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欲と力

 再就職先を探しながら、“やりたいことと出来ること”について考えていて、『仕事』はさて置き、とりあえずやりたいことや行きたい場所をリストアップしてみたが、自分の残り時間では、全てをやり遂げるのは無理のようだ。残念だけど。
 豪華客船世界一周など物理的に無理なことを消し込んでも、まだまだ。自分の欲深さに驚く(呆れる)。
 地球温暖化やエネルギー問題の解決など、能力的に無理なことを不本意ながら消し込むが、この期に及んで消すのをためらい、時間がかかる(再び、呆れる)。
 やりたいことをリストアップしていくうちに、やろうとしてできずにきたことも、やろうとしもしなかったくせに、今になって、やってみたらどうなっていただろう?やってみてもよかったかも?みたいなものまでがリストに残っている。
 “子育て”、など。
 結婚も出産もしなかった。自分が望まなかったことだ(母親以外の特定の誰からも望まれなかったのだが)。なので、後悔はない。
 適齢期と呼ばれる年齢の時期、“結婚”へ気持ちが向かなかった。結婚へ気持ちが向くことが、“逃げ”のように感じていた。自分が一番やりたいと思うことから逃げる事だと。
 「みんながするからって、理由にならない。」とも考えていた。周りの同年代の女性の多くは、「この人と。」という相手との関係より、年齢的な通過儀礼としての「結婚する。」が優先していて、違和感があった。子供を産む事は、高校生ぐらいの頃から興味がないというか、漠然と“することはないだろう”と、思っていた。
 その頃、自分の一番やりたいことは何だったか。
 不惑の頃になって、自分がその能力を持ち合わせていないことをようやく認め、リストの最後尾に回し、今、少しばかり形を変えて趣味としてやりたいことリストの比較的上位にいる。(具体的にこれこれと言うのは憚られるが、こうしてnoteにあれこれ綴っていることで、すこ〜しだけ形にし始めている)
 “子育て”ならば、結婚、出産を経なくても、里子とか、チャレンジの道も、なくはないのかもしれない。だが、恐らく、保護猫の引き取りも断られる可能性がある(年齢や年収や家族構成やで)私には、相当困難な挑戦となるに違いなく、そこまでの欲も力も無く、ようやく、リストから外すのだ。時間がかかる。更にまた、自分に呆れる。

 昨年亡くなった母は、食べることが大好きで、作るのも上手だった。だが、腎臓が悪くなって、亡くなる前の数年は、好きなものがほとんど食べられなかった。果物、生魚、芋類、豆類、、、。次第に食も細くなり、特養に入っていた最期は痩せ細ってしまっていた。
 無くなる直前2回の面会の時には言葉を発することはなかった。最後に母から直接聞いた言葉は、
「ひもじか。」だった。
 “お腹が空いた”、お腹の調子を崩し、口内炎ができ、飲み込みがうまくいかなくなって、口からの食事ができなくなっていた。それでも食欲はあったのだ。
 「何、食べたい?マグロ?」
私の問いかけに、母はニコッとした。最後の笑顔だった。

 好きなものを食べたいと思うのは、空腹を満たしたい“食欲”とは微妙に違う。なんと呼べばいいのか?味覚欲?ご馳走欲?食べ物を口にして噛み砕き、胃へ運び、消化する。プラス、美味しいと感じ、満腹だけではない満足感。噛み砕く力、飲み込む力、消化する力が弱ってしまうと、好きなものを食べたいという欲すら、弱らせてしまうのだ。
 
 私は、今、何を欲し、そのために必要な力を持っているのかいないのか?持っていなければ、力をつけるだけの時間があるのかないのか?
 このリストの見直しは、心して臨まなくては。

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