baton=relay 非公式SS 村山とこころ #2 アミノ酸
こんにちは。
ライトノベル作家のしめさばです。
前回の非公式SSの続きです。
お楽しみください🐟
※本投稿には「BATON=RELAY」のキャラクターが登場しますが、非公式小説であり、BATON=RELAY公式のストーリーとは直接の関係はございません。
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小見川と解散して、手持無沙汰になった私は、何故か友が丘駅に向かっていた。
もはやどこかで読書を再開しようという気持ちにはならず、そうとなれば特にやることはない。
やることがないので、自主練習でもしようと思ったわけだ。
マメなことに、リレープロダクションではレッスン室の予約状況をまとめてメッセージアプリに定期的に上げてくれている。
飛び入りがなければ、今日のこの時間帯はレッスン室は空いているようだった。
一人のレッスン室というのは、案外良いものだった。
聞こえるのは自分の呼吸と、シューズが床をこする音のみ。
必要があれば耳栓でもして、じっくりと物思いに耽ることができる。
電車に揺られながら、私はレッスン室にいる自分を思い浮かべた。
大きな鏡の前で、ステップを踏む。
最初は、声優なのにダンスの練習をすることに、違和感しかなかった。
そのぶん、声の演技の練度を上げた方がよっぽど有意義だと思った。
しかし、そんなことを口にするたびに、ディレクターから、そしてネコさんから、昨今の声優業界の事情を聞かされる。
最近の声優は音楽とは切って切り離せない存在であり、コンテンツが盛り上がればライブが行われ、そこではダンスと共に歌を歌うのが通例なのだそうだ。
何度も聞かされるうちに、私の中でもそういった業界の共通認識は当たり前のものとなった。
最初はすぐに息が切れていた私も、数をこなすうちにそれなりのステップが踏めるようになり、最初に比べれば持久力もついた。しかし、それは人並みだ。
最初から体力があった子たちは、私と同じだけの、いや、場合によってはそれ以上の練習をこなして、さらに体力をつけている。
私は、ダンスや歌という点で、他の所属声優たちに劣っていた。
なぜ、私はこんなことをしているのか。
定期的に頭に浮かぶ疑問だ。
物語を愛していただけの人間が、なぜ、声優に。
なぜ、歌って、踊って、息を切らしているのか。
未だに、分からない。
思わず、自嘲的な笑みが漏れた。
突然一人でくすりと笑った私を、向かいに座る乗客が怪訝な目で見つめてくる。
私は咳払い一つ、車窓の外へ視線を移した。
ものすごいスピードで流れていく景色。私は今どこにいるのか。
定点をもたぬまま、運ばれるまま、移動している。あまりのスピードに、目が眩みそうだった。
今突然私が立ち上がり、扉を非常用レバーでこじ開け外に飛び出したなら、働いた慣性に抗えぬまま地面をもんどり打って、ずたずたになってしまうだろう。
声優になってからの私と、同じだ。
私は自覚のないまま、とてつもないスピードを出す特急列車に乗り込んでしまった。
これに乗り続けていて、私はどこにたどり着くのか分からない。かといって、飛び降りる勇気もない。
「次は~、友が丘……友が丘……」
車掌のやる気のないアナウンスが車内に響く。
徐々に減速してゆく電車で、私は思った。
降りるべきなのではないか、と。
特急列車も、ときどき減速して、止まる時が来る。
そこで、私は降りるべきなのではないか。
私は、中途半端な気持ちで、中途半端な力量で、有限な座席に座り込んでいる。
その結果が、このちんけな葛藤だ。
『心』などというものに惑わされて、その存在を疑いながら、自問自答を繰り返す。
ディレクターや事務所に迷惑をかけ、結論を保留し、それでも、何も分からずにいる。
私はこの『列車』に乗るに値する人間なのだろうか?
