baton=relay 非公式SS 村山とこころ #1 純ココア


こんにちは。
ライトノベル作家のしめさばです。

突然ですが、以前携わらせていただいたBATON=RELAYの非公式SSを投稿させていただきます。
今回は村山萌のお話を。
思ったより文量が増えてしまったので、私の他のお仕事との兼ね合いもありまして、3分割して執筆、投稿させていただくこととしました。
今回は1話目の投稿となります。
是非、お楽しみください。

※本投稿には「BATON=RELAY」のキャラクターが登場しますが、非公式小説であり、BATON=RELAY公式のストーリーとは直接の関係はございません。


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 どこかで、私には積み上げてきたものがあり、それが万物に通用するのだと思っていた。
 飲み込んできた知識が、そこから練り上げた思考が、私の武器になるのだと、そういう力強い思いが、私の中にはあった。
 だというのに、今はその思いが、私をがんじがらめにしている。
「ディレクター。いろいろ考えたんだが……今回の仕事、辞退させてほしい」
 私がそう言うと、ディレクターの眉がぴくり、と動いた。
 しかし、驚いた風でもない。
 ゆっくりと息を吐いてから、ディレクターは揺れる瞳で私を見た。

>「本気で言っていますか?」

 ディレクターは、静かな声色で、そう訊ねてくる。
 分かっていたことだが、ディレクターには随分と気を遣わせてしまっていたようだった。
 その声色からは、内に秘められた心情を読み取ることができない。あえて、そうしているのだということが分かる。
 きっとディレクターなりに、私に思うところや、託したい思いがあるのだと思う。けれど、つとめて、それが私に伝わらないように話してくれている。
 こんなことを考えながら、私の胸の中には『思い』という言葉がどこか白々しく響いていた。
 ディレクターの思い。
 私の、思い。
 思いとはなんだろう。
 何故人間は、他の人間に『思い』などという形の見えないものを託すのだろうか。
 どのようにして、そんな不定形のものを受け取ればよいのか。
 私の心は迷宮入りしていた。
 そう、『心』だ。
 なんだ、それは。
 今まで散々耽美な物語を楽しんできた私が、今さらこんなことにぶつかって足掻くことになるとは、思ってもみなかった。
 私はディレクターが吐いただけの息を吸い込むように、ゆっくりと深呼吸をしてから、頷く。
「ああ。本気だ」
 私がきっぱりと答えると、ディレクターは目をつむり、数秒黙ってから、こくりと頷き返す。

>「分かりました」

「ちょ~~~っと待った待った! キミ、何あっさり頷いてんのさ!」
 ディレクターが頷くのと同時に、その隣で仁王立ちしていたネコさんが大声を出した。
「なんでよ! 1話だけの出演だけど、それなりにイイ役もらってるんだよ!? しかも監督からの直々のご指名なんだから!」
「それは分かってる、何度も聞いたよ」
「だったら……」
「無理なものは無理だ。きっと、私よりももっと上手くできる声優がいる」
「できるできないじゃないんだってば! これはチャンスなんだよ! チャンスが欲しくても回ってこない人だってたくさんいるのに、それを自ら手放すなんて……」
「無理だ!」
 私が思わず声を荒げると、ネコさんは驚いたように目を丸めた。
「今ネコさんが言ったようなことは、全部分かってる。耳にタコができるほど聞いたさ! でもダメなんだ。私の声がその役に合っているということも聞いた。最初は私もそうかもしれないと思った! でも違う! 私はその役を演じ切ることができない。『心をなくした少女』だろう? 演じてみようとした。感情の希薄な声をそれっぽく録ってみたりした。でも、どれも仮初めだった!」
 私は、八つ当たりのように語気を荒げてしまう。
「あなたは、自分がまったく理解できずに、感情移入もできない役を、チャンスだからといってそれなりに演じろというのか!?」
「いや、待って、萌ちゃん。そうじゃない。テキトーでもいいからやれって言ってるわけじゃないんだよ。でも、演じてみて、音響監督と一緒に演技を詰めていくことだってできるでしょ? 声優はそうやって育っていくんだから」
 ネコさんの言いたいことは分かる。
 これも、私がこの役の演技練習をしている時からずっと言われてきたことだ。
 ある程度自分で演技を固めたら、アフレコにぶつかっていって、音響監督の指示を仰ぎながらキャラを詰めてゆけばよい。
 分かっている。
 分かっていてなお、私は嫌なのだ。
 なぜなら、私には『心』が分からない。理解できていない。
 もとより不確かで存在すらも分からないものを、どうやって『なくせ』というのか。
 実体を理解できないものを信じ、演じることは私にはあまりに難しく、苦痛だった。
「私にはできない」
 私がもう一度言うと、ネコさんは困ったように首を横に振りながらため息をつき、横目でディレクターを見た。
 ディレクターは依然として、私の目を見つめている。
 私もディレクターの目を、じっ、と見つめた。
 決意は固い。
 そう伝えるつもりで。

