炬燵には手を出すな

ここのところ、急激に寒くなったような気がする。実際に気温が低下しているのだから仕方無いが、それにしても嫌がらせのように寒い。毎年必ず当たり前の顔をして、年の瀬はやって来る。その度に我々は冬の匂いを嗅ぎながら、無意味にノスタルジーな気分に浸り、今年ももうじき終わるね、それにしても寒いね、を連発しながら、いつの間にか一年を終える。自分もそうだ。起きると、さぶぅ、と言って、脱衣所で服を脱ぐとき、さっぶぅさっぶ、と言って、外出すれば、ぶぅさぶさぶさぶ、と言って、そんな調子で年を越す。

家の中では、シャツにトレーナーを重ね着して、袢纏を羽織っている。下はスウェットズボンを履いて、ぬくぬくの靴下を履いている。場合によっては腹巻きをしたり、タイツを下に履くこともある。それでも寒いときはストーブを付けて、縮こまりながら熱いお茶を飲む。自分は、家の中では基本的に動かないので、じぃっと椅子に座っているか、布団に転がっているか、のどちらかである。虫ケラの如き体勢を維持しながら、夜ごと震えている。

冬が来るたびに、炬燵を買おうかと悩む。今まで何度も悩んで、炬燵さえあればと思いつつ、しかし自分は断固として炬燵を買わなかった。もし買ってしまったら、全てが終わってしまうような気がするのだ。炬燵の中は、とてつもなく快適で、ぬくい。炬燵さえあれば、もう震える心配はない。冬の厳しさを忘れさせて、凍えた身体を優しく包んでくれるに違いない。最、そして、高、なのだ。しかし、過度の快楽は、人を堕落させる。つまり炬燵を購入し、その中に入れば最後、自分は金輪際炬燵の外に出られずに、この浅はかな人生を終えてしまうような気がするのである。そうなると家事も仕事も何も出来ず、精神も肉体も滅びの一途を辿り、やがて炬燵とともに心中、そのまま息絶えることは容易に想像出来る。もしも超絶淫乱美少女が家に居て、四六時中誘惑されたとしたら、誰だって抱きまくって、無限エクスタシーの挙げ句、精子を枯らして生死を彷徨うに決まっている。自分にとって、炬燵は、超絶淫乱美少女と同じである。それはあくまで憧れであり、妄想であり、浪漫に過ぎない。あぁ、それにしても寒い。炬燵への想いは募るばかりで、欲望と理性が交錯する。やっぱり買おかな。あかんで。でも欲しいな。あかんで。ホームセンターとかなら結構安いやろうし。あかんで。でも、さぶいし。あかん。でも。でも。でも。

炬燵への想いを断ち切るために、干からびた虫の死骸と成り果てた自分の姿を想像しながら、炬燵ダメ、ゼッタイ、炬燵ダメ、ゼッタイ、と念仏のように繰り返して、自戒する日々。人としての尊厳を保つためにも、炬燵には手を出すな。

何もいりません。舞台に来てください。