「友が丘、友が丘です」
電車が停止し、ドアが開く。
私はおもむろに座席から立ち上がり、電車を降りた。
トン、とホームに足をつくと、電車に運ばれていた身体は重力を取り戻したように重く感じられた。
「……保留だ」
誰にも聞こえないような小さな声で、呟く。
ホームを歩き、改札へ続く階段を上り始めると、私の身体は日々のルーティンを思い出し始める。
改札を出て、長い坂を上り、事務所へと向かうのだ。
事務所の扉を開けたら挨拶をして、レッスン室の貸出帳に名前を記入して、トレーニングシューズに履き替える。
そのルーティンの間に、私は少しずつ「声優」になる。
今日もきっと……そうしているうちに、心を排して、「声優でいる」ことに没頭できる。
そういう意味では、私も『心を失ったロボット』になりかけているのかもしれない。
決められたルーティンの中で、少しずつ自分という存在を調整してゆく。
同じ行動を繰り返している間だけは、心を排し、葛藤から逃れることができる。
『考えないのにも、口実が要る』
小見川はそう言った。
私も、そんな口実を作れば、粛々と声優業をこなすロボットに、なれるのだろうか。
そうなれれば、『心』などというものに惑わされずに……済むのだろうか。
何かを考えていると、気づけば歩みが進んでいる。
気付けば、一段目に足をかけていたはずの階段をすっかり上り終え、改札の目の前まで来ていた。
ICカードを取り出して、タッチし、改札を抜ける。
見慣れた改札前広場を歩き、駅前ロータリーに出たところで。
「あれぇ? 萌ちゃん?」
「あ……村山さん、こんにちは」
見知った顔に声をかけられた。
リレプロ所属声優の、白川琴音さんと、広瀬晶さんだった。
「これは……白川さん、広瀬さん。どうも」
「奇遇ねぇ。今日はお仕事?」
どこか上機嫌に、白川さんが話しかけてくる。
「いや、オフだが……」
「あらぁ、オフなのに友が丘で会うなんてぇ……お買い物か何か? でも、お買い物ならもっと都心駅に行くかしら? うふふ」
「いや、自主練でもしようかと……あの、もしかして酒でも飲んでるのか?」
不自然なほどに上機嫌な白川さんを見て、私がそう訊くと、隣の広瀬さんはやれやれというようにため息をつく。対して白川さんは満面の笑みを浮かべて頷いた。
「そうなのよぉ。私たちも今日はオフでね、晶ちゃんにお酒付き合ってもらってぇ……」
「ご、ごめんね……酔っぱらいが絡んできて、困るよね……」
「いや、別に構わないが……」
「晶ちゃんひどい! まだ全然酔っ払ってなんかいないんだから~」
「はいはい……これ以上引き留めちゃ悪いよ」
広瀬さんは白川さんの袖を掴んで、困ったような表情を浮かべている。
これは、私の方から立ち去ってやったほうがよさそうだと思った。
「じゃあ、私はこれで……」
「え~! 行っちゃうの~?」
白川さんが私のニットセーターの裾を掴んでくる。
引き留められるのは予想外だった。
「ちょっと、琴音さん! 村山さん困ってるから」
「いや、大丈夫だが……」
「ね~! こんなことで嫌がらないよね~!」
「琴音さん……もう……」
依然としてニコニコしている白川さんとは対照的に、広瀬さんは困ったように私と白川さんに視線を行ったり来たりさせている。
「あのね、実はこの後二軒目に行こうかなって思ってたんだけど、村山さんもどぉ?」
「えっ!? 帰るんじゃなかったの!」
驚いた声を上げる広瀬さん。どうやら思った以上に白川さんは酔っているようだった。
どうしたものかと思いつつ、白川さんに気付かれない程度に自分の腕を引いて白川さんの手からニットセーターを引き離そうとしてみるが、思ったよりも力強くつままれていて、少し引いた程度では離れそうになかった。
「なんか考え事してたみたいだしぃ~、一緒にお酒どぉ?」
「ちょ、ちょっと……村山さん、未成年だから……!」
「え! あっ、そういえばそうだったわね! 村山さん大人っぽいからすっかり忘れてたわぁ、ふふふ」
白川さんは口元に手を当てて、くすくすと笑った。
「じゃあ村山さんはソフトドリンクで~」