>「……気持ちは分かりました」

 ディレクターはそう言ってから、視線をテーブルの上に落とす。
 膝の上で組んだ手の指が、小刻みに動いている。ディレクターが言葉を選ぶときのクセだ。

>「まだ数日は猶予があります。もう少しだけ、考えてみてください。それが村山さんにとっての最善の選択なのかどうか……」

「私は、すでに十分考えたうえで――」

>「その上で、今一度、考えてください」

 ディレクターの声色は、いつになく強かった。
 私はみっともなく、気圧されてしまった。 
「……分かった」
 ディレクターは静かに息を吐き、ソファから立ち上がり、事務所の外へ出ていった。
「あ! ちょっと!? どこ行くのよ! まだあたしとの話は終わってないでしょうが!」
 ネコさんは慌てた様子でディレクターを追いかけていく。
 無人になった事務所で、私は深くため息をついた。
 レッスン室からは、パンパンとトレーナーの手拍子が、そして、それに続くようにトレーニングシューズがキュッキュと床につくおとが聞こえてくる。
 ほかの声優が、ダンスレッスンをしているのだろう。
「……今は、気が滅入るな」
 私は荷物をまとめ、ソファから立ち上がる。
 そして、どこか凪いだ気持ちのまま、事務所を出た。


 ×  ×  ×


 一つ目のアニメオーディションを勝ち取り、その仕事が落ち着いた頃、私のもとに突然、一つの仕事が舞い込んだ。
 それは、またもやSFバトルモノのアニメに登場するキャラクターだった。
 繰り返し行われた人体実験により、感情の起伏を失い、『心のなき少女』と呼ばれるようになった暗殺者。
 他人を殺すことに躊躇がなく、命令さえあれば冷酷に任務を遂行する。
 ありがちといえばありがちなキャラクターだった。
 1話だけ登場するゲストキャラクターで、セリフの量もキャラクター性もあって少なめ。
 しかし、そのアニメの根底にあるメッセージ性にかなり大きく影響するキャラクターだ。
 なぜ生きているかも分からないのに、死ぬ理由も特になく、ただ生き続けるためだけに、他人を殺す少女。
 生きるために「心」を排し、望んで『機械』になった少女。
 彼女のことをきちんと理解したくて、私は『心』についての本を読み漁った。
 医学書、哲学書、そして類似するストーリーラインの物語……。
「心」の実体に触れようと書物に噛り付くうちに……すっかり、分からなくなった。
 心とは、なんなのだろうか。
 書物に書かれている内容は、明確なようで、とても曖昧だった。
 人間を人間たらしめる要素であり。
 しかしその実態は、脳に流れるシンプルな信号であり。
 ある程度のパターンがあり。
 突き詰めると、それはただの「生物の営みの一部」でしかなかった。
 人間として生きる上で、勝手に生じる、いったい何なのか分からない、不定形の概念だ。
 私は19年もの人生の中で、一度も、自分の心の有無についてなど、考えたこともなかった。
 私には当然心があり、それが幸福や苦痛を感じているのだと、信じて疑わなかった。
 けれど……。
「……」
 ティースプーンで純ココアをかき混ぜると、白とまろやかな茶色が渦を巻く。
 その紋様はいつも私の心を落ち着かせ、その滑らかな液体を口に含みゆっくりと嚥下するのを想像するだけで、とても心地が良かった。
 この感情は、どこからもたらされるのだろう。
 あたたかさや甘みからもたらされる脳の刺激を、私が「安らぎ」と誤認しているだけなのではないか。
 そんなことを考えると、今まで私が感じ取っていた世界そのものが、もはや疑わしい。
 心などあるのか。
 いや、そもそも、世界など存在するのか。
 目の前の何かの実体を得ようとするたびに、どんどんと曖昧な精神的な世界に引き込まれてゆく。
「……」
 ココアを混ぜる。
 口にする気に、なれなかった。
「……エ」
 これを口にして、おいしい、と感じるのが怖かった。
 その感覚を、疑わなければならなくなるから。
「……モエモエ?」
「…………?」
 ふと視線を上げると、隣のテーブルに、見知った顔があった。
 同じ事務所に所属している声優の、小見川薫だ。
「どうしたの、すごい怖い顔してたけど」
