締め切り#017 読書エッセイ「戦後の生活改善事業と新生活運動のはなし」 / 篠原幸宏

1 生活改善ということで……

 「生活改善ということで香典は千円で……」という言葉をはじめて聞いたときは混乱した。この地域に引っこしてきた最初のころで、おどろくよりも慣れるほうが先だった。ここでは葬式の香典は千円と決まっているんだと理解して、それからは毎回「生活改善ということで香典は千円で……」を聞いて、千円をつつんでいた。疑問をいだきはじめたのはしばらくしてからのことだ。「生活改善ということで……」とは「どういうことで……」なのか? あたりまえのように老人たちが口にする生活改善というのはなんなのか? 生活改善という言葉のことが気になりはじめたのはもうなん年もまえのことだ。


 最近、宮本常一の『日本人の住まい』という本を読んでいて「生活改善」という言葉を見かけた。この本を読みはじめたのは、いま自分が住んでいる古民家の間取りやそこでの生活のことを知りたかったからだ。それはともかく、そこにあった文章からは「生活改善」という運動が戦後の高度成長期にあって、その時期に農村の暮らしはおおきく変わったのだというようなことが書かれていた。しかし、そうしたはなしはほんの数行あっただけだったとおもう。それで、私はふたたび生活改善のことが気になりはじめた。


3 それで調べてみた

 まず戦後の生活改善についてグーグルで検索してみたが、それに該当しそうな記事は見つからなかった。「生活改善」と検索窓に打ちこむと、上位にでてくるのは現代の食生活改善についての記事ばかりで、高度成長期のはなしはない。またウィキペディアにも「生活改善」という項目はみつからない。いまどきウィキペディアにもないような運動があるのだと私はそのことにもおどろいた。(あとでわかったことだが、生活改善はきちんとした政府主導の社会事業だった。それがウィキペディアにも項目がないというのは不思議なことだ。明治期に民俗学がはじまるまで、民衆の生活や風俗がほとんど記録されてこなかったことはよく知られている。しかし、いまでも、やっぱり農村のはなしだった「生活改善」はウィキペディアにも項目がない。これは都市と農村の情報のかたよりなのか、高度成長期という近過去の記述が薄くなる傾向にあるのか、どっちなんだろう。)


4『暮らしの革命――戦後農村の生活改善事業と新生活運動』

 さっきから私は生活改善、生活改善といっているが、それはその言葉をはじめて聞いたときの感じをそのまま書いているので、いまこの文章を書いている私は、その正式名称が「生活改善普及事業」だということを知っている。というのも、そのあとで『暮らしの革命――戦後農村の生活改善事業と新生活運動』という本を見つけて読んだからだ。そこには、この生活改善普及事業が、戦後まもなく農林省が推進した運動で、その後の新生活運動とともに、戦後の農村の暮らしをおおきく変えることになったことが書かれている。
 たとえば、この運動をとおして、農家では煙がくすぶって部屋をススだらけにしていたカマドの使用をやめて、煙突のついた改良カマドをつかうようになった。明かりとりのないまっ暗な農家は土壁をこわして採光用の窓をつけるようになった。万年床をやめて布団を干すようになった。人間の屎尿を畑の肥料につかうのをやめた。回虫検査と駆除薬を飲んで、回虫所有者を大幅に減らすことができた。というようなことが実例とともにくわしく書いてある。
 『暮らしの革命――戦後農村の生活改善事業と新生活運動』という本はとてもおもしろい本で、だから、私がこのあと書くことは、だいたいこの本に書いてあることだ。だから、ここに書いていることは、この本を読んだらもっとくわしく書いてある。しかし、インターネットにはこの生活改善についての記事がほとんどない、というのはさっき書いたとおりだから、こうして書くのは読書ノートのようなものだ。だから、主観的なものだから、正しいことだけが書いてあるわけではないけど、生活改善について正しい情報を知りたい人はともかくその本を読んでもらったらいいとおもう。


5 引用(生活改善と新生活運動の概略)

『暮らしの革命――戦後農村の生活改善事業と新生活運動』
田中宣一編、農山漁村文化協会、二〇一一年

 はじめに
 第二次世界大戦後のわが国では、物質的精神的あらゆる面で疲弊した状態から生活を早く立て直そうとして、生活改善とか新生活という運動が熱心に提唱され、実行に移されていた。その二本柱として、当時の農林省が推進した生活改善普及事業と新生活運動協会が主導した新生活運動があった。(1ページ)

