baton=relay 非公式SS 村山とこころ #3 SSR

こんにちは。
ライトノベル作家のしめさばです。

前回の非公式SSの続きです。
お楽しみください🐟

※本投稿には「BATON=RELAY」のキャラクターが登場しますが、非公式小説であり、BATON=RELAY公式のストーリーとは直接の関係はございません。


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 私がおそるおそるボタンを押すと、大げさな演出でスマートフォンの画面が光輝いた。
「おっ、押したねぇ。サンキュー! さてさて……」
 ネコさんは子供のように目を輝かせながら画面を見つめた。
「うん、うん、お……? あ~……うん、うん……おっ!?」
 ぽち、ぽち、と作業のように画面をタッチしていたネコさんが、突然身を乗り出した。
「虹演出! きたきたきた!」
 満面の笑みを浮かべながら、画面をこちらに向けてくるネコさん。
 私は曖昧に頷いて、それを眺めた。
 虹演出、というのが何を指しているのかを明確に把握しているわけではないが、きっと良いものなのだろう。
「さあさあさあ……おっ……えっ……!? マジ!?」
 ネコさんはついに立ち上がり、しまいにはぴょんぴょんと跳ねだした。
「ぃやったーーー!! これ!! 今回のピックアップSSRだよ!! あたしが欲しかったやつ~~~~!!! でかした萌ちゃん!!! さすが!!!」
「あ、ああ……なんだかわからんが、良かったな」
「最高~~~やっぱ持ってる人に引いてもらうのが一番なんだよな!」
 ネコさんは小躍りしながらスマートフォンを見つめて、大げさに画面にキスして見せた。
「今度からは萌ちゃんに引いてもらうわ! あかり、今までご苦労!!」
「ああ、そう。お仕事が一つ減って嬉しいわ」
 デスクに座っている社長もくすくすと笑って、どうでもよさそうに手を叩いた。
 こうして気を抜いている彼女を見るのは稀なことなので、私は少し落ち着かない気持ちになった。
「ふふふ……溜めといた育成チケット全ツッパしちゃお……待ってろ~~最強にしちゃうからな……」
 ぺろりと舌を出して、ネコさんはまたソファにごろんと寝転がった。
「こら、所属生がいる前ではやめてって言ってるでしょ」
「本日はもう終業! オフの時間に突っ込んできた萌ちゃんが悪いんだよ」
「ほんとにもう……村山さん、真似しないでね」
「大丈夫です。こんなところで寝転がる度胸は私にはない」
「ふふ、言われてるわよ、寧子」
「私ってば度胸ある~」
 何を言われてもソファに寝転がり続けるネコさん。
 ぽちぽちと画面をタッチするネコさんを見て、私は素朴な疑問を漏らしてしまう。
「……その、ソーシャルゲームというのは」
「うん?」
「ゲームの中で、お金を払って、キャラクターを手に入れて……それで、どうなるんだ?」
 私が訊くと、ネコさんは目を綺麗な円形になるほど開いて、私を凝視した。
「……萌ちゃん、すんごいこと訊くね。それ、人によっては怒るヤツだからね」
「……そうなのか?」
「そうなんだよ、うん。まああたしは心広いし、萌ちゃんの言うこともなんか分かる側だから怒らないけどな!」
 ビッ! と人差し指を立てて、ネコさんは破顔した。
「そうだな、可愛いキャラとかかっこいいキャラとかが手に入ったら……嬉しい! 現実でイケメンや美少女を捕まえるより手っ取り早いしな」
「だが……手に入れると言っても、データ上でだろう」
「コラ! だからそれ人によっては怒るヤツ! あたしは怒らないけどな!!」
 その割には声が大きい。もしかすると怒らせてしまっているのだろうか。
 ネコさんは唇を尖らせて見せてから、今度はうーん、と唸った。
「こういうこと直接言ってくる人初めてだからな……どう言ったものか……」
「申し訳ない……」
「いや、大丈夫。これ、多分大事なことだしなぁ」
 ネコさんは、先ほどまでと打って変わって、どこか真面目な表情になっていた。
 彼女はうんうんと唸りながら数秒間視線をうろうろと動かして。
「そうだな……じゃあ、こういう質問はどうだろう」
 ネコさんは、寝転がったまま、私を射抜くように見つめた。
 リラックスしたポーズであるのに、何故か私は背筋が伸びるような気持ちになる。
 彼女はときどき、こういう顔をするのだ。そのたびに私は、身構えてしまう。
「データと現実の境目って、なんだろう」
「……境目?」
「そう。一般的には、デジタルな世界で、0と1の組み合わせで表現されるもののことをデータと呼ぶでしょう」
 ネコさんはそう言って、人差し指を立てる。それから、勢いよく私の方にスマートフォンの画面を見せてきた。
「でも、これを見て! はいドン! 画面いっぱいの美少女! 美麗3D!! 可愛い!!」
