たとえばぼくが死んだら

これは勝手な持論であるが、死にたい、などとすぐに言う人のこと、自分は嫌いでは無い。

楽しく健全に暮らすこと。ただそれだけのことなのに、難易度は非常に高い。ちょっとでも気を抜くと大変な思いをして、未来を想うと嫌んなる。回避するには現実の諸々から目を背けるしか無くて、妄想したり、楽しい日々を思い出したりする。特別、優雅な生活がしたいわけでも無く、ただ、楽しく健やかに暮らしたい。だが、どういうわけか、上手く出来なくて、途方に暮れる。となると、ぼんやり死を想うこと、それは決して間違いでは無く、むしろ真っ当な感性といえる。長生きしたぁいハッピーライフ、などと言う奴は無視しよう。私も、いつか、あっさり気持ち良く逝きたい。

死にたい、と言うこと自体は決して悪いことでは無い。だが、実際に死ぬことは、寂しいことかもしれぬ。何の悔いも痛みも無く、笑いながら死ねたら良いが、実際の死は、もっと恐ろしいものではなかろうか。ウギャアと激痛かもしれぬし、地獄へ真っ逆さまの直行便かもしれぬ。まだ死にたくないタイミングで、ちょい待ち!と言って死ぬかもしれぬ。何より、誰かが悲しみ泣くかもしれぬ。あぁ、何だか寂しくなってきた。

「たとえばぼくが死んだら、そっと忘れて欲しい」という歌があったが、忘れられることは、寂しい。たとえばぼくが死んだら、果たしてどうだろうと、時折想像する。

棺桶の中の顔、見られるのは絶対に嫌だ。葬式なんてやらないで欲しい。死体は、誰かに食べて欲しい気もするが、誰も食わんだろうから、さっさと燃やして欲しい。きっと何人かの人は、悲しんで、泣いたり、お悔やみをする。まだ若いのに、残念なことですなあ、と言う。中には、ざまあみろ、と心のどこかで思う人もいるかもしれぬ。きみは、どうせ、シクシク泣くのだろう。

そうして時が過ぎるうちに、皆、再び自分の暮らしで精一杯となり、いつの間にか忘れる。楽しく健やかな暮らしを求めて、また必死で何とかかんとか生活をする。ぼくのことなど、どこへやら。時折ふと思い出すことがあるかもしれぬが…、いや、ほとんど無いだろうと思う。これは、仕方の無いことだ。だが、大切な人に忘れられたぼくは、きっと寂しくて、成仏出来ない。だから、真夜中、きみの枕元に化けて出ることにする。白い三角巾の代わりにハンペンを額に付けて、どろろんと出るから、もし出てきても、決して怖がらぬように。塩など撒かぬように。悪霊退散出ていけ悪魔!などとは言わぬように。目印はハンペン。

何もいりません。舞台に来てください。