定着

ライヴが出来なくなった今は、配信でライヴをやる人が増えた。自分の場合、無観客での漫才は全くやる気が起きないので、やらない。けれども、あまり意固地になることでも無い気がする。結構当たり前のように皆が無観客ライヴをしているし、当たり前のように見ている人も多い。我々も通常のライヴを生配信することがある。遠方の人ならまだしも、それ以外でも、行くのダルいし配信でもいっか、と気軽に自宅でライヴを楽しめるようになった。配信は、何となく、世の中に定着しつつある。

この、定着、というものの恐ろしさを自分は時折考える。マスクもそうだ。夜道、辺りに誰もいなくても、マスクを付けて歩いている人がいる。また、原付で飛ばしながら、マスクを付けている人がいる。これがもしもウイルスの飛沫防止、もしくは感染防止という理由ならば、ちょっとどうかしている。

一度定着したものは、なかなか剥がれない。たとえば歌や恋など、素敵なものが我々の暮らしに定着するのは良いけれど、悪いことや悲しいことはあまり定着して欲しくない。マスクは別に悪いことでは無いが、でも、いつかは破り捨てて素顔で出歩きたい。感染や陽性の話よりも、本当は観戦や妖精の話で盛り上がりたい。

スマホのように、当たり前の感覚が次々と我々に定着していく。配信に関しても、これは全然悪いことでは無いし、むしろ素晴らしいテクノロジーであるのだが、定着するのはどうなのかと思う。自分はすぐに、ライヴの本質は、などと考えてしまって、もはや古い人間なのかもしれぬ。何でも見れるからこそ、見れないものの良さ、を確かめたい。見たいライヴが見れなかったときの、あの寂しさと悔しさと、それによる想像の高揚、期待とロマンを、想う。テレビやラジオもそうだろう。録画や録音を忘れたときの、あの何ともいえぬ気持ちを大切にしたい。だけど、そんな気持ち、これからはもう必要無いのかもしれない。きみと待ち合わせ、たとえぼくたちすれ違ってしまっても、らんま1/2のようになることは、もう決して無いのだから…。

何もいりません。舞台に来てください。