「あ、ああ……そうだな」
「これだけキレイに表現されるようになったデジタルを見て、私はこれを美少女だと思う! 萌ちゃんはどうだ!」
「……確かに、可愛いとは、思うが」
「でしょ~~!! じゃあ、これと、現実の美少女はどう違うんだね」
「……え?」
 ネコさんの質問に、私は言葉に詰まった。
 彼女は、まくしたてるように言葉を続ける。
「3D美少女を見て、可愛い! と思う! それと、現実で美少女を見て可愛い! と思う! どう違う?」
「それは、触れられるかどうか、現実にいるかどうかの差で……」
「でも、君は、道端でたまたますれ違った美少女に突然触れたりする?」
「それは…………しない、もちろん」
「でしょう! それじゃあさ……」
 ネコさんは、にんまりと笑って、はっきりと言った。
「それは、『美少女』という視覚的なデータを受信して、それに対して『可愛い』という反応をしているのに過ぎないんじゃないのかな?」
「……で、データ?」
「そうとも。現実世界だって、すべて、手を触れて、感触を確かめるまでは、データでしかないと言えるんじゃないの? ただただそこにあって、無秩序に発信されてるデータを、勝手に受信してるだけなんだよ」
 私は混乱した。
 彼女の言っていることは、おかしいと思う。
 けれど、それに対して、どう反論してよいのか、切り口が見つからない。
 ただただ「おかしい」という気持ちだけがあり、しかし、彼女の言うことには一本の筋が通っているように感じるのだ。
「それは……」
 返すべき言葉を持たぬまま、私が口を開くのを見て、ネコさんはけらけらと笑った。
「いい、いい。こんなのただの欺瞞なんだから」
「欺瞞?」
「ただ萌ちゃんを言いくるめただけ。それっぽいデタラメだよ」
 ネコさんはそう言って、スマホをテーブルの上に置いた。
「デジタルと現実の間には明確な壁がある。私たちはそれを越えられない。でもさ……それに触れた気になることはできるんだよな。お金払って、ガチャ回して、美少女手に入れてさぁ……育成したり、プログラムされた会話をしてみたりして。それで、その美少女の心を少しだけ、理解した気になれる。実際に人間と喋るよりもずっと簡単な手順で、美しいキャラクターとコミュニケーションを取れるんだよ。それが……楽しい」
 ネコさんはそこまで言って、ちらり、と私を見た。
「分かった?」
「……よく、分かった。失礼なことを言ってすまなかった」
「いいってば~。分かんないから訊いたんだもんね?」
 ネコさんが私に優しい視線を向けてくるので、思わず、視線を逸らしてしまう。
 大人の、こういう視線が苦手だ。
 自分の幼稚さを思い知り、経験の足らなさを恥じることになるからだ。
 ディレクターが、お茶を載せた盆を持って、私たちのところへ静かにやってくる。
 私の前、そして、ネコさんの前。最後に、少し歩いて、社長の前に茶を置いた。
 ディレクターがおずおずと、空いているソファに腰掛けた。
 ネコさんはそれを見て、ふぅ、と息をついた。
 がば、とソファから起き上がって、私を見る。
「さて、それじゃあ……聞こうかな」
 その表情は、“いつもの”彼女のものだった。
 粛々と仕事をこなしていく彼女の、冷酷で、公平な眼差し。
 それに見つめられて、私の背筋にピリリと緊張が走った。
「今回のオーディションのことなんでしょ?」
 ばつん、とネコさんが私の逃げ道を断ち切ったのが分かった。
 私が何を話しに来たのか、きっと、彼女は分かっている。
 ディレクターの方をちらりと見る。
 同じく、穏やかかつ、真剣な表情で、私を見つめていた。
「わ、私は…………」
 胸の奥に、熱がこもってくるのを感じる。
 緊張している。
 声が震えた。
「私は…………この役を……お……降りたい…………」
 私がついにそう言い切っても、ディレクターとネコさんは黙っていた。
 その続きを、待っている。
 からからに乾いた喉から、なんとか、言葉を紡ぎ出す。
「たくさん考えた。心について……考えたんだ……でも、やはり…………分からなかった。どうしても、私にはずっと心があって、あるのかどうかも分からないのに、あるとしか思えなくて……それをなくす時の気持ちなんて微塵も想像できなくて…………そんな中途半端な状態で、この役を受ける気持ちには……なれない」
 震える声で、私が言い切ると、ネコさんはしばらく無言で私を見つめたのちに、深くため息をついた。
「……そっか」
 ネコさんはそれだけ言って、横目でディレクターを見た。
「私は、萌ちゃんの意見を尊重する。これからもまだまだチャンスはあると思うし。キミはどう思う?」
 ネコさんにそう問われ、ディレクターは膝の上で手を組み、指先を小刻みに、動かす。
 ゆっくりと目を閉じて、数秒押し黙り、そして、またゆっくりと、目を開けた。

