悪魔ファウストまるちゃん

時折、ふいに誰かを想い出す。過去に出会った人たちの中から、突然一人の人間が現れて、やぁ、久しぶり、と目の前に立っている。あぁ、そういえば、こんな人おったなぁ、確か…、と巡らせては、様々な光景が甦り、次第にその人のことが頭から離れなくなる。そうしたことが、稀に起こる。

あれは去年か一昨年の夏、自分は友達と新世界へ遊びに行き、プールでも入ろうかと、スパワールドへ行ったのだった。世界の大温泉スパワールドはプールと温泉がセットになっているレジャー施設で、1000円そこらで楽しめる阿呆餓鬼と馬鹿ギャルの巣窟、自分もこれまでに何度か遊びに行ったことがある。

水着に着替えて半裸になった自分は、流れるプールでビキニ・ギャルの乳などを見つめながら流されていた。それは何とも空虚な、無意味なる時間で、友人と共にへらへらと笑いながら脳を空にしていた。しばらく流れていると、プールサイドに作られた特設ステージ、その前に中年のオタクらしき男たちが集まっているのを見た。勿論、オタクも全員が半裸の水着姿で、肥えた身体とニキビイボだらけの醜態を晒している。その横をビキニ・ギャルが流れて行く。それは、異常な光景であった。

おそらくアイドルのライヴか何かがこれからあるのだろう。それにしても、流れるプールのプールサイドでライヴなど、やり辛いに違いない。オタクたちは流れるプールで流されぬよう、固まって立ち、アイドルの登場を待ち構えている。自分も、何となくそのライヴが見たくなり、オタクたちに混じって停止した。

しばらくして登場したのは、5人組の、若い無名のアイドルグループだった。カラフルな衣装に身を包み、こんにちはー!と元気良く挨拶をして、すぐに歌を歌った。大きなプール内であるため、歌声は反響を繰り返して、歌詞は聞き取れない。やはり粗悪なライヴ環境であった。それでも彼女たちは一生懸命笑顔で歌い、踊っていた。

普段、アイドルにあまり興味の無い自分は、一曲だけ聴いて、再びビキニ・ギャルの乳流れ鑑賞に戻ろうかと思っていたのだが、曲終わりのMCで、改めまして!悪魔ファウストでーす!というのを聞いて、耳を疑い、硬直した。あ、悪魔ファウスト…。何と恐ろしい名前のアイドルなのだろうか。ファウストとは、確かファウスト博士と悪魔・メフィストフェレスとの契約を描いたゲーテの戯曲である。それを自ら名乗るとは、何たることか。アイドルという稼業はいわば悪魔との契約に基づいたものである、というメッセージなのか。もしくは、悪徳な事務所との契約を揶揄したものであるのか。

結果的に自分は20分ほどのミニライヴを全て鑑賞してしまった。曲が良かったわけではない。実は、悪魔ファウストのメンバーの、一人の女の子に、釘付けになってしまったのである。

その子は、明らかに他の子たちとは違っていた。まだ16歳くらいだろうか、背が低くて、猫のような顔をした子であった。アイドルのMCでは、定番のハツラツとした自己紹介がある。はい!ちょっぴりドジなお調子者、三度の飯よりガスター10、みんなの笑顔が大好物、〇〇です!といったようなものである。他のメンバーもそうした自己紹介をしていく中、その子だけは、違った。やけに小声の真顔で、まるです、どうぞよろしくお願いします、とだけ言ったのである。まるちゃんは、曲に入ってもほとんど歌を歌っている様子は無かった。後方で、一応踊ってはいるのだが、それもぎこちない様子、そして何よりも、他のメンバーが必死の笑顔を作る中、まるちゃんに笑顔は無く、どこか虚ろな顔をしていた。

さて、周りのオタクを見ると、それぞれに推しがいるようで、タオルやペンライトで個々の声援を送っているのだが、どうやらまるちゃんのファンはいないようだった。いつの間にか、自分はまるちゃんを推していた。流れるプールで貧弱な半裸を流されぬように踏ん張り、立ち尽くして、悪魔ファウストのまるちゃんを呆然と見つめていたのである。

やがてライヴは終わり、悪魔ファウストはステージを後にした。何人かのオタクが後を追ってついて行った。最後までまるちゃんが笑顔を見せることは無かった。ただの阿呆の子なのか、やる気が無いのか、それとも悪魔に取り憑かれたのか。どことなく虚弱体質で、精神的にも決して強くはない雰囲気がした。それでも非常に魅力的な子で、現に自分はその20分で心を掴まれて、刹那的ではあるが、まるちゃん推しになったのである。アイドルとしては完璧ではないか。自分もそうした漫才をしていかなければならないと、強く思った。

悪魔ファウストまるちゃん。その日は、一日中まるちゃんについて考えていたのだが、次の日にはもう忘れていた。そして今しがた、突然思い出したのである。はて、あの子は、幻だったのだろうか…。

何もいりません。舞台に来てください。