「……なんでここにいる」
「質問に質問で返すとは、ブスイな人だね。まっちゃんに煽られたからだよ」
「まっちゃん……ああ、茉莉さんか。煽られたとは?」
「うん。まっちゃんとは定期的にデザート奪い合いのダーツ対決をしてるんだけどさ。昨日こっぴどく負けて、『私は美味しいスイーツを知ってるから勝てるんですよね! 薫ちゃんはコンビニスイーツばっかり食べて“本物”を知らないから力が出ないんじゃないですか~?』って言われてさ。それで私から取り上げたコンビニスイーツ嬉しそうに食べたんだよ。じゃあ返せよって言いたいよね。買ったの私なんですけど」
「なるほど、それで茉莉が教えた“本物”がここだったということか」
「そうそう。さすがモエモエ、1言えば10分かってくれるね」
「今のはもう9話してただろう。モエモエはやめろ」
 小見川は基本的に誰にでも気さくに話しかけるタイプだが、私に対してはどこか馴れ馴れしさがある。嫌ではないが、いつも返しに戸惑ってしまう。
「それなに?」
「ん?」
「ココア?」
「……ああ、これか。そうだ。純ココア」
「純ってなに? 普通のココアとどう違うの?」
「純粋なココアの粉だけで作られてるってことだ。市販のココアパウダーには脱脂粉乳や砂糖などが含まれていて、お湯を入れるだけでココアドリンクとして飲めるようになっている」
「ふぅん。じゃあココアパウダーをお湯で溶かしただけのヤツが出てきて、そこにお好みでミルクや砂糖を入れるって感じなのか」
「……お前も話の理解が早いじゃないか」
「え、そう? 普通じゃない?」
 小見川は自然な所作でこくりと首を横に倒し、あごに人差し指を当てた。
 そのポーズにはどこか愛嬌があり、しかしあざとさを狙っているようでもなく……とても自然体だった。
 彼女のこういうところは素直に「すごいな」と思うものの、真似をしようとも、できるとも思わない。
「あ、店員さん。席移動してもいいですか? 知り合いがいるので」
「おい、何を勝手に」
「いいでしょ、その分他のお客さんが入れるし。一人だと怖い顔ずっとしてそうじゃん、モエモエ」
「……」
 有無を言わさず、向かいの椅子に移動する小見川。
「あ、あと注文いいですか? え~っと……季節のショートケーキと……純ココアください」
 純白の燕尾服に身を包んだウェイトレスに注文を伝え、小見川はふうと息をついた。
 そして、じっ、と私を見つめてくる。
 彼女の瞳には、不思議な力があると思った。
 見つめ合っていると、心の中を覗かれるようで……。
「……また、心か」
「うん?」
「いや、なんでも」
「なんでもないことないでしょ。またちょっと怖い顔」
「怖い顔をしたのならすまない」
「いいよ、別に。なんならいつも怖いし、モエモエ」
「そう思ってるならその呼び方はやめろ」
「なんで? 可愛いじゃん、モエモエ」
「私には合わない」
「え~」
 くすくす、と肩を揺すってから、小見川はきょろきょろと店内を見渡す。
「今日、ゆりちゃんいないね」
「有理は今関西だろ」
「……あっ、そうか。オーディション、遠方だって言ってたねそういえば」
「ああ」
 ここは同じくリレープロダクション所属声優の戸田有理の職場でもある、天使と悪魔カフェ『ブラン・ド・ノワール』だ。
 私はここの純ココアと店の雰囲気が気に入り常連となっていたが、ここから私の声優としての一歩も始まった。
 私を声優へ引き込んだ張本人である有理も、今は少しずつ仕事の量が増え始め、今は新しい案件のオーディションで関西に飛んでいる。
 明日にはディレクターと共に戻ってくるはずだが……。
 おそらく、その時には、保留にした問題の答えをもう一度ディレクターに告げねばなるまい。
 そう、保留だ。
「考える」と言って保留したものの、私の考えは特に変わらない。
 今回の仕事は断る。私には手に負えないキャラクターだったのだ。
 もっと他の、シンプルな役であったなら……。
 そこまで考えて、私の思考はぴたりと止まってしまう。
 シンプルな役、とは。
 そもそも、私が今困っているのは『心』というものの扱いかたについてだ。
