孤独な浮遊

芸人というのは、とにかく他人に褒められたい、評価されたい、といったことばかり考えているようである。たとえばライヴ終わりの打ち上げの場などで、乾杯お疲れ様でしたぁまたよろしくぅ、なんて挨拶もそこそこに、出演者たちは一斉に携帯を取り出してスッスと調べ物を始める。何見てんの?と聞くと、エゴサーチしてるんです、と言う。つまり自分たちの名前をTwitterなどで検索して、ライヴに来た観客がインターネット上に書き込んだ感想を見ているのだ。といっても、ライヴが終了したのはほんの先ほど。そんなにすぐ感想書く人おらんやろ、と自分が言っても、いやあ意外と皆書いてるんですよ、ほら、「暴動ホルモンめっちゃ面白かったです」ね?書いてあるでしょ、嬉しいなぁ、「暴動ホルモンの舌なめずり漫才、斬新すぎてびびった」いやぁ、なかなか分かってるわこの人、「暴動ホルモンの村井、顔は苦手やけどネタはまあまあおもろいから許す」なんやねんこいつ、などと言って、芸人たちは各々勝手に一喜一憂している。

ふうん、と言いつつ、自分は煙草を吸いながら携帯でTwitterを開いた。そして「ヤング」と打ち込んで検索すると、焼き蕎麦やバッファロー・スプリングフィールドのことばかりが出てくる。やはり夜中に無性に大盛りが食べたくなる人は多いようだ。そんなことはどうでも良い。エゴサーチである。「ヤング 漫才師」と調べても、Wヤングのことばかりが出てくるし、「ヤング 漫才師 男前」と調べても何もヒットしない。結局我々に関する感想はひとつも見当たらなかったので、つまんねえな、と思いつつも、内心ホッとした。そして、周りの芸人たちがエゴサーチで盛り上がる中、自分はこっそり「ウォンバット」と調べて、素敵な画像を見て癒やされるのだった。

エゴサーチが苦手なのは、一種のトラウマのようなものである。その昔、友達が嬉しそうに、お前らのことネットに書いてあったで、ひひひ、と言いながら見せてきた書き込みには、ヤングおもんない、ヤングきしょい、ヤング田舎帰れ、といった罵詈雑言が並んでいて、それを見た自分は大層ショックを受けた。書いた奴を見つけ出して説教してやろうかとも思ったが、そもそも、そんなはっきりとした陰口を公の場に書き込む人間の神経が知れず、以来、他人のTwitterやmixiやフェイスブック、特に自分たちのことが書かれてありそうな箇所は、出来るだけ見ないよう心掛けることにした。とはいえ自分も、心がすさむ真夜中などに、目を極端に細めながら他人の書き込みをこっそりと覗き見ることもある。

周りでも、Twitterで悪口書かれた、と言ってグズグズ愚図っている人や、「あいつまじきしょいわ」と書いてあったがあれは絶対に自分のことだ、なんて妄想で狂っている人がいる。見なければ良いのに、と思うが、承認欲求のせいで我慢出来ずに見てしまうのだ。気持ちは大いに分かる。たとえ間接的であろうと、褒められれば嬉しい。けなされれば悲しい。自分など、一喜一憂どころではないだろう。もしも「嶋仲さん、カッコいい、抱いて」なんて書かれてあったら、自分はそれだけをオカズに自慰が出来るし、場合によっては、顔も名前も知らぬその人に求婚するかもしれない。

しかし、インターネット上に並べられた間接的な賛辞よりも、直接伝えられた賛辞の方が、何百倍も嬉しいものであることには間違いない。承認欲求も十分に満たされる。何より、足を運んでライヴに来てくれること自体が、観客の確かな気持ちの現れではないか。演者がその事実をしっかりと受け止めることが出来れば、たかがインターネットの勝手な書き込みに一喜一憂することも、きっと無くなる。

また、書き込む側の意識としては、賛辞であろうと罵倒であろうと、インターネット上という公の場に書く行為そのものが一種の自己表現であるため、私はこれが好きなのです、私はこれが嫌いなのです、といった主張は、己のパーソナルを周りに伝えるための行為、つまり、それもまた承認欲求の現れとなっていることも事実で、とにかく皆、自分のことを、誰かに分かってもらいたい、受け入れてもらいたい、そして出来ることならば、いいね、と思ってもらいたい、そんな気持ちで一杯なのである。

立川こしらさんという落語家が言っていたのは、承認欲求とは、自分で自分を承認出来ないから湧き上がってくるものであり、他人に承認されることよりも、自分で自分を承認出来れば、だいぶ楽になる、おれはおれを天才だと信じているから、他人の批判や褒め言葉をそんなにアテにしていないし、舞台にお客さんが来てくれることだけで十分だ、と。流石だと思う。

インターネットは、やはり寂しさの巣窟かもしれない。複雑な個々の承認欲求が絡み合って、今日もまた大量の書き込みがゴミ溜めの如く積み上げられていく。自慢や、不幸自慢や、自賛や、自虐や、知識のひけらかしや、のろけや、でまかせや、愚痴や、アピールが、溢れかえって流れていく。それらは、人々の、個々の脳内から飛び出て浮遊する言葉である。たとえ誰かに承認されたとしても、孤独な浮遊は終わらない。薄っぺらくて、儚くて、ある意味、美しい。

所詮インターネット、というつもりで、好きなことを好きなだけ書けば良いと思う。自分もそうする。あること無いこと自由に書き散らかして、たとえその言葉が誰かを傷つけようと、喜ばせようと、いずれ泡となり消えていくに過ぎないので、それまで大いに燃え上がれば良いではないか。ただし、他人の書いたものを見て、落ち込むことの無いように…。

何もいりません。舞台に来てください。