締め切り#024 映画の日記一週間 2022年12月 / 篠原幸宏

映画の日記一週間のいきさつは2日目の日記に書いたんだけど、気軽な気持ではじめたら、いつのまにか一五〇〇〇文字の長文になっていて、ちょっとまいった。たぶん急に寒くなったせいかもしれない。それでワンテーマの日記にしてはあまりに長いので寄稿するかまよったんだけど、まあ、書いてしまったし、そのままのせることにした。長いけどよかったら読んでみてください。ちなみに、この企画は今のところ毎月やっていこうとおもってる。なので、来月からはともかくこの三分の一ぐらいの文量にして、リラックスしてつづけていきたい。

12月12日(月)1日目
ハル・ハートリーの『シンプルメン』はなんど見ても好き

 きょうはひさしぶりに映画を見た。まえに見たのはいつだっけか。たしか七月にインドネシアからかえってきたら、地元の映画館でヴィム・ヴェンダースの映画を毎週一本かけるってのをやっていた。ただ、それもほとんどはぼくが旅行をしているあいだにおわっていて、なんとか『ベルリン天使の歌』だけはまにあった。それで、そのあとはなにか見たかというとおもいだせない。もしかしたらそれが最後だったかもしれない。
 というわけで半年ぐらいぼくは映画を見てなかった。見てなかったのは、いそがしかったからというか、まあ、本を読んだり、音楽をきいたり、もちろん文章を書いたり、やることがいっぱいあった。そう書くと、べつにいそがしくないようにおもうかもしれないけど、そういう人にかぎって先月は仕事がいそがしかったけど、今月は暇だから時間がある、なんていう。ぼくは暇だなんておもったことはこの二〇年ぐらい一度もなくて、いつでも読みたい本が積んであるし、聞きたい音楽もいっぱいある。もちろん見たい映画もいくらでもある。
 でも、まあ、順番がまわってこなかったんだな。そういうわけで映画は半年ぐらい見てなかった。
 それで、ひさしぶりに見たのはハル・ハートリーの『シンプルメン』という映画で、これはシネマメンバーズというマイナー映画のサブスクリプションで見た。だから、映画館で見たわけじゃないんだけど、まあ、いいとしよう。
 それで、この『シンプルメン』なんだけど、銀行強盗をやってる男が主人公で、その男がひょんなことから弟と再会し、長いあいだあっていなかった父親をさがしに出かける、というはなしで、そのあいだにラブストーリーがあったり、サスペンスがあったりする。
 ぼくはまえにもこの映画は見たことがあって、たぶん二回見たような気もするし、一回かもしれないんだけど、いずれにせよ、けっこうまえのことだから、はなしの内容なんかはわすれていた。
 まず最初の強盗のシーンはおぼえていたんだけど、そのあとは、あれ、こんなはなしだったっけ? とおもった。けっこう印象的な場面もおぼえてなくて、たとえば、最初に向かうロングアイランドにいるミステリアスな女のコなんかもすっかりわすれていた。なんか雰囲気でいうとツインピークスのドナみたいなんだけど、ちょっとちがう。このコはすごくいい感じなのに、中盤以降はでてこない。だから、わすれていたのかもしれないんだけど、こんないいオンナをわすれるなんてな。
 それから、おなじパートにでてくるネッドという中年の男がいて、この人はエンドロールではネッド・ライフルということになっている。そのネッド・ライフルはもちろん同監督の『ネッド・ライフル』の主人公の名前で、美青年だったネッド・ライフルがこんなハゲかけたおじさんになっていた。でも『シンプルメン』は九二年の製作で、『ネッド・ライフル』はそれから二二年もあとの映画だから、順番は逆だ。だから、ただの同姓同名だとおもうんだけど……あるいは、監督はこのハゲかかった男性のキャラクターが好きで、そこから若いネッド・ライフルをつくったのか?
 そのあとも、どこなのかよくわからない田舎町のパートになって、重要な登場人物であるケイトという女性のこともすっかりわすれていた。この人はストーリーでもいちばん大事なキャラクターなのにまったくおぼえてなかった。
 その一方で、ケイトの友だちってことになってる黒髪で前髪パッツンのエレナのほうはちゃんとおぼえていて、この女性のアンニュイな目もとは一度見たらわすれられない。ちょっとクセがあるけど、それがうつくしく、またかわいくもある顔つきで、同監督の『愛/アマチュア』にもでていた。このコがソニックユースのクールシングって曲にあわせてダンスをするシーンは『シンプルメン』でもいちばんかっこいいシーンで、この映画の紹介にも「90年代で一番カッコいいダンスシーン」って書いてあるぐらい。だから、わすれるわけがない。
 それで、この映画は、だからこのエレナが画面にでてくるだけで、なんかいい感じなんだけど、それはさておき、ひさしぶりに見ると、革命みたいなはなしがあちこちにでてきて、だいたい主人公の兄弟二人の父親が革命家という設定だった。
 六〇年代に運動をやっていた人物で、大使館に爆弾テロをしかけた犯人ということになっている。でも、それは冤罪だというはなしもあって、兄弟の弟はそのことを気にしているし、兄のほうは気にしていないみたいだけど、じつは気にしてるのかもしれない。という感じに、この映画のなかでも、そのことが大きな謎ということになっている。
 しかし、この革命家の父親というのは、最終的にはでてくるんだけど、ちょっと胡散くさい感じだったな。なんか革命っぽい本なんかもっちゃって、自分が読みあげるのにあわせて、弟子たちに復唱させたりして……でもそれがうすっぺらい感じ。なにかモデルがあるのかもしれないし、ないのかもしれないし、よくわからないんだけど、ともかくぼくはあまり好きになれないなとおもった。
 ただまあ、そういうところはどうでもよくて、とにかくハル・ハートリーは軽快なのがいい。はなしの内容なんかは二の次だし、なんか微妙な登場人物も二の次だ。それよりも、リズムだったり、空気感だったり。とにかく九〇年代のインディペンデントの感じ。からっとして、抜けがよくて、スカスカなリズムにシンセのちょうどいいメロディがのってる音楽みたいな映画っていうか。ぼくは二〇代のころにハル・ハートリーを見たときはピンとこなかったんだけど、三〇代の半ばぐらいに見て、これがいちばんいいとおもった。それからはいちばん好きな監督の一人で、いまでは、ハル・ハートリーこそいい! とおもっている。