 心のないキャラクター、というものの理解度を深めるために心について知識をつけ、それによって私は動けなくなってしまった。
 では、他のキャラクターを演じることになった場合はどうなのだろう。
 ほかのキャラクターにも心はあるわけで、それをトレースし表現するのが私の仕事で。
『心』に疑問を持ったままの私は、果たして、『キャラクター』という、心の体現者のようなものを演じることができるのだろうか。
 その疑問は、私の心臓に深く爪を立てるようだった。
 今まで気づくことのなかった自らの爪の鋭さが、触れる場所すべてに傷跡を残してゆく。
 どんどんと、動けなくなる……。
 感じたのは、恐怖だ。
 やはり、私はこの業界に来るべきではなかったのではないか?
 私のような、ただただ与えられる物語に心を躍らせていた人間が、なまなかな気持ちで物語を発信する側にやってきてしまったから、こうした原初の疑問に囚われているのではないのか。
 果たして、私は、このまま声優を続けることが……。
「モエモエのココア、すんごい苦いね」
「へ?」
 突然声をかけられて、素っ頓狂な声を上げると、向かいの小見川は唇をぺろりと舐めていた。
 上唇にうっすらと、なめとり切れなかったココアの粉がついている。
「ごめん、なんか一人で宇宙に旅立ってたから、一口もらっちゃった」
「な、こっそり飲んだのか……!」
「こっそりじゃないよ、堂々と飲みましたけど。なんなら声もかけたし、手も振りましたけど」
「……本当に?」
「ほんとだって。あそこまで集中して何かを考えられるの、才能だと思うな」
 小見川はあっけらかんと言ってから、私の目の前のティーカップを指さした。
「いつもその味なの?」
「あ、ああ……まあ」
「ココアって甘い飲み物だと思ってた」
「砂糖を加えなければあまり甘くないよ。チョコレートだって同じだ」
「あ~、あるよね、苦いチョコ。カカオ何%~みたいなやつ。あれも分かんないな。苦いもの食べたいならチョコじゃなくても良くない?」
「カカオ特有の香りが好きなんだよ」
「ふぅん」
 そんな他愛のない会話をしていると、小見川の注文していたケーキとココアが届いた。
「わ、美味しそ~。見てよこれ、ベリーがつやつや。しかもでっかい」
「良かったな」
「こりゃ確かに本物かもしれない。値段も“ホンモノ”だし……」
「ここはあまり安い店ではないな。ただ、味は良い」
「これでダーツ勝てるかな」
「ふ、本気で言ってるのか?」
 急に大人っぽい表情で小見川が子供じみたことを言うものだから、私は思わず失笑してしまう。
 小見川はいつものぼーっとした表情を崩して、思い切りむくれて見せた。
「なんで笑ったし。本気も本気だよ。じゃなきゃ来ないし」
「茉莉さんの言うことが適当なのは今に始まったことじゃないだろ」
「まあ、それはそう。でも、このケーキ食べて、それで勝ったら多分まっちゃんめちゃくちゃ悔しがると思うんだよね。『ブラン・ド・ノワールでケーキを食べてきた上、私のスイーツまで取り上げるんですかっ!』とか言いそう。いや、買ったの私だから、ってね。そもそもさぁ、スイーツ奪い合いダーツっていうゲームなのに毎回私が景品のケーキ買ってるのおかしいと思わない? まっちゃん、なんだかんだで自分が勝てると思ってるんだよ。それに私が買ってもさ、私はただ自分でスイーツ買って食べただけの人になるんですけど。やっぱおかしいよな……」
「小見川、今日はよく喋るな」
 私が鼻から息を漏らしながらそう言うと、小見川はくすりと笑ってから、じっ、とその瞳を私に向けた。
「モエモエがあんまり喋らないからね」
「……すまない」
「いいって。うるさい? 黙ってようか」
「いや……助かる。黙っていると、余計なことを考えてしまう」
 これだけ気を遣われて、本音を話さないのは失礼だと思い、私はそう口にした。
 小見川はくす、と笑って、ケーキに丁寧にフォークを入れた。
 そして、小さく切ったそれを、同じく小さな口に運び入れる。
 もくもくとケーキを噛むうちに、みるみる小見川の目が輝きだした。
 こくり、と嚥下して。
「びっくりしたぁ……」
 小見川は子供のような表情でケーキを見下ろした。
「これがケーキ……」
「ふ」
