不快い話

芸能人の謝罪でよく見られる「大変不快な思いをさせてしまい…」というやつ。使いやすい定型文なのだろうが、どこか腑に落ちない。私はテレビタレントの不祥事などで不快な気持ちになったことが一度も無いから、よく分からない。それに、誰かの言動で、直接は関係の無い誰かが不快になったとしても、それはある程度仕方無いことではないだろうか。世の中には不快という不快がとにかく溢れまくっていて、日々の暮らしから不快を消し去ることなど到底無理な話であるというのに、己の感じる不快さに敏感な人たちが矢鱈と多い。

私自身は、誰かを不快にさせたい、という気持ちが少なからずある。それは舞台でもインターネットでも、勿論、観客や読者を愉快にハッピーに気持ち良くさせたい、という気持ちは十二分にあるのだが、それだけでもつまらないので、どこかに不快な要素を入れたくなる。だから心の底に這う汚物思想を大切にしているし、見る人を何となく嫌な気持ちにさせたり、気持ち悪くさせたり、というのを好む自分もいる。

子供の頃に流行った遊びで、「死刑」というのがあった。名前からして不穏な感じがする。壁に向かって誰か一人が大の字で立ち、離れたところから皆でそいつの背中に向かって、死刑~!と言いながら野球ボールを投げる。大抵は壁に当たって球は跳ね返るのだが、もし背中に当たればその瞬間に当てられた奴が鬼となり、そこから鬼ごっこが始まる。で、タッチされた奴が再び壁に立つ、みたいなルールであった。子供の自分はどこか不快な気持ちを抱えながらこの遊びをしていたが、死刑~!と叫ぶ瞬間はいつも皆で大笑いしていた。他にも「鞭打ち」「親父刈り」など、凶悪な名前の遊びがあった。

舞台の企画で保健体育の授業みたいなことをやったときは、私が先生役で女性の生理についての学術的な話をした。そして最後は生理用ナプキンに麻婆豆腐を入れてこぼれないかの実験をしたのだが、あれは少しやり過ぎたような気もする。出演者も含めて、そこにいる人たち全員が嫌な顔をしていた。

笑いというものにおいて、不快、不安、不穏といった要素は非常に重要な役割を持つ。相反する要素は、癒やし、安心、安全、といったところか。私が思う舞台の笑いというのは、温泉に浸かってくつろいでいるときよりも、お化け屋敷にいるときの感覚に近い。ホラーというわけでは無いが、ちょっとドキッとするワクワク感が好きだ。あなたの好きな笑い、漫才でもコントでもテレビ番組でも良い、どこかに不快不安不穏な要素が潜んではいないだろうか。これは「人を傷つけない笑い」とも繋がる話かもしれぬが、私は常に、誰かを不快にさせたり、傷つけたりすることを、そしてそんな言葉や物語を考えている。勿論、自分自身が不快になるようなことも沢山考える。それはなかなかに繊細なものであり、上手くいけば笑いに変換されるし、上手くいかなければただの邪悪で終わってしまう。不快は深い。

でも、一度くらいは言ってみたい。このたびは私の言動で皆様を大変不快な思いにさせてしまい申し訳ございません、って。謝ってから、ぺっと唾を吐きたい。


何もいりません。舞台に来てください。