 戦後の二大潮流は、主として衣食住・保健衛生の改善や農村婦人の重労働からの解放を強く推進した生活改善普及事業と、主として公衆道徳心の高揚や冠婚葬祭の簡素化、虚礼の廃止・迷信の追放、家族計画等を強く訴えた新生活運動だと言うことができる。二つの活動は究極の目的は同じであるが、前者はどちらかというと物的改善に力点をおいており、保健所活動もこれと似ていた。それに対し後者は慣習面意識面の改善を企図し、公民館活動と結びつく点が多かった。いずれも昭和三十年代まではわが国の大部分を占め何かにつけ遅れているとみなされていた農山漁村の生活改善を重視してはいたが、新生活運動や保健所活動、公民館活動は、広く都市部をもカバーするものであった。(24ページ)

 中央(政府および政府関係機関)にあっては農林省の生活改善普及事業として、また新生活運動協会の新生活運動として、はたまた厚生省の保健所活動、文部省の公民館活動として明確に区別されていた事柄が、末端の地域においては、皆一括りの生活改善として理解されていたのだということを述べるのも、目的の一つである。(289ページ)


6 ここで気づいたこと

 ここで私は気づいたわけだが、おそらく冒頭の「生活改善ということで香典は千円で……」の「生活改善ということで」というのは、ほんとうは「新生活ということで」が正しいのかもしれない。というのも「冠婚葬祭の簡素化」を提唱したのは新生活運動だと書いてあるからだ。しかし、実際いまでも「生活改善方式にしたがって香典は……」と説明している葬儀場のホームページなどもある。つまり引用箇所で田中宣一が指摘しているように「皆一括りの生活改善として理解」されていたことがわかる。


7 具体的になにが改善されたのか(生活改善の実例)

 この本には生活改善普及事業の実例のひとつとして兵庫県豊岡市内の集落での記録が掲載されている。この集落では昭和二六年から三二年まで活動の記録が紹介されている。まず計画にはこんなことが書いてある。(以下46ページから50ページの図表を引用)

表1−2−5〈昭和26年度生活改善の年間計画(整理)〉

二五〜二七年 課題 寄生虫駆除
1 年二回検便服薬 
2 腐熟肥料使用 
3 人糞尿の使い方
4 便所の清けつ(夏季薬剤散布、下水の清けつ、汲取口を暗くする、便器の消毒、手洗器の共同購入、爪を短く切る、手拭の清けつ)

二六〜二七年 課題 家庭清潔
1 万年床廃止
2 ふとんの日光消毒
3 大掃除には部落一斉DDT散布
4 戸棚は月一回掃除
5 納戸を明るくするための工夫(引用者注:納戸は寝室のこと)
6 家庭内の仕事の分担

二六〜二七年 課題 食の改善
1 妊産婦の栄養と正しい休養のとり方
2 ビタミンAを含む野菜の推奨と食べ方
3 みそ汁の奨励
4 年中青野菜をたやさぬ作付の工夫

二六〜二九年 課題 かまど改良
1 改良かまどのよさをしる
2 手作り改良かまどの方法をしる
3 かまど改良貯金を考え実行する
4 かまど研究会視察、座談会

 これは本にあった表を書きおこしたものなので、漢字や表記など変えているところもある。だから、あまり正確ではないところもあって、それはこのあとの引用も全部そうだから、さっきも書いたとおり正しいことが知りたい人は本を読んだらいいとおもう。
 改良カマドというのは、煙突のついたカマドのことで、それまでのカマドは煙突がないから煙が屋内に全部でてしまい、煮炊きをするときにも煙を大量に吸い込むことになったし、天井は真っ黒になった。それだから古民家の天井は高くて、ススで黒くなっているわけだが、私のうちの天井は低い。これはどこかの時代に、カイコを育てるために二階をつくったんじゃないか、と考えている。ともかく、戦後すぐの一九五〇年代にはカマドの改良が生活改善事業の目玉だったらしい。
 つづいて七年間の改善結果は以下のようなことが書いてあった。

