国土と人民を守るためにある! 今日聖剣を手にする私が諸君に誓おう! イングランドのために死力を尽くすと! 身が朽ちても祖国を守り抜くのだ! 先祖のために、ともに生きる同胞のために! 我らの未来の子らのために! 君たちは中で異様な光景を目にするかも知れない! そのことに臆するな! 我らが敵を打ち払うのだ! ロンドン市民が無益に殺害されたのなら、その魂を天へと返すのは我らの役目だ! 敵は死者の肉体に辱めを与えている!」と言った。「私にはあそこに横たわる者たちが我らの父母兄弟、娘に見える! なぜならば、彼らが我らと血を共にする同胞だからだ! 私は彼らを道に迷わせぬために火を放とう! そのことに責めを負うなら、このロビンが引き受けよう! 我々は死兵を倒すためにロンドンを焼き討つ!」
 この言葉に、兵たちは動揺した。話に聞かされてはいたが、いよいよその時が来たのだ。兵たちはざわめかず、ロビンの言葉に耳を傾けている。馬上のロビンには彼らの覚悟が固まっていくのが分かった。
「あそこには異様な化け物がいる! 諸君も噂に聞いたことだろう! よいか、屋内に飛びこむことはまかり成らん! なれど、万一異形の者に出くわしたとき、その時は必ずやつらの首を落とせ! イングランドに化け物はいらぬ! 今ここに駆けつけた勇敢なる諸君、私は君たちに問いたい! イングランドは誰のものか! イングランドは王侯貴族のものでも、ただ生き物を殺害し、その肉を無用に喰らう化け物のためにあるのでもない! イングランドは我々一人一人のもの! ここに暮らす動植物のものだ! なれど、動植物は物を言わぬ、我らが敵と戦わぬ! ならば我々がイングランドを守るのだ! 今日イングランドを救うのは、他の何者でもなく、ここにいる我々だ! イングランドに平和を! 民に自由を!」
 歓声は瞬々大きくなり、大地を轟かす雷鳴となった。馬はその声に打たれたように歩足をゆるめる。ロビンはその声に応えるように腕を広げ、拳を握り、兵たちに負けじと声を張った。
「なかんずく今日はリチャード陛下の弔い合戦である! なぜならば、獅子心王を奸計に貶め、死に至らしめたのは、王都に居座るモルドレッドなる兇漢の輩! 私は彼が我が同胞とは認めぬ! 我らの上に立つのはあの男では断じてない! 彼が我が領域を侵し、我が先祖を愚弄し、我が同胞を辱めるのならば、私は彼を討ち果たそう!」
 賛同の声が立ち、兵らはそれぞれの武具を掲げた。
「私に必要なのは、諸君らの手助けである! 心に臆病者が兆したときは、祖父母のためにその者を打ち倒せ!」
 ロビンはジョンらのもとで馬を降りると、王都ロンドンに向き直る。ロビンがエクスカリバーを掲げると、兵士たちの熱狂は最高潮にたっした。イングランドに生き残るただ一人の英雄ロビン・フッドは、王都への攻撃を命じたのだった。

○     5

 王都の城壁に長大な梯子が幾本も立てかかり、それに倍する数の縄が投じられた。決死の兵士たちが矢弾にさらされながらも、それらに取り付く。銃士たちの抵抗は激しいものだったが、数百名ではとても防ぎきれない。破城槌で大門を攻められるとそちらに兵のを割かれた。ロビン軍は城壁上の通路に次々と躍りこみ銃士たちを討ち取っていく。
 軍勢は内側から門を開こうと、城壁内部に進入した。階段を下り通路に至った騎士たちは、遠雷のようなうなり声を聞いた。まるで彼らの到来を喜ぶように喉を鳴らしている。それに明かりがない。真っ暗だった。銃士たちの反撃もない。攻撃隊の隊長は背後の仲間に手を振って、
「死兵がいるぞ。松明を用意しろ」

城壁の窓を突き破り、兵士たちが落ちてくる。咆哮がロビンの元まで届いてきた。騎士たちは大量の槍を持ちこんで悪霊を串刺しにしようとしたが、化け物はなかなか死なない。
「ロビン、城壁内を抜くのは無理だ」とアランが言った。
「縄を逆側にかけて降りるようにいえ。内部の兵は撤退させろ」
 ロビンの目線は自然ギルバートの攻める城門に集中した。
 ロンドンの城門はモルドレッド自身の攻撃で疲弊していたが、それでも破城槌の部隊は手こずっていた。ロビンの隣にきたウィリアムが、
「夕まぐれでも死兵は動けるか?」
「やつ等が恐れるのは真昼の光です。夕刻もしくは暗がりなら力を発揮してきます。こちらの動ける時間は限られている」
「もし昼の内に決着が付かなければ撤退すべきと思うか?」
 ロビンは不敵にうなずいた。「この数で化け物共を相手にするのは自殺行為ですよ」
「しかし、君の部下が死兵を倒したと聞いたが?」
「やつ等は集団になったときが厄介だ。群れで襲われたら、とても首を刈ることはできんでしょう。だから、サラディンは自国の都市に火を放ったのです。兵を殺さぬためには焼き殺す以外に手はない」
「では火を放つだけで兵をいれなければいいのでは?」
 とトマス・ボーフォート・ウォリックが言った。
「それをするには王都はあまりにも広すぎる。それに外に出たところで奴等は自由に動ける。兵に恐怖心が生まれる前に初戦でやつらを叩くべきだ」
「決戦は避けられないと見るべきか」
 とウィリアムはため息をついた。
 そうしている間にも、兵士たちは城門の内側にたどり着いていた。彼らは銃士隊の銃撃を受けながらも、巨大な巻き上げ機を懸命に降ろしていく。モルドレッド軍の銃撃も激しかった。鎖に銃弾がはじけ激しい火花を散らしている。ロビン側はこのため、巻き上げ機に近づくのもままならない。後続の弓兵が隊伍を組み、街側にいる銃士に向けて応戦を始めると、ようやく作業にも人心地がついた。

○     6

 大門が地に降ろされると、ロビンの軍勢は一つの大きな矢のようになって雪崩れこんだ。トマスとロバートの軍勢が左右に分かれ、ロビンはウィリアム・ダンスターと共に中央道に乗りこんだ。ロビン・フッドは異様な光景に息を飲んだ。「なんてことだ……」ノッティンガムなど比較にならない、あまりにも悲惨な情景だ。王都の壁面や街路を、どす黒いペイントが覆っている。それは元は人の体内にあった血液が、なにかの拍子に散らかったものだった。辺りには千切れた肉塊が転がり、臓腑をまき散らしている。小路は足の踏み場もなく、腐った肉だらけとなっている。犬や家畜すら死に絶えていない。手足生首が無造作に転がり、そのうちのいくつかにはハッキリと食われた痕跡があった。戦闘で死んだ兵士も多くいたが、そのほとんどは、王都から脱出しようとし、果たせず死んだ市民たちだった。
 最初のうち、ロビンが感じたのは激しい憎しみだった。けれど、歩くたびにその怒りは足下から抜け落ちていき、抜け落ちた後から悲しみが支配するようになっていった。むき出しの骨、むき出しの脳に蠅が真っ黒にたかり、道路は腐った血痕で真っ黒だ。余りの臭気に人々はむせこみ、おおかたの者が糧食を吐いてしまった。隣に立つジョンがはっと息を飲んで目を伏せる。ロビンがその方角を見ると、へし折られた街路樹に人の腸が垂れ下がっていた。強烈な力に引き裂かれたとしか思えない遺体の数々に、ロビンはパレスチナの地獄が、いよいよイングランドに及んだのだと自覚した。自分たちはその地獄にもどってきた。
 ロビンはロンドンを進みながら遺体に手を合わせ、十字を切った。燃え草となるものには油をかけてまわらせた。街路には家財道具や壊れた家の残骸も散らばっている。火を放てばあっという間に広がるだろう。死んだ人たちを手向けるのには、炎をつかうしかなかったのだ。
 ロビンが感じたのは、これはひどくなっている、ということだった。モルドレッドの死兵に壊滅させられた都市は数多あるが、ロンドンの規模はそれらの比ではない。これほどの規模の攻撃を仕掛けたのはやつ自身もかつてないことのはずだった。いくらモルドレッドでも、これだけの数の死兵を統率できるのか? ミュンヒハウゼン男爵は、死兵とはモルドレッドが銃士らにまったく異なる悪しき魂を埋めこんだから起こるのではないかと推測していたが、もしそのとおりならその魂はまったく悪辣きわまっている。ロビンの心を埋め尽くした悲しみは、彼をこれまで突き動かしてきた闘争心とはほど遠かった。女こどもも老人も、みんな余さずに死んでいる。結局自分は王都を解放しに来たのでも誰かを救いに来たのでもなかったのだ。新たな死を生み出しに来たのである。
 ロビンに古くから付き従う人々は、彼を守るように、あるいは彼を頼るようにしてロビンの周りに集まった。粉屋のマッチは目玉を踏んで悲鳴を上げ、赤子の死体に十字をきり、背後の死体が生き返るのではないかとふりむいた。大方の者がおなじような気持ちでいた。ロビンの軍隊は戦う前からすっかり怖じ気づいていた。
 アーサー王が未来の我々になにを託したのかロビンは分からなくなった。だが、道路の中央に転がるこどもの完全な遺体を見たとき、それが牧村洋一の姿と重なったとき、ロビンの決意は急速に固まったのだった。
「アーサー王はこんなことのために、エクスカリバーを託したのではない!」
 ロビンは立ち止まると、部下たちを叱りつけた。
「目を背けるな、ここでなにがあったかようく見ろ!」
 みんなは今こそロビンのいった言葉を理解した。ロンドン市民が辱めを受けた。そのとおりだ! 王都に火を放ち、亡くなった人たちを火葬する。そうすべきではないか! このような惨い殺し方をするべきではないし、また受ける謂われもないとみな思った。ロンドンを焼き撃つことに異を唱える者はもはやいなかった。死者を悼む気持ちがあるならばそうすべきだと考えたのだ。
「これが我らの敵のなしたことだ! これを許してはならぬ! 目の前の光景に臆するな! 二度とこのような事が起こらぬように戦うんだ! イングランドを救うのは、今ここにいる俺たちだ!」
 ロビンは予定通り、生存者の捜索と焼き討ちのための部隊を市内に散開させた。ジョンがロビンの耳にささやいた。
「これでは生きている者がいるはずがない。探すだけ無駄だ」
「よく見るんだ!」とロビンは叱った。「壊れていない家、戸締まりが確保された家を中心に声をかけて回れ。市民が立てこもっている可能性が高い」

