見出し画像

締め切り #013 コロナ、コレラ、狂牛病 / 篠原幸宏

 大竹昭子の旅行記『バリの魂、バリの夢』を読んでいたらこんなことが書いてあった。

 九五年には十一万二千人と半数近くに落ちたが、これは日本人観光客だけにコレラが発生するという奇妙な事態が起き、客足が遠のいたためである。(大竹昭子『バリの魂、バリの夢』講談社文庫版より)

 これはバリ島をおとずれる日本人観光客の推移を紹介している。コレラ? と私はおもった。そんなことがあっただろうか。しかし、気になって調べてみると(といっても、グーグルで検索しただけだけど)たしかにそんな記録はあった。次のような記事を見つけた。

 1995年2月以降バリ島への観光ツアー帰国者の間にコレラ患者が爆発的に発生し,12月末までに患者(278名)および保菌者(18名)を併せて296名にも達し,その発生は37都道府県に及んだ。特に2月(154事例)および3月(105事例)の2カ月の間に,バリ島帰国者コレラの88%(259事例)が集中的に発生した(図2)。しかしながら,4,5月にはこのバリ島由来のコレラ事例は激減した。その後6月9事例,7月19事例,8月5事例と再びやや増加の傾向を示したものの,9月以降の発生は1事例のみであった。このバリ島帰国者コレラは1995年の全コレラ罹患者(372名)の80%を占めた。
国立感染症研究所感染症情報センター 病原微生物検出情報
https://idsc.niid.go.jp/iasr/CD-ROM/records/17/19401.htm

 本を読んでいて見かける感染症の記述というのは、ふだんなら気にもとめなかったものでも、コロナ騒動になってから妙に気になる。

 すこしまえに読んでいた内澤旬子『世界屠畜紀行』には狂牛病のはなしがあった。狂牛病なんてもうみんな忘れているかもしれない。私も忘れていた。吉野家に豚丼が出現したのはこときだった気がする。それぐらいの記憶しかない。日本で狂牛病騒動がはじまったのが二〇〇一年、この本が出版されたのが二〇〇七年、第一章の取材で韓国にいったのが二〇〇三年だから、狂牛病騒動のまっ只中に内澤旬子は世界中の屠畜現場の取材をしていることになる。当時の日本はアメリカ産牛肉に対して全頭検査を要求し輸入禁止措置をとっていた。日本の屠畜場ではこの全頭検査がおこなわれ、それがどれほど大変か書いてある。日本ではこの検査のスタートによって、当日に解体した牛の臓物をその日のうちに出荷することが困難になったという。日本人の検査好きは昔もいまも変わっていない。
 終章では牛肉食の本場ともいえるアメリカをたずねている。テキサスにある巨大牧場のマネージャーボブという男が出てくる。彼は日本の牛の個体管理について内澤旬子がはなしたじめたところ激怒して次のようにいっていた。

「日本人は神経質すぎる。日本人だって毒の入ってるフグを食うじゃないか。あれで死ぬ奴は年間何人だ? 今まで日本でBSEにかかって死んだ奴は何人いるんだ? フグで死ぬ奴の方が断然多いというのに馬鹿げている」「おまえは日本のスパイか!」(内澤旬子『世界屠畜紀行より』)

 最後のスパイのくだりは、ページの挿絵に書かれたイラストのボブのふきだしであって、本文にはない。本文には「日本のスパイあつかいされてしまった」とある。イラストのボブはカウボーイハットをかぶって鼻の下に口髭をのばしたいかにもカウボーイといったおじさんだ(おじさんでもボーイなのだろうか?)。しかし、当時の(いまでもそうなのかもしれないが)テキサスでは、カウボーイハットをかぶった男女をふつうにたくさん見かける、と作者は書いていて、そのことにも私はおどろいた。
 フグで死ぬ奴の方が断然多い! というこのロジックは、しかし、二〇二一年においては、モチになり、風呂になり、ゾンビのように復活した。モチでは一〇〇〇人死んでいる、風呂では四〇〇〇人死んでいる、というわけだが、感染症をとりまく言説はやっぱりいまもかわっていない。
 もっともフグで死んでいる人はそれほど多くない、ということは、あらためて調べてみるとわかる。といってもさっきも書いたように、ちょっとグーグルで検索しただけのことだから当てにならない。ともかく、厚生労働省のホームページには次のように書かれていた。

 わが国では年間に約30件のフグ毒中毒が発生し、患者数は約50名で数名が死亡している。

 というわけである。フグで死ぬ人は年間に数人しかいない。生粋のカウボーイであるボブの口からフグの言葉がでてきたのは、ニホンは刺身と寿司の国というイメージがあったのかもしれない。魚が日本人のアイデンティティなら、ビーフはおれたちアメリカ人のアイデンティティだよ、全頭検査なんてやってられないよ、という含みがないとはいえない。

 その後の数ヶ月で、バリ島でおきた「日本人観光客だけにコレラが流行する」という奇妙な事態は収束したらしい。一時は一一二〇〇〇人まで落ち込んだ観光客の数は順調に回復し、二〇〇一年には三六〇〇〇〇人でピークをむかえている。翌年の二〇〇二年の爆弾テロ事件で一時的に観光客は半減するが、二〇〇四年には三〇万人台を回復している。一〇年代にはいってからはだいたい二〇万人ぐらいで推移していたという。
 去年、バリ島をおとずれた観光客の数は四五人だったという。これは日本人観光客の数ではなくて、世界中からの観光客をあわせてということだった。四五人のなかに日本人はいたのだろうか、また、かれらはどのようにして観光目的でバリ島にくることができたのだろうか。
 二〇二二年四月一五日現在、数日前の発表では、バリ島をふくむインドネシアへの入国について、ワクチン摂取者にかんしてはビザの事前取得と到着時のPCR検査および隔離がすべて免除されることが発表された。これで、いよいよ本格的に観光客の受け入れが再開されることになったことになる。
 また旅にでられる、ということに歓喜するというよりは、ただ淡々と事実を受けとめている。あれほど旅にでたいとおもっていたのに、なぜかからだがまえにうごきださない。やっと冬眠から覚めたのに、まだあたまが呆けているような感じなのだった。

篠原幸宏
1983年生まれ。長野県上田市出身。『締め切りの練習』を編集発行。旅行記『声はどこから』(2017)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?