Janne Da Arcのこと

 一

 去る四月一日。
 昼休みの直前に新たな元号が発表されて、僕の周囲はちょいとばかり落ち着かない空気だった。僕はと言えば、エイプリルフールなのでなにか気の利いたウソでもツイートしてやろうと考えていた。

 定時に会社を上がって家へ帰る。着替える前にPCを点けて、夕食用の湯を沸かす。
 うがいと手洗いを済ませてから冷蔵庫からコーヒーを出す。その間にOSが起動しているので、とりあえずオンゲにログイン。ログボを頂いておく。ざっとオンゲのミッションを済ませたら、こんどはブラウザを起動させる。このあたりはほぼ毎日のルーチンなので、なにも考えずとも指が動く。
 ツイッターを開くと、やはりというか「令和」の話題でもちきりである。一発変換出来ないあたりが初々しい言葉だ。
 前日がコミック高岡の最終営業日だったので、それに関連したツイートなどを検索する。友人たちと金を出し合って贈ったフラワーアレンジメントがアップされていて、なんともくすぐったい気分になる。
 若いころは、それこそ半日費やして企業のエイプリルフールネタを楽しんでいたが、いまはそんな元気も時間もない。どのみち、明日になればどこかのアフィサイトがまとめてくれるのだ。
 そのとき、ふっと視線がツイッターのトレンド欄へと動いた。
 見覚えのある文字列が視界に入る。

 Janne Da Arc解散

 一瞬、活動再開だと思った。その次に、エイプリルフールかとも思う。でも、その影では胸の底――横隔膜の内側あたりに、やけに冷たい錘のようなものが生まれた感覚があった。それと同時に、思考が白々とした霧に包まれ始め、現実感がどんどん希薄になっていく。
 ちょっとこれまで味わったことのない感覚に捉われたまま、僕はトレンド欄に浮かぶ件の文字列をクリックした。
 リンク先には、ジャンヌの解散に向けた悲鳴的ツイートが並んでいる。
 そのなかに、報道サイトへのリンクと、ジャンヌのOHPへのリンクも貼られていた。それぞれを別タブで開く。すでに僕の意識は朦朧とし始めていて、肉体を動かしている感覚すらなかった。
 各々のサイトに綴られた解散の経緯を読む。
 半分ほど読んだあたりで、ガチなやつだという確信があった。すでにエイプリルフールへの期待は霧消している。

 OHPに記された経緯を最後まで読み終えた瞬間、猛烈に涙が溢れた。
 なにも考えることが出来ぬまま、モニターの前で無言で泣いた。

 やがて涙が収まり始めると同時に、僕の周りの世界が現実感を取り戻した。それはもしかすると、僕の脳がジャンヌの解散を現実の事実であると認識したということかも知れない。

 そして、一通り泣いて現実感を取り戻すと、身体の奥からしんしんと底冷えのする痛みが響いてきた。「胸が痛む」とか「心が痛い」といった文学的な痛みではなく、物理的な痛みだ。「めぞん一刻」で響子さんが、総一郎のことを考えると本当に胸が痛くなる――と言っていたあれである。
 痛いのだ。身体の奥が。
 そんなに好きだったの? と思う。
 そんなに好きだったのだ。
 なにしろ、彼らが世に出た九十年代末からゼロ年代中旬までというのは、僕にとっては十代後半から二十代半ばまでという青春真っ盛りの時期である。

 そんな時代をともに過ごした音楽というのは、もはや人生の一部なのだ。

 二

 ジャンヌの存在を初めて知ったのは、高校の同級生だったK君の情報だった。
「関西のジャンヌダルクってバンドがすげえ人気なんだって」
 ちょうど、インディ1stの「Dearly」が発表されて、初回三千本を即完させたころの話だ。(ウィキペディアには「初回盤はデジパック」と書かれているが、実際は三方背ボックスである。持っている僕が言うんだから間違いない)そのころはまだライカにも自主盤にも行ったことがなかったので、インディのCDがどんなふうに流通しているのかすら僕は知らなかった。
 ただ、ジャンヌダルクという極めて覚えやすい名前だけは頭に残ったのだ。

 それからしばらくして、深夜番組「ブレイクアウト」にジャンヌのライブ映像が流れた。同番組の主催するライブイベント「プレイクアウト祭98」の大阪会場の映像だ。ハコがどこだったかはもう覚えていないけれど、門のように作られた櫓の上で「Judgement」(という曲)に合わせて激しくヘドバンするyasuの姿はとてつもなくカッコよかった。ゴリゴリした演奏と、美麗でありながらもヘドバンを誘発する疾走感溢れるメロディ。それまでのビジュアル系にはちょっとないスタイルのバンドだったのだ。