□  その二 イングランド、暗闇に遭うお話

○     1

 ミドルとアーサー・ア・ブランドは、騎士たちと協力して被災者を探して駆けずりまわった。アーサーは三百人の騎士を率いている。そのうち声のいい者を数十人選んで、王都に喧伝させた。
「ロビン・フッドが帰ってきた! シャーウッドのロビンが王都を解放したぞ! 生きている者は家を出ろ! 東門を目指せ!」
 彼らは無事な家屋を調べ、地下のある家を慎重に探っていった。ロビンの予想通り、じっと息を潜めていた者たちが徐々に現れた。アーサーは生存者の様子に、喜ぶよりもショックを受けた。彼らは魂を消されたこどものように震えている。逃げることも叶わず、外に出ることもできず、闇を恐れてじっと隠れていたのだった。怯えて半狂乱になっている者が多かった。食う物もなく、排便にも事欠き、腐臭の漂う中息すら潜め、ただ救出のときを待った姿に、アーサーは心を痛めた。
 あちこちで遺体の火葬がはじまった。最初は抵抗のあった騎士たちも、遺体が火に包まれ屍肉が見えなくなると、積極的に火をつけて回るようになった。みなあのような憐れな残骸をいつまでも見ていたくなかったのだ。
 アーサーたちは獅子心王の紋章を緋色に染めた旗を掲げている。家を固く閉ざし、地下に隠れていた者たちも、声に誘われ這い出てきた。この二十日間、飲まず食わずだ。思考力すら尽き果てていた。彼らは、詩人の声に聞き、自ら噂にのぼらしめた懐かしい名を口にした。
 ロビン・フッドが帰ってきた。
 ロビンがまだ無法者だったころ、弓術大会で見事優勝を飾ったことを覚えていた者も多くいた。その名が人々の心から消えかかっていたとはいえ、生死の権利すら奪われた市民にとっては、希望のもたらす救いの光だった。人々はその一筋の光にすがりつくために、往路に進み出たのだ。
「声を上げろ! ロンドン市民はあの化け物と二十日間も付き合ってきたんだぞ! 俺たちの苦労などなにほどのことがある!」
 アーサーは市民の救出にかまけてもいられなかった。一見市民が隠れていると見越した家屋にも死兵が潜んでいたからだ。そこではたいてい人肉を喰らう宴が催されていた。騎士たちは怒りに燃えて立ち向かったが、この勇敢な人々も引き裂かれあるいは殴り殺されて、市民たちとおなじ命運をたどった。
「死人が出やがった! 死兵どもが出やがったぞ!」
 廃屋の窓を突き破り、戸口を転がるようにして、騎士たちが放りだされてくる。
「みな家屋から出ろ! 不用意に戦うな!」
 アーサーは油樽を用意させた。それを騎士たちがひしゃくですくい、戸口に投げこんだ。化け物共は、顔面に油を喰らい、顔をしかませる。そのあまりの醜悪さにみな嫌悪の呻きを上げた。
「火矢をかけるんだ!」
 アーサーは布の巻かれた矢を油樽に浸した。それに若い兵士が火をつけようとするが、手が震えてまともに火打ち石が打てない。
「急げ」
 アーサーが叱咤したのと、死兵が窓越しから巨大な手を伸ばしたのは同時だった。若者が背後から頭を砕かれる。手元に血と脳漿が降ってきた。
 アーサーが真っ青な顔を上げると、屋内からテーブルや煉瓦が飛んでくる。死兵どもは確かに陽の光を怖がるようで、全身を往来にさらそうとしない。代わりに腕を窓から突きだし、舌を鞭のように飛ばしてくる。アーサーはやつらと戦うのは初めてだった。およそ人間ではない。教会で聞く悪魔そのものだ。
「くそっ」とミドルの声が近くでした。「出てこないが、攻撃してくるぞ!」
 アーサーは夢中で血肉を払い落とすと、死んだ男の手から火打ち石をもぎとった。右膝の裏で矢をはさみ、煉瓦が飛び交うのもかまわず夢中で石を打った。血に塗れたせいで火がつかないのだ。やがて、火打ち金が、石英を正確に擦ると、火花が飛び、矢の先端が煌々と燃え上がる。アーサーは無惨に倒れた兵士の死体を横目に、素早く矢をつがえる。
「待ってろ、今仇をとってやる」
 アーサーはこの土壇場でわざと一呼吸を置いた。弓の名人ロビン・フッドに厳しく仕こまれた射弓術はこの日も物をいったのだ。醜い目玉にはさまれた毛むくじゃらの眉間が、彼の視界に飛びこんでくる。アランはこのときまったくの無心でいた。指が矢筈から離れたのにも気づかなかった。矢は煙を巻いて飛び、正確に化け物の眉間を打った。炎が化け物の体毛をテラテラと流れだした。油を舐め、燃え広がっているのだ。やがて、炎は建物に燃え移って盛んに燃えはじめた。
「みんな、下がれ!」とアランは自分も炎を避けながら呼びかける。「化け物の手の届かないところまで退くんだ!」
「あれは炎で死ぬのか?」
 と側に来たミドルが彼にささやいた。その声は震えている。死兵らは屋内で絶叫を上げ暴れている。外に飛び出して来た者も、陽に焼かれて死にはじめた。
「みな落ち着くんだ」アーサーは困惑する騎士たちにいった。「俺たちの役目は市民を逃がすことだ。死兵と戦うことではない。一人でも多くの市民を……」
「アーサー、見ろ」
 とミドルが言った。アーサーは辺りに急に影が差したことに気がついた。雲が出たのかと思った。アーサーは雨が降ることを懸念して空を見上げたが、彼の目線の先にあるのは三日月型に欠けた太陽の姿だった。闇に食いちぎられたようだとアーサーは思った。
「なんだ、あれは……?」

○     2

 胃の中身はなにも残っていないのに、まだ吐き気がこみ上げてくる。鼻はもう馬鹿になっていたが、目に見える光景はひどかった。正直なところ、人肉や血痕をさけて歩くのは難しかった。洋一は自分がなにかを踏むたびに心の中でごめんなさいと謝った。これまで自分が平和な日本にいて、死体すら見たことがなかったことを思い知らされた。あの太助でさえ顔が青ざめ、彼を気遣う余裕がない。
「洋一、しっかりしろ」
 と奥村が言った。洋一は口端の唾を拭って頷いた。男爵がここにいればいいのに。あの人が側にいて背を撫で慰めてくれればどんなにいいか。けれど、ミュンヒハウゼンは伏して二度と目を覚ましそうにない。洋一は目尻にたまる涙を自分の拳でぐいぐいと拭いた。
「二人とも気を静めておけ。ウィンディゴはいつ仕掛けてくるか分からんぞ。見えるものにとらわれるな」奥村はそこで言葉を切った。慎重に言葉を選んでいるようだった。「ロビンがモルドレッドに勝てるとは限らん。そして、モルドレッドを殺す武器がエクスカリバーしかない以上、誰にもモルドレッドを倒すことは出来ない」
 それはこれまでなんども話し合ってきたことだった。エクスカリバーを持てるのは王権を委譲されたロビンだけだ。伝説の書をつかうにしても、エクスカリバーを持てる理由を考えなくてはいけない。洋一たちはこれまでその方法を考えあぐねていた。ウィンディゴがなにを仕掛けてくるのか、見抜くことができなかったからだ。
 行軍の列が止まり、兵士たちが騒ぎはじめた。奥村は足をとめ、刀に手をかけたが、すぐに彼らが頭上を見上げていることに気がついた。太助が洋一を守ろうと鯉口を切りつつ前にまわった。
「洋一、おかしいぞ」
 と太助が言った。洋一もそのときには大人たちがみんな上を見ているのに気がついた。太陽の光線が変化している。辺りの影が急にゆがんだ。洋一が空を見上げる。おかしいのは太陽だった。太陽の端が黒くなっている。洋一はすぐに目をやられて顔を背けたが、自分の気づいたことに愕然とした。
「日食だ……」
 と彼は言った。太助が驚いて彼を見た。太陽の端が月の影に喰われている。それで地上の光も変化しているのだった。
「まずいぞ、洋一。皆既日食だと真っ暗になるのか?」
「わからない」
 と彼は言ったが、同時にミュンヒハウゼンと過ごした夜のことを思いだしてもいた。あのときの月は元の世界で見るものと違った。
「おじさん、月だよ! この世界の月は大きいんだ! きっと日食の間は死兵が使えるんだ!」
「日食で陽の光をさえぎるつもりか」
 やつの狙いはこれだったのか。奥村は呆然とつぶやいた。周囲の騎士たちも不安がっている。みんなこのまま太陽が消えて、暗闇になることを恐れているのだ。洋一はうかつさに地団駄を踏みたい気分だった。ウィンディゴがなにか仕掛けてくるのは分かっていたのに、なんの準備もしてこなかったのだ!
「ロビンに知らせよう。二人とも俺の側を離れるな。洋一、伝説の書を使えるか?」
 洋一はとっさに返事ができなかった。喉が干からびてしまっていた。思いつけるだろうか? けれど、ウィンディゴの出方を見なければ、対処のしようがないというのは彼らのだした結論でもあった。
「太助、お前は洋一の側を離れるな。伝説の書に書くのを助けるんだ。俺はロビン・フッドに助太刀する」
 奥村はもう一度空を見上げた。
「月の動きが速い。死兵どもが出てくるぞ。ついてこい」

○     3

 奥村が前方にいたロビンの元に駆けつけるころには、周囲の建物や路地裏から死兵らの咆哮が轟いていた。
「奥村、なんだあれは?」
 とロビンが太陽を指さしていった。
「月が太陽とかぶさっているんだ。すぐに地上は暗闇になる。死兵が出てくるぞ」
「なんだと? 今に限ってか」
「くそ、どんどん暗くなるぞ!」
 ロビンは周囲を見渡して、「死兵が騒いでいる。日食なら動けるのか?」
「ただの日食のはずがない。周りに火を放つか?」
 とアジームが言った。ロビンは首を左右に振った。
「だめだ。こんなに密集していてはこっちも焼け死んでしまう」
「だが、王都の死兵は千や二千ではない! 全滅するぞ」ウィリアムが言った。「撤退すべきではないのか?」
 ロビンは一瞬逡巡した。
「それもだめだ。この状況で撤退したら、総崩れになる。それこそ全滅だ」
 逃げるには死兵の足は速すぎる。ロビンはエクスカリバーを引きつけた。
「全軍、その場で戦闘準備をしろ!」
 ロビンの言葉と共に各隊長たちは部隊の元に散り、ちびのジョンらは、ロビンを中心に円陣を組んだ。
「円陣だ! 各小隊、密集隊形をとれ! 互いをかばって戦うんだ! 死兵が出るぞ!」
 そうする間にも太陽は三分の二が闇に隠れた。地上の光はどんどん薄くなっていく。日食は凄い速さで進んでいった。そして、太陽はついに月の裏へと隠れきった。空は真っ暗になり、星すら瞬きだした。
「落ち着け、いつまでも陽が陰っているはずがない!」
 奥村はこどもたちの肩を抱きながら、頭上の窓から死兵が身を乗り出してくるのをみた。その目が赤く光るのをみて洋一の肩は震えている。
「来るぞ! 太助、刀を抜け!」