12月13日(火)2日目
シャンタル・アケルマン1本目『オルメイヤーの阿房宮』

 きのうにつづいてきょうも映画を一本見た。『オルメイヤーの阿房宮』という映画で、シャンタル・アケルマンという女性が監督している。この人は七〇年代から撮っている監督で、なん年かまえに亡くなったそうだ。フィリップ・ガレルなんかと交流があった人らしいけど、ぼくは知らなかった。最近、特集上映を地元の映画館でもやっていて、ぼくは見のがしたので、やっぱりきょうもシネマメンバーズのほうで見た。
 ところで、きのう一本映画を見て、きょうも一本映画を見た。二日つづけて映画を見るなんてことは、べつにめずらしいことでもなんでもないんだけど、ここ最近はそういうこともあまりなかった。このごろはすっかり映画も見なくなってしまって……というのは、きのうの日記にも書いたとおり。でも、いまでも映画を見るのは好きなので、見はじめるといろいろおもうこともあるし、日記をつけていても、だらだらとああだこうだ書いてしまう。
 それで、きょうは映画日記一週間というのをおもいついた。月に一週間、映画を見る週をきめて、その週は毎日映画を見る。それで、その感想を日記に書いて、それを一週間分の映画日記にして、自分のやっている同人誌のウェブサイトのほうにのせるというアイデアだ。同人誌のウェブサイトのほうは、もう半年以上放置してしまっていて、ちょうど書くこともなくてこまっていたところだったので、そっちの原稿がかけるのはありがたい。そのうえ月に七本は映画を見ることもできるわけで一石二鳥なんじゃないか、とおもったのだった。
 それできょうは映画日記二日目、ということにして、肝心の映画の感想なんだけど、この『オルメイヤーの阿房宮』はぜんぜんおもしろくなかった。はなしがおもしろいわけでもないし、映像がうつくしいわけでもない。むしろ画面が暗すぎてなんだかよくわからないシーンもおおく、しょっちゅうやってる長まわし撮影もほんとにただ長いだけでちょっと退屈だったな。
 舞台になっているのはマレーシアだとおもうんだけど、はっきりとはわからない。主人公はオルメイヤーという白人の男性で、現地の女性とのあいだに生まれた娘を溺愛している、ということは、娘は父親の束縛によって自由をうばわれている、ということで、まあ、そういうのはお決まりのストーリーって感じ。それで最初の場面は、その娘がどこかのショーで踊ってるところからはじまるんだけど、そのステージのうしろにあるのはタイ文字みたいだから、彼女は最後にはマレーシアからタイに逃げたってことなんだろう。そういうことが、映画がすすむにつれてわかってくる。それで、白人と植民地とか、父と娘とか、そういう関係が重ねあわされて……みたいなことなんだろうけど、まあそういうポリティクスのはなしはぼくはどうでもいいんだな。だからなに? っておもってしまう。それって鈍感なんだろうか、敏感なんだろうか? それはいいとして、ともかく東南アジアの街路やジャングルの雰囲気だけはたのしめたし、その蒸し暑い感じもつたわってきた。
 ところで、シャンタル・アケルマンという監督をぼくは聞いたことがなかった。もしかしたら、聞いたことがあったのかもしれないんだけど、記憶にのこってなかった。聞いたことがあったとしても、本で名前を見たとかそういうことで、日本で上映されたことはほとんどなかったんじゃないかな。つまり知られざる作家ということになるんだろうけど、最近はコロナで映画がつくれなかったせいか、そういう上映がよくあって、でも、あまりおもしろかったというのはすくない気がする。
 去年のケリー・ライカートなんかは、そんななかではよかったほうで、ぼくはけっこう好きなんだけど、でも九〇年代にこの映画を日本で上映しなかったっていう判断もわからなくはない。フレッシュですごくいい映画、でも、だれもがいいっていう感じではない。当時の空気みたいなものが映画のなかにしっかりあって、それがいま見たときにすごくいい感じになってるとおもう。
 たぶん、ほんとうにすぐれた二〇世紀の映画というのは、すでにもう上映されていて、ほとんどのこってないんじゃないかな。だって、文句なしにおもしろかったら、その当時に日本で配給がついていたはずで、日本はそのころのほうがずっとお金もあったし、映画を見る人もおおかったはずなんだから。それなのに、いまごろになって発掘される映画というのは、まあ、いま見ると意外といいとか、わるくないとかで、だけど、ほとんどは当時配給がつかなかったってことだから、そういうもののなかにとんでもない傑作がある、というのは、そんなにないんじゃないかって気もする。まあ配給の仕組みとかよく知らないんだけどさ。
 ともかく、それなのに、このシャンタル・アケルマン特集上映のホームページなんかを見ると「映画に革命をおこした女性監督」なんて書いてあって、ほんとうに革命をおこしていたなら、もっと早く日本でも上映されてたんじゃないの? と、ちょっといじわるなことをおもったりもした。