「ねえ琴音さん? 村山さんは自主練しに友が丘まで来たんだって言ってたでしょ? 邪魔しちゃ悪いってば」
「あ~、それもそうねぇ……でも~……村山さんとゆっくり話したことってあんまりなかったし~……」
そう言いながら、横目でちらりと私を見てくる白川さん。
いつもしっかりしていて、大人びている印象がある彼女だったが、酒を飲むとこうなるのか。
私は思わず失笑して、首を数度、縦に振った。
「分かった。行くよ。そもそも、手持無沙汰だったからレッスンをしようと思っただけなんだ」
「本当!? 言ってみるものねぇ!」
「ほ、ほんとにいいんですか……?」
無邪気に喜ぶ白川さんの横で、広瀬さんは不安げな視線を私に向けてくる。
「ああ、大丈夫。私も二人とゆっくり話してみたいしな」
「そう……それなら、私もいいけど……琴音さん、二軒目は飲みすぎないでね。寮まで連れて帰るの大変なんだから……」
「はいは~い、分かってま~す」
「ほんとかな……」
ため息をつく広瀬さんに、甘えるようにもたれかかる白川さん。
きっと、私の知らないところで、この二人の関係値は少しずつ深まっていっているのだろう。
知らない一面を垣間見て、私は少しあたたかな気持ちになった。
そして、少しだけ……寂しいと思った。
× × ×
「それで~? 村山さんは、何を悩んでいるわけ~?」
「……え?」
駅前の居酒屋に入り、白川さんの前に日本酒の入った徳利が置かれたところで、彼女は唐突にそう訊いてきた。
私が目を丸くするのを見て、白川さんがくすくすと笑う。
「だって、明らかに何か悩んでる様子だったでしょう」
「……いつも通りだったと思うが」
「そんなことないわよぉ、ねぇ? 晶ちゃん」
「え? そ、そうかな? そうだったかも……」
突然話を振られて慌てる広瀬さん。
その間に白川さんはぐい、と、おちょこに入った日本酒をあおって、また徳利から並々と注いだ。広瀬さんはそれを横目に見て、小さく息を吐く。
私も、白川さんからの問いの答えをごまかすように、ジョッキに注がれていたウーロン茶をちび、と飲んだ。
「下向きながら歩いてさぁ」
「私はいつも下を向きながら歩いてる」
「え~! そんなことない、そんなことない! ねえ、晶ちゃん?」
「えっ、ああ……うん、そうだね」
広瀬さんはまたも突然話を振られて慌てた様子だったが、今度ははっきりと頷いた。
「村山さん……いつも、背筋がピンと伸びてて、前向いて歩いてて……かっこいいな、って思ってた」
広瀬さんは私の様子を伺うように、背を丸めながら、そう言った。
「だから……いつも下向いて歩いてるってイメージは……あんまり、ないかな」
「……そうか、二人からはそう見えているのか」
「誰から見てもそう見てるわよぉ。だから、何か悩んでるのかな~って」
「……それで、飲みに誘ってくれたわけか」
「ん~? いやぁ、それは関係ないわよぉ。ただ飲み仲間が増えた方が楽しいなって思っただけ!」
白川さんはそう言ってから朗らかに笑った。
しかし、その声色からはなにげない気遣いを感じられて、それが少し恥ずかしい。
「……言いにくいこと? なら無理には訊かないけど」
白川さんは、軽く上目遣いで私を見た。
その瞳は、どこか小見川に似ていると思った。
心ごと、私を覗き込んでくるような、そんな目。
人に話すようなことではない、と思った。
けれど、逆に、隠すほどのことでもないのだ。
私は話してみることにする。
「二人は……『心』というものについて、考えたことはあるか」
私がそう切り出すと、二人とも、きょとんとした表情を浮かべた。
「心?」
私は頷いて、ぽつぽつと、直近の出来事について、二人に話した。
監督からの推薦で、私にほぼほぼ内定しているオーディションの誘いが来たこと。
その役が、「心を失った殺人少女」であるということ。
私は『心』というものがつかみきれず、その役を受けるべきかどうか迷っていること。
そんなことを、ゆっくりと話した。
二人は、こんなしようもない話を、真剣な表情で聞いてくれる。