○     4

 死兵の群れは闇を利用してロビン軍に忍び寄った。モルドレッドは最初から東門周辺に死兵を結集させていたのだ。
 ロビンがエクスカリバーを鞘から抜き放つと、その光芒は闇夜を払い、仲間たちを照らしだした。死兵はその光を恐れて容易に近づかない。
「槍で動きを止めろ! 首を刈り取れ!」
 そのうち城門付近にいた部下たちがどこをどう通ってきたのか、ロビンの元にたどりついた。
「ロバート卿の部隊が城門を占拠してる! もう東門からは出られない!」
「なんだと!?」
 とさしものロビンも瞠目した。
「あの野郎、モルドレッド側につきやがった!」
 ジョンが耳元で怒鳴ったが、死兵の咆哮で互いの声も聞こえない。ロビンの軍勢は道幅に阻まれて、数の利を活かせなかった。ほとんど一方的な殺戮の場とかしはじめたのだ。
 ロビンの周辺にいた騎士たちも死兵に群がられてたちまち数を減らしていった。洋一は仲間の血をかぶり、太助は彼の前で刀を正眼に構えている。味方の体が邪魔をして、思うさまに刀を振るえないのだ。奥村が彼の肩をおさえて、
「無理をするな。モルドレッドが出てくるまで待て!」
 ロビンはトリスタンの弓を射、手近にきた死兵にはエクスカリバーを振るって戦っている。円卓の男たちの武器はすさまじかった。首を刈ったわけではないというのに、エクスカリバーに斬られた死兵たちは煙を吹きながら人へともどっていく。ロビン・フッドらは松明に火をつけ、死兵を退けながら戦った。
 ロビンは空を見上げ、月が去り、太陽が少しずつ顔を出してきたのに気がついた。やはり、ウィンディゴでも月の動きを食い止めることは出来なかったのだ。死兵らは陽の光を浴びて苦悶の咆哮を上げたが、太陽が顔を覗かせたのはほんのわずかだった。動きがひどくゆっくり感じられる。空はまだ暗く星もある。死兵も決戦を自覚しているのか退かなかった。
 ロビン軍の前方ではモルドレッドの軍旗が翻る。モルドレッド直属の銃士たちだった。ロバート卿の部隊も混じっているようだった。ロビンはあの先にモルドレッドがいることを確信した。敵勢の出現と共に、エクスカリバーが轟々と輝きはじめたからだ。
「兵を集結させろ! モルドレッドがいるぞ!」
 死兵の囲いを抜けてロビンの回りに集結した男たちは数百名に過ぎなかった。ウィリアム・ダンスターの姿もない。
「くそ、たったのこれだけか」
 ジョンはロビンの体をみて驚いた。
「おめえ、傷が」
「ああ、エクスカリバーの鞘の力らしい」
 戦闘は始まったばかりだというのに、ロビンの傷はもう完治していた。
 ジョンはうなずき、これなら勝てるかも知れないと思った。アラン・ア・デイルが死兵の手を逃れて退いてきた。
「ちくしょう、どうするロビン!」
「向こうだって、数は少ない、決戦だ! やつも総力をぶつけてきている、退くな!」
 とロビンは言った。
「いいか、あの銃士どもに死兵になられては厄介だ。油樽を引いてこい! 死体に火をかけて燃やすんだ!」
 ロビンの命に部下たちは迅速に動いていく。そのうち、モルドレッド側の銃撃が始まりだした。
「動ける者は集まれ! モルドレッドの本陣を目指すんだ!」

○     5

 そうした戦いの真っ最中、洋一はずっと考えていた。死兵の腕を逃れ、血を浴びて真っ赤になりながらも、本を抱えて考えていた。なるほど彼らは見事エクスカリバーを手にすることが出来た。けれど、モルドレッドにはウィンディゴがついてる。二対一じゃいくらロビンとて危うい……。
 洋一はそこでピタリと立ち止まった。太助が死兵から彼を守ろうと背を押した。
「そうだ、二対一だ。ぼくにだって、モルドレッドが取り憑いていた……」
 そのとき、千切れた腕が懐に飛んできて、洋一は図らずもその腕を抱えこんだ。洋一は悲鳴を上げて放り上げた。後方を見ると、人間がまるで風船人形のように宙に舞っている。
「洋一、なにをしてる。もっと下がれ!」
「太助!」と彼は友人の袖を捕まえた。太助はふりむいたが、その顔も炎の中で真っ赤に見えた。「ぼくは集中したいんだ。本を書きたい。時間をくれ!」
「なにをいってるんだ。今は……」
「おじさん!」
 と洋一は太助を無視して奥村を呼んだ。
「おじさん、思いついたんだ! エクスカリバーを持つ方法! たった一つだけどこれなら行ける!」
 洋一は手短に二人に話した。洋一はモルドレッドが右手に棲み着いたのを利用して、アーサー王を呼び出そうというのだ。奥村と太助にもそれならいけるかもしれないと思えた。けれど、そのときにはモルドレッドが部隊の前方に出現して、ロビンはこれと戦うために兵を集め始めていた。
 奥村は迷った。洋一について悠長に本を書かせている時間はない。それに洋一は創作の興奮で我を忘れている。アーサー王を呼びだした所で、剣をとって戦うのは洋一なのだ。奥村は決心をしていった。やはりロビンを助太刀してモルドレッドを倒すしかない。
「太助、お前は洋一を守れ」
「父上!」
「俺はロビン・フッドと共に行く。もしもの時は任せたぞ。二人とも死ぬな」
 洋一は責任の重さをずっしりと感じた。ロビンがやられたら、次は自分たちだ。胃の腑の奥が石になったようだった。けれど、二人の少年は立派な大人、しかも自分たちの尊敬する本物の侍から重大な任務を任されたことに高潮してもいた。
「おじさん、ぼくら絶対後から駆けつけるから」
 奥村はうなずいた。
「父上、金打を」
 と太助が言った。奥村は思わず頬がほころんだ。仲間が死んで以来、金打などひさしくしなかった。むろん金打は侍以外でも誰でも打つが、太助がそれを求めるということは、自分も一人前だと証明したいのだ。
 二人は静かに鯉口を切り、刀を半ばまで引き抜くと、高く鍔を打ち合わせて金音を鳴らした。

