かにくん

夜中、いつものように水槽を覗いた。すると、明らかに沢蟹の様子がおかしい。砂利に埋もれて目を閉じている、身体全体が色褪せた沢蟹の姿がそこにあって、自分は息を飲んだ。うそぉん、と呟き、全身から冷や汗が出た。かにくん、と呼び掛けても動くことは無く、恐る恐る指で触れてみても、案の定、びくりともしなかった。人は本当に絶望したとき、真顔になる。自分は真顔で水槽を見つめていた。確かに近頃は土管の下や石影からなかなか出て来ない、餌もあまり食べない、といった状況が続いていて、それには自分も気付いていた。こんなことならば蟹病院にでも連れて行けば良かったと、深く溜め息をついた。

五分ほど考えて、とりあえず、水槽の水を抜こうと思った。そして死体を埋めて供養しよう。あぁ、かにくん、今までありがとう、と感謝しつつ、水槽を持ち上げたそのとき、土管の下からサササッと別の沢蟹が飛び出してきた。驚いて、ギャア、と言った自分は水槽を落としかけた。二匹おる!どういうこっちゃ!お前だれや!頭が混乱して意味が分からなかった。新しい沢蟹はやや透明がかった身体をしていて、死体の周りをそそくさと動き回り、やがて停止、ハサミを高らかに掲げて、つぶらな瞳をこちらに向けた。それは、紛れも無く、かにくんであった。自分は、かにくん…?と恋愛ドラマさながらに言った。それを聞いた沢蟹は、サササッと再び土管に隠れた。はてさて、訳が分からない。今のは何だ。幻か、それともドッペルゲンガーか、幽体離脱か。しかし、夢では無さそうだ。死体は相変わらず砂利に埋もれている。指でつまみ上げると、かなりの軽量で、中が空洞であった。自分はすぐさまスマホを取り出して調べた。

沢蟹が脱皮するということを、自分は今まで知らなかった。まったく驚きである。しかしこれで全てが繋がった。つまり近頃の元気の無さ、餌を食べずにじっとしていたのは、脱皮への準備であったのだ。透明がかった身体なのは脱皮直後であるから。そして動かぬ沢蟹は、死体ではなく脱皮殻であった。かにくんは死ぬどころか、見事な成長を遂げたのである。そして沢蟹そのものと区別付かぬ脱皮殻は、とても美しかった。一皮めくれて大人の階段を登ったニュー沢蟹の姿を見て、自分は感涙しながら祝福の魚肉ソーセージを与えた。そして先程の悲哀とは打って変わって、ニマニマが止まらない。もう、びびらせんといてよぉ、ニューかにくん、などと言いながら、夜明けが来るまでノロけた。

ノロけついでに、お写真を。二匹いるように見えるでしょう(上がニュー沢蟹、下が脱皮殻)。


美しい脱皮殻。眠っているように見える。中は空洞で、とても軽い。

何もいりません。舞台に来てください。