「なるほどねぇ……あ、店員さん! 大徳利、もう一つください」
「……琴音さん」
「これで終わり! これで終わりにするから」
「まだおつまみも来てないのに……」
「大丈夫、大丈夫~」
白川さんはニコニコと笑って広瀬さんの非難の眼差しをかわしている。
そんなやり取りの間に、店員が大きな皿を持ってやってきた。
「お待たせしました~! こちら本日の刺し盛りです!」
「わ~! 来た来た! ありがとうございま~す!」
白川さんは大皿を喜々として受け取り、子供のような目でそれを見つめる。
「はい。こちらから順に、サーモン、びんちょう、ヒラメ、ひらまさ、マダイ、赤貝、マイカ、えーっと…………店長! これなんでしたっけ! あっ、そうそう、失礼しました、マルアジです!」
「マルアジ! 初めて聞きました……!」
「あんまり出ないですよね! マアジに近いんですけど、今の季節はいい感じに脂がのってて、こう……いい感じのお魚です!」
「なるほど! いい感じなんですね! 楽しみ~」
明らかに知識不足の店員が笑顔だけで乗り切ってくるのを、白川さんは朗らかに対応した。
店員が一礼して去っていくのを見送って、白川さんはもう一度くすりと笑った。
「いい感じだってさ。楽しみね」
割りばしをパキ、と割って、白川さんはぺろりと舌なめずりをする。
そういったポーズをしても下品でないのは、彼女の元より持っている雰囲気や上品な所作によるものなのだろうか。
「じゃあさっそく……いい感じのお魚から……」
店員の使った「いい感じ」という表現が気に入ったのか、白川さんは執拗にそのフレーズを口ずさみながら、マルアジという魚の刺身に箸をつけた。
醤油にちょんと刺身を付けて、それを口に運ぶ。
自然に左手を刺身の下に添えて丁寧に箸を動かす様子には、やはり上品さがあった。
「……ん! ~~~~!」
白川さんはぱたぱたと足を動かして、感激を表現する。もぐもぐと咀嚼して、飲み込んでから。
「とっっっってもいい感じ!」
「いい感じか」
「ええ! アジっぽい香りはちゃんとあるんだけど、アジほどしつこくないっていうか、私これかなり好きだわぁ」
「良かったな」
「うんうん、美味しいものを食べるのって幸せぇ」
白川さんは嬉しそうに目を細め、おちょこをつまみ、くい、と酒を飲む。
「く~~」
「琴音さん」
「分かってる、分かってる。も~~晶ちゃん、今日はいつも以上に小うるさいわね」
「二人じゃないんだから、少しは遠慮してよ」
「え~~?」
どうやら、酔っぱらっている白川さんを相手にするのは、広瀬さんにとっては慣れっこらしい。
いつものやり取りに、私が混ざってしまって申し訳ないという気持ちになる。
「ねえ、村山さん」
白川さんが、酒で少し赤くなった顔で、私をじっと見る。
「お刺身がなんで美味しいか知ってる?」
「……? それは……その、白川さんが、魚が好きだからじゃないのか?」
「うふふ、それはもちろんそうなんだけどね、それだけじゃないのよ」
白川さんはどこか得意げにそう言ってから、もう一口、日本酒を飲んだ。
「私、気になって、調べたことがあるの」
「何を?」
「だから、どうしてお刺身が美味しいのかってこと」
「なんだそれは」
「だって気になるじゃない! どうしてこんなにお刺身は美味しいんだろう! って! それで気になってネットで調べてみたのよ、そしたらさぁ……」
白川さんはそこまで言って、ひとりでにくすくすと笑いだす。
その様子を私も広瀬さんも、少し困惑した様子で見守っていた。
「ふふふ、あのね、お刺身が美味しい秘密は、『アミノ酸』にあるっていうのよ! あはは、おかしいでしょ!」
「……アミノ酸」
「そう! アミノ酸! お刺身に含まれてるアミノ酸が、人間の体温であたたまって溶け出すと、舌の上で旨味として処理されて、『美味しい!』ってなるんだって! あっはっは! 私、それ見て、可笑しくなっちゃって! あはは!」
「琴音さん……笑いすぎ。酔っ払ってるじゃん」
「酔ってない、酔ってない! シラフでも笑うわよ!」
