暗黒の恋

自分は高校を出て、大阪のつまらぬ公立大学へ行ったのだが、つまらなかったので中途退学をした。初めの一年はそれなりに授業にも出たのだけれど、まったく面白味も無く、また、周りの大学生たちとも何だか反りが合わず、やがて段々とサボりがちになった。短い人生の中でも非常に暗黒な時代であったと思う。しかし実は暗黒の中にも、一度だけ、眩い恋の光が射し込んだことがあり、それは未だに忘れることが出来ない。

あれは二回生の頃、大教室で講義が行われている中、自分は一人、とある小説を読んでいた。夢野久作の「ドグラ・マグラ」という、気違い地味た、けれども非常に面白い作品であった。自分はそれの文庫本・下巻を読んでいて、講義の終わりかけでちょうど読了し、ふむ、なかなか鋭い小説だった、と一息ついて感慨に耽っていた。講義が終わると周りの学生たちが一斉に立ち上がり、無駄話をしながら教室を出て行く。昼休みである。彼らは学食にでも行くのだろうか。自分はしばらく席に座ったまま、机に突っ伏していた。もう少し「ドグラ・マグラ」の余韻に浸ろうと、物語を頭で味わいながら、わざとらしく阿呆のように欠伸をした。

すみません、あの、ちょっと良いですか。一人の女学生が傍らに立っている。どうやら自分に用があるようだった。何ですか、と自分は小声で言った。当時、今よりも遥かに人見知りだった自分は、見知らぬ人と話すだけで全身から汗が噴き出すほどの対人恐怖症だったのである。それ、ドグラ・マグラですよね、ずっと読んでましたよね。そう言われて自分は、いや、あの…、と、机に置かれた文庫本を咄嗟に隠した。何だか馬鹿にされるような気がした。それが何ですか、何の用ですか、と、目も合わせずに冷たく陰気な声で言った。ごめんなさい…、今ちょうど私もそれ読んでて、まだ、上巻なんですけど、面白いですよね。

ちらりと見ると、黒髪で、色白の、細目、やや翳りのある若い女性が立っていた。その瞬間に自分は胸がドキリとして、少しだけ吐きそうになった。完全にタイプだったのである。それからどんな会話をしたのか覚えていないが、とにかく自分は彼女に読み終えた下巻を貸して、更には互いの連絡先も交換、じゃあまた、と別れて、その日は午後の授業にも行かずに飛び跳ねながら帰宅したことを覚えている。暗雲晴れて、見事恋に落ちた瞬間であった。

一学年下の、奈良出身、文学部、の彼女は、キツネとリスと大仏を足したような可愛さであった。初めの翳りのある印象とは違って、案外友達も多く、また、軽音サークルでバンドを演っていた。対する自分は、大学では完全に「ぼっち」である。彼女が初めて学内で友達になった人と言っても良い、ろくに授業も行かぬ、髪は伸びきり上下ジャージとサンダル姿、そうして学食で一人うどんを啜る、根暗な呆け者であった。けれども彼女はそんな自分にも優しく、時折、学内の図書館で落ち合い、音楽や文学や動物の話などをした。話す声が矢鱈と低くて、フフフと不気味に笑う女性だった。その辺りも自分としては完全にマルで、今はあくまで友達付き合いであるが、少しずつ距離を詰めて恋仲になろうと考えた。

そうして自分は様々な作戦を決行した。夜にはメールを送り、返信が来てもすぐには返さず、少し時間を置いてから返信した。彼女が好きだというバンドのCDをわざわざTSUTAYAで借りてきて、それを耳コピしてコード進行を紙に書き、渡した。自身の漫才ライヴにも招待した(そのときは死ぬほどスベったが)。時にはストーカーまがいのこと、駅前の喫茶店へ行き窓際の席でひたすら待ち伏せて、彼女の下校姿を見つけると偶然を装いながら現れて、やあ奇遇、なんて言って帰りの電車に共に乗る、などもした。完璧主義の自分は、運任せの賭けに出ることは無く、これは完全にいけますわ、と確信するまで、ゆっくりと距離を縮めることに専念していた。そして三ヶ月ほどの土台固めの末、ついに二人で休日に遊ぶこととなり、その日は、団子屋へ行き、漫画喫茶へ行った後、公園へ行ってブランコに乗った(今思うと何と幼稚なのだろうか)。彼女は笑顔でブランコに揺れていた。自分は、良かったらわしと付き合ってくれまへんか、と冗談めかして告白をした。女性に告白をしたのは、生まれて初めての経験であった。

