感化の汁

人間というのはすべからく阿呆な生き物なので、すべからく何かしらに影響を受けてしまう。特に若い頃は様々な作品やエンターテインメントに感化されて、ときめくことも多し。これ自体は素晴らしいことであるが、阿呆な我々は、その気になって、受けた影響の数々を様々な場面で放出しては、気付かぬうちに露呈させる。後々恥ずかしい思いをして、ちょっとした黒歴史を歩むことも少なくない。

たとえばファッション。中学の頃、あるとき友達の一人が古着のTシャツ、ジャージ、サンダル、に身を包んで現れた。「何かハイカラやなァ、それどこで買うたん」「これ、アメ村の地下の店で買うた」「ええやん」皆にちやほやされる彼は得意顔であったが、それを見た自分は、恥ず、めちゃめちゃ影響されてますやん、と思った。彼が無類のゴイステ(当時流行っていた青春パンクのバンド)好きであることを知っていたからだ。いかにもですやん、な古着に身を包む友人を小馬鹿にした。

さて、ジミ・ヘンドリックスを聴いたその足でドキドキしながら寺田町の古着屋へ行き、紫とピンクが混じり合った怪しげな模様のシャツを買った自分は、鼻高々であった。やっぱりサイケやん。ジミヘンの歌やギターでは無く、サイケデリックな雰囲気のみに感化されたのである。購入した900円のシャツを片手にルンルンで帰宅した。しかし自分は本来まったくサイケデリックな人間では無く、LSDなども使用していなかったので、いざ着るとなると途端に恥ずかしくなり、それでも一度着てみると、やはり似合わなかった。貧弱なオカマが鏡に映っていた。更には、あんた何で婦人服着てんの、と祖母に言われてよくよく見ると、この紫ピンクシャツは、サイケデリックでは無く、商店街のパーマおばはんが着るような謎の婦人服であることも判明した。結果、そのシャツは押入れの奥の奥に仕舞われて、二度と着ることは無かった。今思うと、謎の婦人服もある意味サイケかもしれぬ。当時の自分は、もうやめとこ、と思い、それ以降は、目の前にある服をただ着るようになった。

たとえば文章。物の書き方には、その人の受けた影響がモロに出る。日芸文学部へ行った奴の話によると、当時、学生たちの間では町田康の小説が流行していた。するとレポートやら卒論やら、皆が町田康的な文体となり、中には関東人の癖して「ベリークール、っちゅうことやね。うくくく」といった調子で課題を執筆して提出する奴まで現れたという。青春とはやはり恥ずかしいものである。受けた影響が滲み出て、いわゆる感化汁が、己では気付かぬうちにビチャビチャと溢れてしまう。自分も似たようなものであった。中島らもの影響で、大学一年のときに「麻薬・ドラッグの解放」というレポートを書き(商学部である)、また、文体は、太宰治や町田康に影響を受けた。それでいて、周りの学生たちを見渡しながら、ったく、こいつらときたら…、その点おれは、ちと違うんやで。実際の所は、単に感化汁にまみれた学生であった。そのうち、町田康が影響を受けたという、織田作之助や野坂昭如の文体からも、影響を受けた。更に織田作之助や野坂昭如は、上方浄瑠璃や井原西鶴の文体に影響を受けていると聞いて、あぁ、もはや自分は自分本来の文体が分からない。

たとえば喋り方。昔の恋人は標準語であったが、自分と一緒にいるうちに、断片的に大阪弁を挟むようになった。それを注意すると、恥ずかしそうにしていた。逆もある。自分の姉は生粋の大阪人の癖に、旦那の影響で時折標準語を話すようになってしまった。聞いているこちらが恥ずかしくなるのでやめて貰いたい。漫才師でも、他の漫才師の影響を受けた喋り方をしている人は結構多くて、やめた方が良いと思う。

様々な影響を受けて、感化汁を溢れさせて、知らぬ間に己の軸が形成される。何も悪いことでは無い。歳を取るにつれて、感化汁は干からびてしまう。何かに触れて良いナと思うことは沢山あれど、感化されて動き出すほどにはならぬ、という話も聞く。自分は、どちらかというと感化汁つゆだく人間、未だに、ええなァおれもやりたい、と、すぐにときめく性質なので、これからも干からびること無く生きていきたい。

何もいりません。舞台に来てください。