表1−2−6〈昭和26年から昭和32年までの七年間の改善過程〉

・回虫駆除 保卵者86% → 保卵者18%
・生野菜用肥料の使い方 人糞尿100% → 金肥又は腐熟肥料100%
・抵抗力増進のためビタミンAの補給 偏食60% → 偏食11%
・年間油の摂取量 一戸平均2〜3升 → 7升〜2斗
   (引用者注:1升は1・8ℓ、1斗は18ℓ)
・かまど改良 5% → 100%
・台所改良 3% → 80% 実用的な改良
・天日タンク 0 → 30%(引用者注:天日タンクとはなにか?)
・蠅・蚊の発生度 100% → 20% 29年より一斉散布
・動物蛋白の摂取量 40% → 70%(一日平均の標準量)
・下水溝の設置 0% → 五年計画で第一期完了、第二期実施中(全戸)
・1戸10羽養鶏 4% → 副業研究グループ12名
・家族会議 0 → 7名、32年度より実施
・家計簿記帳 2% → 財布は硝子張りを目標 

 というわけで、生活改善普及事業というのはこういうことをやっていたのだった。私は人間の屎尿を肥料につかっていたのはずっと昔のことだとおもっていたが、戦後もしばらくは当然のようにつかっていた。その結果、生野菜から寄生虫が腹にはいって栄養被害をおこしていた。また、万年床の廃止なんて、いわれなくてもやりそうなものだが、ともかく昼間は畑ではたらいて家は寝るためだけにあるような場所だったから、寝室を清潔にする必要もなかったんだろう。
 明治初期に東北地方を旅行したイザベラ・バードの『日本奥地紀行』を読むと、彼女は自分専用の簡易ベッドをもって移動しているが、それは旅先の農村ではノミやシラミがおおすぎて寝れないからだった、ということが書いてある。イザベラ・バードが旅行は一八七八年(明治十一年)のことで、戦後の生活改善普及事業まではまだまだ七〇年もある。だから、当然そのあいだに農村の生活はずいぶん変わったはずだけど、そこには地続きの部分もあったんだろう。少なくとも戦後の七〇年間の変化のような断絶はないんじゃないか。
 宮本常一の『日本人の住まい』には明治初期には家に床がなく土間にムシロをしいて生活している農家がたくさんあったと書いてある。そこからだんだん床が設けられ、納戸といわれる寝室兼倉庫ができていく。終戦直後のころは、さすがにどの家にも板敷の床はあって、寝室もあったが、まだまだ衛生とか清潔という観念はすくなかった。
 ところで、私はこのはなしを昭和二八年生まれの母にしてみた。昭和二八年といえば、ちょうど農林省の生活改善事業がはじまったばかりのころだ。母は、子どもだったからはっきりした記憶はないが、たしかに子どものころに学校で「虫くだし」という薬を飲まされた記憶があるといっていた。「虫くだし」はいわゆる回虫駆除の薬だったらしい。飲むとどうなるのかはよくわからないが、きっと回虫が便といっしょに排泄されたのだろう。私の子どものころにも回虫検査のようなものはあったけど、それにひっかかったクラスメイトは私の記憶ではひとりもいなかった。しかし、その四〇年まえまでは、まだ回虫は一般的なことだった。
 母親が小学生にまだならないころには「もらい風呂」といって、近所で風呂をわかすといれてもらいにいくことがあったという。そういう農村で育った私の母はいまでも油っぽいたべものが好きではないし、肉なんかもあまりたべない。さっきの引用か所にも、食事に油をとるように指導されているが、昔の日本の農家の食事にはほとんど油がつかわれていなかった。母の育ったのはちょうど油をとることが推奨されていた時代だろう。それは油はもともととっていなかったという意味でもある。もっとも、母親の場合はちょうどこの生活改善の普及時期に子どもだったこともあって、具体的にどんなことが改善していったのかよくわからないという。それは改善以前の生活をあまり知らないということで、それをもっとはっきり体験しているのは子育てをしていた私の祖母の世代ということになるんだろう。


8 具体的になにが新生活なのか(新生活運動の実例)

 さっきまで生活改善普及事業について書いた。ここからは新生活運動のほうもまとめておこうとおもう。新生活運動は衛生よりも慣習なんかに関することがおおく、農村だけではなく都会の生活にも影響があった。もっとも、最初の引用のところで、田中宣一が書いていたように、実際は生活改善事業も新生活運動も、ごっちゃになって理解されていた。ともかく、ここはとてもおもしろいので八ページも丸ごと引用する。

『暮らしの革命――戦後農村の生活改善事業と新生活運動』
(82〜89ページ)