「これはヤバいバンドが出てきた!」と、TVの前で思わず椅子から立ち上がったことを憶えている。もちろん世間的にも同様だったようで、その直後に発売された2ndミニアルバム「Resist」は各レコード店で様々な特典とともに売り出された。(関東ではライカがサイン色紙付きで発売していた)
 そんな話題を引っさらいつつ、その年の十二月十五日にイーストでジャンヌのワンマンが開催された。しかし、当時の僕は飲食店でバイトをしていて、とてもとても年末のそんな日に仕事は休めない。その公演は泣く泣く見送ったのだが、一人で観にいったK君はなんと最前列!
 後になってそのライブの映像が発表されたときに、最前列で満面の笑みを浮かべるK君の姿を見た僕の後悔と屈辱がお分かり頂けるだろうか。

 結局、僕が初めてジャンヌのライブに行けたのは翌年の「TOUR CHAOS MODE」の渋公だった。あの時代はまだドレスでライブに来るお姉さん(バンギャという言葉はまだなかった)や、会場の前で円陣を組むといった文化が存在していて、否が応にもこちらのテンションが上がったものである。
 僕の席は真ん中と後方の中間あたりだったのだが、ライブが始まると目の前の観客がみんな中腰でヘドバンを始めたではないか。それはまるで波打つ絨毯のような一糸乱れぬヘドバンだった。一気に僕のアドレナリンは垂れ流し状態になり、無我夢中でヘドバンの波に加わった。ラストの「Stare」で肩が千切れるほど手を振ったことを憶えている。
 当時はまだ曲ごと演奏ごとの振り付けがそれほど細分化されていなかったので、初めて生ジャンヌを観る僕も、それほど気後れはしなかったはずだ。とにかく、初めて感じるタイプの疲労感に包まれて帰宅をしたのだ。

 そして、デビューシングルを引っ下げての渋公ライブである。
 A面タイトルの「RED ZONE」がカッコいいのもさることながら、B面曲の「seal」のサビでyasuと会場が一体となって指を回した瞬間の鳥肌感といったらなかった!

(これからはジャンヌのライブありきで生活スケジュールを組まねば!)
 僕がそう思ったのは言うまでもない。
 ……のだけれど、その年の全国ツアーは関東公演が軒並み瞬殺で、一回も行けなかった。(後に追加公演が発表されて、ブリッツ公演には行くことが出来た)
 このしばし後にファンクラブ限定ライブが開催された。そのうちの東京公演で、僕は念願の最前列をゲットした。そのとき初めて「柵を掴んでヘドバンする」という行為が恐ろしく気持ちがいいことを知った。

 僕がなにかのファンクラブに入ったのはジャンヌが最初で最後だ。

 三

 やがて、ゼロ年代に入ると、ビジュアル系に冬の時代が到来する。
 V系バンドにはタイアップが付かなくなり、CDのリリースも激減した。中堅バンドは次々と解散し、生き残ったバンドは活動規模を収縮せざるを得なくなった。流行のセルフプロデュースに活路を求めれば、商業的なツボを外した作品が出来上がってしまい、結果としてファンが離れていく……
 兎に角ビジュアル系は下火になったのだ。(見方を変えれば本来のマーケットに戻ったわけだけれど)

 そんな中で、ほとんどジャンヌだけはコケない曲をコンスタントにリリースして人気を保っていた。ことあるごとにほぼ全国と呼べる規模のツアーを打っていたことも人気を維持出来た要因だと思う。
 その頃、僕は社会人になっており、遊べる時間こそ減ったものの使えるお金は増えていた。また同時に、集客力のあるジャンヌは土日祝日にライブをすることがほとんどで、社会人にとってはありがたい存在でもあった。聴きたいと思ったときに聴きにいけるバンドってのは貴重なのだ。
 例えば、今月はジャンヌで、翌月はAバンド、翌々月はBバンド、それが終わればジャンヌのシングルが発売されて、また次の月にはジャンヌのライブがある……といった具合である。

