あかんやん

たまには、漫才について書きましょう。

自分は自慢では無いが、過去に作った漫才のネタに関しては、ほぼ全て暗記している。高校生の頃のネタから最近のネタまで、おいちょっとあれやってくれ、と言われれば、やれる。暗記能力が別段高いわけでは無い。というのも、自分たちのネタはどれも台本などあって無いようなものなので、会話の流れさえ覚えていれば、何となく出来るのである。

自分たちは、いわゆる、ネタの練習、というものをしない。舞台前に一度だけ流れを確認する程度で、そのため、舞台上での会話が噛み合えば上手く運べるが、噛み合わないときはしっかりと崩れる。

あかんやん。

一応、ネタ帳的なノートも持っているが、そこにはネタの題名と流れが書かれてあるのみで、後はぶたの落書きで埋め尽くされている。昔はもう少し、台本を書いたり、練習したり、していたような気がする。今ではすっかり、当日のコンディションと雰囲気まかせになってしまった。とはいえ、勿論、適当なわけでは無い。会話においてどういった感情の起伏が起こり、どういったキャラクターで、どういう意味合いのストーリーが背景にあるのか、などの綿密な打ち合わせも事前にしている。間やリズム、言葉尻のディティールなどの細部にこだわることもある。しかしそれも、口確認、というか、いちいち書き起こしたりはしないので、舞台に立ったときにはすでに、大体忘れている。

あかんやん。

あかんのは百も承知だが、長い間このやり方でやっているため、もう引き返すことは出来ない。自分は、相方が自分に対してどうツッコんでくるのか、いまいち分からずに演っている。相方も、自分がどうボケるのか、全ては分からずに演っている。アドリブや即興、というと語弊がある。あくまで会話に余白を残しているだけのことであり、また、全てのネタがそういうわけでなく、中にはお互いの台詞をほぼ全て決めているものもあり、その辺りはネタによって様々である。

問題は、一度自由な感じで演ったネタをもう一度演る場合で、二度目、三度目になると、流石にボケもツッコミも多少は定まってしまい、わざとらしくて、面白くなくなってしまう。あかんのは百も承知。一日4ステをこなすベテランの漫才師の方々がいかに凄いか。自分たちには到底厳しい。

去年、立川志の輔名人の落語を初めて生で見た。創作落語を演っていたのだが、滅茶苦茶に面白かった。落語であれだけ笑ったのは初めてだろう。後で調べると、そのネタは名人の十八番で、どうやら何千回と演っているネタらしい。そうは思えぬ新鮮味があった。

歌や、その他の表現と違って、コントとも違って、漫才は、その場で自然と不自然な会話をする(ように見せる)芸である。新鮮味が無くなれば、色褪せてしまう。その点、プロは色褪せずに、常に新鮮な気持ちでやり切る。本物のプロを生で見れば、自分がいかにまだひよっ子か、思い知らされる。

自然体を追求した結果が今の自分たちで、というか本心を言うと、色々とどうでも良くなってきていて、しんどいときはしんどく喋ればいいやん、とまで思うようになってしまった。そのうち、ミスするのも自然やん、ということに気付いた。台詞を噛む、言葉を忘れる、などの行為はどれも、至って自然なことではないか。何も恐れることは無い。それどころか、忘れたお陰で新しいボケが言えたりもする。オールオッケイではないか。だが、いざ舞台上で言葉を忘れると、困り、焦り、慌てふためく自分がいる。だから、あかんやん。

あるとき、漫才中に「ズッキーニ」という言葉をど忘れしてしまった。フリが二つあって、ボケが「ズッキーニ」なのだが、出てこない。野菜の、あの形は出てくるのだが言葉が出てこない。自分は、「えぇっと…」と言いながら手の仕草であの形をしつつ、必死で脳を回転させた。茄子によく似た、あの野菜。名前。何や。あれ。ムッソリーニ、しか出てこない。ムッソリーニ、では無い。だが、そんな風な言葉だった気がする。何や。あれ。ムッソリーニ、やなくて。相方の顔を見ると、少しニヤけている。こいつ言葉出てきてへんやん、とでも言いたげな、嫌な笑顔である。ムッソリーニ、違う、ムッソリーニ。とりあえずムッソリーニどっか行け!衣装の内側で脇汗がじんわりと滲んだ。あかん、諦めよう。

自分は咄嗟に、「ゴーヤ」と言った。相方は「ゴーヤかい。ゴーヤやったんかい」と言った。なぜゴーヤと口走ったのかは、今もなお謎である。

何もいりません。舞台に来てください。