 昭和三十年十一月末に開催された全国新生活運動協議会において、関係団体や都道府県の代表によって考えられていた運動の個別問題を筆者なりに類別すると、おおよそ次のようになる。
A 公衆道徳の高揚 助けあい運動 健全娯楽の振興
B 冠婚葬祭の簡素化 むだの排除 貯蓄と家計の合理化 時間励行
C 生活行事・慣習の改善 迷信因習の打破
D 衣食住の改善 保健衛生の改善 蚊とハエをなくす運動
E 家族計画 
 相互に関連しあっていることだが、このように類別することによって初期の運動目標の全体像が見えてくる。
 まずAは、人間としての道義の問題で、ここから、戦後の荒廃した人心の安定化や青少年の健全育成へ向けての意欲を見てとることができる。
 Bは、生活の簡素化合理化の啓蒙で、要するに無駄排除の呼びかけである。家計の合理化や貯蓄の励行、時間の励行も同じ趣旨である。
 Cは、伝統行事や地域の諸慣行における煩瑣な人間関係からの解放、陋習と思われるものの排除である。趣旨としてはBと重なる。ことの善悪は別として、B・Cは地域の伝承生活に直接に関与しようとする内容だったといえよう。
 Dは、健康で衛生的な生活指向の啓蒙である。
 Eは、主として産児制限の啓蒙で、経済状況の悪いなかでの子沢山よりも、母体の健康と生児の健やかな成長を第一とすべきとの考えであった。

(中略)

 もう少し具体的な内容を、『新生活通信』の創刊号(昭和三十一年一月号)以来二か年分(計二十四号分)の記事からうかがってみよう。

(中略)

A 類別のAで最も熱心に推進されていたと思われるのは、公衆道徳の高揚をスローガンとする「旅の新生活運動」である。毎年八月と十二月に一週間にわたって展開され、車内暴力の追放、乗降時や社内でのエチケット、乗務員のマナー、駅構内や観光地の美化清掃等の意識を啓発していた。当時の国鉄など交通関係機関とタイアップして行なわれ、学生も奉仕員として多数参加している。現在では定着している電車・バスへの整列乗車は、このころの運動の成果のひとつではないだろうか。
 汚職・暴力・貧困の三悪追放が叫ばれていた時代で、当時の新聞には道義の頽廃を嘆く声が溢れていた。そのため実践例として、バレーボールなどのスポーツを通じて地域の人心が明るくなったとか、夫婦協力して仕事の能率を上げた、嫁・姑が仲良く新生活を語り合っている、中学生が老人を手助けしつづけて感謝されているというような、各地の明るい話題を紹介しようと努めている。

B 冠婚葬祭の簡素化と貯蓄奨励に関する内容が最も多い。公民館結婚式の奨励と実践例の紹介は毎号といってよいほど掲載されており、結納の廃止や花嫁衣裳の共同使用も奨められている。葬送関係では、高額な香典と香典返しの慣行について反省が呼びかけられていた。近代以降幾度と試みられながら実効のならなかった事柄であった。
 貯蓄の奨励は、当時の日本の経済状況のなか国家的目標に沿った戦略だったのかもしれないが、家計簿をつけ、各家庭に無駄を排除した堅実な経済生活を定着させようとする意図であったと思われる。養鶏や卵貯金の奨励、婦人の内職によって地域や家庭の経済が向上したというような実践例がしばしば紹介され、称揚されている。
 宴会の自粛、虚礼の廃止、時間の励行も盛んに取り上げられている。宴会の自粛と虚礼の廃止については、政府や官庁が範を示すかたちで実践に取り組もうとしていたことが、「暑中見舞いなどの虚礼廃止、衆参両議院申合せ」(一九号)などとして紹介されている。時間の励行は、時の記念日(六月十日)に結びつけて説かれるほか、集会の集合時間の厳守や余暇時間の有効利用の事例が紹介され、奨められている。実践例として、「開会、閉会を定刻に、こうして時間励行運動に成功」(一四号)という見出しを掲げたり、有線放送の設置によって地域内の連絡時間が短縮されたことが喜ばれている。

