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清水慎一自叙伝【2】〜菓子屋になりたくなかった本当の理由〜

前回は、僕がいかに不器用で面倒くさがりかの話をしましたが、それが菓子屋になりたくなかった本当の理由ではありませんでした。

物心ついたときから、我が家は菓子屋でしたが、今でこそ笑話にできますが、当時の我が家はお世辞にもキレイなお菓子屋さんとは言えないもので、小さな間口一つの古い建物で、通りすがりの人には『お菓子屋さん』だとは認知されないような店でした。
子どもながらに、胸を張って「ウチはお菓子屋さんなんだ!」とは決して言えないような佇まいでした。

近所の友人たちは、ウチがお菓子屋さんであることは知っていましたが、他のクラスメイトに僕はあえて言ったことがありませんでした。というか、親には大変失礼ですが、恥ずかしくて言えなかったんです…。

それでも、僕の両親は朝早くから夜遅くまで、いつ寝ているのかわからないくらい働いていました。工場とお店と住居が同じ一階にあるんですが、両親の休んでいる姿を見たことがありませんでした。

夏休みも冬休みもウチはどこにも出掛けられず、外食すらした記憶がほとんどありません。

でも、父が地元の会合に行ったときにいつもお土産を持って帰ってきてくれて、パックに入ったピザや寿司が、ものすごく豪華な食べ物に見えて嬉しかったのを覚えています。

クリスマスも、いつもウチには26日にサンタクロースが来ていました。だから、学校の友達とは25日の朝にサンタさんの話ができませんでした。「なんでウチだけサンタクロースは遅れてくるのか…」当時は特に不思議に思ったこともありませんでしたが、今になってみればクリスマスイブの夜に子どもにプレゼントを用意できる余裕などなかったことも理解できます。(ちなみに、今我が家はちゃんと24日の夜にサンタさんは来てくれています^ ^)

しかも、僕に来るサンタクロースのプレゼントは毎年、紙製の赤い長靴にお菓子が入って網掛けされている、あれでした。

一応、新聞チラシの広告を見て⭕️を付けて、サンタさんにお願いしといてね!って母には毎年言っていたのですが、希望のプレゼントが来たことはありませんでした。

普段も、ウチはゲームというものがなく、欲しがっても買ってもらえずにいつも友人のゲームを借りてやるのが常でした。当時ゲームウォッチが流行ったのですが、ようやく買ってもらえたのは、何年も前に流行った「型落ち」のゲーム。それでも嬉しかったなぁ^ ^

服も、学校のみんなは「ミズノのスーパースター」とか「プーマ」とか、カッコいいジャージを着ている人が多かったんですが、ウチはいつも上下ともに3本線の入ったいわゆる『ジャージ』。(3本線といってもアディダスなんかでは決してありません笑)

ようやく「スーパースター」を買ってもらえたのは小6の修学旅行の直前。しかも数年前の
「型落ち」の緑色。でも、嬉しかったなぁ^ ^

ウチの両親は寝食を惜しんで働いていましたが、なぜか我が家は裕福ではありませんでした。それが不思議でならなかった。『こんなに一生懸命働いてるのに、なんでだろう?』子どもながらにそう思って、『きっとお菓子屋さんはお金を儲けられない仕事なんだ』と勝手に思っていました。それが一番菓子屋になりたくなかった理由…ではなかったんです!他にあるんです!

父から「お前は大きくなったら菓子屋になるんだぞ」といつも言われることが嫌で嫌でたまりませんでした。

学校の先生からも、クラスメイトたちからもそう言われていました。「お前は将来はお菓子屋さんだな」って。それが本当に嫌だった。

小学校の卒業文集に、【将来の夢】を書きますよね。僕は、『プロ野球選手』って書きたくてそう書こうと思っていたら、担任の先生に「お前はプロ野球選手じゃなくて菓子屋だろ」、クラスメイトには「プロ野球選手?無理無理!お前は菓子屋だろ!」

自分では何も望んでもないのに、周りがそうやって決めつけていることがたまらなく嫌で腹立たしかった。だから、余計に反発していたのかもしれません。

本当になりたいものにはなれないけど、「菓子屋」くらいならお前でもなれるだろ…そんな風に思われることも嫌だったけど、「菓子屋」という仕事がそんな風に下に見られていることがめちゃくちゃ悔しかったんです。
(この思いが今もずっとあって、『菓子屋が世界を変える!』とか本気で言っている節もあります。このことについても後々。)

親から言われるのはまだ我慢できても、それ以外の人から言われるのは本当に嫌だった。

だから、僕が親になっても、自分の子どもたちに「菓子屋になれ」とは言わないし言ったこともないし、なって欲しいとも全く思わないです。

でも、今周りの人たちは深い意味もなく、ウチの息子たちに「大きくなったらお菓子屋さんになるの?パティシエカッコいいね!」とか気軽に言う人ばかりだけど、本当はあれ、やめてあげて欲しい。自分と同じように自分の可能性を、関係ない大人たちに制限されてしまったように感じるから。

それはウチの子だから、とかそんなんじゃなくてすべての子どもたちに対して、そういうのは良くないって思います。

子どもの夢って、大人が思う以上に繊細で、大人が思う以上に子どもたちはその一言一言に左右されて影響されちゃうんです。それを自分が子どもの頃に体験しているから、だから、今大人になった自分は軽々しく子どもたちの夢を決めてかかるようなことはしないし、むしろ子どもたちには色んな夢の可能性を知って欲しいからこそ、【夢ケーキ】の活動を全国でしてるんです。(夢ケーキについては、また後日じっくり書きます)

そんな訳で、そんなことが嫌だったから、僕は「菓子屋にはならない」と決めて大学にまで進学しました。でも、心の中では、両親の気持ちもちゃんとわかってたし、「いつかはなるんだろうな」とは思っていました。けど、逃げれるギリギリまでは逃げてたんですね…😅

話を戻しますが、ウチは菓子屋ではありましたが、あんまり人には知られていなかったと思います。伊那市内には今も十数軒の菓子屋があります。昔は三十軒以上あったと思います。当然その中で有名なお店や人気のあるお店があって、でも両親はいつも言ってました。『いつか、ウチが一番になりたい。いつかあの店を追い抜きたい。』って。

当時子どもの僕が見ても、ウチと当時の地域一番店のその差は歴然。雲泥の差がありました。知名度も売上も、商品もすべて。でも、両親はずっとそう言っていました。『一番』の意味は子どもの僕にはわからなかったけど、なんとなくニュアンスで感じてはいました。

時は流れて今、手前味噌ではありますが、菓匠Shimizuは当時の地域一番店と言われる数店舗に大きく差を付けて存在していると自負してしています。(これは、単なる数値の評価ではなく、様々な価値を総合的に客観的にみて、勝手ながらそう思っています。あくまで自己評価です。)

それは決して僕の力ではなく、50年以上も両親が思い続けてやり続けてきた結果です。まさに、『夢は叶う』。でも、僕は所詮こんなところは『夢』でもなんでもなく単なる通過点の一つで、そのことに関しては何の達成感もないし嬉しくもないです。でも、両親が思い続けてきた「夢物語」が「現実」になったという事実は素直にめちゃくちゃ嬉しいです。すごいと思います。

まあ、そんなこんなで(話がごちゃごちゃしてきたので、無理やりまとめます^ ^)、なりたくなかった菓子屋なんです。でもなってしまって今があります。

次回は、『パティシエになった理由と経緯』をお話しようと思います。お楽しみに🎶

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