12月14日(水)3日目
きょうは映画は見なかったけど、今年見た映画のまとめ

映画日記三日目、というわけなんだけど、きょうは映画を見れなかった。なんで見れなかったかというと、よくわかんないうちに気づいたら一日おわってた、という感じで、そういうことはときどきある。べつに記憶喪失ってわけでもないんだけど、ああ、もう寝る時間か、という感じ。そういう感じで、気づいたら一年たってたとも言える。そんなわけで、書くこともないので、今年見た映画をふりかえってみることにした。それで、印象にのこったものだけ書きだしてみようとおもう。
 一月は『HHH:侯孝賢』というドキュメンタリーがすごくよかった。一九九七年の映画で、監督はオリヴィエ・アサイアス。侯孝賢が長渕剛の『乾杯』を歌いあげるシーンがすばらしい。なんか男気の人なんだなとおもって、それにも感動した。今年見た映画ではアピチャッポン・ウィーラセタクンの『メモリア』とならんでベストかもしれない。上田映劇でデジタルリマスター版で見た。
 一方で、おなじ日におなじ映画館で見たハーモニー・コリンの『ビーチ・バム』って映画は最低だったな。ダントツのワースト。こんなひどい映画ひさしぶりに見た。コロナまえの映画で、いまごろになって日本で上映ってのは、やっぱりつまんなかったから、ずっと公開されなかったんだろうってかんぐってしまった。
 二月はなんといっても『ドライブ・マイ・カー』で、これはすごくいい映画だった。まあ、だれもがいいって言ってるから、いいに決まってるんだけど。でも、チェーホフのテキストってのはちょっとだけズルかった。チェーホフのテキストは特別だ。そういう特別なチェーホフのテキストも映画のなかではちゃんと活きているのがすごくよかった。それで、でも、いつもおもうんだけど、濱口竜介の映画の登場人物はなんであんなに真面目で不機嫌なんだろうな。まさにシリアス・ジャパニーズって感じで、冗談なんか一ミリもつうじなさそうな感じがすごい。ぼくだったら、あんな演劇監督の運転手もしたくないし、あんな運転手のクルマにも乗りたくないんだけど。そういう意味では、濱口竜介の映画は不機嫌なロメールって感じがする。
 あと二月はキアロスタミの特集上映もあった。ぼくはキアロスタミはいちばん好きな監督のひとりなので、もうあらためて書くことはなんにもない。とにかくすばらしかったし、デジタルリマスターで鮮明になった映像を、映画館の大きなスクリーンで見ることができて、ほんとうに感動した。
 それで三月。この月は、ちょっとまえの映画で、気になってたやつを配信で見てた。そのなかで『フランシス・ハ』って映画はよかった。とにかく、ちょうどいい感じ。派手さはないけど、こういう映画は素直でいいなっておもう。それから『ローサは密告された』ってのもよかったかな。とくに前半の警察署のシーンなんかこっちまでいやーな蒸し暑さがつたわってくるようだった。あと古い映画でキエシロフスキの『トリコロール』三部作。もう十五年ぶりぐらいに見たんだけど、九〇年代のヨーロッパ統合の空気がよかった。そういうえばEUってあったんだな、としんみりしてしまった。