>「村山さんが、本心から、そう思っているのであれば、私は受け入れます」

 ディレクターは、絞り出すような声で、そう言った。
 その声もまた、震えている。
 私は、心臓がぶるりと震えるような気がした。
 電車のドアが開く。
 ディレクターが、後ろに立っていた。
 車掌の姿で、私を見つめていた。
「降りていいですよ。あなたが望むなら」
 車掌は、薄い微笑をたたえて、そう言うのだ。
 両肩にのしかかっていた重りが、音を立てて、地面に落ちた。
 私は、おもむろに頷いて、車掌に背を向け、一歩を踏み出す。

「はい。……本心です」

 私がそう言うと、ディレクターは長い長い吐息を漏らして、頷いた。

>「それでは、明日。先方には私から連絡をしておきます。村山さんはひとまず、ゆっくり休んでください。そして……」

 ディレクターは私の目をじっ、と見つめて、言った。

>「自分自身の心と、ゆっくり向き合う時間を、作ってあげてください」

 だから、なんなのだ。
 その、心、というのは。
 私は解放された気持ちで、胸中で独り言ちた。


 ×  ×  ×


 萌ちゃんが出ていった事務所の扉を、D君は長い間無言で見つめていた。
 お茶をず、と啜って、私は思わず口を開く。
「そんな顔するなら、止めてあげればよかったじゃん」
 私が言うと、D君はゆっくりと私の方を見て、泣きそうな顔で首を横に振る。
「なんでよ。君が止めたら、きっとあの子はやったよ。ぎりぎりの葛藤を数日間続けてたんだよ。分かるでしょ、君なら」
 彼女が事務所に駆け込んできたとき、私は、正直、やった! と思った。
 萌ちゃんが数日間、きちんと葛藤を続け、その上でまだ悩んでいることが分かったから。
 あとは、少しばかりの大人の後押しと、どうしようもなくなるまでの根回しが必要なだけだと、すぐに分かった。
 文句を言いたいのは、D君にだけじゃない。
 私がキッとあかりの方へ視線をやると、彼女も困ったように微笑むだけだった。なんだ、その笑みは。
 あんたには分かってるだろ、萌ちゃんの葛藤が。
「萌ちゃんのボイスディレクターはキミだからさ、キミに一任するようにはしてるよ。でも今回のは、あまりに放任主義すぎやしないかい」
 私がもう一度D君の方を見ると、彼はもう一度、おもむろに首を横に振った。

