お陀仏

先日、夜中に携帯でいやらしいものを見ていたら、操作が上手く行かず、画面がフリーズし、また、充電器を挿しても一向に充電されぬ、見ると携帯の充電口が壊れている様子で、それ以前に自分の携帯はディスプレイも割れに割れていて、電話を掛けてもスピーカーの調子が悪く声が全く聞き取れぬなどの不具合も前々からあった、何とか元に戻らぬかとピッピッしているうちに、やがて画面は真っ暗になり、再起動しようとしても微動だにしない、充電も切れたようで、煮ても焼いても動かない、本体カバーを外して中を見ようとしたが、自分の機種はそれが不可能なようで、それでも無理矢理開けようとすれば更にヒビが入った。南無三。携帯は完全にお陀仏となってしまったのである。三年ほど使っていたこの携帯に、自分は愛着も何も無く、ただただ、めんどくさ、と思った。

さて、困った困ったコンデ・コマ。最近の業務連絡やライヴ告知、アイデア・メモ、このnoteの文章など、自分は大概の作業を携帯ピッピッでやっていたため、こいつは非常にコマンドーである。「携帯 起動しない コマンドー」と、解決方法をGoogle検索しようにも、その検索道具が無いために出来ない(家にパソコンは無い)。あわわわ。どないしよどないしよ。携帯が使えないだけで、何を焦っているのだ。まさに現代病の最たるものである。まぁお陰で病気が治りました。わたしは解放されたのです。今こそ原始の気持ちで田舎に暮らし、畑を耕しましょう。そう思い、どこか住める田舎は無いだろかと調べたくてもやはり調べることが出来ない。それに、明日中にとあるライヴの連絡をしなければならないのだった、もしかすると誰々から連絡が来ているかもしれない、早急な返事が必要かもしれない、と思うと、畑など耕している場合では無かった。どないしよ。焦り出した自分はお陀仏携帯を握り締めて、お財布携帯のような響きだ、と思った。

そこで思い出したのは、この携帯はシム・フリー携帯であるということ。子供の頃はマスクマンがトラウマだった、とそんな話は関係無い。シム・フリー。シムというチップに様々な情報が記憶されていて、そのシム自体はフリーなわけである。つまりお陀仏携帯からシムを取り出して別の携帯に挿し込めば、おそらく今まで通り使えるに違いない。しかしお陀仏携帯のどこにシムが挿されているのか、いくら探しても挿入口らしきものが見当たらず、全く分からない。購入したとき、確かに自分自身で挿したはずなのだが、その頃の記憶など勿論忘却、カバーも取り外せなければ、シムここ→、という印も無いので、分かるわけが無い。業を煮やした自分は押入れ引き出しを掻き回して、当時添付されていた携帯の説明書を探したが、それも見つからず、もう一度携帯をくまなく観察してみると、側面に小さな針穴が空いていた。もしかして、これではないだろうな、自分は針を持ってきて、穴に刺した。すると何と、スライド式の挿入口が、シャン、と飛び出たのである。

無事にシムを取り出して、後は代替の機種さえあればいける。探すと6、7年前に購入した、こちらもディスプレイ割れまくりのほぼジャンク携帯、があったので、恐る恐るシムを挿入して、しばらく充電して電源を入れると、見事に起動、何と情報そのままに使えたのだった。写真などのデータやラインのメッセージ履歴などはすべて消え失せたが、まあ良い。こちらも時々フリーズするが、まあ良い。既に朝の六時を回っていたが、まぁ良い。とりあえずはこのジャンク携帯で凌ぎ、新しい携帯を購入するとしよう。あぁ、また金が無くなる。明日からは天カスを食べて生きよう。

そうして無事に現代病に戻れた自分である。ちなみに今もこの文章をジャンク携帯で打ち込んでいるのだが、ジャンクなために動きが猛烈に遅い。たとえば、あ、と打つのに、あ、のボタンを押してから2秒くらいでようやく画面に、あ、と表示される。アイス、と打つのに、あ、い、す、と素早く打ち込み過ぎると、フリーズする。アイスだけに。苛々を募らせながら、このnoteを書くだけで早や二時間近くは経過しているが、そこまでして書くことだったのか?

何もいりません。舞台に来てください。