あなたもわたしもさみしい

冬のせいなのか、夜になるとまた少し寂しくなって、冷たい布団の上を転がりながら独りで唸っている。けれども、寂しいのはおそらく自分だけではない。皆が心の奥底にどこか寂しさを抱えているはずで、最高に幸せな日常を送っている人の方が極めて少数派ではないだろうか。中には、おいらは毎日ベリーハッピー、悩みもネー、病いもネー、すこぶる元気なサンシャインボーイ、みたいな輩もいるだろうが、そんな奴はどこかの誰かに銃殺されれば良い。大概の人は、職場や家庭や恋愛や包茎や人生のことで悩みながら、それでも何とかかんとか、日常を生きている。だからこそ、たまに笑ったり、ゲームをしたり、カレーを食べたり、笛を吹いたりして、寂しさをやり過ごしているのだろう。中にはとてつもなく重い十字架を背負った悲しみのプリズナーな人もいるかもしれない。そう思うと、自分なんぞ、恵まれている方ではないか。ろくに働いたことも無い癖に、へらへらしながら、煙草を吸ったり寿司を食ったりしている。鬱屈することはあれど、死にたくなるほどでは無い。それによくよく考えると、具体的な悩みも、首が痛い、くらいのものであり、無いに等しい。夜になれば決まりきったかのように大口を開けて間抜けな欠伸をして、昼過ぎまで寝惚けて、うつつを抜かしながら、愚鱈としている。ベリーハッピーとは言わずとも、自分は、それなりにハッピーなのかもしれない。ならばこの寂しさの正体は果たして何なのか。謎めいた一抹の寂しさは、消えること無く、おそらく、死ぬまで肉体に宿り続ける。死ぬ寸前、あ、さみし、と思いながら人間は息絶えるに違いない。そして死とともに、我々は寂しさの極地を迎える。本当のひとりぼっち。けれども、生きている間は、少なくとも、本当のひとりぼっちになることは無い。必ず誰かがいる。あなたもわたしも生きている。いつかまた会えるといいね。そう考えると、ちょっと救われて、またちょっと、寂しくなる。

何もいりません。舞台に来てください。