C 敗戦後で精神的余裕がなかったためか、祭りに対しては厳しい態度がとられている。「祭りをやめて小学校再建」(一号)「お祭り簡素に生活楽に」(二四号)の見出しでわかるように、祭りに金や時間を費やすくらいなら、それをほかに有効使用すべきだという考えだった。祭りで地域おこしをする現在では、考えられないことである。
 祭礼期日を町村単位で統一したことによって、親戚友人同士が訪ね合わねばならないというむだが省けた、という実践例もしばしば紹介されている。当時、自治体の合併を機に祭礼期日が統一された例を筆者も今までの民俗調査で数多く承知しているが、『新生活通信』を通読してみて、その背景に、新生活運動によって奨励されていたらしいことがわかった。山車とか太鼓台の競い合いから例年喧嘩騒ぎの絶えなかった祭りに、新生活的思想を注入して平和な秋祭りに変身させた実践例などが、大きく紹介されている(二二号)。
 年中行事や年祝い行事についても同様で、「お雛祭りも簡素に」(一五号)という見出しで、誕生祝い、三月・五月節供、七五三祝いなどの簡素化の例を紹介している。初午祝いに厄年の者が集落の人びとを招いて飲食していた習俗をやめ、その費用を小学校建設費の一部にした事例を、「悪習やめ学校建設」(四号)という刺激的な見出しで称えている。
 門松の廃止も熱心に奨められている。門松の廃止と、それに代わる門松絵札の利用は、国土緑化とかかわらせて戦前の大政翼賛会の活動目標にも含められていたことであった。
 旧暦(陰陽暦)にこだわるのも、陋習のひとつとみなされていた。昭和三十一年度、協会内部に迷信因習旧暦関係専門委員の設けられたことはすでに述べたが、機関紙においても「盛上る新暦一本運動、高知県から全国に呼びかけ」(一号)という調子であり、農山漁村部でまだ多用されていた旧暦が、新生活運動によって一掃されたのであった。
 迷信といわれるものも同様の調子で攻撃されていた。新潟県の弥彦神社社頭にて、元旦の参詣者に福をツキ込んだとのふれ込みの福餅撒きをしたころ、拾おうとして多くの圧死者が出るという痛ましい事件があった。それを、「福モチ」などという迷信が悲惨につながったのだと断じて、迷信追放を訴えている。そのほか、中年の結婚を不吉とする考えや、狐憑き・狐持ちを信じるおぞましい心意、柿・栗を植えるのをタブーとする植物禁忌など、各地各様の俗信が廃止の対象とされていたのである。

D 食生活については、栄養バランスへの配慮が口を酸っぱくして啓蒙され、白米食偏重の弊害、パン食の導入がしばしば説かれている。住居については、かまどの改善や簡易水道の設置など台所関係の記事が多い。共同井戸の不便を解消するために婦人グループが改善講を組織し、養鶏などで貯めた資金で簡易水道を設置した(一一号)などという例は、新生活運動成果の見本のように扱われている。
 衛生面での具体的な合い言葉は、「蚊と蠅をなくそう」だった。「みんな心豊かに、功を奏した蚊ハ工のぼく滅運動」(一号)、「ドブの掃除で蚊とハエ追放」(一六号)、「まずお墓の花立て改造から、見事に蚊とハエ退治」(二一号)など、ほとんど毎号、蚊と蝿の撲滅が説かれている。「万年床を一掃して、婦人会が中心で結核退治」(一号)も、当時の深刻な病気への挑戦例のひとつだった。
 盆の供物を川や海に流すのは、一種の信仰に支えられた供物処理の慣行であるが、長野県伊那谷のある地区で環境悪化を懸念してこれの廃止に取り組み、苦闘している例を、「消えぬ供物流し、根強い因習破れず不衛生な村」(二一号)として、次のように憂えている。
 ナス、トマト、桃、天ぷら、だんごなどが腐って悪習を放ち、人が近よればはえが舞い立ち、「ガマござ」の包みはどろどろに腐敗し、鼻をつまみたくなるほどである。水泳場をもたない伊那の子どもたちはこの川で水泳をし、水遊びに興じ、釣人はこの川に浸り、沿岸住民はこの川水で食器を洗い顔を洗っている。
「めざす郷土の大花園、栃木県の花を植える運動」(一〇号)、「全県下を美しい花園に、静岡県の花いっばい運動」(一八号)のように、花による地域の環境美化も大いに推奨している。「旅の新生活運動」とタイアップした美化清掃も、これに関係している。
 健康維持には睡眠休養が欠かせない。しかし、当時の実態は「睡眠はたった五時間、疲れる農村の婦人たち」(二一号)だったので、これを改善するため各地で定休日の設定が模索されていた。「部落公休日で新しい村づくり」(四号)、「月に一日『主婦の日』『嫁の日』を」(六号)、「毎月部落の公休日、(この日を)教養に家庭の大掃除に(活用)」(一五号)というように、定休日を設けて成功した範例を盛んに紹介している。過重な労働から身体を守るための定休日の設置も、新生活のひとつだったのである。