すると彼女は困った顔で、ううん、そういうのはちょっと、と言い、少し考えさせて欲しい、と俯いた。この時点で自分は既に絶望していたのだが、一応考える猶予を彼女に与えて、出来るだけ前向きに頼んます、と念押しをした。後日、ごめん、やっぱり無理です、私もきみのことは好きやけど、今は恋人とかいらんかなと思ってる、という謎の理由で自分は正式に振られた。自分は、承知しました、と言って情けない顔で笑い、恋の作戦は呆気なく幕を閉じた。

それからは会うことも無くなり、当初は絶望の淵で髭もじゃら目ヤニ野郎と化した自分であったが、二ヶ月ほど経ち季節も変わり目、その頃にはようやく失恋の痛手も過ぎ去り、相変わらず一人で学食のうどんを啜る日々を送っていた。ある日、偶然学食で声を掛けられて再会した彼女は、金髪になっていた。何かあったのかい、と聞くと、気分を変えたくて、と言う彼女の声は相変わらず低かった。金髪はまったく似合っていなかったが、久しぶりに会話をするうち、やっぱりラブ、と思った自分はいとも簡単に恋心が再燃した。

彼女は大切なiPodを失くしたとか何とか言って、妙に悲しんでいる様子であったので、自分は一緒に探すことにした。もしかすると、次こそはこちらに惚れてくれるかもしれない、という安易な下心である。二人で学内の教室などを探し周ったが見つからず、しかし自分としては幸せのひとときであった。iPodよ見つかるな、このまま二人で永遠に探したい、と思った。

彼女は矢鱈と焦っており、今にも泣きそうな様子であった。iPod如きで何を泣くのだと思った自分は、そのときとんでもない名案を思い付いた。新しいiPodを彼女にプレゼントするのである。女など所詮は物品で釣るのが一番手っ取り早い、という下衆な思いもあったが、純粋に、あげようと思った。しかし新しいiPodを買う余裕も無いので、自ら使っているお古のやつをあげよう。どうせならば自分セレクトのプレイリストを入れておこう。そして恋仲になろう。我ながら完璧であった。窓の外は夕暮れで、誰もいない教室の隅で悲しむ彼女は、暗く美しかった。自分は目一杯の渋い声色を使って、もう探すのはやめよう、おれのiPodをきみにあげる、そんでやっぱり付き合ってよ、と耳元で囁いた。

彼女の反応は意外なものだった。空虚な瞳で、ごめん、と言い、そのまま口籠ったのである。よく謝る女だ。二人の間で何となく妙な空気が流れた。しばらくの無言の後、実は…言わなあかんことがあって、と彼女は何やら苦い顔でこちらを見た。おやおやおや?と思う間も無く、実はさ、最近彼氏が出来てん、ごめん、軽音の先輩なんやけどさ。その瞬間、自分は打ち上げ花火になって上空へと飛び、散り散りになって炒められて、焼飯になった。言うてたこととちゃうやん。しょうもな。ほんで軽音の先輩て。しょうもな。金髪にすな。しょうもな。

失くしたiPodは彼氏から貰ったプレゼントだと言う。それを振った男に探させるとは何と邪悪な女だ。あっぱれ。自分は顎をしゃくらせて、めちゃめちゃ邪悪やん、と言い掛けたが、一度は惚れた女である、そんなことは言わずに、そうか、そら大切なものや、何としてでも見つけないかん、などと言って、矢鱈と饒舌になり、最後まで笑顔を保ちつつ捜索を続けた。iPodは見つからず、勿論彼女と恋仲になることも無く、全てが終了した。そして自分は大学へ行くことをやめた。

元々、軽音サークルは、非常にムカつく感じの、チャラい所で、やりまくりサークル、などという良からぬ噂も聞いていた。悲しいことである。もっと悲しいことに、自分はその晩、彼女が先輩とやらに強引に犯されている想像をして自慰をしたのである(妄想の中の先輩は、金髪吊り目のボーカルだった)。儚くも短い恋は砕け散り、所詮この女も他の奴と大して変わらぬカラッポ人間かと思うことで面目を保とうとしたが、心の傷は思いの外大きかったのだろう、この出来事をきっかけに、自分は深い暗黒を取り戻して、再び鬱なるダークサイドへと滑り落ちたのだった。それから中途退学するまで、生活に光が射すことは一度たりとも無く、自分は雑草のように暮らした。ちなみに、夜中に学内へ忍び込んで軽音サークルの部室のソファーに復讐の小便を掛けたことは秘密である。

何もいりません。舞台に来てください。