 四月は、アピチャッポン・ウィーラセタクンの『メモリア』で、アピチャッポンもぼくはいちばん好きな監督のひとりなので、あまり書くことがない。高崎で一回、長野で一回見たんだけど、二度ともすごくよかった。今回の『メモリア』は、やっぱり音の映画って感じ。音の映画っていうと、映画を音と映像の組みあわせ(ソニマージュ)と考えたゴダールのことをすぐにおもいだす。ゴダールが音をカットアップみたいな方向性でつかっていったのにたいして、アピチャッポンはポーリン・オリヴェイロスのディープリスニングみたいなアイデアで、音と映像の組みあわせをやったんじゃないかな、っておもった。
 それで五月は、そのアピチャッポンの新作公開にあわせて、地元の映画館でも特集上映があって『ブンミおじさんの森』と『光りの墓』もひさしぶりに劇場で見た。とところで、このときは『世紀の光』は直前で上映が中止になっちゃって、その経緯もどこかで聞いたんだけど、それが、そんなこと本当にあるの? みたいなはなしで、おかしかったな。
 あと、この月は、ぼくのまわりの人たちもみんな絶賛してた『カモンカモン』も見たんだけど、まあ、これは個人的にはふつうだったかな。マイク・ミルズってミランダ・ジュライと結婚しちゃったのか……みたいなことはおもってて、ぼくはミランダ・ジュライの小説はきらいじゃないけど、そんなにおもしろいともおもわない。なんか感性があわない感じ。製作のA24ってチームの映画もだいたいそんなイメージで、スタイリッシュなまあまあいい映画、みたいなものを量産する感じが、なんかちがうんだよなっておもっちゃう。だから『カモン・カモン』もいい映画だとはおもうんだけど、まあ、個人的にはふつうかなって感じで、やっぱり、子どもがいたりすると、この映画もずいぶん印象がかわるんだろうな、っておもった。
 次の六月は、地元の映画館でヴェンダースのデジタル・リマスター上映があったんだけど、ぼくは中旬からインドネシア旅行にいくことになってたので『都会のアリス』だけ見て旅行にでかけてしまった。『都会のアリス』はひさしぶりに見て、なんでこんな不穏な音楽なんだ? っておもった。もちろんいい映画。
 それで七月は後半にかえってきて、ヴェンダースがまだやってたので『ベルリン天使の歌』だけ見れた。これももうなん回も見てるんだけど、今回のデジタルリマスターはもう色がぜんぜんちがった。ヒロインのマリオンの肌の色なんか、とってもうつくしくて、ちがう映画みたいだったな。もちろん傑作。
 八月はホン・サンスの比較的あたらしい作品二作が印象にのこった。タイトルわすれたんだけど、どっちもまあまあだった。ホン・サンスってすごく期待してるわけでもないんだけど、ときどきすごくいいし、ダメでもすごくダメってこともなく、いつでも金太郎飴みたいにどこを切ってもホン・サンスなので、今回もそんな感じでよかったな。ちなみに濱口竜介が不機嫌なロメールだとすれば、ホン・サンスは激情型ロメールというか。みんなやけに情にあつくて、とつぜん怒りだしたり、とつぜん泣きだしたり、とにかく感情が濃い気がする。
 それで九月ということになるんだけど、なぜか今年はここからはすっかり映画も見なくなってしまった。配信も映画館も一回も見てなくて、気づいたら一二月になっていた。それではじめたのが一週間の映画日記で、いまこれを書いている。


