きみにジュースを買ってあげる

こないだ、知り合いの漫画家の個展へ行く途中に、商店街の文具屋で色鉛筆を買った。外国製の、12色入りのものである。個展を開催していた小さな店に入ると、生憎知り合いは不在であった。BGMが格好良い歌だったので、店主に、これは誰の歌ですか、と聞くと、フクオカシローさんです、と言われたので、後で調べようと思った。結局知り合いとは会えず終いで、差し入れ、というか贈り物の色鉛筆は店主に預けておいた。

それから、その日の晩は、10歳以上も年下の女性と、うどん屋へ行ったのだった。こう書くと犯罪のようであるが、彼女はライヴなどのお手伝いをしてくれている人で、とても聡明な成人であるし、何もやましいことは無いので、自分は無罪である。普段のお礼がてらに、晩飯を奢る約束をしていた。約束通りに自分は1,000円以上もする高級うどんを奢り、食後には丸福珈琲も奢った。何だかオジサンのような気持ちになった。

その後、酒屋で赤ワインを買って、同業のライヴバーへ行き、そこの店主に手渡した。この人も我が店が移転したときなどに、色々とお祝いをしてくれたのである。出不精の自分は他の店に行くことは滅多に無く、その店へも一度も行ったことが無くて、無礼のままになっていた。おそらく向こうは何も思っていないのだが、自分はそうしたことがずっと心に引っ掛かる質で、その割に無礼のまま横着して放ったらかすため、心の引っ掛かりがいつまでも取れぬ。一応、この赤ワインを贈ることで、勝手に返礼した気持ちになり、一件落着となった。

思い返すと、その日は誰かに贈り物をしたり奢ったりと、施しをしまくった一日であった。普段は吝嗇ケチンボの自分であるが、妙なスイッチでも入ったのだろうか、財布がすっからかんになるほどに施した。それは、なかなか悪くないものだった。というのも、普段店やライヴをしていると、何かと物を貰うことがある。それは煙草であったり、酒、お菓子、旅土産、おつまみ、調味料、服、本、ぬいぐるみ、など多岐に渡る。皆、当たり前のようにくれるので、自分も当たり前のように貰っていたのだが、考えると、これは凄いことなのである。己で稼いだ金を人のために使う。今まで自分はそのような発想すら湧かず、自分で稼いだ金は全て自分の飯や遊びに費やしてきた。しかしこの歳になり、ようやく誰かに何かをあげることの素晴らしさに気付いたのである。これらは相手の喜びのためのみならず、己自身の喜びのためでもあったのだ。

己の勝手な気分、であって良いと思う。本当は、相手の欲しいものや相手の趣味趣向を聞いた上で、相手が確実に喜ぶであろうことをするのが正しい施しなのかもしれぬ。しかし、自分はそんなこと、どうだって良いと思う。この人にうどんを奢りたいと思えば奢るし、色鉛筆を贈りたいと思えば贈る。相手が多少気まずそうな顔をしていても、構わないではないか。「きみにジュースを買ってあげる」という歌があるが、あれなどまさしくそうで、きみにジュースを買ってあげたいから、買ってあげる、時々暴力振るうけど、ぼくは、きみにジュースを買ってあげる。その己の気持ちが大切なのであり、きみがジュースを好きか、今飲みたいか、などは後回しなのである。

現に自分は、誰に何を貰っても不快な気持ちにはならぬ。たとえピンクのリボンであっても、喜んで貰うし、一度くらいは髪にも付けるだろう。近頃は、次は誰に、何をあげようか、何を奢ろうか、そんなことばかり考えている。

何もいりません。舞台に来てください。