森茉莉

森茉莉という作家をご存知だろうか。かの文豪、森鴎外の娘であり、昭和時代に小説やエッセイで活躍した作家である。自分は、森茉莉の文章がとても好きで、よく読む。古本屋へ行けばまず森茉莉の本を探す、ブック・オフへ行けばまずマ行の棚を見る、といった具合である。

茉莉は小さい頃から親父に溺愛されまくった。そのため、世間知らずのお嬢様となり、労働などは以ての外で、若い頃はフランスで優雅に暮らし、結婚も二度して、親父が死んでからは親父の遺産や印税などを食い潰しながら生活し、それも尽きて、おばさんになって、ようやく貧乏一人暮らしになった。で、仕方無く文章を書き始めた。料理以外の家事が出来ない茉莉の部屋は散らかり放題で、作業机も無く、ベッドの片隅で三角座りをしながら原稿用紙にペンを走らせていたという。

そうした特異な環境に依るものなのか、森茉莉の文章は他の作家とは一味も二味も違う美しさに溢れている。破滅的であり、淫靡であり、尚かつユーモラス。小説的な技法に当てはめると、その文体や言葉の使い方は、色々と間違えているのかもしれない。漢字や句読点の使い方、「」()の使い方なども、どこか崩壊していて、物語も脱線を繰り返す。書きっぱなし、といった感じがする。エッセイの内容は、親父のことや日々の暮らしのこと、料理のこと、大衆への毒舌など、ブルジョアお花畑おばさんの戯言のようだが、嫌味が無いので読んでいて楽しい。小説では、美少女や美少年の話、ボーイズラブなどを書いている。自分は小説よりもエッセイの方が好みで、それは、物語に感動するというよりも、文章そのものに感動を覚えるからだ。

初めて読んだのは、図書館で何となく借りた、様々な作家のエッセイを集めた本で、その中にあった、森茉莉『気違いマリア』という短いエッセイであった。自身の貧乏暮らしを美しく書いたその文章が、阿呆みたいで、笑ってしまった。それからは何となく気になっていたものの、特に他の作品を読むことは無かった。ある日の本屋で、あなたと同じ誕生日の作家、というコーナーがあり、自分の誕生日の棚に森茉莉の本が並んでいるのを見つけたのをきっかけに、惚れてしまい、色々と読んだ。

『贅沢貧乏』『貧乏サヴァラン』『私の美の世界』『マリアの空想旅行』『恋人たちの森』『ドッキリチャンネル』など、タイトルも美しい。気になる人は読めば良いと思う。自分も全て読んだわけでは無いが、エッセイがおすすめである。果たしてどんな風な文章なのか、以下、森茉莉の真似をして文章を書いてみようと思う。

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多久魅は今年で31歳になるが、未だにヤング・ボォイを自負している。その証拠に、多久魅の顔には、皺が、無い。痩せた薄肌の青白い頬には申し訳程度の小さな黒子がひとつあるのみで、肩まで伸びた黒髪の艶は絹糸のようである。アパルトマンの外の雨音を聴きながら鏡の前に立った多久魅は、洗面台で蛇口を捻り、冷水で顔を洗った。そうして、稀薄(フラジル)な橙黄色(オレンジ)のコットン・タオルで入念に顔の水滴を拭き取ると、テリアを思わせる粒らな瞳をぱちくりとさせながら、スムゥズな瞬きを繰り返した(英国で生まれたヨークシャア・テリアは「動く宝石」と呼ばれる愛玩犬で、その愛苦しさに魅力された愛犬家も多い。多久魅はその昔、とある女学生に「あなたはまるでテリアね」と言われたことがあったが、そのときはその言葉の意味が分からなかった一一後に、テリアとは、あの小さな愛玩犬を指すと判明して、納得を得たのである)。

冷蔵庫にはちょうど鶏卵が二つあったので、多久魅は、朝食をオムレットにすると決めた(朝食といっても、すでに時刻は午前十一時を超えていた。多久魅の朝は世間的には遅い。万年夜型であるため、日々の起床が早くても午前十一時の多久魅にとって、世間でいう午食が彼にとっての朝食なのである)。鉄鍋に橄欖油(オリィヴオイル)をひとさじ垂らして火を付けると、木椀に鶏卵を二つ割って菜箸で素早く掻き混ぜた。そこへ塩瓶から塩を三度ほど振り、熱した鉄鍋の中へ溶き流す。この際、火力は緩めずに強火で鶏卵の表面のみを焼くことが重要である(これは巴里のモンマァルトル丘にある郷土料理屋のシェフに直々に教わったオムレットの作り方で、ある。本来、郷土料理の基本は、ただその儘に素材を活かすものであり、スピーディかつ単純な調理が必要とされる。日本の高級洋食屋で出される、料理人自身の小賢しいアイディアがふんだんに盛り込まれた、妙に凝ったオムレットなぞは、味云々以前に、そのあざとさばかりが散ら付いて、まるで食えた物で無い)。

菜箸の先で半熟の鶏卵を返して半円状に畳み、真黄色に焼き上がったオムレットを丸皿に乗せると、塩揉みした甘藍(キャベツ)と橄欖(オリィヴ)のサラダを添え付けて、朝食の完成である。珈琲は、手廻しのミルで珈琲豆を砕き、とくとくと熱湯を注いで作ったもの、そこにミルクと三温糖をたっぷりと入れて、取手にエメラルドの石が埋め込まれた銀匙(巴里時代から愛用している多久魅のお気に入りのスプゥンである)で、時折、掻き混ぜながら飲むと決めている。そうして遅めの朝食を食べることで、多久魅の一日は始まる。食べ終えた頃には正午を過ぎて、いた。

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勿論、本物の森茉莉の文章は、もっと狂っていて、もっとふざけていて、もっと美しい。晩年の森茉莉は、一人ぼっちだった。貧乏であろうと、部屋が散らかろうと、美しい文章を書き続けた。そして最後はアパルトマンの自室で孤独死していたのを発見されたのである。あぁ、もりまりだいすき。

何もいりません。舞台に来てください。