散々

33歳になって、楽しいことは多々あるけれど、記憶に残るのは結局、散々なことばかりである。

地下鉄の乗り換えで歩いていると、目の前を歩く女性のポケットから定期入れが落ちた。女性は気付かずにズンズン歩いて行く。悪魔の自分はその定期入れを拾い、家に帰ってからじっくり眺め舐め回そうかと思ったが、実際にはそんな野蛮なことはせず、小走りで女性に追いつき、背後から「あの、落としましたよ」と紳士的に言った。恋の予感がした。

しかし女性はイヤホンで音楽を聴いているせいか、こちらの声には気付かぬ様子でズンズン行く。何とか離されぬよう小走りを保ちながら、あの、すんません、定期入れ、と背中に向かって言っても、まるで聞こえちゃいない。肩をポンとすれば良いのかもしれぬが、流石に触れるのは危険行為で、もし悲鳴でも出されて逮捕されたら最悪だ。自分は、小走りの速度を上げて、女性の隣まで行き、並走の形で顔だけ横を向いて、再び、あの、と声を掛けた。

それでも女性は完全な無視を決め込む。ナンパかと思われているのだろうか。定期入れをちらつかせるも、下を向いたままで、こちらを一切見ようとしない。どうすれば良いのか、と自分は困った。このまま彼女の家まで並走して、それからぼくらの並走生活を始まった、共に月を見て綺麗だネなんて言いながら並走デート、などと妄想した。だが実際には、なんでこんな見ず知らずの女のためにここまでせなあかんのんじゃ糞、と少しムカついていた。そして、その直後に、これは何故だか自分でも分からぬ、反射的にそうしてしまっただけなのだが、自分は片手に持ったその定期入れで、陰気にうつむく女の頬を、ペチと叩いたのであった。

勿論、軽く触れる程度のペチである。全てはこの愚鈍な女のためにした、親切ゆえの行為であった。しかし女は、叩かれた瞬間にこちらを殺意の視線でギロリと睨みつけて、そのまま目線を定期入れに移すと、ア、という顔になり、そうして怒ったような驚いたような妙な顔つきのまま、ふんだくるように自分から定期入れを奪い取ると、何も言わずに大股早歩きでズンズン立ち去ったのである。自分はその場に立ち尽くした。親切が見事に粉々に砕かれた。何たる無礼な、恐ろしい女であろうか。顔も腐ったジャミラみたいな感じだったし、聴いている音楽もどうせDA PUMPとかだろう。何が恋の予感だ。何が並走生活だ。ダッシュで背後から後背位で犯してやろうかと思ったが、そこは大人の、33歳の自分である。ただ呆然とジャミラの後ろ姿を見送りながら、また落とせ阿呆、と呟いた。

何もいりません。舞台に来てください。