>「村山さんは……これからです」

 Dくんは、泣きそうな顔をしながらも、妙に力強く、そう言った。
 私は、何故か、言葉に詰まってしまう。
 私には見えていない何かが、キミには見えているのだろうか。
 Dくんはもう一度扉の方へ視線を向けて、呟くように言った。

>「私は、村山さんを信じます。背中を押すのは……彼女が自分で、着地してからです」

「着地……」
 私はオウム返しに、その言葉を口にする。
「ふ、着地……そうね」
 黙っていたあかりが、口を開いた。
「あの子は、突然、飛んじゃったのね。だから……着地ができなくて、困ってる」
 また、抽象的な話をし始めた。私は顔をしかめる。
 でも、あかりがこういう話をするときは、私よりもずっと本当のことに近づいている時だ。悔しいけど、それは分かってる。
「自分で着地して……そうして、今度はもう一度、飛び立つ方向を決めて、足に力を込めないといけない」
 あかりは自嘲的に笑って、呟く。
「なんて過酷なのかしら。でも……それが……」
 そこまで言って、押し黙ってしまうあかり。
 私はなんとも言えない気持ちになって、テーブルの上に置いたスマホをひったくった。
「あ~あ、ほんと。どうしてこう……現実というのは……こんがらがって見えるんだろうね。ね~?」
 画面に映る、美少女を見つめて、その頬を触る。
『やめてください! くすぐったいです~!』
 頬を赤らめて、美少女が身をよじった。よくできている。
「なんもかんも、シンプルに処理できるはずなのに。だって……どいつもこいつもSSRだぜ~?」
 私がそう呟くと、辛気臭い顔をしていたD君が、くすり、と肩を揺らした。


 ×  ×  ×


 すべてを終えたはずなのに、足取りは重かった。
 信じられないほどにゆっくりと、私は友が丘の坂を下っている。
 ここ最近の悩みの種から、ようやく解放されたのだ。
 これで、『心』などという曖昧で厄介なものに悩む必要もない。
 いつも通り、声優としての鍛錬を積んで、自分の手に負える、自分こそができると思える役が回ってきたときに、全力を出すことができる。
 そう、これでいい。
 これでいいはずだ。
 だというのに…………なんなのだ、これは。
 足は鉛のように重く、事務所に駆け込む前に感じていた胸の痛みは、もっとひどくなっている。
 ズキズキと心臓が痛む。
 痛んでいる気がするのではない、物理的な痛みを主張している。
 臓器のすべてが、不快感を露わにして、身体をバラバラに爆発させようとしているような気さえした。
 今すぐ叫び出したい。
 でも、何を叫びたいのか、分からない。
「……てくれ」
 誰に言うでもなく、かすれた声が漏れた。
「もう……やめてくれ……ッ!」
 私は、その場にうずくまった。
 心なんてないのかもしれない、と思った。
 その原初の疑問が、私を動けなくした。
 でも、心がないなんて嘘だ。
 こんなにも胸が痛んでいる。この叫び出したいほどの痛みは、一体なんなんだ。
 私は今まで、ずっと、自分の持っている経験と知識を武器に、声優をやってきた。
 実際に、ディレクターや、仲間と一緒に、一つの仕事を勝ち取った。
 今回の仕事には、その『武器』が役に立たないと分かった。
 だから辞退した。
 それだけのことじゃないか。
 なのに、どうして……こんなに……こんなに……。