○     6

 奥村はあせっていた。ロビン・フッドは突出しすぎている。銃士たちの攻撃はむろんロビンに集中していたが、エクスカリバーの鞘の力が瞬く間に彼の傷を癒してしまうのだ。ロビンは超人的な力を発揮して、包囲陣を打ち破っている。仲間たちはその動きについていけないのだ。
 奥村は違和感を感じずにはいられなかった。モルドレッドの行動には強力な意図を感じる。なぜ死兵に任せず自ら打って出てきたのか? エクスカリバーを手にしたロビンを殺せないと知っていたからではないのか? そして日食をかけ死兵をつかったこの攻撃は紛れもなくやつの罠のはずである。やつは勝算を持っている。ロビンを殺す算段を積んでいるのだ。
「ジョン、アジーム!」
 部隊は、銃士とみるや、油をかけて死体を燃やしている。死人と化した銃士は黒い煙を吹き上げて別の物に変化しようとしていた。流れ出た血液を結集し、化け物に変わろうとしていたが、火をかけられてはたまらない。炎の中では真っ黒な魂が苦悶の絶叫を上げていた。だが、こうした行動のせいで部隊の行動が遅れている。奥村は側にきたガムウェルらに、
「部隊を分けろ! 油樽の方にそんな人はいらん! 四台あるなら、一カ所にまとめるな、先を急がせろ! ロビンを守るんだ!」
 と言って、ジョンとともにロビンの後を追いはじめた。彼らは周りに呼びかけつつロビンの後を追ったので、奥村の後方にはたちまち一部隊ができあがった。
 奥村が見上げると、空はまるで黄昏のようにもの悲しかった。太陽が明け切らない。
「ジョン、君はウィンディゴの姿を見たんだな!」
「そうとも! ロビンも見た!」
「ならば今度も出るぞ! 油断するな!」
 奥村は銃士どもに肉薄しては、右に左に斬って落とした。銃士たちは銃剣を繰りだすが、奥村はすり抜けざまに頸動脈を斬り捨てていく。今度はロビンに変わって彼が仲間たちの道を切り開きはじめた。そのすぐわきで、ちびのジョンが喚いている。
「ロビン、ロビン、待ってくれ!」
 だが、トリスタンの弓とエクスカリバーを手にしたロビンは神さまみたいな活躍振りだった。それに、エクスカリバーで斬ると、銃士たちは死兵にかわらない。死体から苦悶する人魂が抜け出ていく。モルドレッドが銃士たちに埋めこんだ悪霊のようだった。
 軍勢の勢いは何段にも敷いた包囲陣を次々と打ち破って陣中深くに食いこんだ。アラン・ア・デイルが銃弾に腹を射貫かれ、それをウィル・ガムウェルが支えている。退くな、突き進め、とアランは叫び、仲間たちは共に助け合いながら突き進んだ。
「ロビン・フッド!」と奥村たちはようやくロビンの元に駆けつけた。奥村は彼を銃士たちの積み残した土嚢の裏に引っ張りこんだ。
「君はやつとおなじ罠にはまっているぞ。傷が治るからといって無茶をするな!」
「わかっている! それよりも周りの銃士たちを頼めるか?」
 奥村が見ると、銃士たちはかなわじと見て弾ごめの準備をはじめている。その中心にはモルドレッドがいて、さかんに檄を飛ばしている。もうこんな近くまで来ていたのだ。ロビンは仲間に弓を射させてこの動きを牽制させた。奥村はロビンに向かってうなずき、
「ああ、だが、ウィンディゴには気をつけろ。この世界では直接手を出せないが、人の心を惑わそうとするやつだ」
「見ろ、奥村!」
 とちびのジョンが奥村の痩せた背をどやしつける。トリスタンの矢がモルドレッドの頬をかすめると、暗黒の陰がドロドロと吹き出し、彼の全身を取り巻いたからだ。
「闇の男だ。あの部屋で見たやつだ」
「やはりウィンディゴだ」
 奥村は決着を付ける時が来たようだ、とつぶやいた。ちびのジョンが顔を近づけて、
「洋一たちはどうした? 安全な所にいるのか?」
「事は済ませてきた。大事ない」
「それじゃあ、わからんぞ」
「俺たちがモルドレッドを倒せば大事ないのだ!」と奥村は言い返す。
「奥村、火矢だ!」
 とガムウェルが言った。奥村が見上げると、星空を裂くようにして火の玉が飛んでくる。奥村は土嚢から身を乗りだすと、大刀を一閃して火矢を叩き折った。火の玉は路面を滑るようにしてロビンたちの足下を転がった。
「まずい、油樽を狙っているぞ! 叩き落とせ!」
 モルドレッドが手近にいた銃士を惨殺しはじめたのはそのときだった。黒剣は暗黒の男をまといながら愚風をおこし、銃士たちを引き裂く。
「死兵にするつもりだ! 油樽をひけ! 変わる前に殺すんだ!」
 ロビンの手元には二台の荷車があったが、一つは火矢をまともにうけて、轟々と火柱を上げはじめた。
「エクスカリバーを渡せ、ロクスリー!」とモルドレッドの声がした。「貴様には不要のものだ!」
 モルドレッドの叫び声とともに空間がゆがみ、その声はまるで波紋が広がるように四方から押し寄せてきた。奥村たちは鼓膜の奥をまともにやられて這い蹲る。だが、奥村が見上げると、ロビンは平然と立ち敵陣を睨んでいた。
「平気なのか?」
「ああ、エクスカリバーのおかげらしい」
 ロビンは土嚢の陰を出た。奥村たちが後につづいた。モルドレッドはすでに死兵を解き放っている。
 ロビンとて不安はあった。初戦では二人がかりでまるで歯が立たなかった。やつの剛猛ぶりは身に染みてわかっている。
「この輝きが見えんかモルドレッド! エクスカリバーは貴様に味方しない!」
「ロクスリー」
「侍の男」
 モルドレッドの声とウィンディゴの声はまったく別の言葉を発しながら、同時に聞こえた。ロビンと奥村の目には、モルドレッドとウィンディゴの姿が急にふくれ上がって見えた。奥村たちは津波のように押し寄せてきたウィンディゴの陰に押し戻された。
「貴様で最後だ奥村! 侍の世界も今日で終わりだ!」
「なにが最後だ! 太助がいることを忘れるな!」
 彼の怒声もウィンディゴの喚笑にかき消された。奥村は怒りのあまり、我を忘れた。アジームが必死で彼を救おうとしているのも見えなかった。
 俺で最後だと、仲間を殺したのは貴様ではないか! 彼はやつを一刀斬り伏せられない自分が歯痒かった。卑怯者め、地獄を見ろ――
「待て! 待てウィンディゴ!」
 奥村は闇の陰を追おうとしたが、死兵に囲まれて追えない。アジームが脇にきて、肩をぶつけた。
「落ちつけ、奥村! 我々の役目は、ロビンを助けることだぞ! モルドレッドを倒せるのはロビンだけだ!」
「ああ、わかっている」
 奥村は自分をとり戻そうと、剣を正眼にとった。ロビンが殺されれば、どうしても洋一に頼るしかなくなる。それだけは避けたかったのだ。
 モルドレッドは傷こそ回復するが、武器がきかないわけではない。奥村は仲間を呼んで隊伍を組んだ。
 その間、ロビン・フッドはたった一人でモルドレッドと対峙していた。エクスカリバーの輝きは闇の男すら打ち払うほどだった。それで死兵どもも近づけないのだ。モルドレッドは黒剣を抜き、その黒剣にはウィンディゴの闇がまとわりついた。二つの剣は先端をチャリチャリと合わせながら、互いに攻撃の隙を探り合っていた。
「鞘で傷は回復しても、体力までは回復しない。エクスカリバーを持てるのはお前だけだ。ちがうかロクスリー?」
 確かに、ロビンは戦いつづけで肉体の疲労ははなはだしい。すでに呼吸は荒く、全身は汗で濡れネズミとなっていた。彼らの狙いはロビンの命よりも、その力を削ぐことだったのだ。
「周到なことだな、モルドレッド。不死の男がなにを恐れる?」
「恐れる、俺がお前をか?」モルドレッドはわずかに笑んだが、その表情は固く、眼の奥には憎しみがあった。「お前は聖剣の正統な持ち主ではない。お前では聖剣は力を発揮しない。賊徒に聖剣は無用なはず!」
 モルドレッドは黒剣を上段から真っ向振り下ろした。ロビンは受けた。光の裏でモルドレッドの瞳を睨めつける。
「聖剣なら死体の貴様にくれてやる」
「貴様に俺は殺せんぞ。聖杯の力をまだ学習せんか!」
「不死に自信を持ちすぎだ。エクスカリバーはお前に味方しない! 貴様の父親はエクスカリバーこそが貴様を殺すといったぞ!」
 モルドレッドは顔面から怒気を放って飛び退ると、瞬く間にロビンの懐に飛びこんだ。そのまま胴を狙ったが、エクスカリバーの鉄壁の防御を崩せない。
 ロビンは喜びににた驚愕を覚えた。以前は剣を砕かれるほどであったモルドレッドの剣圧が、風にたなびく柳のようにしか感じないのだ。モルドレッドは数十合を打ち合うが、ロビンはそのたびに押しかえした。ロビンの攻撃もまた、地面を裏返すほどに重かった。
 二人は聖剣と魔剣をからみあわせて、互いの剣越しに睨み合った。
「聖剣は正統の王にこそ仕えるのだ!」
 モルドレッドはロビンを押したが、ロビンは五百の魂の圧力によく耐えた。
「本当にそうか?」
 ロビンの問いにモルドレッドは飛び下がり、着地とともに勢いをつけロビンの胴をめがけて突きをくれた。ロビンは剣の先でやすやすとこれをいなした。モルドレッドは瞠目した。かつてこれほどたやすく自分の剣をいなした者はいなかった。父親を殺す機会を狙い、中々それを果たせなかったのも、アーサーが聖剣を持っていたからだ。だが、ロビンは王家の血筋ではない。いかな英雄といえど、一介のヨーマンであった男である。
 ロビンの攻撃が肩に触れると、その傷口から乳白色の人魂がいくつも抜け出てきた。彼の内に閉じこめられた魂たちだった。
「貴様、アーサーに何事か施されたな!」
「これは聖剣の力だ! エクスカリバーはお前の血を否定している!」
 ロビンとモルドレッドは互いに剣を立て、グルグルと回りあった。周囲では、仲間たちが死闘を繰り広げていた。隙を見せるな、とロビンは自らに言い聞かす。仲間を救うことは後でもできる。モルドレッドを倒す機会は今しかない!
 ロビンは言った。「呪われた貴様に聖剣が味方するものか! お前に王たる資格がどこにある。真の王者を示すものは血統などでは断じてない!」
「王権を否定する気か! 傲慢だぞ、ロクスリー!」
「俺は俺の信じるものに仕える。エクスカリバーもまたそうだ!」
 ロビンの叫びに呼応するように、闇の力が彼の全身を取り巻いた。ウィンディゴがモルドレッドの元を離れ、ロビンにまといついてきた。
「くそ、離せ!」
 モルドレッドは好機と壮絶な笑みを見せ、彼の腰骨をしたたか打った。ロビンが息を詰まらせる間に、聖剣の鞘が音をたてて地面に転がる。
「しまった!」
「これで回復も無理だ、ロクスリー! アーサーも鞘を失い結局は死んだのだ!」
「死ぬのは貴様だ!」
 ロビンが雷光の突きを見舞うと、モルドレッドは剣を引き上げながら身を躱すのがやっとだった。黒剣の刀身をエクスカリバーが削り取り、その火花と流星の輝きがモルドレッドの頬を打った。
「おのれ!」
 モルドレッドは腰を伸ばすと、右に左に斜剣を繰り広げる。彼の体はウィンディゴの力をうけて二倍に膨れ上がっている。ロビンは脳天をめがけた攻撃を受けたが、これすら余裕をもって受けることができた。ノッティンガムではその威力になんども体を弾かれたというのに、まるでこどものおいたをいなしているようだ。エクスカリバーがモルドレッドの剛力を吸い取っているのだ。
 モルドレッドは怒りの声を上げて距離をとった。ロビンは後を追わず気息を整えた。
「エクスカリバーを持ったところで人民は貴様を支持などしないぞ!」
「だまれロクスリー!!」
 そのとき、モルドレッドの声に何者かの声が重なった。同時にモルドレッドの体から巨大な影が抜けだした、それとともに、モルドレッドの体はしぼんでいく。
「ウィンディゴか!」
 聖剣を振るう間もなかった、ウィンディゴは聖剣ごとロビンを闇の中に飲みこんだからだ。ロビンは真っ暗闇の中にいて視界を奪われた。聖剣のみが光を放っているが、ウィンディゴの邪術はドロドロと黒液となりエクスカリバーすらをも包みこもうとしている。そして、ロビンは邪悪な声を聞いた。人の苦しみを喜ぶ声。この世の邪悪を凝り固めた笑い声だった。
「小僧共もお前もここで終わりだ。古の物語など滅ぶがいい!」
「邪魔をするな!」ロビンは憤怒を上げた。「赤子や洋一の魂を弄ぶだけではまだ足りないか!」
 ロビンの絶叫と共に、モルドレットが黒衣を切り裂くようにして現れた。ロビンは聖剣を上げ、モルドレッドの攻撃を受ける。だが、モルドレッドの一撃にはなんの手応えもなかった、その体もロビンの体をすり抜けるようにして崩れていった。ロビンがウィンディゴの幻にしてやられた時には、すでに遅く、本物の黒剣はロビン・フッドの背中を貫いていた。肉を裂かれ、肋を断ち割られ、肺を貫かれた。肺胞がブチブチと弾ける。黒剣は胸骨を掠めながら、ロビンの胸筋をも切り裂いた。暗黒の刀身が、ロビンの血液を滴らせながら、左胸から突き出てくる。
「うああ」
 ロビンが唸ると、モルドレッドは牙を剥いて、剣を回した。ロビンの手から聖剣は落ち、回転をしながら地面に突き刺さる。そして、彼の骨を断ち、肺を食い破る黒剣の刃からなにかが流れこんできた。何者かの魂が。
「貴様も死兵と化すがいい! 真の王はこの俺だ!」

