空へ…

我が店、ライヴ喫茶 亀を始めてまだ一年くらいの頃の話である。

当時、イルミさん(仮名)という女性がよく来ていた。彼女は35歳の真面目な独身OLであった。マスター、ホット珈琲ください。彼女は自分のことを「マスター」と呼んだ。彼女以外にそう呼ぶ人はいないので、自分はむず痒く可笑しかった。自分が冗談を言ってもイルミさんは大抵真顔で、悪意ある冗談には嫌な顔をした。それでも亀を気に入ったようで、イルミさんはいつも仕事終わりに来てはホット珈琲を頼み、他愛も無い話をして帰るのだった。

ある日、イルミさんが新品のギターを背負って亀に来た。亀でギターの練習をしたいと言うので、自分は、いいすよ、と言い、以降イルミさんは来る度ソファに座って下手糞なギターを弾いた。どうしても弾きたい曲があると言って、それは、ロミオの青い空というアニメの「空へ…」という美しい旋律の曲で、自分は知らなかったが、耳コピしてコード進行をイルミさんに教えるなど、した。YouTubeに誰かが「空へ…」をギターで弾いている動画があるらしく、それを毎晩繰り返し見ている、とイルミさんは言った。動画は男性の手とギターだけが映っていて、いわば自撮りの素人映像であったが、しかし非常にテクニカルな演奏であった。これは相当難しいすよ。でも、いつかこういう風に弾けるようになりたいの。あんたには無理っすよ。放っといてよ。などと言いつつ、イルミさんは、亀で「空へ…」の練習を常にしていた。

あるとき、一人の男性客が通りすがりで入ってきた。ちょうどイルミさんがギター練習をしているところで、それを見た男性が、ぼくはクラシック・ギタリストなんですよ、と言った。興奮したイルミさんは「空へ…」の話をして、YouTubeの動画を男性に見せた。あれ?もしかするとこの人、ぼくの知り合いのクラシック・ギタリストかもしれません、この手つきには見覚えがある、と男性は言って、電話で確認をすると、あ、やっぱりこの動画の人、彼でしたよ、と言った。

それから何日かして、動画の彼が亀にやって来た。優しそうな人だった。事の経緯を聞いた彼は、クラシック・ギターを抱えると、イルミさんの目の前で「空へ…」を弾いた。それは素晴らしい演奏で、流石はプロのギタリストであった。イルミさんの目は完全にハートマークになっていた。おいおい、惚れとるやないか、とおちょくるマスターは無視されて、完全に二人だけの空間が出来上がっていた。そして何やかんやとあって、イルミさんと動画の彼は結婚した。まったく、巡り合わせとは不思議なものである。自分は二人が付き合っていることすら知らなかった(聞かされていなかった)ので、結婚の報告には驚いたが、素直に祝福をした。二人は、今は遠くに住んでいる。

あれからもう二年ほど経ったか、つい先日、亀でクラシック・ギター・コンサートが行われて、出演する旦那と共に、イルミさんが久しぶりに亀にやって来た。赤ん坊を抱っこするイルミさんは少し太ったようで、幸せそうな顔をしていた。自分は赤ん坊に、きみの本当のお父さんはぼくなんだよ、と冗談を言ったが、真顔で無視された。まったく、親に似て、冗談の通じぬ赤ん坊である。コンサートでは、クラシック・ギターのみの渋い演奏が続き、途中、旦那が恋の馴れ初めを話した後に「空へ…」を弾く場面もあり、それをイルミさんが客席でニコニコ見守る、というノロケも爆発した。けれども、自分も美しく懐かしい旋律を聴きながら、当時の匂いをほのかに思い出すなどして、素敵やん、とノスタルジックに浸り、あの頃の空を想った。

何もいりません。舞台に来てください。