笑うあなたも同罪です

自身の根底にあるものを見つめ直すと、それはやはり、ホワイトに美しいものではなく、ブラックにうす汚れたものばかりであった。暴力、残酷、差別、猥褻、言い訳、保身、欲望、いやらしさ、嘘、でまかせ、死、孤独、嫉妬、狂気、苦しみ、寂しさ、弱音、と、どれを取っても決して褒められたものでなく、非社会的なものばかりで、しかし、それらは確かに純粋に湧き上がるものであった。

いくら穏やかな美人でも、爽やかなイケメンでも、きっと陰口は言うだろうし、嘘もつくだろう。欲望にまみれて自慰をすることもあるだろう。人間の根底には、そうした汚れが必ず存在するはずだ。社会においては、汚れを見せずにマナーとモラルで生きることが必要とされる。しかしそれは人間的根底とは相反するものであり、いわば不純なものである。陰口を言い、自慰をすることの方が、よっぽど純粋ではないか。

キレイはキタナイ。真面目に良いことばかり言っているようなニコニコ笑顔の美人は、胡散臭くて、つまらない。それは、己の純粋とかけ離れているからだ。綺麗事は、決してキレイでは無く、キタナイものである。逆に、純粋なものは、俯瞰で見ると、キレイかどうかは別として、阿呆に映る。あまりに純粋な他人の言動、たとえば全力疾走しているおっさん、赤面チェリーボーイ、号泣メンスギャル、憤怒の婆、喜び過ぎて顎が外れた受験生など、彼らの純粋は、見ているとどうにも阿呆らしくて、面白い。純粋なものほど、笑えるのである。つまり、面白いことを考えるには、純粋でなくてはいけない。他人には嘘をついても良いが、自分自身には、決して嘘をついてはいけない。

舞台ではいつも純粋でありたい、と思う。そのせいか、我々の漫才には差別的な言葉や卑猥な言葉も多数登場する。自分自身の純粋は、先程挙げたような、ブラックにうす汚れたものばかりであるから仕方無い。おそらく、純粋に面白いことを考えようとすると、自然とうす汚れた思考に陥り、それらが内包する阿呆を追求した結果、非人道的かつ非社会的な漫才になる。

今まで何度か舞台後に、公の場でそういう言葉を言うなよ、嫌な気持ちになる人もいるんだぞ、などと言って怒られたことがある。何とも真面目な(ように見せている)人もいるものだ。自分は、舞台は公共の場とは違って非社会的な要素の多い閉鎖的空間ですから…、と反論したが、依然プンスカする相手に、スミマセン、と謝り、それと同時に、でも仕方ありません、と純粋に思ってしまった。

こちらは笑わせたくて演っているだけなのに、それだけでは許されないこともあるようで、果たして、自分には罪があるのだろうか。そのとき思い浮かんだのは、昔何かで見た、パペポTVのポスターである。上岡龍太郎と笑福亭鶴瓶がタキシードを着ている写真なのだが、二人とも下半身だけ露出していてモザイクになっている。そこには、「見てるあんたも同罪じゃ」と書かれてあった。

何もいりません。舞台に来てください。