「そうではないでしょう、萌」

 後ろから、声がした。
 私は、慌てて、振り向く。
 そこには……戸田有理が立っていた。

「違うでしょう」

 有理は穏やかな顔で、そう言った。
 そして……フッ、と、姿を消した。
 ぷつり、と、身体の中の、何かが切れたのが分かった。
「ああ…………」
 私は今、幻覚を見たのだ。
 戸田有理の、幻覚を、はっきりと、見てしまった。
「ああぁ…………ッ!」
 足の力がすっかり抜け、私はその場に崩れ落ちる。
 視界がジワリと滲んで、前後が分からなくなった。
 気付いた。
 私は、誰かにそう言ってほしかった。
 違う、そうではない、と、そう……言ってほしかっただけなのだ。
 心の有無など、最初から、どうでも良かった。
 ただ、戸惑っただけだ。
 音響監督から「私にぴったりだ」と推薦された仕事。
 キャラプロフィールやセリフをもらった時、確かに私は「これなら、私にぴったりだ」と思ったはずだった。
 けれど、実際デモを録音する段階になって、自分の演技力の低さに愕然とした。
「うぅ…………」
 音響監督からのお墨付きがあるとはいえ、オーディションという形式なことには変わりがない。
 私はお墨付きをもらったうえで、そのオーディションに出場し、自分でも自信を持てない芝居をすることになる。それが目に見えていた。
 私には、他人からの大きな期待を裏切る未来が見えていた。
「くそ…………ッ」
 最初から、私には他の声優たちにある輝きや実力が足りないと思っていた。
 素人がこんなステージに上がるのは、場違いだと思っていた。
 それでも、精いっぱい、自分の持てる武器を握って、戦ってきた。
 だから……その武器の刃が欠けたのを見た瞬間に、恐ろしくなった。
「くそ…………ッ! くそッ!!!」
 私には読書しかないと思っていた。
 私の積み上げてきたものはそれだけで、決して無駄にならないと、言い聞かせ続けてきた。
 でも、本当は、逆だ。
 読書だけは、ため込んだ知識だけは、私の決して折れない剣だと信じたかったのだ。
 つまるところ、私はただ、逃げ出しただけだった。
 きっと、有理ならそんな私を叱っただろう。
 私の展開した欺瞞を打ち破り、前を向かせただろう。
 でも、彼女は、いなかった。
 彼女がいないと、私は前を向けなかった。
 その事実が、あまりに……あまりに……。
「悔しい…………ッ!」
 自分の心を覆いつくす熱の正体に気が付いて、その熱を吐き出すように、ぼろぼろと涙がこぼれた。
 私は自分の実力不足から逃げ出して、あまつさえ……自分の中の『物語』を、その言い訳にした。
 何が『心が分からない』だ。
 言葉で理解できないものがあることが恐ろしかっただけだ。
 本当は分かっていたんだ。
 私は言葉を踏み越えて、その先にある真実を見つけなければならなかった。
 皆、そうして足掻いて、演技をしているに違いない。
 心のどこかでそれを分かりながら、私は言葉の殻に閉じこもった。
 小見川の言うとおりだ。
 逃げる口実が欲しかったのだ。
 白川さんの言うとおりだ。
 そこにあるものを、あるがまま受け入れる心が必要だった。
 広瀬さんの言うとおりだ。
 皆、一緒のはずなのだ。
「うぅ…………う゛ぅぅぅぅぅ……ッ!」
 私は、足を引きずって、立ち上がる。
 その拍子に、眼鏡が地面にからりと落ちた。
 ずるずると坂を転がり落ちるそれを、私はゆっくりと追いかける。
 手を伸ばすと、からからと少し先を行く眼鏡を唸りながら追いかけた。
「うぁぁ……ッ!」
 子供のように唸り声をあげて、私は乱暴に眼鏡を拾い上げる。
 深呼吸をして、眼鏡をかけ直しても、視界はぐしゃぐしゃなままだった。
「……ふぅ…………ふぅ……」
 灼熱の吐息を吐き出して、私は上を向いた。
 星空が私の瞳の雫に乱反射して、わけのわからない光に包まれた。
「……負けるものか…………」
 私は呟いた。
 胸の痛みはなくなって、心臓がどくどくと脈打っていた。
「戦え…………」
 自分を鼓舞するように、言葉を吐き出した。
「欠けた刃を突き立てて…………逃げずに、戦えッ!」
 私は一人吼えて、踵を返し、友が丘の坂を駆け上る。
 自分がこんなに独り言を言って、泣きながら走る日が来るとは思わなかった。
 物語の中で、何度も見たような熱い光景が、自分を中心に起こっていた。
 意味が分からなかった。
 でも……。
「……くっ…………はは……ッ!」
 鼻水を垂らしながら坂を駆け上る。
 これでいいんだろうな、と思った。
 この痛みも、この熱さも、その奥にひっそりと顔を覗かせる気恥ずかしさも。
 確かに、私の身体の中にあると感じられたのだから。