何が可笑しいのか、肩をぷるぷると震わせながら笑い続ける白川さん。
広瀬さんはその様子を困惑気味に見守りながら、ようやく一口目の日本酒に口をつけ、ついでにびんちょうまぐろの刺身をかじった。
「だってアミノ酸よ? お魚食べて、おいしいなぁって思う理由が、アミノ酸とかいうよく分かんない成分だって言うんだもん! 私、調べなきゃ良かったって思っちゃった」
「……それは、どうしてだ? 仕組みが知りたくて調べたんだろう」
私が訊くと、白川さんはこくこくと頷いてから、今度は首を横に振る。
「うん、そう。知りたくて調べたの。それは、そう。でもさぁ……なんか、思った以上に身も蓋もなかったから」
白川さんはそこまで言って、また少し上目遣い気味に私を見た。
「お魚が美味しい理由が、アミノ酸だって分かって……そこから得たものなんて、なんにもなかった」
「……え?」
「だって、私にとって一番大事なのは、結局『お魚が美味しい』ってことだけなんだもん」
白川さんはそう言って、ヒラメの刺身をひょいと箸でつまんで、醤油につけ、口に運んだ。
もくもくと咀嚼して、幸せそうな表情で、飲み込む。
それから、くい、とおちょこを傾けて、「く~~」と奥歯を噛み締めるように声を漏らした。
「私の舌、この馬鹿舌はさぁ、アミノ酸の味なんて、感じ取ることができないわけ。だから、アミノ酸が溶け出して美味しい、なんて情報、私にとってはなんの役には立たなかった。むしろ、滑稽だと思っちゃったの。ふふふ、お刺身が美味しいのはアミノ酸のおかげ! あはは、可笑しいんだ」
「滑稽だとしても、真実はそうだ。人間の舌は旨味成分をそのように処理するようにできていて、それが脳に届いて、美味いと感じる。それだけのことだろう」
私は、何故か食いかかるような声色で、そう言った。
どうしてか、いら立ちを覚えたのだ。広瀬さんが、細い目で私を見る。
「その、『脳の処理』っていうのも、私には分からないもの。私は、そのはたらきを、感じ取れない。分かるのは、『美味しい~』っていう気持ちだけ。そうじゃない?」
「それは、そうかもしれないが……」
「村山さん。きっとさぁ、私たちの身体は、私たちの思ってる以上に複雑にできてるんだと思う。でも、結局、私たちが分かることで判断していくしかないんじゃないかなぁ」
「分かることだけ……」
「そうそう、お刺身美味しい、お酒美味しい! それだけなのよ。お酒だってさ、きっとアルコールが脳のうんたらかんたらって部分に作用してどうたらこうたらって理屈があるんでしょう? でも、そんなのお酒飲んでる時には分からないもの」
「それは……」
「心だって、一緒でしょ?」
彼女のその言葉に、私の肩はぴくりと跳ねた。
知らぬ間にテーブルに落ちていた視線をゆっくりと上げると、私をじっ、と見る白川さんと目が合う。
嫌だな、と、思った。
その、私に分からないことを、きっと理解しているのであろう顔が、とても嫌だ。
「確かに、心の存在を確かめるすべはないのかもしれない。私はそんなこと考えたことなかったけど……言われてみれば、そんなものが身体の中のどこにあるのか、誰にも分からない。でも……」
それ以上言わないでくれ、と、思った。
でも、それは口にできなかった。
その気持ちと同じくらい、答えが欲しい、と、思っているから。
「楽しい気持ちも、悲しい気持ちも……どうしても、感じちゃうじゃない。ただの脳の信号だとしても、私たちには『ある』としか思えない。だったら……あるってことでいいんじゃない?」
分かり切っていた。
そうとしか言えないのだ。
私は、いや、誰もが。
生きている間じゅう、ずっと、心の動きによって、行動や感情を左右されている。
その動きのままに、生きてきたのだ。これまで、ずっと。
いくら言葉でそれを知り、深く考えたところで、それが覆ることはない。
存在の有無など、証明できっこない。
あるのかないのか分からぬまま、私たちはそれに身体を委ねて、生命活動を続けている。
「でも、じゃあ……心がない、というのは、どういう状態なんだ」
私は、絞り出すように言った。