E 食糧難の当時としては、戦後のベビーブーム以降継続しつづける人口急増は、打開を迫られる大きな社会問題であった。そのため、運動として家族計画の大切さを啓蒙しつづけていた。「さかんな家族計画運動、常磐炭鉱と秋田鉄道局の場合」(一〇号)というような実践例、協会の出版物『家族計画第一歩』の内容などが紹介されていたのである。

(中略)

 以上、相互に関連することがらではあるが、運動内容をA~Eに類別して見てきた。そのうちA・B・Cは地域に長年伝承されてきた社会慣習、いうなれば伝承文化に強く改変を迫るものだったと言える。一方、D,Eは、衣食住や保健衛生など日々の実生活に直結することの改善を求めるものであった。現今の実情から鑑みるに、後者は効を奏したと思うが、前者には思いどおりにいかなかったことも多かったように思われる。


9 長々と引用してきたが……

 というわけで、生活改善普及事業と新生活運動について『暮らしの革命――戦後農村の生活改善事業と新生活運動』から引用してきた。途中、いろいろ私の勝手な考えなんかも書いたりもした。8で紹介した、長い長い引用か所、新生活運動についてのところなんかはとにかくおもしろく、いろいろおもうこともたくさんあって、そのつど立ち止まってなにか書きたいぐらいだった。
 たとえば「旅の生活改善運動」で提唱された「車内暴力の追放」なんかは、そもそも「旅の生活改善運動」が?なうえに、「車内暴力の追放」にいたっては、当時のバスや電車の車内はそんなに危険な場所だったのか? という疑問符がいくつもならぶ。ほかにも「時の記念日(六月十日)」とか「卵貯金」「ハエと蚊の撲滅」というのも耳慣れない言葉でおかしい。一方で、冠婚葬祭の簡素化、有線放送の普及、花いっぱい運動、産児制限の啓蒙、電車・バスへの整列乗車など、どこかで聞いたことがあるはなしが、この時代の運動だったこともおもしろい。はなしはじめるとキリがない。
 いまではあたりまえになっている生活のなかのいろいろなことも、あたりまえだけど、いつかはじまったことだったりする。それで実はつい最近の習慣だったりすることもおおい。あたりまえになっていること、フツウになっていることというのは、そのまま気づけないものでもあって、そうではない状態があったというのを想像するのがむずかしい。ちょっとまえに話題になったAIのフレーム問題みたいなもので、フツウというのは気づけないからフツウなので、そういう気づけなかったフツウに気づくのが、こうやって本を読んだり勉強したりする楽しみだとおもったりもする。


10 YouTubeで見つけた動画資料

 最後に二つユーチューブでも関連する動画を見つけた。
 ひとつは一九五八年に制作された生活改善普及事業についての映像で、当時の生活改善普及事業や農村の生活の雰囲気がよくわかる。いまでいう山梨の笛吹市のあたりの農村を舞台にしているらしい。登場してくる農家の女性の服装なんかは、ほんとうはそんなにきれいではなかったんじゃないかな、でも、映画なのでいいんだろう。タイトルにある「窓ひらく」瞬間のクローズアップがなんといってもおもしろい。
 もうひとつは新生活運動に関係したもので、その名前のとおり「蚊とハエのいない生活の歌」というレコードの音源だ。一九五七年のものだという。これもこの時代に、公衆衛生とむすびついて蚊とハエがいかにきらわれていたかがわかる。まだこのころは蚊を媒介にした病気もおおかったんだろう。私が子どものころは日本脳炎の予防接種があった。あれは蚊が媒介する病気だといわれた。いまでも日本脳炎の予防接種があるのか知らない。むかし中東を旅行していたときはハエがおおくておどろいた。食堂でハエがたかりまくっているサラダをたべていたが平気だった。そのころは気候の問題だとおもっていたが、それだけではなくて、日本では戦後にハエと蚊の「撲滅」運動があった、ということも私はぜんぜん知らなかった。


「窓ひらく――つの生活改善記録」東京シネマ1958年製作


荒井惠子「蚊とハエのいない生活の歌」(1957)


篠原幸宏
1983年生まれ。長野県上田市出身。『締め切りの練習』を編集発行。旅行記『声はどこから』(2017)


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