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締め切り#022 小さな信号に気づく

奥穂高岳登山の帰りに、財布を落とした。穂高山荘から横尾大橋まで下り、トイレで協力金を入れようとして、ザックの中に財布がないことに気がついた。

ものをなくすときはいつも2つのパターンがある。なくしたことが腑に落ちない時と、なくなるべくしてなくした、と納得する時。
今回、財布がないとわかって、心のどこかで「まあ、そうだよね」と思う気持ちがあった。ザックの中身を出して確認しながらも、もうこのザックの中にはない、私の近くにはいないとわかっていた。

手元はザックの中身を確認しながら、頭はどこでなくしたのかを思いめぐらせる。涸沢小屋で手ぬぐいを買ったあと、本谷橋の河原でお弁当を食べた。それまでかぶっていたヘルメットをザックにしまおうと荷物を大きく広げたから、その時に滑り落ちたのかもしれない

これまで歩いてきたルートが映像になって頭の中で逆戻りした。ふざけて揺らしながら通った本谷橋を渡り返し、お弁当を食べた河原の白い石がよみがえった。見たわけではないのに、石と石のあいだに財布が転がっている映像が見える。きっとあそこにあると思った。

山に登る時、忘れ物となくしものは命取り、そう思っていた。「なくす」という行為自体が気のゆるみ、事故につながる、そのくらいの気持ちでいたはずなのに。
いつもはザックの中でも財布をしまう場所は必ず固定して、休憩のたびに触って確認していた。今回も定位置に入れていたはず。なくすなんてありえないと自信満々だったのに、ザックの中から消えている。

失くした理由を挙げればたしかにいろいろあるかもしれない。
集中力のいるルートに、相方の体調不良。高い山に登るのは久しぶりだった私の体調も万全とはいえなかった。本当は自分の内側に集中しなければならないのに、思い返せば、私の気は外に向かっていた。

最近の財布への態度を思えば、財布が消えたのも当然という気もする。それまで使っていたレザーの財布から、登山用の財布を日常使いし始めて3年。購入した時は使いやすさに感動していたのに、近頃はうす汚れた財布をみてもときめかず、買い替えようかと思いながらダラダラと使っていた。

お金なら、拾った人が使ってくれればいい。中身はすべて再発行できる。ただただ、財布に悪いことをしたなと思った。「君、もうそろそろ買い替え時なんだけど、まだ使えるといえば使えるし、と思って使ってるんだ」という思いを財布に伝え続けた。毎日、毎日。
もう好きではなくなったという気持ちを無視し続けた。こんなひどいことってあるだろうか。

本谷橋まで取りに行こうかとも思ったが、道のりは往復で2時間。雨が降りそうだし、相方も疲れている。ごめん、このまま帰ります、と一度戻り始めたルートを引き返して、徳沢園までの道を急いだ。

届けを出していた松本の警察署から電話で連絡が入った。落としてからちょうど一週間。登山者の1人が拾い、上高地の派出所まで届けてくださったという。雨や強い日差しを石の上で耐えて、その方に発見され、ほかの荷物と一緒にザックにしまわれて下山。私の手元に戻ってきてくれる。

気に入っていないのに、その気持ちを無視して使い続けた。相方の無理な山行に気づいていながら止めなかった。自分の体調が万全じゃないのに、山に向かった。本当は無事に帰ってこられただけでよかったのかもしれない。今回、財布を失くしたことは、小さな信号を無視して自分の内面に向き合わず、気もそぞろな近頃の私の状態に気づく機会だったと思って、大いに反省している。


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