「なんで笑ったし」
「いや、別に。気に入ったようで何よりだ」
「これは本物だね。コンビニスイーツどうでもよくなってきたな……」
「本末転倒だ」
「いいの、遊んでるだけだから。コンビニスイーツはさ、どうせゲームしてもしなくても、食べたいときに食べるんだ」
 そう言う小見川は、またいつもの落ち着いた雰囲気に戻っていた。
 小見川は不思議な子だ。
 年齢の割に妙に落ち着いているし、その小さな身体からは、それを大きく上回る迫力が放たれている。
 私の目には、彼女は“孤高”に映る。
 自分らしさをすでに獲得して、それを武器に、戦っている。そう思う。
 それでいて、他人とも上手くやっている。人と関わることを何の苦にもしていないように見える。
 とても、バランスの取れた、理想的な人物像。
 そうであるのに、彼女はいつも、どこか満たされていないようにも見えるのだ。
 きっと彼女はまだ何かを欲しがって、そして、まだそれを手に入れられていない。
「結局は、口実なんだよ。私たちは、『声優』として集まってるから。遊ぶのにも、口実が要る。きっとまっちゃんも…………いや、あの子はマジでスイーツ食べたがってるかもしれない」
「そうだろうな」
「でも、まっちゃんがそう言う人だから、私も気兼ねなく遊べるんだよね。本気になれなきゃ、熱中できないもん」
「そういうものか」
「うん、モエモエだってそうでしょ?」
「……?」
 急に話題の矛先が私に向き、困惑する。
 私が小首を傾げると、小見川はテーブルの上に置かれた文庫本を指さした。私が持参したものだ。
「モエモエ、いつでも本読んでる。好きなんでしょ?」
「ああ、まあ……そうだな。昔から、ずっと、本の虫だ」
「いいね、読書。私はあんまり集中して文章読めないからさ。いい趣味だと思う、ほんとに」
「……そうか」
 読書していること自体を“良いこと”と指摘されるのはあまり経験がなかったので、不覚にも照れてしまい、曖昧な相槌を打つ。
 私にとっては、読書というのは、小さいころから、“これしかない”ものであったから。
「でも、モエモエにとっては多分当たり前なことなんだよね」
「え?」
 ちょうど考えていたことを口にされて、私は虚を突かれてしまう。
 私の反応をよそに、ケーキをフォークでつつきながら、小見川は言葉を続けた。
「本を読むのは人生の一部で、きっと、『やるぞ』って気合いを入れなくてもできることでさ。特に体力を使わずに文字を追ってさ、そこから、いろんなことを考えてる。息を吸って、吐くみたいに……たくさん、考えてる」
「……」
「だから、きっと、他の人にできることが、できなくなっちゃうんじゃない?」
 そう言って、小見川はほほ笑んだ。
 見透かされているような気がして、不思議な気持ちになる。
「ケーキは美味しい。だから食べる。カカオの香りが好き。だからココアを飲む。……そんな感じじゃない? 人生なんて」
「人生、と来たか」
「人生に悩んでる顔してたもん」
「……そんな顔、してない」
「そう? じゃあ気のせいかも」
 小見川はくつくつ、と肩を揺すってから、また一口、ケーキを頬張った。
 小見川が喋っていない間は、静かな時間が流れる。
 いつもは沈黙など気にならないはずなのに、早く喋ってくれ、と、思ってしまう。
「私もさ」
 小見川は湯気の控えめになったココアに、たっぷりのミルクと、はちみつを入れて、スプーンでかき混ぜる。
 視線をカップの中に落としながら穏やかに、言葉を紡ぐ。
「なんも考えたくないよ、本当は。好きなことを、好きって気持ちだけで、好きなようにやりたい。そうやって能天気に生きていけたら楽しいんだろうなって」
 真っ白なミルクが深い茶色のココアと混ざり、柔らかな色の渦ができている。
「でも、どうしても、考えちゃう。どうしたいのか、どうあるべきなのか……考えたくないのに、考えちゃうんだよ。めんどくさいな」
 気づけばココアは淡いブラウン色になり、小見川はスプーンを受け皿の上に置いて、カップを口につけて傾けた。
 こくり、と彼女の喉が鳴る。
 す、と鼻から息を吐いて、小見川はゆっくりと目を閉じた。
「考えないのにも、口実が要る」