「その、『心』とやらに支配されて動くのが人間なのだとしたら、心のない存在は一体なんだ。それは人間なのか? 分からないんだ、分からないから、演じることができない。私は心をなくしたことなど、一度も……」
「それをやってみるのが」
白川さんが私の言葉を遮るように口を開いた。
言葉の続きは、私にも分かった。
「あ……」
弱弱しい声が口から洩れる。
言わないでくれ。
そう思っているのに、私は黙って、彼女の言葉の続きを待ってしまった。
「創作の世界でしょ?」
白川さんから、無慈悲に、そんな言葉が発せられて。
思い知った。
やはり、私は「物を作る側」に立つ人間ではないのだと。
彼女の声は、あくまで、優しい。
子供を諭すように、迷う子羊を導くように、その言葉は私の胸にストンと落ちた。
何故なら、私の胸の中には、すでに……その答えがあったからだ。
分かっているのに、目を背け続けていた。
視線を落として黙ってしまう私を見て、白川さんは小さく吐息を漏らした。
「……ごめんなさい。元気づけようと思ったのだけれど……なんだか、説教みたいになってしまったわ」
「あ、いや……そんなことは……」
「ちょっとお手洗い。頭冷やしてくるわね」
「ああ……行ってらっしゃい……」
白川さんはにこりと笑って、席を立った。
「……」
私はそんなにも分かりやすく、暗い表情を浮かべてしまっていたのか。
自分のコミュニケーション能力の低さに、辟易してしまう。
コト、と、おちょこを置く音で我に返る。
広瀬さんが、遠慮がちに私の方を見ていた。
「……すまない。悪い雰囲気にしてしまった」
「……ううん、気にしないでください。琴音さん、ちょっと空回っちゃったみたい。……悪く思わないであげてほしいです」
「励まされてるのは、分かってる」
私が首を横に振ると、広瀬さんは困ったように笑った。
「……村山さんは、真面目ですね、とっても」
「そうだろうか。……いや、そうなんだろうな。ときどき、嫌になる」
「いいことですよ、多分」
広瀬さんはそう言って、徳利からおちょこへ、なみなみと日本酒を注いだ。
そして、くいっ、と思い切りあおった。
先ほどまでの控えめな飲み方と打って変わってアグレッシブな飲み方になったので、驚く。
広瀬さんはほうと息をついてから照れるように唇を尖らせた。
「……いない間に飲んでおかないと、あの人飲みすぎるから」
「……そうか。いろいろ大変なんだな、広瀬さんも」
「ほんとに」
くすくすと肩を揺すって、広瀬さんは数秒、何かを考えるように視線をテーブルに落とした。
「私も……よく、考えます」
「……? 何を」
「演技について」
広瀬さんはそう言って、おちょこの淵に、つい、と人差し指を這わせる。
「なりたい私とは別の役ばかり、私に回ってくるんですよ。求められてる私……そして、理想とはかけ離れた私でいることは、この仕事に直結してる」
くるくる、と人差し指を弄びながら、彼女はぽつぽつと言葉を続けた。
その様子は大人びていて、彼女のクールな風貌も相まって、独特な色気があった。
人と話すのもそこまで得意そうな印象がない彼女が、こうして、胸の内を語ってくれている。
これも、彼女なりの優しさなのだろう。
それらすべてを含めて、美しいな、と思った。
「私もときどき思うんですよ。心をなくせたら……って」
広瀬さんはそう言って、私を横目に見た。
「お仕事のために……いつか輝く自分のために、今の苦しさなんてすべて投げ捨てて、ひたすらに、ストイックに……求められる自分を演じられたら、どんなにかっこいいんだろうって。でも……でも……」
広瀬さんは、ぐっ、と奥歯に力を入れるように口を閉じた。
喉の奥に引っかかる言葉を無理やりひねり出すように、彼女の眉根に皺が寄る。
「そんなことはできない。私はまだ子供で、未熟な、人間だから……」
彼女は痛みに耐えながら、自分の未熟さを言語化し、体外に放出した。
私は、それを見て、ずきりと胸が痛むのを感じた。
これも、脳の信号なのだろうか。
こんなにも、明確に、胸の部分が、痛むのに?
