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真鶴

仕事で真鶴に行きました。
途中の食事処(観光地によくあるお土産屋さんと合体した大食堂)で嫌々食べたアジフライと、熱海のぐねぐねした道にやられ、吐き気と共に降り立ちました。そのあとすぐに、海沿いの公衆トイレで戻してしまい、情けなさで出ると目の前に入江が。
波の音が静かで、手すりから下を覗き込むと岩場に海水が所々溜まっている。そこで小さな男の子が何かを熱心にほじくったり、覗き込んだりしている。ちょっと先では釣り人がのんびり腰掛けている。バスの中の閉塞感とのギャップもありますが、海の穏やかさとゆっくりと流れる時間が染みました。
もう一つの砂浜は、頼朝が石橋山で負けたあと敗走し、安房に向かうために脱出した場所だとか。そんな切迫した空気はなく、大きな橋がかかる小さな砂浜はやはり、穏やかでした。

よく省みると、観光地としての海にしか行ってない気がします。どんなに鄙びてても、レジャーと抱き合わせというか。だから、どこにでも「観光客への媚び」が感じられた。でも真鶴は、おもてなしと地元の生活を秤にかけると後者が優勢。そこが心地よかったのかもしれない。砂浜も入江も、視界の端には切り立った崖などがあり、コンパクトに見えたのも、落ち着く要因かも。大海原だとなんか圧倒されてしまう。

帰りに寄った海老名サービスエリアは、とても興醒めでした。
行く前はここが楽しみだったのにびっくり。
なんというか、「効率よく、神奈川と静岡あたりのお土産を買いたいけど、東京の便利さも捨てたくない」というあからさまな都会の我儘が具現化していた。海老名まできて、なぜ成城石井?真鶴のあのすっと心に入ってくる海と比べて、なんだがごちゃごちゃ、じゃりじゃりした気分で、でかい椎茸だけ買ってバスに戻った。物欲はあるので、海老名サービスエリアを買い支えてはいるのだが。

綾瀬、八王子からゆっくりゆっくり東京に戻る首都高を見て、どっちが自分にとっていいんだろう、と考えた。結局軍配は東京に上がる。ごちゃごちゃしてうるさくて汚いけれど、人が作った洗練さと、利便さと刺激には変え難い。真鶴に無印も8階建ての三省堂書店もない。一度手にした利便性と刺激を、まだ私は手放せない。
でも、帰りの満員電車に乗る時、お風呂に浸かる時、布団に寝転がる今、頭のどこかで真鶴の波の音が聞こえる。マスク越しの潮風の匂いが蘇る。
たった1時間ちょっとの来訪で、こんなにも心に残る景色があるなんて知らなかった。気取らない、人が普通に暮らす景色が美しかった。

今度旅行に行くときは、こういうところまでいけるだろうか。車がないとだめかしら、なんて考えながら備忘録的なこの記事を閉じます。

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