 小見川はそう言って、おもむろに目を開いて、私をその底の見えない瞳で見つめた。
「だから……こうやってスイーツ食べたり、甘いココアを飲んだりするんだよね」
「……そうしている間は、考えることをお休みできるからか?」
「そ。休暇をくださーい、ってね」
 小見川はそう言ってから「べ」と冗談めかして舌を出して見せる。舌が茶色くなっていて、そうか、小見川の舌も茶色くなるのか、などと暢気なことを考える。
「モエモエも、たまには活字から逃げる口実を作ってもいいんじゃない?」
 小見川はそう言って、ずい、と私の方へ、自分のココアを差し出した。
「……なんだ、私のがあるぞ」
「甘いのも飲んでみなよ」
「大量にハチミツを入れてただろ。どう考えても甘すぎる」
「飲んでみなきゃ分かんないでしょ」
 小見川は明らかに言っても聞かない顔をしていた。
 私はため息一つ、カップを受け取って、おそるおそる、口をつけて、傾けた。
 肩が跳ねそうになるのをこらえる。
「~~~ッ!」
「ん?」
「甘すぎる……!」
「あはは、だよね。私も入れすぎたって思った」
「お前……」
 顔をしかめながら小見川の方にカップを戻して、甘さで蹂躙された口内を落ち着かせるように、自分のココアを口にした。
 ……今度はかえって、味がしない。
 でも。
「……あ」
「うん?」
「……いや、なんでも」
「そ?」
 小見川はそれ以上追及せず、もう一度ココアを一口飲んだ。
「甘ぁ……」
 そう呟いて、そのまま今度はケーキを食べる小見川。
 私は、ゆっくりと、手元にあるココアのカップに目を落とした。
 ざらりとした舌ざわり。嚥下すると喉にねとりとこびりついて、そのまま喉の奥へ優しく流れてゆく感覚。
 甘みで痺れた舌では味を感じられなくとも、鼻から息を吐くと、鼻腔の奥にほのかに感じられるカカオの香り。
 やはり、私はこの苦いココアが好きだった。
 仮に、心というものが、人間の外付けデバイスだったとして。
 本当は、私の中に心などなかったとして。
 本当は存在しないものに「心」などという名前をつけてしまっているのだとして。
 それでも。
 このココアの味は、私を安らかな気持ちにしてくれた。
 それだけは、私にもわかった。
 それが分かって……とても、安心した。
「モエモエ」
「その呼び方はやめろ」
「やだ。それよりさ、また一緒にここに来ようよ。今度は約束してさ」
「どうして」
「ふふ、分かるでしょ?」
 小見川はいたずらっぽく笑って、言う。
「お休みする口実が欲しいからだよ」
 それを聞いて、私は思わずため息をついた。
 小見川、こいつは本当に……。
「……まあ、考えておく」
「ふふ、前向きに?」
「ああ」
「オッケー。絶対ね」
 楽しそうに笑って、小見川はココアを口に含んだ。
 こくりと飲み込んで。
「甘ぁ……」
 また、顔をしかめた。
 糖を入れすぎたせいで、どうしようもなくなったココア。
 口に含めば顔をしかめることになるのは分かりきっているのに、残すわけにもいかなくて、何度も何度もちびちびとそれを口に運ぶ小見川の動き。
 そこにあるのはままならぬ現実を処理するためのルーティンだ。
 彼女が顔をしかめるのも、過剰な糖分に脳が気付くための単なるシグナルの発露でしかないのかもしれない。
 それでも、いちいち唇を尖らせてこちらを見てくる小見川を見ると……そこにあたたかみを感じずにはいられない。
 それが『心』でなくとも……私には、そこにいる『小見川』を感じられた。
 それだけしか分からないが……それだけでも良いのかもしれない、と、思った。
「……それを飲んだ後だと、こっちのココアは苦いな」
 私がそう零すと、小見川は渡りに船、といった様子で、両手をこちらに伸ばしてきた。
「ちょっと頂戴。舌があまあま」
「仕方ないな……全部やる」
「ほんと? もらうよ?」
「ああ」
 ココアのカップを小見川に渡して、私はすん、と鼻を鳴らした。
 心を落ち着けるために飲んでいた純ココア。
 今日はもういらないな、と思ったから。


(#2 アミノ酸 へ続く)

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