12月15日(木)4日目
今季いちばんの冷え込み、
シャンタル・アケルマン2本目『アンナとの出会い』

 きのうの夜、かえり道の温度計はマイナス三度だった。今朝はぐっと冷えこんで、起きたら寝室の中も一度になっていた。この冬になっていちばんの冷え込みで、いよいよ冬がきたという感じ。とはいえ、これから三月ごろまではずっとこんな日がつづく。ぼくは冬が大きらいだからユウウツでしかない。
 それで映画日記なんだけど、きょうは四日目。おとといシャンタル・アケルマンのなんとかの阿呆宮という映画を見て、それでイマイチだった、みたいなことを書いた。とはいえ、阿房宮はわりと最近の作品だし、それだけ見て、アケルマンはもういいか、とするのももうよくない気もするから、やっぱりもう一本ぐらいは見てみることにした。それできょうは一九七八年の『アンナとの出会い』を見てみた。
 この映画は、映画監督をしているアンナという女性が、仕事先のドイツからベルギーへ電車でかえるんだけど、その途中で出会うなん人かの人物と会話をする、というはなしで、会話が映画の中心になっている。
 アンナが出会うのは五人の人物で、まあ、それぞれがそれぞれのはなしをする。それでそのはなしというのは、自分の生まれだったり、いまの生活だったり、なんだかとりとめがない。もっとも、とりとめがないことは退屈ってことではなくて、とりとめがないことがおもしろい映画はたくさんある。でも、この場合はどっちだろうか。ぼくはちょっと眠くなった。
 アンナは若くもないし年よりでもない知的な女性で、とくに生活にこまってる感じでもない。そういう女性が一人でふらふらと旅先をさまよっている。なにかうまくいってない感じで、ちょっとおもくるしい。不安とか、孤独感とか、空虚さとか、とにかくどんよりしていて、結局、そのどんよりの原因がなんなのかはよくわからない。
 ぼくは最初、そのどんよりをただのどんよりだとおもっていて、なんだかどんよりしてるな、陰気な感じだな、アンナ元気だせよ、とおもって見てたんだけど、見おわってから、ああ、そういえばこういうどんよりした感じってあったな、とおもった。
 どこにあったかといえば、七〇年代のヨーロッパ映画で、その時代のヴェンダースとかアントニオーニとかベルイマンとか、ぜんぜん作風もちがう監督なのに、どんよりしてるのは共通していた。たとえばヴェンダースの『まわり道』とか『ゴールキーパーの不安』なんか冬の北陸みたいに暗い。きのうもちょっと書いたけど、はなし自体はそんなにどんよりしてないはずの『都会のアリス』でさえ、音楽だけすごくどんよりしていて、なんでこんな不穏な曲をつかってるのか、ヘンな感じだ。
 たぶんその時代のムードだったんだとおもうんだけど、そういう時代のなかにこの『アンナとの出会い』もあって、漠然とした不安、孤独、空虚さ、みたいなものを主人公のアンナはかかえこんでいて、それが映画全体をおおっている。
 でも、最初のほうでアンナがだれかの客室のまえに出された食事の皿から、グリーンピースをつまんでたべる場面はユーモアがあってよかったな。なんでアンナはひとのたべのこしのグリーンピースなんかつまんでるのか。ヘンなシーンだ。アンナはその部屋のまえに脱いである靴にも興味をしめしていて、この場面もぼくはどういう意味があるのかわからなかったけど、なんとなくおかしかった。そもそも、廊下にはたくさん靴がならんでいて、みんな靴を脱いで部屋にはいってるらしい。七〇年代にはそういう習慣があったのか? なんか不思議な場面だった。
 あと、この映画は、最初から最後までほとんどすべてのシーンで構図がシンメトリーだったり、シンメトリーじゃなくても水平垂直が几帳面にとられていて、すごくカチッとしている。駅のプラットフォームを乗客が歩くシーンなんかも、カメラが水平に横移動して、列車はその反対のほうへ並行にうごいていく。そういうことは、そういえば、阿房宮のほうでもやってたかもしれない。それで、だからなに? ともおもうんだけど、シンメトリーなのはシンメトリーであることが、おもしろいんだろうな。それでやっぱり、そこにもなにか意味があるのかもしれないし、ないのかもしれないし、わからないんだけど、そのきっちりした構図がこの映画の雰囲気をつくってるところはあるとおもった。


