一人称

自分はこのnoteでの一人称は「自分」だが、以前やっていたブログでの一人称は「おれ」だった。それは、今思うと、明らかに筒井康隆の影響である。何かの本で、「おれ」という一人称を使う理由として、男という生き物は誰であれ心の一人称は「おれ」であり、「おれ」は最も純粋に自分自身を投影する呼び名であるから、みたいなことを読んだことがある。確かに、自分も心の声での一人称は「おれ」かもしれない。ただ、文章においては、「自分」が最もフラットで客観的な阿呆さが滲み出るような気がするので、今は専ら「自分」を使用している。

普段、友達や知り合いと話すときの一人称は「おれ」である。目上の人と話すときや敬語を使う際は「ぼく」に変わる。無意識のうちに、一人称が変化して、自分は「おれ」にも「ぼく」にもなれる。その境界線は曖昧であるが、基本的には「おれ」であり、状況に応じて、その都度「ぼく」が出現する。

しかし、家族と話すときには逆転現象が生じる。あくまで自分の場合であるが、家族といるときは基本的に「ぼく」であり、時折「おれ」が出現、という形になる。これには理由がある。まず、幼児の頃というのは、親の教育によって大概の男子が「ぼく」になる。しかし小学校に入り、二年三年になる頃には、クラスではほとんどの男子が「おれ」に変わる。漫画やアニメの影響もあるだろうが、周りの「おれ」に調和されて自らも「おれ」となる。社会性を身につけると、男は一人称が変貌するのだ。それでも家に帰れば、相変わらず「ぼく」のままである。勿論、家でも「おれ」呼びに変えようと大半の男子は変更を計るのだが、それに失敗した人間は、いつまで経っても「ぼく」のまま、となる。

自分も小学生の頃、何度か挑戦はした。晩飯のときに勇気を出して「おれ腹いっぱいや」などと言ってみたものの、おそらくぎこちない言い方だったのだろう、何となく妙な雰囲気になってしまい、急いで皿を片付けながら「ぼく風呂入るわ」と言ってしまった経験がある。そのため今でも、実家に帰れば自然と「ぼく」になる。ただ、大人になってからは、逆に「おれ」が無意識にちょろちょろと出てしまうことが多くなり、家族と話していると、「ぼく知らんで。だって、おれ聞いてへんもん」といった謎の喋り方になることもある。ちなみに家族は未だに自分のことを「たっくん」「たくみくん」と呼ぶ。恥ずかしい。

舞台上では「おれ」「ぼく」を使い分けている。時折、「わたし」を使うこともある。たとえば相方との会話の際には「おれ」になるけれども、お客に問う場合は「ぼく」「わたし」に変わることがある。もっというと、「おれ」が似合うネタと「ぼく」が似合うネタに分かれるのかもしれない。コンビとしては、「おれら」「ぼくら」と使い分けつつ、「我々」の場合もある。

一人称によって作品の色合いは変わる。歌詞などは分かりやすい。自分は一時期、忌野清志郎の歌詞研究を独自でしていたが、清志郎の歌は特に、曲によって一人称が違う。「雨上がりの夜空に」ではなく、「雨あがりの夜空に」じゃなければ駄目なんだ、と言い張ったほどの人だから、おそらく一人称もかなり意識していたに違いない。全体的には「ぼく」「ぼくら」率が高めだが、曲によっては「おれ」「おれたち」もある。RCサクセションがロックバンドとして頭角を現した時代の歌には「オイラ」が頻繁に出てくる。その辺りが阿呆らしくて、良い。曲中で相手を呼ぶ際も「きみ」「おまえ」を使い分けている。MCのときは基本的に「おれ」であった。

形を変えて移りゆく一人称。いつか自分も「わし」になる日が来るのだろうか。そのときはまた、タイミングを見計らって変更手続きをしなければならない。晩飯のときに「わし腹いっぱいや」と言って妙な空気になるのを堪えて、それでも定着するまで「わし」を使い続けて、自然と「わし」が言えたなら、ようやく自分は立派な「わし」だ。そして、「ぼく」が「わし」になる頃には、「えくぼ」もすっかり「しわ」になるのさ。オーレ!

何もいりません。舞台に来てください。