 僕にとって、ジャンヌは居て当然のバンド――生活の一部となっていた。

 そして、「月光花」が発売された。
 当時の僕はワナビをこじらせすぎてフリーター生活に突入していたので、火曜の朝に近所の新星堂へ行って「月光花」のシングルCDを当たり前にゲットすることが出来た。だが、K君が仕事を終えてレコード屋に行ったときには、すでに店頭在庫は全ハケだったらしい。
「えっ、そんなに売れてるの? マジ?」
 その頃のジャンヌは、V系ファンだけが知っていたバンドから、一般認知されているバンドへと変わっていたのだ。
 すると彼らのライブにも変化が起きた。ファン層が変化しているのだ。「本職のお姉さん」たちは姿を減らし、代わりにメタルやアニソン経由と思われる男性ファンや、中高生と思しき少女たちの姿が増えた。(これは絶対数というより割合の問題かも知れない)
 そして、彼ら彼女らは明らかにインディ時代のヘドバン曲よりも「月光花」や「愛此処」といったメロウな歌物で盛り上がっていた。
「最近、JudgementどころかStareも演らなくね?」
 僕たちが要求するジャンヌと、社会が求めるジャンヌは確実に乖離していた。恐らくメンバー自身が「こうしたい」と思う方向はもっと違ったのではないだろうか。

 ブレイクしたバンドは古参のファンを置いてけぼりにしてしまう。

 昔から飽きるほど語られてきた現象だ。
 Dearly(というタイトルのライブ)の公開リハが終わったあたりで、もはや武道館公演が当たり前のバンドになったんだな、という印象を持った。ぎゅうぎゅう詰めのライブハウスで酸欠になった客が搬送されていく姿なんてもうずっと見ていない。昔のように、前の客の背中に手をついてヘドバンするということはもう無いのかも知れない。そんな漠然とした不安も感じた。
 たしかこの頃に、「ヘドバン曲は封印する」みたいな話をメンバーがしていて、それも僕の不安を助長させたと思う。実際、セトリからヘドバン曲は減っていた。

 そして迎えたSSA公演。たしか二十列目くらいの相当いい席で観たのだが、インディ曲はがんがん演ったし、まさにジャンヌの集大成と言えるコンサートだった。MCの散らかりっぷりも見事だった。
(次はドームだろうか。ジャンヌもデカくなったもんだなあ)
 などと悠長なことを考えていた頃に、突然の活休宣言があったのだ。

 その発表があった当時は「各メンバーが一年くらいソロをやってから再結成して、一枚くらいアルバムを出して解散」というような流れを漠然と想像していた。巨大になりすぎてしまったジャンヌにとって、解散は時間の問題だと思ったのだ。それと同時に、バンドよりむしろ客にクールタイムを与えることで、ファンを篩にかける意図もあるのではないかとも思った。なにしろ古参ファンと新規ファンの温度差が違いすぎたので。
(兎に角、再開一発目はジャンヌらしいシングルが来るんだろうな。どうせ一年くらいだろう)

 まさかそれから十年以上音沙汰がないまま解散を迎えるなどと思ってもみなかった。

 LUNA SEA、X JAPAN、黒夢、SIAM SHADE、La'cryma Christi、Raphael、PIERROT……
 ゼロ年代後期から十年代に入って、再結成を果たしたバンドは枚挙に暇がない。
 再結成したものの話題にならなかったバンドもあれば、それからも継続的に活動を続けているバンドもあるし、小規模で不定期ながらも趣味的な活動をしているバンドだっている。もちろん、当時はきっちりと解散ライブが出来なかったバンドが、改めてラストステージを開催した例だってある。

 そんな中にあって、ジャンヌは頑なに沈黙を続けていた。(震災の折に一度だけ声明を出したが)
 関係者経由で、十年の節目で休止を終えて活動再開という話は聞いたが、結局なんのアクションもなかった。たしかあのときはジャンヌのデビュー日だか結成日だかにメンバー全員のスケジュールが空いていて、「ようやく再開か……」と大いに期待したものである。

 しかし、そのタイミングも流れ、そうこうしているうちにyasuが療養に入り、そして今回の解散発表があったのだ。せめてラストライブがあれば気持ちの折り合いがついただろう。せめてメンバーが集合した別れの映像でも用意してくれれば気持ちの行き場を見つけることが出来ただろう。
 そうした気持ちの落とし所がまるでないまま、ジャンヌは去っていった。

 いまはガックリと気落ちして仕事もなにも手が付かない状態である。

 恐らくは年内にジャンヌ関連で最後の動きがあるだろう。映像作品のBlu-Rayリマスター版のリリースがあるかも知れない。フィルムコンサートだって考えられる。ベスト盤の発売もあっておかしくはない。そもそもジャンヌにはシングル集以外の編集盤が存在しないのだ。
 正直なところ、そんな期待がなければやってられない。

 自分の人生の一部がぽっかりと欠落したのだ。これからどうやって心身と現実との折り合いをつけていけばいいのか、まるで分からない。

 君が乱れる姿はまさに……まさになんだったのだろう。

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