12月16日(金)5日目
ジュリア・デュクルノー『チタン』はおっかない映画

 きょうは『チタン』という映画を見た。めずらしく新作で、といっても二〇二一年の製作。日本では今年の前半にやっていて、たしか四月に高崎で『メモリア』を見たときにチラシで知った。二〇二一年のカンヌのパルム・ドールということで、なんか雰囲気も好きな感じで、見ようとおもってたんだけど、いつのまにかおわっていて、そのあと地元の映画館でやってたのもやっぱり見逃した。それで、きょうはユーネクストで購入して見てみることにした。
 というわけで『チタン』なんだけど、これは子どものころに自動車事故にあって、頭蓋骨にチタンプレートを埋め込まれた女のコが主人公で、事故にあったときはたぶん小学生ぐらいなんだけど、メインのストーリーのほうはこの女のコが大人になって、といっても二〇歳ぐらいだとおもうんだけど、ともかくダンサーになっていて、それもカーウォッシュっていうのか、ビキニ姿のセクシーな女性が泡だらけになって大きなアメリカ車を洗いながらダンスするっていう、あの、だからカーウォッシュのダンサーになっていて、そのセクシーなダンスからはなしがはじまる。そのシーンがほんとうにかっこよくて、舞台はたぶんフランスだから、フランスにもカーウォッシュってあるんだなあ、とか、こういうのって日本にもあるけど、日本人がやるとなんかどんくさい感じになっちゃうんだよなあ、とかおもってるうちに、バイオレンスなことになっていって、そのあとは、そのバイオレンスがどんどん過激になっていって、ずーっとバイオレンスな感じの映画だった。
 主演のアガト・ルセルという女優はキル・ビルのユマ・サーマンみたいにおっかない顔、というか、もっとおっかない顔で、ユマ・サーマンの一〇倍ぐらいおっかないことをしていて、とてもこわい。
 交通事故にあってクルマを偏愛するようになる、という設定はもちろんJ・G・バラードの『クラッシュ』をおもいだすんだけど、ぼくは『クラッシュ』の映画のほうは見てなかったんじゃないかな。たしか監督はデヴィッド・クローネンバーグだったとおもうんだけど、クローネンバーグの映画もバイオレンスなシーンがおおくてぼくは苦手だから、見てないんだろう。バラードの原作はむかし読んだんだけど、わすれてしまった。そんなに好きじゃなかったかな。でも、クルマっていうのはすごく象徴的な装置だから、それをクローズアップしていくことで、物語の意味の層が厚くなっていくのはまちがいない。
 それで、そういうクルマはもちろん男性的なマチズモを象徴してる、っていうのは別段フェミニズム批評なんかをもちだすまでもなく、すごく表層的であたりまえのことだけど、それをビキニの女性が泡だらけになってセクシーに体をくねらせながら洗車するっていうダンスというのも意味をおびてくるし、かんぐっちゃえば、冒頭の交通事故にもその枠組みで意味を見つけることもできるだろう。
 ただ、この映画のすごいところは、そこから見えてくる男性とか女性という問題、つまりジェンダーの問題について、政治的な正しさの枠組みにおさまらないかたちで思考しているってことで、そういうことに高いレベルで成功したこの映画に、カンヌ映画祭がパルムドールを送ったってことは、ぼくはちょっと映画祭のほうも見なおした。
 政治的な正しさ、つまりポリティカル・コレクトネスと呼ばれるような諸問題について、芸術がそれを作品内であつかうことは、いまはとてもはやっている。でも、そういうのはたいてい、悪役を悪役として描き、正義を正義として描き、ポリティカル・コレクトネスの枠組みのなかで正しい作品になってしまうことがおおい。それはそれで運動として意味のあることではあるとおもうんだけど、そういうはなしは、つまりあらかじめ決められた正しさのなかで正しさを語ってるわけで、知ってる人にとっては、もう知ってる、というか、言われなくてもわかる、というか、でも、言われなくてもわかることなんかは、やっぱり退屈でしかないだろう。
 そうではなくて、政治的な正しさの枠組みにおさまらないかたちで、というのは、あらかじめ設定された正しさを前提にして正しさを思考しないことだ。それはポリティカル・コレクトネスの逆張りをして保守的になったりすることではぜんぜんなくて、映画を撮ることがラディカルに思考する。この映画は、ジェンダーについて、あらかじめ設定された正しさから出発していない。それで、その場で起こっていく出来事からジェンダーの問題を思考しているようにぼくには見えた。すくなくともこちらが想定していた以上のところでジェンダーの問題があらわれる。ジェンダーについて思考する映画なのではなくて、映画でジェンダーを思考している、というのがすごいことで、でも、だから、こっちも混乱する。でも、ほんとうは芸術が作品内で政治や思想をあつかうってことはそういうことだろう。
 というわけで、この『チタン』がすごい映画だった、ということを暑くるしく書いてきて、きょうこそはさくっと短くまとめようとおもいつつ、まったくそのようにはならず、そのうえいまさら、こんなことをいうのもアレなんだけど、じつは、ぼくはこの映画を半分ぐらいしか見れていない。というのは、ずっと耳をふさいで半目で見てたからで、ぼんやりとしか見てない場面が半分ぐらいになってしまった。
 ぼくはとにかく痛いシーンが(あと幽霊と宇宙人も)ダメで、どのくらいダメかというと、たいていの映画の拷問シーンは目を閉じてしまうし、手術シーンもダメ、ナイフで刺されるシーンもダメ。注射器ですらダメで『パルプ・フィクション』でトラボルタがユマ・サーマン(さっきからユマ・サーマンが二回もでてくるのはなんでか?)の胸に注射器を刺す程度でも見てられない。
 ところが、この『チタン』はそんなものではなくて、最初から最後まで、その二〇倍ぐらい痛々しいシーンがずっとつづく。だから、半分しか見てない、というのはほんとうで、この映画の評価とは別のところで、生理的にダメだった。
 だから、半分見たというだけで、この映画はすごい、と言ってるわけで、まったく見当ちがいなことも書いてるかもしれない。ただ、奇想と暴力と性のバランスが絶妙だとはおもったし、そのうえでいまっぽい問題をしっかり映画におとしこんでいるのもすごいとおもった。ただとにかくずーっと痛いので、ぼくは苦手だった。


