笑いにおけるオマージュと盗作について

音楽では、サンプリング、オマージュ、などと言って、他人の名曲を拝借することがある。たとえば小沢健二はサンプリングの名手らしく、自分も愛聴した「LIFE」というアルバムでは、収録された曲全てが何かしらの洋楽からフレーズやリフなどを拝借しているそうだ。また、大瀧詠一も、自らのアルバムについて批評家に様々な洋楽との酷似を指摘された際に、「それだけしか見つけられなかったの?元ネタならもっとあるよ」と言い放ったという。音楽における、ルーツ、源流、といったものは、いわば理論の歴史であり、全ての現代音楽には元ネタがあるといっても良い。そのため、サンプリングやオマージュがひとつの文化として根付いている。

自分も何かに感化されて漫才を作ったことがある。「マイドク」、もうひとつは「Smoke」という、これはどちらも映画なのだが、それらを見て、思いつき、ネタを作った。どちらも気に入っていて、映画とは似ても似つかぬ代物になったが、あれはオマージュ漫才といっても良いかもしれない。元々ある物語に影響されて、発想したのである。

笑いにも、源流や理論、パターンというものがあり、また様々な影響から逃れることは出来ないため、完全独立のオリジナリティーはあり得ない。だが、それでも誰かのネタを自分のものとして演ると、それはオマージュではなく、盗作となる。音楽の場合、ストーンズっぽいリフが、ビートルズっぽいコーラスが、など、意図的な拝借でも愛を感じればOKみたいなところがあるが、漫才の場合、二人が代われ!と言いながら交互にボケてしまうと、パクってるやん、さぶ、で終わりとなる。

パクリに対して厳しい視線が向けられるのには、確固たる理由がある。それは、面白くないから、笑えないから。それこそM-1でブラックマヨネーズが優勝した後、劣化版みたいな漫才師が沢山いたのを覚えている。既視感のあることをされても、何かどっかで見たことあるな、となり、笑えない。劣化は勿論、同一でも物足りぬ。笑いは未だ進化途中なのである。それは若手芸人が新ネタを量産していく風潮にも現れており、また、お客も進化を求める傾向にある。

あらゆる芸人が、日夜面白いことを考え、作っているので、ある程度の被りは避けられない。しかし、作り手はなるべく盗作にならぬよう注意しなければならない。無意識のうちに盗作をしてしまっている芸人もいる。どこかで見たことのあるような言い回しやフレーズ、設定、キャラクターなど、オマージュとは言い難い、うわ、それあかんで、というネタがあり、素人目には気付かなくても同業者にはバレている。中には意識的に他人のネタをパクり、その上でスベる、という愚鈍な芸人もいるようで、これはもう、ただの泥棒なのである。

オマージュというものは、本来、尊敬という意味合いである。ただの盗作かオマージュか、は見れば分かる。それこそブラックマヨネーズの漫才は自分も大好きで、何度も見たし、影響も受けた。よく知っているからこそ、安易にパクったりはせず、あれとは違う何かを求めなければ意味が無い。そしてもうひとつ大切なことは、自分たちにしか出来ないもの、をやることである。到底他人には真似出来ぬことをやっておけば、それで良い。

何もいりません。舞台に来てください。