「でもね……諦めて、やめちゃう勇気もないんです。こんなに苦しいのに、なりたい自分になるためだったら、まだまだ頑張らないといけないって思っちゃうんですよ」
広瀬さんはそう言ってから、私の方を見た。
先ほどまでのおずおずした視線とは違い、まっすぐだった。
美しいな、と思う。そして、やめてくれ、と、思った。
「村山さんは、違うんですか?」
「……私は」
スピードの出る特急に乗っている。
いつの間にか、乗り込んでいた。友人に手を引かれ、何の覚悟もなく、足を踏み入れていた。
ごうごうとスピードを上げていく列車に乗っていると、今までにない高揚感が私を包む。
どこまでもこの列車に乗って、走ってゆけるような気がしていた。
でも、ある時気付くのだ。
私はこの列車の乗車券を持っていないのではないか、と。
他の乗客たちが皆持っているそれを持たない私には、居場所がないように感じた。
なのに、誰も、私を下ろそうとするものは現れない。
皆それぞれに、車窓から外を眺めたり、揺れる列車の中で目をつむり、心地よさそうに身体を揺すったりしているのだ。
私は、どうしたらいい?
今、列車は減速を始めている。
次の駅に停まるのだ。
私は。
ポケットをまさぐっている。
どこかに乗車券があるのかもしれないと、必死で、ポケットを探っている。
もうすぐ電車が停まる。
それまでに、乗車券を見つけなければ、と、そう思っているに違いないのだ。
「私は……君たちとは……」
震える声で、そう言いかけた。
「ごめんなさい! トイレ並んでて……」
コツコツとミュールを鳴らして、白川さんが席へ戻ってくる。
ハッとして、私は喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。
広瀬さんも驚いたように白川さんを見てから、慌てて笑顔を繕った。
「お、おかえり」
「何話してたの?」
「ううん、なんでもない。アミノ酸の話してた」
広瀬さんはちらりと私の方を見てから、そう言った。
つくづく、気を遣われている。
これ以上ここにいるのはお互い気苦労だと思った。
「すまない、少し体調が悪くなってしまった。家に帰って休むとするよ」
「えっ? そうなの……それは残念ね」
白川さんはそう言って、私の背をさすった。
「突然誘ってごめんなさい。お大事にね」
「ああ、お代だが、2000円くらいで足りるだろうか」
「ううん、いいのいいの、突然誘ったし、私まだ飲むから。今日は奢るわ」
「そんな、悪いだろう」
「いいのよ、アルコールも飲んでないんだし。あ、そしたら! 村山さんが二十歳になって、お酒飲めるようになったら、その時は私に奢って?」
白川さんは優しく微笑んで、そう言った。
これ以上食い下がっても逆に申し訳ないので、私はその提案を飲むことにする。
「分かった。必ずだ」
「ええ。楽しみねぇ」
白川さんがもう一度私の背をさすった。
「それじゃあ、気を付けて」
「ああ。広瀬さんも、また」
心配そうな表情でこちらを見ている広瀬さんに会釈をして、私は店を出ようと出口の方へ身体を向ける。
「村山さん」
背後から、広瀬さんが声をかけてきた。
ゆっくりと振り返ると、広瀬さんは困ったような笑顔を浮かべて、言った。
「……お大事に」
「……ああ。ありがとう」
彼女の気遣いが、今はとても、苦しかった。
× × ×
居酒屋を出て、外の空気を吸うと、自分の体温の高さを感じた。
吐く息が、熱い。
本当に発熱をしているんじゃないか、と思った。同時に、そんなことはないのだと分かっている。
「……なんなんだ、一体」
小見川、白川さん、そして、広瀬さん。
三人の顔が、脳裏に浮かんで、胸が熱くなった。
「どいつもこいつも……!」
皆一様に、私を心から気遣ってくれていた。
私は、三人を気遣う余裕など、まるでないというのに。
「放っておいてくれ…………ッ!」
三人の前では言えなかった、子供のようなうめきが漏れる。
優しさに触れるたび、苦しかった。
他人の魅力に気付くたび、自分が嫌になった。
胸が痛い。
心臓のあたりが、きゅうと縮こまるように、痛むのだ。
なんなのだ、これは。
『考えないのにも、口実が要る』
思考停止なんて、私にはできない。
どんな口実があろうと、私の頭には文字が溢れ、それらの意味を追えと叫んでいる。
そのようにしか、生きてこなかった。
『ただの脳の信号だとしても、私たちには『ある』としか思えない。だったら……あるってことでいいんじゃない?』
どうしてそんなことが言い切れるのか分からない。
一度脳に入れた情報を、必要のないものだと断じて切り捨てることができない。
私は仕組みが知りたい。仕組みを知って、理解して、感じることで、生きていることを実感したい。
そのようにしか、歩いてこなかった。
『村山さんは、違うんですか?』
私は、違う。
君たちとは、決定的に、違う!