12月17日(土)6日目
映画は見てないけど……
ブルース・チャトウィンとヘルツォークのはなし

  きょうは朝から資源ゴミ回収の当番があって、いつもよりずいぶんはやくおきた。それで、なんか一日じゅう頭がぼーっとしていた。
 ぼくの住んでる自治体の資源ゴミ回収は朝の六時半から七時までで、当番が四か月に一度まわってくる。なんで、そんなに朝はやいのか意味がわからないんだけど、このへんの人はみんな六時にはおきてるってことなんだろうか。いや、もっとはやくおきてる。六時半にいって立っていても、ちゃんとその時間にみんなゴミをだしにくるからびっくりする。ぼくは、そういう人たちがクルマにつんできたゴミをわけるのを手つだったりするわけだけど、まあ、感覚としては半分ぐらい寝ているような感じで、七時におわって家にかえって二度寝をしても、やっぱり一日調子がわるい。
 そんなわけで、まあ、パッとしない一日で、きょうは映画も見ることができなかった。そのぐらいのことで映画が見れないなんていうのはダメだろう。じっさい、映画を見れなかったのは、ほかにもいろいろ事情があるので、ゴミ回収のせいにするのはちょっと言いわけみたいなところもなくはない。
 ただ、まあそれでも映画日記ということなので、映画のはなしをすこしすると、最近、ブルース・チャトウィンの『パタゴニア』を読みはじめた。というのも、来週から地元の映画館でチャトウィンの映画の上映がはじまるからだ。
『歩いてみた世界――ブルース・チャトウィンの足跡』という映画で、監督はベルナー・ヘルツォーク。ぼくはぜんぜん知らなかったんだけど、ヘルツォークとチャトウィンは生前に交流があったらしい。ヘルツォークがパタゴニアや中央オーストラリアといったチャトウィンが旅した土地をたどりなおしたドキュメンタリーだという。
 ヘルツォークといえば、もうなん年かまえに『世界最古の洞窟壁画』というドキュメンタリーもあって、これもヘンな映画でよかった。フランスで世界最古の洞窟壁画を撮影していたはずなんだけど、いつのまにか原子力発電所とワニのはなしになってた気がする。なんでワニのはなしになってしまったのかよくおぼえてない。
 ともかく、今回もひとすじなわではいかないドキュメンタリーになっていたらいいな、という期待もするし、そもそもチラシに池澤夏樹が書いているように、チャトウィンとヘルツォークという組み合わせだけで「頭がくらくらする」感じだ。
 ぼくはヘルツォーク映画は大好きで、見られるものはなんでも見ることにしている。二〇代のころに『フィッツカラルド』とか『アギーレ神の怒り』なんかを見て、そのあとはじから見ていった。最近だと、といっても一〇年以上まえなんだけど『バッド・ルーテナント』も最高だった。ニコラス・ケイジの怪演がすごい。ヘルツォークといえばクラウス・キンスキーとのコンビだとおもうんだけど、やっぱり怪優との相性がいいんだろう。ヘルツォークでいちばん好きな映画かもしれない。ふつう、こういうレジェンド的な監督は晩年ぱっとしなかったりすることもあるけど、ヘルツォークはたんたんと傑作をつくりつづけてるのがすごいとおもう。
 それから、もうひとつこの人のはなしをすると、最近『氷上旅日記』が復刊された。この本は、もう一〇年以上品切れになっていた本で、一時期は古本が一〇〇〇〇円ぐらいすることもあった。内容は一九七四年の冬にミュンヘンからパリを徒歩で旅したときの日記で、なんで一人で冬のヨーロッパを歩いたかといえば、ミュンヘンからパリまで歩ききることができたら、危篤の友人が助かるような気がしたからだった。ぼくはこの本を復刊のタイミングで読んでみたんだけど、当時のヘルツォークは窓ガラスを割って勝手に空き家に侵入して寝てたり、ものを壊したり、なかなか野蛮ですごい。ヘルツォーク自身が怪人みたいなところがある。この本の復刊のことも今年はあったな。
 それで、はなしを『歩いてみた世界――ブルース・チャトウィンの足跡』にもどすと、上映自体は今年の前半にはじまっていたらしい。ぼくはあまり映画の情報もチェックしていないから知らなくて、最寄りの映画館にくるタイミングで知った。岩波ホールの閉館まえ最後の作品だったらしい。それで岩波ホールって閉館したんだな、としみじみおもったりもした。


