パン

もしも自分がアンパンマンならば、自らの顔をちぎってお腹の空いた誰かに分け与えるだろうか。イエス・キリストがおっしゃられた、自己犠牲に基づく無償の愛、というものの強さを、自分は高校の頃に倫理の授業で習った。たとえ自身が傷ついても、それによって誰かを救えるのならば、救おう、という考えである。イエス・キリストの考えを体現するアンパンマンは、素晴らしいお方だと思う。

さて、もしも自分の顔がパンで出来ていた場合、誰かに笑顔で分け与えることは出来るのか、それとも躊躇するのか、の前に、そもそもの疑問がいくつかある。果たして自分のパンを分け与えたところで誰かを救うことが出来るのか?逆に腹痛になり悲しい思いをさせるのではないか?そもそも自分のパンは食べられるパンなのか?美味いのか?不味いのか?といったことを思うと、自信満々の笑顔であげたいけれども、そんな自信は無いので苦笑い…、という結論に行き着くのだった。

自分は昔からナルシストの癖して自己肯定感が低く、わたすは駄目な人間でございやす、という観念に縛られていた。今でも、自分が屑に思えて仕方無く、しょんぼりする夜も多い。それはおそらく、幼少の頃からの教育に依るものであると考えられる(詳しくは書かない)。そうして形成された人格における弊害はいくつかあり、まず、他人の褒め言葉を信用することが出来ない。いくら褒められても、素直に受け取ることが出来ず、またまたぁ、社交辞令、と感じてしまうのである。最近はようやく、誰かの素直な優しき言葉を、こちらも純粋に嬉しく思えるようになってきた。そして素直に、ありがとう、と言うことも出来るようになった。立派な成長である。また、極度な寂しがり屋でもあり、とにかく誰かに優しくされたい、かまって欲しい、と思う反面、縛られることを嫌い、あくまで放っておいて欲しい、という面倒臭さも併せ持っている。そして、自己肯定感は低いが、決して物事を重く思い悩むことはしない。自分はこれまで、思い悩んで誰かに泣きつくような真似や、涙で明日が見えなくなったことは、一切無い。自分など虫ケラ、と思えば、悩むことすら阿呆らしく、全てがどうでも良いことに思えてくる。人様に相談することすら恥ずかしく、お前みたいな奴が何を一丁前に悩んどるんじゃ、という思考である。それでも自分の力では何も出来ないので、結果的には色々な人に助けられながら、何とか暮らしている。

長々と自己の人間性を分析してみたが、それが合っているのかも分からない。つまりは、そうした人間のパンが、果たして人を救うのか?という話である。わたしのパンで良ければ、いくらでもちぎって、あげます。元々がパン屑なので、いくら食われても自分は思い悩まない。平気なのである。自分のような人間のパンを欲しいと言う稀有な人がいれば、大して美味しくは無いだろう、下手すれば腐っているかもしれない、それでも良ければ、いくらでも食べてください、といつも思っている次第。

何もいりません。舞台に来てください。