□  その三 呪われたこどもたち、伝説の幕を下ろすこと

○     1

 奥村がロビンと共に立ち去ってしまうと、洋一と太助のいる地点はちょうどブラックスポットのように戦場にぽっかり空いた空白地帯となってしまった。後方では城門付近からの火災が、激しく天を焦がしている。その火に照らされて死兵と騎士たちが激しく対立するのが見えた。
 その空白地帯にはときおり路地裏から死兵が迷いこんできた。二人は油樽を積んでいた荷車の下に這いこんだ。
「洋一、ここでも書けるか?」
「うん。紙は見えるよ。早くしないとウィンディゴがこっちに来るかも……」
「だけど、洋一、いいのか?」と太助が訊いた。洋一は顔を上げた。「その手にアーサー王を呼びだすということは、君がエクスカリバーを持つということだぞ。エクスカリバーを使えるのか?」
 太助は本気で心配している。それに多少困惑してもいた。剣を振るう洋一が想像できないのだ。洋一は茫然自失となった。とっさに太助ににじり寄り、服をつかんだ。
 太助は首を左右に振って、「ぼくは駄目だ。ぼくではエクスカリバーを持てないじゃないか」
「ぼくは剣術が使えないじゃないか」
 太助と洋一は荷車の下で激しく見つめ合った。二人は困りきって今にも泣きそうな顔をしている。やがて、太助は硬い表情をとき、
「アーサー王を信じよう。きっと力を貸してくれるはずだ」
 でも、つかうのはぼくの体じゃないか。と洋一は思った。腕力も体力もふつうの小学生だ。いや平均以下かもしれない。モルドレッドどころか、普通の兵隊にだって勝てやしない。
 洋一はそのことを伝えようとしたが、そのとき地響きがして、荷車も地面も激しく揺れた。ひときわ巨体の死兵が、荷車のすぐ側を歩いているのだ。
 太助は大刀を納め、脇差しをそろそろと抜いた。彼なりに死兵と戦う覚悟を固めたのだ。こんな場所で楽々と納刀をすませるのだから、父親に劣らず大した腕だった。太助は囁いた。
「洋一、ぼくもあんなやつの首は刈れない。父上を助けたいんだ」と肩をつかんだ。「書いてくれ」
 自分が無理を言っているのはわかっていた。けれど、彼も必死だったのだ。
 洋一はほとんどやけくそになって、固い路面に伝説の書を広げた。万年筆をポケットから引き抜いた。その硬い芯先は、彼の人肌で温かくなっている。けれど、彼が王都で見た人々の肉塊とおなじ命運を辿るのならば、この父の形見だって温かくなることはないだろう。
 洋一は吐き気と戦い頭を振って恐怖心を追い払いながらも、だめだこのままじゃ失敗する、と思う。だって彼は恐怖に負けてる、心を鎮めていない。文を書くための、自在を得ていないのだ。
 駄目だ。殺されるかもしれないなんて考えるな。これからのことは忘れろ。
「太助、太助、ぼくの側にいて。ぼくを守って欲しいんだ」
 太助は先ほどよりずっと強く、洋一の服をひっぱった。
「そんなの当たり前だ。刀にかけて、父上にかけて誓うとも」
 洋一はようやく顔を上げてうなず。恐怖よりも感動が先に立っている。けれどその目は暗闇でもはっきりとわかるほどに濡れている。
 洋一はなんどか目を瞬いた。アーサー王は確かに死者の島にいる。だけど、モルドレッドが洋一にくっついてアヴァロンに現れたということは、逆も可能ということだ。
 洋一は祈るような気持ちで文章をしたためる。
『アヴァロンにいたアーサー・ペンドラゴンは、エクスカリバーをロビン・フッドに託しただけではなかった。彼は自分自身で闇の皇子と決着を付けるつもりだったのだ』
 太助の見守る中、伝説の書は文を吸いこみはじめた。洋一は自信を得て――無意識に息を吸いこむ、胸が思い切りふくらんだ――書いた。
『アーサーは、洋一の右手の痣に巣くったモルドレッドを追い払ったとき、ある仕掛けをしておいた。闇の男を追いだした後、洋一の魂にぽっかりと出来た空白、そこに自らの魂を滑りこませておいたのだ。今彼は洋一の右掌に棲んでいる。洋一の体を喰らい尽くす死の呪いとしてではない。こどもたちを救い、三度イングランドを救済するためだった』
 洋一はそこでピタリと動きを止めた。万年筆のインクはスルスルと染みこんで、彼の書いた文章は薄くなり消えつつあった。洋一は右手を見おろす。
 太助が心配をして、「もう終わりなのか? そこまででいいのか? もっと――」
「ちがう、右手が、ぼくの手……」
 洋一は万年筆を取り落とし、それを左手で素早く受けた。太助が右の手首をつかみ、掌をひっくり返す。「肉腫だ」
 洋一は骨を押しのけ、肉を裂く激痛に絶叫した。大粒の汗をにじらし、口端からは涎が垂れている。手が真っ赤に腫れている。膿がどんどんたまるみたいに、掌が盛り上がってくる。血流がそこへと流れこんで、視界が一瞬暗くなった。ブラックアウトだ、と彼は思う。言葉が頭蓋をくるりと回って彼の脳神経をつついて回る。意識が遠くなる――背を荷台に打ち当て、頬を地面に打ちつけのたうちまわった。
「洋一、駄目だ、静かに……」
 太助の言葉もそこまでだった。声を聞きつけた化け物共が走り寄ってくるのが見えたからだ。
 荷車はまるでおもちゃのように軽々と宙を舞い、二人の体は剥き出しとなった。洋一は手首を押さえてまだ苦しんでいる。太助は威嚇に刀を煌めかしながら、彼を立たせた。
「洋一、走れ! ロビンの所に!」
 そういう間にあちこちの窓から死兵が飛び降りてきて、その醜さにも関わらず華麗に降り立つ。道にいる化け物の数は増えていった。先頭にいた死人が猿膊を伸ばすが、太助は腰をひねり、かろうじて躱す。二人は一散に駆けだしたが、死人らは辺りの物を蹴散らかしながら後を追ってくる。
「追いつかれる! 洋一、先に行け、父上を救ってくれ!」
 太助が身を翻そうとし、死兵に立ち向かおうとしたときだった。路地から騎士の一団が現れて、槍衾をつきだしては死兵どもと争いだしたのだ。
「小僧ども! ここでなにをしてる! ロビンはどこだ!」
「アーサー!」
 路地から現れた一団は、アーサー・ア・ブランドだった。ロビンを目指して命がけでここまで駆け参じてきたのだ。
 太助は喜びに仰天したが、彼と話している暇はなかった。彼は洋一の肩を抱いてロビンの元を目指しはじめた。二人は死兵のいないのを確かめ、路地を使い、少しずつ戦場の中心に近づいていった。洋一はその間も右手の痣にずっと話しかけている。その肉腫は傍目にもはっきりと分かるほど人顔の形をなしてきていた。
「アーサー王、ぼくらに力をかして、ロビンやおじさんを助けたいんだ」
「洋一」
 口の部分がさけて、声を発した。二人は驚きのあまり、まとめて転んだ。
 洋一は、「この声はアーサー王だよ」と言いながら物陰に這いこんだ。
「洋一、急げ、ロビン・フッドは死にかけておる」
「じゃあ力を貸してくれるんだね。ぼくたち……」
「時間はない。もうロビンはやられてしまったのだぞ」
 洋一、と太助が肩を叩いた。彼は顔を階段の隙間から出し、前方をうかがっていた。まだ闇が深くて前方で争っている人影がどうなっているのか、果たしてロビンとモルドレッドのどちらが優勢なのかは分からない。でも、エクスカリバーの輝きだけは、ここからでもはっきりと分かった。エクスカリバーは地面におち、石畳に突き刺さっている。誰も所持していないのだ。
「ロビンはほんとにやられたんだ。ぼくが注意を引いてやるから、君はエクスカリバーを拾え」
 太助は洋一の返事を待たずに駆け出してしまった。
「ど、どうしよう」一人になってしまった。おどおどと物陰に引きこみ、右手のアーサー王に囁く。「無理だよ、ぼくなんかじゃエクスカリバーを持っても戦えない!」
「洋一」とアーサー王は深く重みのある声で言った。それで洋一も我にかえる。「お主も知ってのとおりだ。普通の武器ではモルドレッドは死なない。お主の友人と義父ではやつを殺せないのだ」
「アーサー王はわかってな……」
「いやわかっている」とアーサー王は厳しかった「お主は臆病風に吹かれている。言い訳を考えて決断するのを忘れている。座して泣くことはいつでもできる。それはあの世でとておなじ事だ」とアーサー王は言った。「ロビンはもうだめだ。やつに期待することはできん。だが、やつを救うことはできるのだぞ」
「そんなこと分かってるよ!」と洋一は右手に向けて怒鳴った。そのとき道の後方から凄い叫び声がして、洋一はビクリとそちらを向いた。「ぼくは……」
「男が剣を持ち戦うことに、年が関係あるか! 泣き言をいうのか、勇気を示すのか、どちらか決めろ牧村!」
 洋一は怯えてうつむいた。「わかったよ――でも、ぼくに力を貸してくれるんだね?」
 アーサー王は動けぬ身ながら頷いたようだった。
 洋一は勇気を出して立ち上がった。アーサー王の一喝がどうも恐怖を払ったようだった。
 階段の陰から顔を出し、あらためて戦場の様子を確かめた。
「わしはお主を信じている、それは彼らもだ」
 とアーサーは言った。洋一は頷いた。太助もおじさんもぼくのことを信じている。
「お主ならやれるぞ。わしが肉体に憑依してもお主は自分を保っている。死人になることもないのだ」
「銃士たちのことを言ってるの? でも、どういう……」
「残念ながらロビンではマーリンに敵しなかった。だが、お主――お主は面妖よ。ロビンともわしともちがう。一人でない人間だ。モルドレッドに取り憑かれても、己を失うことはなかった」
「それはどういう意味……?」
「早くしろ、みな死んでしまうぞ!」
 その一言が決定打だ。洋一は意を決して立ち上がる。

○     2

 奥村たちがロビンの元に駆けつけたときはもう遅かった。
 あの瞬間、地面に倒れ伏すロビン・フッドの無惨な亡骸を見たのは、奥村左右衛門之丞のみだった。
「ロビン・フッド! ロビン・フッド! 立て!」
 奥村の絶叫で、仲間たちもそんなロビンに気がつく。奥村は敵を躱してモルドレッドに駆け寄ろうとする。
「もう遅いぞ、異国の男!」
 モルドレッドはニタニタと笑い、エクスカリバーの柄に手を伸ばした。自分が苦痛を与えた少年らの父親だとみとってのことだった。少年らの父親は死兵にふたたび進路を阻まれている。モルドレッドはロビンの部下たちの悲痛な叫びを横手に、ついに聖剣を手にとった。
 モルドレッドが手の内に鳴動を感じたのはその瞬間だった。まるで魂の奥底から激震が走るようだった。エクスカリバーが灼熱し、皮膚を焼いた。モルドレッドは全身を振るわせながら聖剣から手を離した。
「なぜだ、エクスカリバー!」
 右手は焼けただれ、肉の焦げた臭いと紫煙を立ち上らせている。
「俺以外の王がどこにいる! なぜなのだ!」
 モルドレッドはふりむいた。仲間の助けを借りて、死兵の脇をすり抜けた奥村とアジームが自分目がけて迫ってきたからだ。
 奥村はモルドレッドの焼けただれた手を見た。刀に目を落とし、聖剣に視線をうつす。
「だめだ、俺たちもエクスカリバーには触れない。あいつの二の舞だ」
「ならば、自らの刀で殺すまでだ」
 とアジームはいう。奥村の返事を待たずに、暗黒の王に打ち掛かっていく。
「父上!」
 奥村の耳に、幼い叫び声が届いたのはそのときだった。奥村は目の前の敵すら忘れて左方を見た。彼の息子が、死体を飛び越え、剣風をさけつつ、父親の元に駆けてくる。奥村は胸が張り裂けそうになるのを感じた。ロンドンでの悪夢がいちどきに蘇ったのだ。
「太助! なぜここに来た! 下がれ!」
「いやだ!」
 太助は父親の隣に来ると、刀を両手に、モルドレッドと対峙する。父親の視線を避けながらも、その顔は緊張と安堵の色に満ちている。
 親子はまるで大小の作り物のようにおなじ構えをして、モルドレッドと向かい合う。
「ばかもの、洋一を守ってやらんか!」
「ぼくと洋一で父上を守ると誓ったんだ。それに洋一はうまくやったよ」
「だが――」
「あいつならうまくやるよ!」と太助が言った。奥村は驚いて息子を見た。「あいつはちゃんとアーサー王を呼びだしたじゃないか! あんな状況でも本を使いこなしたんだ! だったら、今度はぼくらの番だ! あいつを助ける番だ!」
 奥村の胸は息子の一喝に熱くなった。最悪の自体だが、モルドレッドがロビンから受けた傷は回復していない。エクスカリバーならモルドレッドを殺せるのだ。もうやるしかない。
 奥村は息を整えて、それでもにこりと笑みを見せた。彼には太助の心情がよくわかった。言いつけこそ守らなかったが、それでも彼には期待通りの息子の姿だった。強情にも息せき切って駆けつけたその様は、まさしく古の侍そのものではないか。彼の息子は父母の期待に違わなかった。奥村は助太刀が武門の誉れなら、今ここで二人で死んでも構わないとさえ思った。
「いいだろう。こいつを弱らせて洋一に止めを刺させるぞ」
 アジームがモルドレッドの剣威におされて、たたらを踏み下がってきた。モルドレッドの足下にはすでに三人の騎士が転がっている。エクスカリバーに拒絶されたモルドレッドの怒りは凄まじかった。
 奥村たちはモルドレッドを弱らせるべくこの呪われた男を取り囲んだ。そして、そこから離れた戦場の一角では彼らの少年が聖剣を目指して走っていた。

○     3

 ちびのジョンだけは真っ先にロビンの元に駆けつけた。けれど、ロビンは黒霧にとりつかれている。その体から流れ出た血液は生き物のように蠢いて、傷口を塞ぎはじめていた。ロビンが苦悶し、手足を引き攣らせる。ジョンは傍らに膝をつくと、重病人に対してそうするように、彼の右手をその大きな掌に持つ。
「だめだロビン! 死ぬな! 死兵になどなるな!」
 ロビンはジョンの声に応えるように手を握りかえしてきた。
「そうだ、逆らえ、がんばれロビン!」
 ちびのジョンは死んだ友人を守ろうと、ロビンの頭を抱えこんだ。ロビンの端正な顔が醜く引きつり、牙と剛毛を生やしはじめている。ウィンディゴが、お主のロビン・フッドはもう死ぬといい、モルドレッドの体から抜けでた古のこどもたちは彼らを指さしケタケタと手をうって笑いだした。ジョンには腹立たしく悲しいことだった。
「死んでからもモルドレッドのところでお勉強か。でもなあ、そんなのはまっとうな人間のするこっちゃねえ。人の不幸を笑うなんて、心のねじくれた人間のするこった。そんなこっちゃいけねえんだぞ。おめえたちだって別の場所でまっとうな生を受けてたら、別の魂にだってなれたろうに。でも今からだって遅くはねえんだ」
 ジョンはこどもたちに頬を張られ、小さな手で髪を引き回されながらも諭しつづけた。頭にあるのは自分を救ってくれた二人の少年のことだった。あの連中だったら、モルドレッドの邪悪な魂にだって決して屈することはなかったろう――そして、その二人の少年は、ともに古の皇子に立ち向かっていたのだ。
 少年の一人がジョンの視界に飛びこんできた。ジョンは驚いた。体にのしかかる重圧が軽くなるのを感じた。ウィンディゴも少年の意図を察して飛び去ったからだ。
「洋一、こんなところに来ちゃ駄目だ! ひっかえせ!」
 とちびのジョンは言った。けれど、少年はなおも駆けて戦場の中心に近づいていく。彼が目指すのが聖剣と知り、ちびのジョンは瞠目したのだった。
「まさか、あいつ……!」

