誰かと過ごす春の夜

これだけSNSも当たり前になって、今までは表現者ではなく一般人として括られていた全ての学生や社会に生きる人たちも、皆が皆、ごく簡単な方法と意思で自らを公に表現するようになった。別に書かんでもええようなことを呟いたり、真剣な想いを綴ったり、創作を発表したり、誰かを批評したり、誰かを傷つけたり、欲望を吐露したり、私生活を露わにしたり。それが当たり前とされている時代に疑問も感じるが、物事は何でも良い面と悪い面、ふたつの側面があるのだ。良い面は、様々な表現が膨らんだこと。インターネットをきっかけに、隠れた才能が開花して光が当たる人が増えた。ジャンルも多様化して、ありそうで無かった新鮮なエンタメが凄まじいスピードスパンで現れてくる。

悪い面は、無数のしょうもない表現が溢れたことだろう。仕方無い。後は、とにかく膨大な量の人々の想いが日々びちゃびちゃに生み出されていくこと。そして、それらを目で追うだけで時間があり得へんくらいに経ってしまうこと。かく言う私も、インターネットにはびこっている内の一人、生の舞台でたまに人前に立っているのが救いだろうが、ちょっと暇になれば相変わらずスマホを見つめてしまうし、書いたり読んだりしては、いちいち心がちょっと満たされたり、むしゃくしゃしたりする。で、そうした状況を何か良くない何かキモい、と感じてしまう自分がいる。何となく脳細胞がぷちぷちと殺されていく感覚。ライヴと比べるからいけないのだが、インターネットにはびこればはびこる程、生の舞台が愛おしくなっていくのだ。ともかく溢れかえる様々な言葉たちは曖昧さを失って、嘘であろうと真であろうと明確な矢印となって画面の中をびゅんびゅんに飛び交う。恥ずかしげも無く、一個人が毎日毎分毎秒、世界に向けて何かを発信して何かを受信している。じゃあ本当に恥ずかしげも無い人間ばかりが暮らしているのか?というと、それは全く違う。皆ちゃんと節度を持って、恥ずかしさも気遣いも持ち合わせた上で、それぞれの暮らしを歩んでいる。

そして日常で、誰かと会い、顔を見て、話す。それは決して特別なものではない。当たり前にあるものだ。「ちびまる子ちゃん」の世界だ。我々は人間だから、人間と交流することでしか満たされないものがある。会話は、時に気まずく、時に上手くいかず、だからこそ計り知れない。曖昧に浮かんだ空気を共有しているような感じ、モニターでは伝わらぬ温度と湿度と匂いが、我々の暮らしにはある。だから、たまにはどうですか。一人でこんなnoteを読むのもやめて、誰かと過ごす春の夜も、良いものですよ。

誰もいねえんだよこちとら孤独だ畜生、って人は、夜の散歩でもしてください。

何もいりません。舞台に来てください。