ナンセンスを笑うセンス

お笑いのベーシックなものは、常識や日常からの逸脱と帰還だ。ボケ役が勇気を持って常識から逸脱する。ツッコミが愛をもって日常に帰す。この落差に人は笑うのであって、逸脱がすぎるとついていけないし、帰還があまりに常識にすぎるとしらける。

ノンスタイルなどは、石田のボケ方が多少過剰であり、井上は常識的なツッコミに終始するのだけれども、井上がイケメンっぽい雰囲気をかもすブサメン的キャラをとることにより、石田にもツッコミの余地を残し、常識的すぎてシラケるような事態を回避している。

YouTubeやTikTok時代においては、情報は過剰だ。秒単位でかましていかないと人は飽きる。ここに対応したのが霜降り明星。せいやの高速連射されるボケに、粗品が観客の側を向いてツッコミを入れていく。従来のツッコミ役は、たとえばサンドウィッチマンなどは、ボケ役と観客側とで半身を向け、あくまでボケ役を日常に戻そうとするスタイルだが、粗品のそれは動画の解説役だ。一見すると不明なせいやのゼスチャーを、ワンフレーズで解説することによってぴたりとはまる。ヘウレーカ!

飽きやすい人の感性に、クイズ形式は有効だ。実践したのはミルクボーイだった。人は謎があると気になる。おかんの探し物は何だ?という決定的な謎を残し自分たちのペースに巻き込んだうえで、常識と逸脱の落差を楽しませる。ほな違うやないかい!

さて、本題。錦鯉とは何なのか?

ナンセンスな笑いはずっと一定数いたし、たとえば現役でもゆりやんれとりぃばぁ、などはそうだと思う。始めから逸脱している、というか別世界にいる。なんか知らんけど世界の深淵をみている気がする。

もともと、笑いは権威に対するアンチでもあった。俺は神の使いだぜ天命を受けてるぜ何から高貴な血が流れてておまいらとは成り立ちが違うぜ、って感じで権威側が有意味化したパワーを、無効化する。ナンセンスに意味はない。意味がないこと、くだらないことそのものが、面白い。権威が作った意味のある世界とは違う世界を、肯定すること。

ついつい、意味を探してしまう。
けれども、夢幻能におけるような舞は、意味がない。舞という表現に意味を持たせないことにより、現世ではないものを表現しようとしている。落語にだって意味がないものがたくさんある。

そんな系譜なのか?錦鯉。

ナンセンスを笑うセンスを身につけるのは難しい。ことに、意味があふれる現代社会においては。やれ伏線回収だ別の作品へのリスペクトだこれはあれの象徴だ、と喧しい時勢にあっては。

ナンセンスと、本当にダメなくだらないもの、の境界は、どこにあるのか。或いはないのか?小学生くらいの頃は、本当にくだらないことで笑っていた気がする。いつからだ?くだらないことで笑わなくなったのは。

いつからだ?

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