○     4

 右手はまだ痛んでいる。けれど洋一は走っていた。ともだちを救い、物語の世界を救うために。洋一はこのことで父と母も救えるんだと信じた。だって彼は元気な二人を最後に、遺体には顔すらあわせていない。彼の中では両親はいまだに苦しみの真っ只中。彼はそれを助けたくて一生懸命に走っている。遺体を飛び越え、剣林弾雨の中、金色の光目がけて駆け抜けた。
「アーサー王、モルドレッドだ!」
「わかっている」
 とアーサーは言った。アーサーの顔は洋一の胴体を向いていたが、視覚は少年と同化している。
「洋一、来ちゃ駄目だ!」というジョンの声が聞こえた。
「ジョン、エクスカリバーの鞘を……!」
 と洋一はそちらも見ずに叫びかえした。息が切れて脇腹が痛い、こんな状態でモルドレッドをやっつけられるなんてまったく信じられなかった。
 モルドレッドは奥村、アジーム、太助を相手に大立ち回りを演じている。他の仲間たちはみな倒れ、あるいは銃士たちと奮戦している。モルドレッドは、三人の剣の達人をものともせずに戦っている。むろん傷は受けているのだが瞬く間に回復している。確かに普通の武器では死なないのだ。
 洋一はより一層身を屈めて転がるように駆けていった。それは砂浜で旗をとるビーチフラッグの選手のようだった。彼は右手を伸ばしエクスカリバーの柄を目がけて飛びこんだ。洋一は聖剣を支点にグルリとまわった。その拍子に聖剣は地面から楽々抜けたが、またその先端を地面につけた。
「お、重い!」
 エクスカリバーを地面から引き抜いた瞬間、洋一の腰は重みに負けて砕けてしまった。彼はほとんど膝をつきかけてよろめき、
「力を貸すって、右手だけじゃないか!」
 と文句を言った。まさしく、アーサー王の意力がやどったのは、彼の片腕のみだった。聖剣をわずかに持ち上げるだけでも、彼の全身はブルブルと震えている。左手を使おうとすると、エクスカリバーはたちまち彼の皮膚を焼いた。アーサー王は彼がエクスカリバーを持てると言ったが、それはアーサーの宿った右手のみの話だ。
「これじゃあ、剣なんて使えないよ! アーサー王、もっと力を……」
「洋一!」
 右手が鋭く叫んだ。アーサー王だった。洋一が顔を上げると、黒い影が星空をさざめかせながらまっすぐに飛んでくる。
「ウィンディゴだ!」
 ウィンディゴは竜巻となって彼を襲った。風が彼を取り巻いて、洋一は息も吸えなくなる。洋一は聖剣にしがみつき、懐の本をまさぐった。
「くそ、伝説の書を使えばいいのか……」
 と洋一は言ったが、この状況で書きこむなんてできない。だめだ、そんな暇はない。と彼は言いかえした。同時に思いだしたのだ。自分たちが行動でも物語を導いてきたのだということを。そう男爵が言ったから、洋一は左手を本から離した。ぼくはお前に頼らない。行動で物語を変えられるんなら。
 やってやる、やれるぞ!
「アーサー王、二人であいつを殺すんだ! 力を貸して!」
 洋一は胸の内にこう叫んだ。
 男爵、ぼくはもう本に頼らないぞ。
 アーサー王が何事か答えたようだが、ウィンディゴは彼の五感を奪い、その耳にはなにも聞こえなかった。洋一はエクスカリバーを引きずりモルドレッドに近づいた。ウィンディゴの力も彼を食い止めることはできない。様々な幻術も、アーサー王の加護の元では十分な力を発揮しなかった。
 ウィンディゴは人外の雄叫びを上げ、モルドレッドも洋一に気づく。
「小僧、なぜお前が聖剣を使える! なにをやった!」
 モルドレッドはアジームを斬り飛ばし、奥村を足ではじき飛ばした。
「洋一!」
 と奥村。
 モルドレッドが洋一の心臓目がけて、黒剣を突きだした。奥村は夢中で立ち上がると、二人の間に身を割りこませる。愛刀を眼前にたて、刺突を受け流そうとする。だが、黒剣はその刀身を削り、奥村の左胸を貫いた。奇しくもロビンとおなじ箇所だった。
「おじさん!」
「父上!」
 奥村は刀を放りだすと、モルドレッドの右腕を抱えこんだ。
 洋一はどうしていいかわからなかった。奥村の背中から黒剣が突き出て、血をしとどに垂らしている。
「貴様、離せ!」とモルドレッドが言った。
「洋一、こいつを刺せ、刺すんだ!」
 洋一は我に返ると手首を押さえて、エクスカリバーを引きずりだす、奥村の左へとまわった。右側からだと、モルドレッドの腕と剣がじゃまでうまく刺せないと思ったからだ。洋一は奥村の脇をすり抜けると柄を持ち上げ、倒れこむように剣を突きだした。モルドレッドにとっても咄嗟のことだった。左腕で聖剣をふせごうとするが、エクスカリバーは刀身をしならせ、モルドレッドの上腹部に突き立った。アーサー王は本当は心臓に突き立てたかったのだが、洋一の背が低く、下から突き上げる格好になったのだ。
 洋一は驚いた。エクスカリバーが突き立った箇所からは、赤子たちの魂が次々と飛び出してきたからだ。それは金色の輝きをもって洋一の体を突き抜けていった。その魂はひどく冷たい。洋一はそれにもめげずに剣を押しこむ。けれど、刺さらない。洋一の脚力が不足して、腹筋にわずかに埋まっただけだ。それでも、エクスカリバーは灼熱し、モルドレッドの身を焦がしている。彼は身を引こうとするが、奥村が腕を抑えている。聖剣の光に生き身を焼かれ、モルドレッドはうわっと呻いた。その背後ではウィンディゴも苦悶している。
「アーサー王、もっと力を貸してくれ!」
 洋一は足を突っ張りながら叫ぶ。モルドレッドは右腕では黒剣を握ったまま奥村を突きのけようとし、左腕では洋一の頭をつかんだ。
 太助がその隙をついて、モルドレッドの右手に回る。上段から刀を振り下ろし、モルドレッドの利き腕を真っ二つに切り落とした。右腕が鮮血を散らし、奥村とともに地面に突っ伏する。
「父上!」
 太助は父親を横目に刀を構える。洋一は、おじさん、とつぶやいた。奥村は黒剣を墓標のように抱えたまま動かない。洋一は上体を聖剣にかぶせる。火傷にもかまわず剣の柄頭に左手を添えた。モルドレッドは左腕で洋一の顔面を殴った。木の枝を折るような音がして鼻が砕け、歯の破片が口中に散った。洋一はボトボトと血を吐きだすようにして咽せ、それでもかまわず一歩一歩と地を掻いた。歯の欠片が飛び散る。舌も切った。右顔に拳を喰らって頬骨が折れた。洋一は信じられないほどの痛みに失神しかけるが、折れた奥歯を噛みしめまたそこで炸裂した痛覚の激しさに意識を遠のかせる。
 痛みだ、痛みのスパークだ!
 ウィンディゴがまとわりついてくる。あきらめろ小僧、そんな体ではもう無理だ。洋一お前まで死ぬつもりかと父や母の声色を真似て、洋一を説得しにかかる。けれどウィンディゴがそうしたのは失敗だった。父や母の声を聞くたびに洋一は意識をとりもどしたし、目前のモルドレッドと自分を取り巻くウィンディゴの影に憎悪を燃やして足を進めたからだ。
 ぼくはお前らを許さない。父さんと母さんの敵をとるぞ。殺せるもんなら殺してみろ!
 太助がむちゃくちゃに剣をふりまわし、モルドレッドのところかまわず斬りつける。モルドレッドは全身に傷をおって血を吹き出し、奥村少年を睨み、血まみれとなったこどもたちを呪い、エクスカリバーを押しこんでくる牧村少年の髪を掴み上げた。
 洋一は意識を遠のかせながらも思い出していた。それはこれまで出会ってきた人たちのことだった。男爵の言うとおりだ。これまでどれだけの人に育てられてきたことか。洋一はともだちのカッツンや、学校の先生や、街の駄菓子屋のおばさんも、ホームセンターの店員のお姉さんも、そして、なにより両親のことを思い出していた。その人たちのために死んじゃ駄目だと彼は思った。彼は一歩また一歩と、わずかずつ、けれど着実に足を踏み出していく。モルドレッドはそのたびに苦悶の呻きを上げ、血を吐き、かつ彼を殴りつける。洋一は急に団野のことを思いだし激昂した。殴られるのならもう慣れた。なにをしたってきかないぞ
「死ぬ覚悟ならしたってもう言っただろ! お前の方こそあきらめろ!」
「くそ餓鬼め小僧め、五百年生きつづけた俺を殺すというか!」
 彼は日本刀の刃に切り裂かれ、右の目玉を地に落とす、中途から切れた右腕からは噴水のように血が噴き出している。傷はあちこち塞がろうとするものの、太助が狂ったように刀を回して、新たな傷を作りつづける。
「こいつら、俺に逆らうか! 剣を抜け! 下がれ小僧!」
 モルドレッドは洋一の腹を打った。その後頭部に鉄槌を振り下ろした。洋一の意識はまた遠くなる。内臓がひしゃげるほどの痛み、それにも彼は良く耐えた。けれどもう限界だ。
「洋一、死ぬな洋一!」
 太助は洋一を救おうと、とっさに刀を下げた。真下から伸び上がるようにして剣を突きだし、父のお返しとばかりに、モルドレッドの喉首から脳天を貫かした。
 モルドレッドは血走った目で少年らを見た。その喉からは声は立たず、ゴボゴボという血泡の音がした。洋一はほとんど意識をなくしながら、モルドレッドの体から赤子たちが抜け出してくるのを感じた。洋一はさらに一歩足を踏み出してエクスカリバーをモルドレッドの体に突き立てた。
「がんばれ、洋一、体を立てろ」とアーサー王は言った。
「無駄な抵抗をするな! 死に絶えろ、小僧!」とウィンディゴは言った。
 洋一はウィンディゴが彼の精神を捕まえにかかるのを感じた。洋一の意識が薄らいでいるのを利用して体を乗っ取ろうというのだ。させるもんか、と洋一は思った。ぼくは本の世界を守ってきた一族だ、父さんに代わってぼくが本の世界を守るんだ――
「エクスカリバー、こいつをこの世界から追い出してくれ。こいつと本の絆を断ち切るんだ」
 と彼は言った。エクスカリバーはさらに輝きを増した。アーサー王が死者の世界からさらに力を送りこんでくる。洋一がまた一歩踏みだす、モルドレッドに近づき右腕が屈曲する。アーサー王はその隙間を利用した。聖剣をねじり、モルドレッドの心臓目がけて突き入れていく。
 聖剣が食いこむたびにモルドレッドの傷口からは赤子たちの魂が抜け出ていく。モルドレッドは首を仰向け、天を仰ぎだした。もう全身の穴という穴から血が流れている。聖剣の輝きが聖杯の力を押しのけ心臓を焼いた。復活しない。細胞たちはそのまま死につづけた。復活しない――聖剣の傷口は塞がらなかった。モルドレッドが身を起こそうとするままに洋一の体に被さったときには、古代より生きつづけ、無用の死を生み出しつづけた男はついにその命脈を途絶えさせていた。そして、ウィンディゴの断末魔が――
「牧村! 忘れるな! わしがこの世界を去ってもお主との勝負が終わったわけではないということを!」
 洋一はモルドレッドの重みを支えられない。暗黒の王とともに倒れた。ウィンディゴの絶叫が聞こえた気がした。太助の声も。洋一は確かに微笑んだ。
 牧村、だって。あいつようやくぼくのことを認めたな……。
 そして、視界は暗くなり、意識は遠のいていく。