12月18日(日)7日目
ジャック・リヴェットの『デュエル』は不思議な映画

 昼食にタコのスパゲティ。夕食にY食堂でワンタンメン。午後は雑用があったんだけど、家だとまったくやる気がしなかったのでマクドナルドへいった。コーヒーを飲んで、請求書とか自治会の雑用を片づける。ぼくはコーヒーはスタバ、マクドナルド、ミスド、サイゼ、デニーズ、ガストという順番に好きで、ロイホは住んでる町にない。
 二月のタイ旅行の航空券をとった。とりあえず往路はエアアジアXでクアラルンプール経由バンコク行きがなんと一九五〇〇円! トランジットも三時間であってないようなものだった。コロナまえにもどったみたいでうれしい。さっそくSの分と二枚予約した。夜にセブンイレブンのドーナツをたべた。おいしかった。
 というわけで、映画日記は七日目なんだけど、すでに六日間で一〇〇〇〇文字以上書いていて、そういう予定ではなかった、ということにきょう気づいた。そんなわけで、手短に書く。
 きょうはジャック・リヴェットの『デュエル』を見た。一九七六年の製作で、探偵ものみたいな感じではじまるんだけど、いつのまにか太陽の女王と月の女王のたたかいになっている、という不思議な映画。
 太陽の女王役の女優はどこかで見たことがあるとおもったら、ぼくの大好きな映画『ブルジョワジーの密かなたのしみ』にもでているビュル・オジェだった。この人は、顔つきもたたずまいもかわいらしい感じなんだけど、とつぜんおばさんっぽい顔になるときがある。最初のほうでビュル・オジェが駅の構内でターゲットの男性を尾行するシーンがよかった。あまり明るいシーンがない映画なんだけど、ここだけは自然光がバーンと差しこんでいて、それがかえってミステリアスな感じになってる。白昼夢みたいな感じ。
 月の女王はジュリエット・ベルトで、この人はゴダールの『中国女』のアンヌ・ヴィアゼムスキーじゃないほうっていえばわかりやすいか。ぱっちりした目がきれいな人だけど、やっぱりこの人も、シーンによって年齢の印象がかわる。ぼくは最初にホテルにたずねてきたときと、そのあとの水族館のシーンで、おなじ人だと気づかなかった。最初にホテルにあらわれるときは、白いマシュマロみたいなものがいっぱいついたヘンな帽子をかぶっているのがすばらしい。あんなヘンな帽子は見たことがない。でも、そのあとで水族館のシーンはベレー帽なんかかぶっていて、今度はとてもおしゃれな感じ。たぶん、オリーブ女子の原型になったロメールの映画なんかとおなじ時期のフランスって感じがして、いまでもこういう服装の女性はおしゃれな人だろう。それなのに、そのおしゃれな女性の背後の水槽にはウミガメと錦鯉みたいな魚が泳いでいるのがすごくいい。錦鯉みたいな魚が口をぱくぱくさせていて、ここはこの映画でいちばん好きなシーンのひとつで、すごくおっとぼけでよかった。
 そんな太陽の女王と月の女王がたたかっている。ナイトクラブで最初のたたかいがはじまる場面なんかもびっくりした。二人がとつぜんほんとうのすがた(?)に変身するんだけど、あの衣装もいい。それで、でも、あの衣装はあのシーンしかでてこないのはなんかもったいないな。
 それで、まあ、ほかにもいいシーンはいっぱいあるし、ホテルの受付をやっていた女のコなんかも大事な登場人物で、このコのことにもふれたいんだけど、まあ、とにかくきょうはみじかく書くってことなので、はなしをまとめることにする。
 じつはリヴェットの映画を見るのははじめてだった。しらべてみると二〇〇八年にも特集上映があったみたいで、そのときはぼくも東京に住んでたはずなんだけどなぜか見てなかった。それで今年の春にデジタルリマスター六作品が公開になって、それもやっぱり映画館では見るタイミングがなくて、それを配信で見たのがきょうってことになる。
 だから、どんな作家なんだろうとおもってみたところがあったんだけど、最初から最後まで不思議な感じでおもしろかった。それでいて、ちょっとふざけてるところもあって、おっとぼけ感がいい。七〇年代のブニュエルの映画なんかにも通じるところがある気がする。でも、リヴェットのほうが素直で、あかるくたのしい感じ。だから、ロメールとブニュエルの中間みたいな感じ、というと、まあ見当ちがいだとおこられるかな。でも、一本だけ見たところでは、そんなこともおもった。
 ぼくは映画はちょっとふざけているほうがいい。ちょっとふざけている、という感じは、いまではわかりにくいかもしれないし、そういう映画もすくない気がする。でもロメールもブニュエルも(それにゴダールなんかも)ふざけているところがあるとおもう。ぼくはそういう映画が大好きなので、リヴェットはこれから他の映画も見るのがたのしみだ。 


篠原幸宏

1983年生まれ。長野県上田市出身。『締め切りの練習』を編集発行。旅行記『声はどこから』(2017)


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