夕方の校舎に同級生を置いていった話

『突然変異で染色体の数が1つ多くなる、それがダウン症の要因です。』―小学校の図書館で開いた本に書いてあった。


 誰もいない放課後の図書館で、こっそりダウン症に関する本を探して読んだ。2つしかクラスがなかった小学校で、関わったり関わらなかったりを繰り返した同級生のことが知りたかったのだ。私の机に満面の笑みで鼻くそをつけてきたり、祖父母からもらった宝物のランドセルに黒いマジックで線を書いて笑ってくる彼女のことだ。

 それまで彼女のことで知っていることといえば、優しいお母さんがいること、かわいい妹がいること、算数が苦手なこと、運動会が嫌いなことくらい。どれも全部本人が教えてくれたことだった。そして、先生からこっそり教えてもらったのは、彼女はダウン症という病で、実は2歳も年上であることだった。


 いつ彼女と仲良くなったのか、まったく覚えていない。いつの間にか、こっちが圧倒的に不利だと思われるウェイト差でおんぶを強制されたり、運動会で手を繋いで一緒に走ったりする仲になった。帰り道も彼女のお母さんが迎えに来るまで一緒に帰って、素敵な家族の自慢話と、特別学級の先生の愚痴を聞かされていた。たまに好きな男の子とかいないのかな…と思ったりしたが、『突然変異』『染色体』という難しい言葉が頭をよぎって聞くのをやめた。


 その日は雨だった。授業を終えたらまっすぐ友達の家に向かってマリオパーティーをする予定だった。

 「ばいばーい」「また明日ねー!」薄暗い下駄箱で雨をぼんやり眺めているとどんどん同級生が帰っていく。


 彼女と、友達と、私。やがて3人だけが残された。どんどん暗くなる下駄箱。羽虫がたかって光がゆれる蛍光灯があまりにも心細い。
「ねぇ、そろそろ帰りたいなぁ。」「暗くて怖いから、お母さんが迎えに来るまで一緒にいて!」問答を繰り返す。


トイレに行きたいな、ぼそっと彼女が言った。

「ぜったいに、トイレから戻ってくるまで帰らないで。」うん、待ってる。と返事をした横で友達はこの隙に帰ろうと耳打ちした。


 次の日、彼女はいつも通り私に不利なおんぶを強制してきた。なにも変わらない屈託のない笑顔だった。

 いま、彼女がどこにいて、どんな生活をしているのかは知らない。ただ、私はときどき彼女のことを思い出す。偽善というナイフのような響きと一緒に。

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