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好みは変わる

 東京に住んでいた時は、新幹線の車窓から東京タワーが見えると、「帰ってきたな〜」と感じていて、押し寄せてくるビル群が心地よいものだった。
 九州へ帰郷して30年、所用で数年ぶりに東京を訪ねた。
 東京駅周辺は長い工事を終えて、ほとんど見知らぬ街と化していた。それどころか、建物の巨大化と高層化は、内陸部へも湾岸部へも広がり続けていた。
 東京は、知らない街になっていた。
 知らない街になっていた東京の変化よりも、変わってしまった東京にほとんど興味や好感を持てなくなった自分の変わり様に驚いた。
 元々、“自然に囲まれた田舎暮らし”には向いていない、“地方の街なか暮らし”しか出来ないことはわかっていたのだが、それには、都会への憧れを秘めているのが条件だったはずなのに。
 憧れめいた感情が湧かず、逆に、嫌悪にも似たものが胸に湧き、酷暑の中で胸の奥に冷たさを感じた。
 歳のせい、なのだろうか。
 異常なほどの暑さのせいなのだろうか。
 ここ3年のうちに、家族や友人の死を経験したせいだろうか。
 30年勤めた会社を辞めたせいだろうか。
 往きの飛行機で、離陸前から着陸直前までPCで仕事をする女性がいた。彼女の仕事は何だろう?勤務先の業種が何であれ、恐らく、何かを作る(造る、創る)のではなく、調整とか計画とかの仕事をしているようだった。
 退職前、私は事務職で、旅先や移動中に仕事をすることなどなかったし、残業もほとんどしなかった。仕事の量も質も、機上の彼女の足元にも及ばない。だが、羨ましいとか、尊敬するとか、そういうふうには思えなかった。
 20年前なら、思ったかもしれない。あんな風に、バリバリ仕事したいと。
 でも、今は、“この人の仕事は自分の会社以外に、社会や世界とどんなふうに繋がっていて、彼女はその事をちゃんと実感できているのだろうか?”、と考えた。自分はその日その日目の前の仕事をこなすので精一杯だったくせに。
 社会や世界との繋がり、なんて事を考えたのは、先日、オーガニック野菜を育てる人々のドキュメンタリー映画を観たせいかも知れない。登場人物たちが皆、地球や人の生(せい)とダイレクトに関わっているのに比べて、私は、人が人の都合で作ったルールとか決まり事とか、関係性とか、力関係とか、そんなものの中でだけ生きてきたなぁ、などと感傷に浸っていたせいに違いない。

 今回の上京は東京観光が目的ではなく、静岡での墓参りがメイン。東京泊で静岡へ日帰り。想像を超える暑さにぼんやりと乗った新幹線こだま。東京の高層ビルには興味が持てなかったのに、富士山は、ついつい写真を何枚も撮ってしまっていた。
 恐るべし、富士山。
 山、だからか、自然だからか、人工物じゃないからか、何万年(?)の時間の厚みか。
 だからと言って、登ってみようとは思わないのだが、さすが、というか、恐れ入りましたとばかり、頭を下げてしまった。(手も合わせた)
 静岡での墓参りの後、故人の生前の暮らしの様子と、死の前後の話を聞いて、昨年末亡くなった母を思い、自分の今後を考えた。
 まだ、働かなければ生きていけない。60歳だし。
 働くのは嫌ではない。年齢的に再就職は難しいけれど。どんな仕事でもしなくては。それより、何のために働くか、が問題だ。私の場合。趣味か?推しか?やり甲斐か?そういう、心の支えとか生きる意味のようなものが、これといって思いつかないのだ。(子供もいないし)
 いかにこれまで、目先のものに囚われ、追いかけ、追いかけられ、振り回されてきたか。地に足のつかない生き方だったような気がする。好きなものもあったし、夢中になったこともある。だが、それらは、今の私にとっての生きる意味や生きる支えにはなっていない。
 後悔、とは違う。
 今、ちゃんとしたいと思うのだ。
 これから20年か30年か、あるいは5年かもしれないが、自分の背筋を伸ばしてくれる“支え”を、今、見極めたい。
 いきなりオーガニック野菜を作り始めたりはしない(出来ない)が、確かに気持ちが動くものを見極めて、そのことのために、自分にできる事を確実に行いたい。
 時間はまだ、ある。(たぶん)
 
 



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