 ×  ×  × 


「やー、負けた」
「えっ!?」
 がしゃ、と有理が乱暴にティーカップをソーサーの上に置いた。
「……行儀が悪いぞ」
「……ま、負けたって……オーディションですよね?」
「そうだ」
「……そんなあっさりと」
 有理は目をぱちくりとさせて、もう一度、ダージリンティーを啜った。
 そして、ぱたぱたと手を振って自分の顔を扇ぐ。
「萌の演技、今までにないほどに仕上がっていると思いましたが」
「私もそう思った。だが相手がな……」
 私は苦笑いを浮かべて、首を傾げる。
「アースタの麒麟児さ」
「……堤八雲、ですか」
 有理は露骨にため息をつき、眉根に指を当てた。
「あれはバケモノだ。オーディションでの彼女の演技を聞いて、かなわんなと思ったよ」
「本当に困りものですわね。でも……私たちは、あの子と戦い続けることになる」
「ああ。強敵がいてこそ、戦いは盛り上がるというものだ」
 私がそう言うと、有理は一瞬きょとんと目を丸くしてから、くしゃりと笑った。
「萌、少し変わりましたわね」
「そうか? ……そうかもな」
 くすくすと笑い合って、私もココアの入ったカップを傾けた。
「ん……」
 久々に有理と一緒に客としてブラン・ド・ノワールに来たので、思った以上に会話がはずみ、すっかりココアを飲み切ってしまっていた。
「すまない」
 私はちょうど通りかかったウェイターに手を上げて見せた。
「同じ純ココアを、もう一つくれないか」
 私が言うと、ウェイターはにこりと微笑んで頷いた。
「あ、そうだ」
 戻って行こうとするウェイターを引き留める。
「今度は……はちみつもつけてくれ」
「かしこまりました」
「ありがとう」
 今度こそウェイターが戻って行くと、向かいの有理が目をまんまるにして私の方を見ていた。
「……ココアを甘くするなんて邪道だ、っておっしゃってませんでした?」
 有理が心底驚いたようにそう言うので、私は思わず噴き出して、頷いた。
「そう思っていたんだが……」
 私は空になったカップに視線を落として、言葉をいつくしむように、言った。

「たまには、自分を変えてみる口実が欲しい時もあるんだよ」


(村山とこころ 了)



― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ―

 いかがでしたか。

 非公式SS1本目、村山編これにて終了です。

 ノリノリで書いてしまった……これも村山の魅力故です。
 素敵なキャラクターをご提案くださったanaさん、本当にありがとうございました。最高!

 理論武装ですべてを乗り越えてきた女の子が、言葉で太刀打ちできなくなったとき、自分とどう向かい合ってゆけばよいのか、その葛藤と結論についてでした。
 村山、不器用で、ひたむきで、本当に素敵だ。
 大好きです。

 お付き合いいただき、ありがとうございました。

 また気が向いた時に他のキャラクターのSSも書いていこうと思いますので、その時はよろしくお願いいたします。

 しめさば


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