君たちのように、ひたむきには生きてこなかった!
叫び出しそうだった。
存在も分からない『心』が痛くて痛くて、涙が出そうだった。
車輪が、火花を上げながら、ブレーキをかけている。
「降りろ!」と言われたかった。
お前には乗車券がない。さっさと降りろ! 誰か、そう言ってくれ。
私の足は、気づくとリレープロダクションの事務所へと向かっていた。
ディレクターはもう、有理のオーディションの付き添いを終え、事務所にいるはずだ。きっと、ネコさんも。
今度こそ、自分の口ではっきりと言うのだ。
私には無理だと。
この列車から降ろしてくれ、と。
胸が激しく痛んでいた。
この痛みから、一刻も早く、解放されたかった。
早足になり、ついには駆けだして、私はリレプロへと向かった。
「んお、萌ちゃん、お疲れ様。どしたん、こんな時間に」
リレプロへ駆け込むと、ソファに寝転がったネコさんが目を丸くしていた。
「……あ……その……」
意気込んで駆け込んできたのに、いざとなるとうまく言葉が出なかった。
「れ」
「ん?」
「レッスン室を……貸してほしい……」
私はなぜか、そう言った。
ネコさんはさらに目を丸くして、それから、困ったように首を傾げた。
「いやぁ……この時間からはなぁ……そろそろ閉めようと思ってたし」
時刻は20時を回っていた。
確かに、いつもなら残業しているスタッフを覗いて、声優は帰されている時間だ。
「そ、そうか……」
「うん。なに? 急にやる気になっちゃった?」
「い、いや……そういうわけでは……」
「うーん? まあよくわかんないけど、座れば?」
ネコさんは彼女の寝転がる向かいのソファを指さして、あっけらかんと言った。
それと同時に、ガチャ、と会議室のドアが開いて、そこからディレクターと社長が出てくる。
「あら、村山さん。こんな時間にどうしたの?」
「い、いえ……別に……」
>「こんばんは」
二人から声をかけられて、私はぎくしゃくと会釈をした。
「Dくん、萌ちゃんにお茶淹れてあげて~」
「いや、私は、そんな……レッスンできないなら、帰――」
「待ちな待ちな。なんか話があって来たんでしょう。聞くからさ、お茶でも飲みながら。ほらDくん、早く~」
ディレクターはこくりと頷いて、給湯室へと入っていく。
社長は私を横目に見て、にこりと笑い、彼女のデスクの椅子をぎしり、と鳴らした。
もはや、帰らせてもらえる空気ではなくなってしまう。
決意を固めて来たつもりだったが、私は背中に汗をかいた。
「萌ちゃん、座んな~。あ、あとついでにさ」
ネコさんはすっくとソファから立ち上がって、手に持っていたスマートフォンの画面を私の方へ向けた。
「押して」
「へ?」
「真ん中のボタンをさぁ、ポチっと」
画面には、虹色の、「10連」というボタンが表示されていた。
ソーシャルゲームの、ガチャ画面のようだった。
「萌ちゃんに押してもらったら、当たる気がするんだよね」
「……誰が押しても一緒だろう」
「そんなことない、そんなことない。あたしが押すより、あかりが押した方がいいの出るもん」
「じゃあ、社長に押してもらえばいいのでは?」
「そんな嫌がることないじゃん。今日は萌ちゃんに押してもらいたいの」
ネコさんは折れずに、ずい、とスマートフォンを私に押し付けてきた。
「ほら、今日の運試し。ね?」
そう言って、ネコさんはにんまりと笑って見せた。
妙に緊張する。
ごくり、と唾を飲んで。
私は、震える人差し指で、ボタンを押した。
(#3 SSR へ続く)
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