○     5

 牧村洋一は夢の中にいた。けれど、そこはウィンディゴのもたらす闇ではなく、輝くような純白の世界だった。洋一はアーサー王の声をきいて目を開けた。
 そこはシャーウッドの森だった。モーティアナに破壊される前の森の姿だ。雨が降った後なのか、森はしとどに濡れていた。ひどく幻想的な風景だった。アーサー王は彼のすぐ側に立っていた。疲れたな、ひどく疲れたと洋一は思った。夢の中なのに、もう指一本すら動かせない。苦痛のない世界ではあったが、彼にはいささか居心地が悪かった。
「よくやったぞ洋一」
「アーサー王、モルドレッドは死んだの……?」
「ああ、我が息子は死に絶えた」
「ウィンディゴは?」
「やつもこの世界を去ったようだ」
 洋一は微笑んだ。
「ぼくらやったんだね……」
「ああ、やったとも」アーサー王はしゃがみこみ、涙に濡れた洋一の頬を拭った。「だが、お主の人生は、俺とちがって、まだまだ苦難に満ちているようだな」
「アーサー王だって、アヴァロンの暮らしを捨てて来てくれたじゃないか」
 アーサーは、ニヤリと子供っぽい笑みを見せた。
「人は退屈よりも困難を求めるものさ。お主もまたそうなのかもしれん。そして忘れるな。自分が困難に真向かい、乗り越えることの出来た人間だと」
 アーサー王は立ち去った。首を向けた洋一が見たのは、アーサー王を迎えにきた、円卓の騎士たちの姿だった。トリスタンがランスロットが、彼に向かって手を振った。洋一は微笑んだ。
 洋一は、アーサー王の言葉になにか応えようとした。けれど、彼の意識は、酩酊状態のようにぐるぐると回りはじめ、それで昏倒したときとは逆に、夢から覚めていったのだった。洋一は、いますぐに目を覚まさなければならないと知っていた。深い意識の底にいながら、大事な友人が悲しみの底にいて、ひどく困っていることを知っていたからだ。

○     6

 洋一が目を覚ましたとき、頭上を真っ黒な人魂が、いくつも飛び交うのが見えた。視界は眩んで、吐き気もした。実際に、横をむいて胃液と血を吐きだしたが、おかげで、目はふだんどおり見えるようになった。明星の大空を舞うのは、モルドレッドの残した五百の魂たちだった。まるで、猛烈に回転するドーナツみたいだ。
 モルドレッドは死に、ウィンディゴの魂も去った。赤子たちは、行き場をなくして泣き叫んでいる。この世を、悲嘆と、憎悪の絶叫が満たしている。赤子たちは、生存者を憎むように、その身めがけて突進する。ロンドンでようやく生き残った人たちも、魂が身を通りぬけるたびに、内臓を毒す悪寒を感じ、生命力を吸いとられていった。それは、父親の手を握り、悲嘆にくれる、奥村少年もおなじだった。彼は、赤子の魂が身を貫くたびに、身をのけぞらせている。その体には、死の亀裂がいくつもあらわれている。
 洋一は、自分には、赤子の霊が影響しないと感じていた。赤子たちが彼の体を通り抜けても、呪いが彼には生じなかったからだ。結局は、アーサー王の言うとおりらしかった。なにが原因なのかは、わからない。けれど、彼は霊という霊に強いようだ。
 洋一は、ヒビの入った肋に顔をしかめ、二倍にふくれて、血の流れる顔面に苦しみながら、地面に腕をついて身を起こした。口の中で、舌が膨らんでいる、なんども嘔吐いた。赤子の悲鳴に、街中が満たされる中、太助! と友人の名を呼んだ。太助が涙にくれた顔を上げた。その顔は死の呪いに半分方覆われている。
「洋一、父上が……」
「太助、大丈夫なんだ……」と呂律の回らぬ舌でいう。「エクスカリバーだ、エクスカリバーの鞘だよ! あの鞘には傷をいやす力があったじゃないか……!」
 それは、アーサー王の最後の贈り物めいていた。太助はわかっていると答えた。その顔は希望に満ちていたが、魂がまた身をつき抜けて、父親の体に突っ伏する。奥村の体からは、まだ黒剣が立っている。出血を恐れて、剣が抜けないのだ。洋一は、自分が鞘を取りに行くしかないと感じた。アジームたちも、赤子にやられて、立つことができないでいたからだ。
 洋一は、ちびのジョンが、鞘を拾ったかも知れないと考えた。必ずそうしたはずだ。鞘がなければ、いまごろロビンは死んでいる。モルドレッドの死とともに、死兵からは悪霊が抜けて、元の死体にもどっている。洋一は、ロビンのそんな姿など見たくなかった。死人ならもうたくさんだ。
 洋一は、くじいた足を引きずり、鼻血にフガフガと息をし、まるでノッティンガムで見たゾンビのように、ヨタヨタとロビンの元を目指した。生き残った騎士たちも、みんな死の呪いにやられて、死にかかっている。赤子らの力は、どんどん強くなってきている。このままでは、みんな無駄死にだ。
「ジョン!」
 と、洋一は呼んだ。ちびのジョンは、ロビンの側でうつぶせに倒れている。洋一の声に気づいて、顔を上げた。洋一は、フラフラとジョンの元に行き、顔のそばに膝をついた。
「ジョン……」
 しかし、屈強のヨーマンも、死の呪いには勝てない。亀裂に、唾を垂らして苦しんでいる。
「ジョン、しっかりしてよ。こいつらをどうにかしないと……」
「洋一……」
 と、ジョンは、洋一の腕に手を伸ばす。死の呪いに覆われた腕は、すごく冷たい。亀裂から噴きだす、黒い気体も。ジョンは急速に死につつある。洋一の身内は、ゾオッと冷えた。
「確かに、このままじゃみんなくたばっちまう。でも、こいつらが悪いだなんて、俺には思えねえ。こいつらを救ってやりてえんだ。こいつらは、赤子のうちに殺されたんだぞ。このまんまじゃ、かええそうだ。かわいそうだと、俺は思うんだよ……」
「でも、どうすりゃいいのさ!」と、洋一は、癇癪を起こした。「こいつらをみんな鎮めるなんて、ぼくには出来ないよ!」
 洋一は胸を抱える。自分は本になにかを書きこむべきなんだろうか? でも、Goサインは出ていなかった。それに、彼にはなにか引っかかることがあったのだ。
 それはロビン・フッドだ。ジョンの脇で気絶しているロビンには、死の呪いがまったく発生していない。
「ロビン!」
 洋一はロビンの肩を揺すった。ロビンのベルトには、金色の鞘がさしてある。ジョンが拾って、ロビンの腰に戻しておいたのだ。ロビンの胸元は、真っ赤に染まっているが、衣類の下の傷は、すっかり塞がっている。
「傷が治ってる」
 洋一は、鞘を抜きとってみた。無限の治癒の力が働いたのは、その瞬間だった。彼は、驚いて両手を見おろし、顔に触れた。骨の砕けた激痛も、肉の裂けた激痛も、内臓の死滅した激痛も、みんなまとめて引いていった。まぎれもなく、鞘の力だった。モルドレッドが、エクスカリバーを持つアーサー王を殺せなかったのも、うなずける。鞘の力は、洋一の細胞を活性化させ、だけでなく、死んだ細胞も蘇らせていた。呼吸とともに、復活の力が出入りしている。それは、身内の六十兆個の細胞に、すみやかに行き渡る。内臓や首の痛みが退くと、彼は胴体を真っ直ぐに伸ばせるようになった。生まれたてのように快調だ。それで、気がついた。ロビンも、アーサー王の力を受けていたのだ。彼は、王権を委譲されている。それは今もだ。赤子たちの呪いにかからないのも、それならば説明がつく。自分の元からは、アーサー王は去ってしまったけど、ロビンなら――
「ロビン、起きて! 起きろ、こいつ!」
 と、洋一は、ロビンの肩を揺すった。ロビン、ロビン、と名を呼んだ。ロビンはおとなしく揺られるばかり。眼を開けない。洋一は、最初は慎重に、やがては力任せに揺すりだした。
「ロビン、目え覚ませ! こいつらを死者の世界に送るんだ! そうだよ、ジョンのいうとおりだ! みんな行き場をなくしてるんなら、導けばいいじゃないか!」
 ああ
 と、ロビンが、痴呆のように、力のない声を発した。洋一はロビンの顔をつかんだ。顔をうんと近づけて、瞳を覗いた。目玉の奥のその奥に、アーサー王がいる気がした。
「アーサー王、力を貸して。こどもたちを導きたいんだ。元々は、あなたが命じて殺したんじゃないか! 責任をとるべきだよ!」
「あいつが閉じこめていた魂か」と、ロビンの瞳が動き、天を見て言った。二人はともに驚いた。ロビンの右腕が勝手に動き、側に落ちていた、トリスタンの弓を、拾い上げたからだ。
「弓を使えばいいの?」
 と、洋一は、アーサー王に訊いた。
「弓で導けとでもいうのか」ロビンも戸惑っている。彼は、洋一と目を合わせて、「だが、死者の島など、どこにある。どの方角だ」
 そのとき、無数の魂が、ロビンと洋一の体をすりぬけて、二人は、わっと喚いて、突っ伏した。
「くそ、こんなもの喰らいつづけていたら、身がもたんぞ」
 実際、ちびのジョンは、すでに意識をなくしている。洋一は、
「ロビン、死者の島は、この世界にはないんだ。あのときは本、が導いてくれた。きっと、方角なんて、関係ないんだよ」
 ロビンは途方にくれて天を仰いだが、顔を戻したときには、何事か決心したようだった。わかった、と彼は言った。
「アーサー王を信じよう。彼はこの子らのことで、確かに心を痛めていた。俺には分かるんだ。洋一も、そう思うだろ?」
 洋一は、力強くうなずいた。一時は、あの人と一体となったのだから、当然だ。アーサー王の気持ちなら、嫌というほど知っている。モルドレッドに抱いた、憎しみと愛情のことも。贖罪の意思も。
「アーサー王!」と、ロビンは身内に語りかける。「俺に、もう一度力を貸してくれ。今こそ借りを返すときだ。赤子たちを、導いてくれ!」
 ロビンは、トリスタンの弓を支えに立ち上がる。天を舞う、狂った魂どもに呼ばわった。
「赤子らよ! 昔日に死に絶えし、不幸の子らよ! 話を聞いてくれ! 俺は、これより、この弓で天を射る! 汝らの苦しみも、不幸な旅も、もう終わりだ! さまよえる子らよ! 戒めはとかれたと、信じよ! 恨み言があるならば、あの世でアーサー王にいうがいい! だが、ここは、お主らの居場所ではない!」
 赤子たちは、発狂したように飛び狂い、ロビンと洋一の邪魔をした。死の呪いは、黒雲となり、地上の嵐となり、二人をのみこんだ。洋一は、ロビンの右足にしがみついた。ロビンは、ただ無心で足を開いた。これまでの過去、何万回とそうしてきたように、両腕を、四方に開く。この地上で、最も美しく弓を射る男は、今一度強く、弦を引いた。
 ロビンが、天に向かって矢を射ると、その矢は黒雲を消し飛ばし、一条の光となって、どこまでも高く上っていった。弓矢の残した軌跡は、光の帯となり、周囲の死の空気を取りこんで、どんどん太くなっていく。ロビンは、つづけざまに矢を打った。矢は、光の尾を引きながら、天をつん裂き、雲へと吸いこまれていく。天が、割れた。矢は消えたが、金色のカーテンを残していく。
 その漏斗状の光は、死の呪いを吸いこみ、地上には、激しい風が起こった。洋一は、身を屈して、伝説の書をかばい、どうにか天を仰いでいた。ロビンの真下からだと、それは、光で出来た道路に見える。ロンドン中を飛び交っていた魂が、一つまた一つと、ロードの中へ吸いこまれていく。その間もロビンは必死で弓を射つづけている。赤子らにはロビンを憎み、いまだ攻撃する者たちがいた。だが、その者たちも、ロビンの魂に触れ、その奥にいるアーサーの心情を知り、次第に数を減らしていった。ロビンは、何百回と矢を撃つつもりだった。トリスタンの矢は、その期待に応えて、次々とロビンの手の内に現れたが、彼ももう限界だった。ロビンは、ぜいぜいと荒い息をつき、さも重そうに弓を下ろした。彼が、光道を仰ぐと、その光は、なにかを感謝するように、ロビンの顔を撫でた。ロビンは、疲れ切った顔で、うっすらと笑った。そのまま、仰向けに、ばったりと倒れてしまった。洋一は、ロビンの側に這い寄った。呪いの雲は、消えている。
「さあ、洋一。奥村を助けに行ってこい。赤子らは、もう大丈夫だ」
「うん」
 と、洋一は返事をしながら、天を見た。光の道は、最後の赤子を取りこむと、その端から氷が溶けるような自然さで、闇の中へと還っていく。


