完璧

喫茶店が好きな小娘を後ろに乗せて、おれは坂道をチャリで爆走するのだ。寝坊のせいでもう日暮れ、だからどうした、関係無いよ、寺の向こうに夕陽が見える。少し寒いが、平然とペダルを漕いで、確かあのへんの角を曲がったところ。小娘は何も言わずに荷台に座り、ただ、おれの服を掴んでいた。ア!警察だっ。二人乗りあかんよー。即座に降りて、無言で俯きながらチャリを押し歩く。大阪の警察は適当だから、大して怒られない。通り過ぎたら、二人は顔を見合わせて少し笑う。

駅前の路地裏にある純喫茶メトロは老舗のボロサ店だが、暖かい木目の内装で、店主のおっさんも無愛想、なので気兼ね無く長居出来る。ドアを開けると懐かしいガスストーブの匂いが立ち込めて、まるで冬の実家、先客はいない。窓際の席に着いた我々はマスクを外して、熱いおしぼりで顔を拭く。埃まみれの壁時計を見ると、まだ17時前である。黄ばんだメニューブックを開いて、二人でページをめくると、ほとんど同時に、フルーツポンチ…、と呟いた。何でも、好きなやつを。それから悩み抜いた二人は、結局、ホット珈琲とホットオーレを注文した。

ここの珈琲は昔ながらのサイフォン式で、カウンターに置かれた立派なフラスコの底をアルコールランプで熱する。コポコポと湯気が立つのを阿呆面で見ていると、小娘がおれの顔を矢鱈と見つめていることに気付いた。さては惚れたな?と思ったのも束の間、鼻毛出てますよ、と言われたので、死にたくなる。せめて死ぬなら珈琲を飲んでから死にたい。小声で、鼻毛出てる男は嫌い?と聞くと、いえ別に、と笑う。ティッシュで何本か引き抜いて涙目のおれは、わざとらしく痛がる。それから二人はフィンランドの風呂について話をしたり、窓の向こうの散歩犬を見ながら、マリモ、プリン、豆蔵、なんて想像の名前を付けたり、棚に置いてある俗雑誌、袋とじの隙間を覗いてくすくす笑ったり、無言で見つめ合ったり、する。

運ばれてきた珈琲に角砂糖を放り込んで、銀のスプーンで掻き混ぜる。ここのブラック珈琲はあっさり薄味のため、砂糖を入れて飲むのがコツである。天井に向けて吐いたハイライトの煙が裸電球に照らされて、黄金色にふわふわと浮かび上がる。オールド・ジャズと秒針の音。互いに珈琲を啜り、うん、と頷く。また来たいと言うので、いつでも行こうと言った。トイレへ行くと変な仏像の置物があった。席に戻り、仏像便所やった、と言うと、彼女も入れ替わりでトイレへ行く。どうやった?うん、確かに仏便。ぶつべんて汚い響きやな。ぶつべんぶつべん。こら。外は寒くなってきたようだ、窓ガラスが少し曇っている、あと一本だけ煙草を吸おうか、いや、やめておこう、一瞬だけ目を閉じる、店主が新聞をパラリとめくる、その音。

店を出ると少し雨が降っていた。傘は無い。財布にはまだ五千円札が一枚残っているから完璧。完璧な妄想は夜に溶けていく。雨の音を聞きながら、自転車に跨っておれは立ち漕ぎで走り去る。暗闇の中、まだ一日が始まったばかりのような、気がした。

何もいりません。舞台に来てください。