リメンバー・ミー!

メキシコの人にとってのファミリアは、死者をも含む。祭壇に飾られないことがいかに孤独であるか。
道徳は後から来る問題。つまり、家族を、ファミリアを捨てて大成功したら「大切なファミリアを捨ててまで芸術に身を捧げた」と評される一方で、成功しなかったら「大切なファミリアを捨てたクソ野郎」で終わりだ。道徳は常に後からやってくる。

主人公のミゲルのひいひいお爺ちゃんは、いわゆるファミリアを捨てたクソ野郎だった。何者にもなれなかったし、したがって祭壇に飾られることもなかった。ミゲルのファミリアは音楽を嫌悪し、ミゲルのミュージシャンになりたい夢も抑圧する。ファミリアを守るために。

『ボへミアン・ラプソディー』と構造は似ているけれど、『ボヘミアン〜』の方は「フレディ」になろうとした、今の自分ではない何者かになろうとした若者の冒険だ。だから物怖じしない。賞賛と栄光はいつも自分の外部にあり、フレディはそれを掴みに行くだけだ。

一方で、ミゲルは初めからミュージシャンだった。戸惑う、躊躇う。自分の中の声を探す旅。家族は、自らを守り慈しんでくれたファミリアは、音楽を嫌悪し音楽を奏でようとするミゲルを悲しんだ。本当に自分はミュージシャンなのか?確信と疑心で揺れる。

「チャンスを掴め!」

メキシコの伝説的ミュージシャン、デラクルス。
彼もまたファミリアを捨て、何万人ものために歌を歌い、駆け抜けていくなかで事故で死んだ。死んだが、彼の歌は遺り、人々によって祭壇に祀られた。

そんなデラクルスのギターを手にしたミゲルは、死者の国へと迷い込むことになる。奇しくも折りしも、死者が生者と踊り明かす死者の祭が始まっている。

映画のタイトルにも入ってるリメンバーがここできいてくる。死者たちは、生者から忘れられた時、2回目の死を迎える。ミゲルは陽気なガイコツ、ヘクターと出会い、死者の国で冒険を続ける。

ヘクターは歌めっちゃ上手いんだけれども、彼が消えていく友人に捧げた歌の歌詞は、ミゲルが子どもである手前、一部改変されている。ひょっとしてこの辺は後の真相につながる伏線だったかもしれない。歌われなかった言葉。

メキシコの有名人といえば、フリーダ・カーロ。拡大していく強烈な「わたし!」。芸術家が描く自画像はこう在りたいという理想でもあり、もはや現実はこうなってしまったという諦念でもあり、また自己が冷徹に見つめた自己でもある。フリーダは情熱をもって自己を表現した。

では、デラクルスは?
彼は装い、ごまかした。自己表現ではなく、みんなのため、のような歌を歌った。そうしてチャンスを掴んだ。でもその言葉の前には(何を犠牲にしても)が抜けていた。隠されていた。

他者からの評価によって自己を規定してきたデラクルスは、そっぽをむかれた観客たちに対し、逆ギレすることができない。お前たちのためにやったんだぞ!といった信仰は彼にはなく、ただただ顕示的消費を続けて自分を覚えていて欲しかっただけだろう。

良い映画にはだいたい、伏線があり逆転がある。
デラクルスの言葉が本当は悪い意味だったのとは逆に、ミゲルのひいひいお婆ちゃんは亡くなる前に父のことを思い出す。本当は、父は、ママ・ココのことを愛していたし、彼女のためだけに曲を描いていた。ママ・ココは、残された大切なファミリアが哀しむといけないと、音楽に対して沈黙していたのかもしれない。死者の祭でのミゲルの冒険は、ファミリアのためにあった。

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