 洋一は走った。彼が走るたびに、太陽からは月が除かれ、地上をさす光糸は増えていく。洋一は、日溜まりの中を、飛ぶように走った。地上に次々生まれる影を追い抜くようにして、彼は走った。奥村の元では、死の呪いの解けた奥村太助が、いまだ父に取りついて、洋一早く、と、叫んでいる。
 二人は、もどかしげに、奥村の帯をひっぱると、大刀と脇差しの隙間に、エクスカリバーをねじこんだ。
「利くのか……」
 と、太助は、不安げにつぶやいた。でも、あれほどボロボロだった洋一が、走れるほどに回復している。彼は、意を決して立ち上がると、黒剣に手をかけ呼吸を整えた。洋一は、奥村の体が揺れないよう、肩を押さえた。
「いくぞ」
「うん」
 太助は呻きを上げながら、父親を戒める呪いの剣を、慎重に引いた。締まった肉が抵抗し、太助は傷口を広げないよう、注意深く剣を抜き取っていく。
 洋一は、黒剣の抜ける側から、奥村の傷口が塞がっていくのを見た。黒剣には、血の一滴すら、ついていない。
「いいぞ、太助! 治ってる、治ってるよ!」
 太助は、黒剣を引き抜くと、急いで跪いた。「父上!」
 おじさん、と、洋一も言った。「おじさん、死んじゃだめだ。ここまで頑張ったんじゃないか! みんなで、そろって帰るんだろ!」
 傷つき、あるいは勝利に浮かれる騎士たちも、子供たちの様子に気づいてやってきた。アジームも、アラン・ア・デイルも、ウィル・ガムウェルらも。ロビンに、ジョンも。タックに、ミドルもやってきた。子供たちの周囲には、人だかりが出来ていた。みな、子供たちの父親が、蘇るのを、祈っている。
 太助は、自分が死にかかったとき、父親がどんな思いをしていたかを知り、申し訳なく泣けてきた。父に、その罪を謝りたかった。洋一のおかげで、親より先に死ぬ愚は、犯さずにすんだ。けれど、父がこの世からいなくなるには、彼にはまだ早過ぎる。教わることも、見てほしいことも、まだまだあった。なによりも、彼は、父の声が聞きたかったのだ。
 奥村が、一声呻いて目を開けると、もうだめだった。太助は、父の胸に突っ伏し、大声を上げて泣きはじめた。
 ちびのジョンが、ほっと胸をなで下ろしている洋一の胸をつかんで、手荒に、宙高く放り上げた。ジョンは、落ちてきた少年を、力任せに抱きしめると、グルグルと回りはじめた。初めは、痛いやめてと、言っていた洋一も、そのうちに、大声を上げて、笑いはじめた。
 それは、呪われた都に響く、実に久方ぶりの笑い声だったのである。

◆ そして、エンドマークの鐘は鳴る

 ロビンとちびのジョンが、臨時政府のある、ノーフォークに戻り、ヘンリー王太子にすべてを報告したのは、それから少し、後の話だった。城では、宴が催されたけれど、ロビンとちびのジョンは、すぐにそこを抜け出して、堅苦しい衣服も脱ぎ捨て、昔のように乞食よろしく、自由気ままな格好をして、近くの森で待つ、仲間の元へともどっていった。そこでは、仲間たちが、昔日のシャーウッドがそうであったように、森で鹿をうち、思い思いの腕を振るっては料理をこしらえ、ビールに、ワインの飲み物に、王侯貴族の食卓にも負けない、とびきりのごちそうを持ちよって、酒宴を開いていたからだ。ロビンとジョンは、すぐにその輪に飛びこんで、苦しいことも、痛かったことも、辛かったことも、悲しかったことも、みんな忘れてしまったのだった。
 男も女も老若も、すべて等しく朗らかに、笑声を上げ、人生を称え、この一時を楽しんでいる。こうでなきゃならねえ、と、ちびのジョンは、腹の底からそう思う。そう思って、盛大な笑い声を上げる。ロビンと、俺のまわりは、こうでなくちゃ。こうでなくちゃ、なんでみんなが集まるもんか。人間は、楽しいことしかしたくねえのだから。ちびのジョンは、喜びと、嬉し涙をかみしめる、気持ちに一区切りがつくと、大きな足音を鳴らして、踊りの輪に加わる。
 その宴の最中、ずっと走り回っていたのは、二人の少年たちだった。男爵も元気になった。すべてが元通りだった。もう、ウィンディゴの心配もない。
 洋一と太助は、初めて出くわす盛大な酒宴に、驚き喜び、夢中で走り回っていた。その騒ぎにも、いつか疲れて、いつの間にか樫の根元に二人、思い思いの食料を掻いこみ座りこんでいた。洋一は、大きな葡萄をつまんでは口に運び、太助は幹にもたれて、ワインをちびちび。生まれて初めての、ほろ酔い気分でいる。騒いでいる騎士たちの姿が見える。ギルバートら堅苦しい人たちも、この騒ぎに参加していた。ああ、ロビンやジョンも見えた。みんな、本当に楽しそうだ。この世界に来て、いろいろと苦労もあったけど、最後はこんな風で良かったと、彼らは思う。ハッピーエンドにも、いろいろあるけれど、ロビン・フッドの物語の最後が、こんな具合で、彼らは満足した。悲しみも、冒険も、もう十分だし、それもみんな、帳消しになった気がした。
 そして、二人は、いつしか仲の良い本当の兄弟のようにして眠りこんでいたのだけれど、その夢から覚めたのは、奥村と男爵が緊迫した顔で、側に来ていたからだ。二人とも、慌てた様子で、少年たちの肩を揺り動かし、目を覚まさせようとしている。
「お前たち、急げ」
 と、すっかり元気になった男爵が言った。彼は宴のせいか、また十歳ばかり若返ったようだった。
「エンドマークの音じゃ。もう物語は終わってしまう!」
「エンドマーク?」
 と、洋一が訊いた。二人は、耳を澄まして聴いた。太助がこう言った。
「本当だ。鐘の音がする」
「物語が終わりに近づいておるんじゃ。我らは、もう去らねばならん」
 ミュンヒハウゼンの言葉に、二人はいっぺんで目が覚めた。よく見ると、周囲の景色は、薄れて白っぽくなっている。洋一は、自分の目が、白内障にかかったのかと思ったが、男爵と奥村の姿はよく見えた。
「もう行くの? みんなとは、これでお別れ?」
 と、彼は訊いた。男爵は、厳かにうなずいた。洋一は、エンドマークの音に耳を澄ました。その音は、鐘の音のようでもあり、太鼓のざわめき、オーケストラの潮騒のようでもある。ざわざわと、心をくすぐる素敵な音だ。それは、物語が素敵な終わりをしようとしているからだと、洋一は思った。
 男爵は、真剣な顔で、洋一の顔をのぞきこんだ。
「みなに別れを告げる暇はないぞ」
 洋一は、名残惜しさを一瞬顔に見せたけれど、次の瞬間には、さっぱりとした顔をした。
「いいんだ。みんなとは、たくさん話をしたから」
 太助も、森を振りかえった。
「本当に良くしてもらった。素晴らしい本だった」
 二人の少年は、いつのまにか手を取り合っている。そして、寝静まる仲間たちの光景、この世界で見る最後の景色を、視界に納める。洋一は言った。
「これでいいんだ。だって、全部丸く収まった。別れの挨拶なんてしたら、ハッピーエンドも台無しだよ」
「いいのか」と、男爵は訊いた。洋一は、森を見たまま答えた。
「うん。最後は、笑顔でおしまいにしたいんだ。昔読んだロビンの最後は、悲しかったから。今度の本は、これでおしまいにしたい」
「洋一がいいんなら、ぼくも文句はないよ」
 と、太助が言った。
「えらいぞ、二人とも」
 と、奥村。
 四人が同時にふりむくと、そこに物語の世界はなく、外へとつづく真っ白な道が延びていた。洋一は、その道を歩きはじめた。その道は、色のない割りに固い感触で、高い靴の音がした。
 やがて、四人の歩く道はなくなり、彼らは真っ白な世界を、ふわふわと飛び歩くようになった。
 エンドマークの楽曲は、高らかに鳴りつづけた。

 ロビンの物語は、こうして幕を閉じた。けれど、牧村洋一と仲間たちの冒険は、まだまだつづく。けれど、それはまた別のお話。別の機会に物語るとしよう。何事にも幕引きはあるし、そうでなくては、次の話は始められない。物語はまだ、たくさんあるし、それに、物語を紡ぐ口も、まだまだたくさん、残っている。
 ともあれ、この物語が、これで最後でないのは喜ばしい。洋一少年は子供だし、子供は駆け回るのが大好きだ。物語を駆け回る少年の姿は、いつだって魅惑的だから。
 語ったことは多いけれど、語り残したことも、また多い。
 それでは、物語の幕がまた開く、その日まで。
 ご覧になる方が、たくさんあると、いいのだけれど。

◆    お し ま い


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