屁の会

どうもムカつくのは、人は結局、自分のことを受け入れてくれる他人ばかりを探して、自分に賛同してくれる意見ばかりを集める傾向にある、ということで、無論これは当たり前のことかもしれないが、どこか腑に落ちない。そんなことで安心しても、また、ウキウキ喜んでも、マヤカシに過ぎないのではないか。大切なことはもっと別の所に落ちているはずで、しかし我々は、いつも安心を求めるあまり、イエスばかりを探してしまう。

たとえば自分が、屁が止まらない、という悩みを抱えていて、友達に相談したとする。友達は、それならば内科へ行け、とアドバイスをくれるのだが、正直自分としては、病院へ行くのはあまり乗り気では無い。本当は、屁こきたかったらこけばいいやん、と優しく言って欲しいのだ。しかし友達は、きっとお前は屁病だから内科へ行くべきだ、と強く言う。自分を受け入れてくれない友達に対して、自分はありとあらゆる言い訳を並べて屁を正当化しようとする。そして、そのうちに自分は友達を軽蔑する。無論、屁は止まらず、あぁ、今では自分と同じく屁が止まらない人たちと共に屁の会を結成、安心して屁をこいているというわけだ。

客観的に見れば、友達の言っていることに、何らおかしいところは無い。屁が止まらない、などというのは、どう考えても異常であるからだ。しかし、屁病の自分はその異常さには気付かない。むしろ友達の優しさを無下にして、屁をこかないこいつなど友達なんかじゃない、とまで思ってしまう。そんな調子であるから、いつまで経っても屁は止まらない。頭のどこかで理解はしていても、自ら屁を止める努力を怠った結果、己の悪臭にも気付かぬ屁まみれの暮らしが続く。そして屁の会のメンバーと付き合ってばかりいるうちに屁病は悪化を辿り、いずれは腹が破裂でもして、死ぬ末路である。

自分とは相容れない意見を受け入れること。その難しさは計り知れない。大変なことである。しかし今の自分にとっては、屁の会こそが心の拠り所であり、救いなのだ。たとえ間違っていようと、良いではないか。自分は、屁の会のメンバーといるときだけが、嘘偽りの無い裸の自分でいられる。だから、たとえ批判されようとも、わたしは屁をこき続ける覚悟なんです!誰が何と言おうと、屁をこきます。そんな信念という名の戯言を並べて、自分は今日も屁をこくのだった。それらは全て間違っていた。ブー!

何もいりません。舞台に来てください。