ナンパの野獣

世の中の女性の大半が、街でナンパされた経験があるという。特に都会では、夜歩いているだけで男に声を掛けられる。女性からすれば急に見知らぬ男に近付かれることは恐怖でしかない。そもそもナンパする男というのは若いチャラ男だけでなく、学生や、サラリーマンや、おっさん、爺、つまり男全般である。乙女たちよ、野獣には気を付けなさい。どんな優しそうなイケメンであっても、絶対について行ってはならない。男の、凶悪なる下心を舐めてはいけない。拉致されても監禁されても強姦されても殺戮されても構わないのならば、誘いに乗れば良い。

さて、こんなことを言いつつ、実は、自分は、生涯で一度だけナンパをしたことがある。渋谷の夜の街で(!)、見知らぬ女性に「良かったら一緒に遊びませんか」と声を掛けたのだ。勿論、拉致も強姦もしていない。おそらくもう二度とナンパはしないと思う。後にも先にも、あの夜のみである。決してナンパを薦めるわけでは無いのだが、しかし、青年たちよ、もしもこれからナンパをしに行くのならば、そして勇気が出ないのならば、私の経験談を参考にしなさい。

19歳の頃。暗黒大学暗黒学部というところへ通っていた当時の自分は、一年間だけ、ボクシング部に在籍していた。今でこそヘナヘナの貧弱野郎であるが、何と若き日の自分は拳闘に燃える野獣だったのだ。一度も勝てなかったが、新人戦でたまたま勝利を収めて優秀賞を取りトロフィーを授与されて、その翌日に辞めたのだが、それはまた別の話。スパーリングでヘビー級のデブに顔面をどつかれて鼻を折ったこともあったが、それもまた別の話。

寒い冬だった。東京へ遠征試合に行き、目の細い奴にコテンパンにどつかれた夜、自分と二個上の先輩二人の、計三人は、渋谷の歓楽街にいた。ちなみに根暗の野獣だった自分は、勿論ボクシング部内では浮いており、特に同学年の人たちとは噛み合わず、マネージャー女子とは一言も話さず、また後輩としての礼儀が欠如していたために先輩たちからも敬遠される、いわゆるロンリー・ボクサーだった。しかしその夜は何故か先輩に誘われて、宿舎を抜け出た自分は生まれて初めての渋谷に降り立った。感慨も何も無く、人多いな、と思いながら先輩たちの後ろを黙って歩いた。

そのときの自分は髪が肩くらいまで伸びており、また、どつかれたせいで目尻は赤く染まっていた。服装は、上下共に白いジャージ(背中には拳闘という文字が大きく明朝体で書かれていた。どこで買ったのか未だに覚えていない)、そして裸足にサンダルを履いていた。冬の渋谷の街でそんな格好をしているのは自分だけだった。先輩の一人は髪をワックスでツンツンにして、香水を振ったのか、どぎつい匂いを漂わせていた。もう一人の先輩もお洒落にキメたつもりか知らぬが、顔面はニキビ多めであった。何をするわけでも無く、我々は道玄坂という坂で立ち尽くしていた。クラブやライブハウス、そしてラブホテルが立ち並ぶエリアである。じゃんじゃか騒がしい夜の街を、イケイケな現代的若者が右往左往している。我々には、金も無く、することも、行くところも、無かった。

ナンパしよか。ふと、ツンツンの先輩が言った。一瞬戸惑ったニキビの先輩は、すぐさま余裕をかまして、せやな、やるか!と明るく同調した。気色の悪い人たちである。とても拳闘をやる奴とは思えぬ。あなたたちは、矢吹丈にはなれない。うどんでも食べていなさい。盛り上がる二人の背中を見ながら、自分は煙草に火を付けた。お前もするやろ?と振り向く先輩たち。煙を吐き出しながら余裕の真顔の自分は、任せてください、と言った。

何故そう言ったのか分からない。おお!とはしゃぐ先輩たちを尻目に、自分は率先してナンパをする羽目になってしまった。とりあえず、前からやって来る若い女性たちを凝視したが、全員化け物に見えた。彼女は化粧が濃すぎるから却下、彼女は尻がはみ出ているから却下、彼女は鼻にピアスが開いているから却下。じっと押し黙り、選別をしていた自分であるが、内心は、早く家に帰ってテレビ見たり寝たりしたい、とホームシックに掛かっていた。

おい、はよ行けや、びびってんのか。ツンツンの先輩が急かすが、今選別してるのでちょっと黙っててください、と自分は冷静に言った。ニキビの先輩も、ほら、あの女いけ、などと煽る。いや、あれは多分ニューハーフですよ、とあくまで冷静な自分である。自分は、自分と気が合いそうな、大人しくて、読書が好きそうな、犬好きの女性を探していたのだが、夜の渋谷には一人もいなかった。目当てがいません、と言う自分に、お前びびってるだけやんけ、と先輩二人は少し怒った。自分は、少し泣きそうになりながら、か細い声で、分かりました、じゃあ次向こうから来た女に絶対いきます、と言って拳を握り込んだ。

乳の谷間を露わにしたIQ25くらいのギャル二人組が、きゃあきゃあ談笑しながら歩いてくるのが見える。顔は覚えていないが、ときめくような可愛さは皆無だったと思う。自分は、生まれて初めてのナンパを、この二人に捧げることに決めた。昔何かの雑誌に書いていたナンパの極意によると、一言目に、すみません、という言葉はネガティブな印象を与えるため良くない、こんにちは、こんばんは、もしくは、やっほー、などの言葉が良い、それを覚えていた自分は、すみませんだけは言うな!と心で念じた。そして、覚悟を決めた。

行く手を阻むようにして、彼女たちの前に立ちはだかり、こんばんは、と言った。勿論、目を合わすことなど出来ないため、自然と乳の谷間に挨拶した形となった。無視されるかと思ったのだが、意外にも彼女たちは立ち止まり、きゃは、こんばんはぁ、と言った。予想外の展開に慌てた自分は、ジャージ内部に流れる冷や汗の洪水を感じながらIQ150の脳を回転させた。そしてポソリと、ここって…渋谷で合ってます?と言った。

ぎゃはは、と笑う彼女たち、笑い声こそ下品極まりないが、優しい人だと思った。自分は振り返り、少し後ろで見守るセコンドの先輩たちにガッツポーズを決めた。すると更に、ぎゃはは!と笑いが起きた。よく笑う奴らだ。今夜は抱かせてもらおう、と改めて彼女たちに向き直り、なるべく爽やかな笑顔を作った。今や自分はナンパの野獣である。渾身のストレートパンチをお見舞いしよう。

良かったら一緒に遊びませんか。今度は顔を見ながら、真剣な様子ではっきりと言った。ぎゃはは!やはり大きな声で笑う。笑うしか脳の無い痴呆である。だが次の瞬間、彼女たちは、マジうける!その格好!ださすぎじゃね!と叫んだかと思うと、やり直し~やり直し~と歌いながらそのまま自分の元を通り過ぎて、どこかへ消えて行った。とてつもないカウンターパンチであった。

ずっと笑っていたのは、この格好のことだったのか。そんなに面白いかな。まあ、冬にサンダルは寒いもんな。マジうけるよな。うけて良かった。笑顔をありがとう。彼女たちは馬鹿じゃない。見知らぬ男には決してついて行かない、わきまえた人たちで良かった。本当に良かった。

先輩二人は、ようやった、ようやった、と温かく慰めてくれた。それから、果たしてどう宿舎に帰ったのか、帰り道の記憶は無い。

何もいりません。舞台に来てください。