天津司舞(山梨県甲府市小瀬町・下鍛冶屋町)
かつて周りの山々の水を全て集め、甲府盆地は湖のように水を湛えていた。やがて、湖水は神仏により富士川へ流し落とされ、水の引いた土地で人々が暮らし始めたという。
甲府盆地の伝説である。
その湖水で舞遊んでいた神々の様子を「天津司舞(てんづしのまい)」は表しているという。
コロナウイルスの感染対策で長らく休止や縮小をしていたが、今年は一般にも公開し通常に戻し斎行すると情報を得た。
ちょうどサクラの花も咲きそろいそうな絶好のタイミングである。
今回を逃してはならない。
2024年4月7日、念願叶って、小瀬へ。
天津司舞のあゆみ
小瀬地区の「天津司神社」から9体の神を模った人形が「御成道(おなりみち)」を通って小瀬の氏神である「鈴宮(すずのみや)諏訪神社」へ御幸し、設られた「御船囲(おふねがこい)」の中で舞回り、また「御成道」を戻っていくというのが祭礼の大雑把な内容である。
田楽と近いスタイルを持ち、さらに舞うのは人形という日本国内では唯一と言われる貴重な芸能である。
始まった時期は明らかではないが、現在では失われた『社記』に1190年代ころに9体の人形を勧請した諏訪神社を鈴宮神社に遷したという記録があったことから、この時期には何らかの形で祭礼が行われていたと推定されている。
また、天津司神社の創建が1522年ころ、このとき人形が天津司神社に保管されるようになったと推定されるため、御幸して舞う祭りとなったのはこのころからであると言われている。
江戸時代の記録には、祭礼は旧暦7月19日に行われたと残されている。
この祭礼日になった理由は記されていない。
小瀬村に古くから住む17軒の家のみがこの祭礼を伝承してきた。
この17軒は小瀬開拓にまつわる家々ではなかったかと推測されている。
天津司舞は小瀬の始まりのストーリーである可能性もある。
明治時代に神仏判然令や当時の県知事による民間信仰や行事への圧力に伴う大きな中絶期があり、さらに水害で祭具が流されるなど、祭礼の伝承にはたびたび危機があった。
再開されたのは明治31年11月3日(天長節であちこちのイベントのどさくさに紛れる日を選んだらしい)、しかし17軒のうちの数軒はすでに村を離れ、祭礼に際し協力関係にあった近隣の村との関係も変化、舞の記憶も薄らいでいた。
明治34年に人形の胴部分を新調したようではあるが、その後昭和初期まで祭りを行ったのかどうかの記録すらない期間が続いた。
昭和11年、文部省からの研究者の調査が入り、天津司舞の貴重さが世に知られることになる。
翌年4月、農繁期前の季節に祭礼は復活。
しかしそれも長く続かず、太平洋戦争のあおりを受けて昭和15年〜29年まで再び中絶する。
再開した天津司舞にまた新たな変化がやってきた。
それは1986年、かいじ国体開催による小瀬スポーツ公園の整備であった。
田んぼのあぜ道を曲がりくねっていた御成道は、公園整備計画の中にある。
公園外へのルート変更も検討されたが、元の御成道に近いルートで公園内に御成道が新たに設けられることになった。
祭礼次第
この日、「祭りは11:00から」との情報をキャッチ。
少し早めに天津司神社へ。
準備の様子が気になる。
社殿の横に木箱が積んである。
すでに「おからくり」は終えているようである。
かつて祭礼を執行していた17軒は自宅に注連を張り、7日間の精進潔斎を行い、当日の日の出ころに人形つまりは御神体を組み上げていた。(現在はどうなのだろうか)
拝殿の奥には、顔を赤い布で覆われた神々が時をお待ちであった。
神々のお迎えは御幸先の鈴宮諏訪神社からやってくる。
15分ほど歩いた先の鈴宮諏訪社へ、向かう。
神官お迎え
鈴宮諏訪社は諏訪社が後から合祀されている。
本殿は相殿で、2神が祀られている。
こちらの境内にはキッチンカーや手作り屋台が並び、子供たちが駆けまわる。
神事が済むと宮司らが行列を組み、人形たちを迎えに天津司神社に向かう。
神事
天津司神社についたお迎えの行列は神事を行う。
祝詞奏上をし、人形たちは1体ずつ社殿を出て、鈴宮諏訪社へ出発する。
御幸
お舞奉納
鈴宮諏訪社拝殿前で整列したあと、人形たちは「御船囲」の中へ入る。|
「御船囲」の中は決してのぞいてはならないとされている。
のぞいた者は目が潰れるとか、木の上からのぞこうとした者は引きずりおろされたとか、幕間からのぞく者は竹棒で目をつついたとか、結構過激なようである。
過去の記録は御船囲を最大6体ほどが舞う様子が記録されているが、現在では2体までである。
舞のレパートリーもかつてはもっと多かったことも推測されている。
どの時代も御鹿嶋様は単独で待っている様である。
舞の方向は反時計回り。
ゆっくりと3周回り、その後テンポの速い動きの大きい「御狂(おくるい)」となって3周舞う。
御鹿嶋様の舞の最中には、刀(木で作られた小さな模造刀)が、ランダムに9本投げられる。
拝観者たちはこれをこぞって拾う。
江戸時代の記録には「歯木(ようじ)」と記録されていて、かつては楊枝だったのではとも考えられている。
還御
舞い終えると、人形たちは「御成道」をたどって天津司神社に戻っていく。
神事を行いお納めとなると、社殿内では「オクズシ」が始まる。
つまり、人形の解体・収納である。
「オクズシ」は非公開であるらしい。
ここには画像は載せないが、どの人形も着物の下はほぼ同じ構造になっている。
木製の胴部に手がついていて、2〜3人で操作する仕組みとなっている。
舞の人形
9軀の人形はいずれも神の化身として扱われる。
手に持ったお道具や姿によって呼び分けられている。
かつては祭礼の執行者である17軒の者しか扱うことができなかった。
人形は御神体であるため、祭礼以外に使用すること、たとえ子供であっても女性が触れることは禁忌であった。また舞の稽古で使用することによる劣化も危惧された。
令和に入り、人形はレプリカが製作され、稽古だけでなく地域学習や後継者の育成などの活動にも使われるようになった。
これら人形の持ち物が田楽的であり、さらに御鹿島様が幕内から投げる9本の刀も「刀玉」という演目に似ているという。
これほど特異であるが、近隣に人形を使ったこのような祭礼が見られず、どのように小瀬に伝わってきたのか現在ではわかっていない。
諏訪社の旧社地
諏訪神社は武田氏の館を作るために1190年ころに鈴宮社へ遷され、その間人形は神官宅に保管されて、1552年頃に天津司神社造営となったようである
「西油川の釜池」
濁川沿いの西油川という地区に諏訪神社を見つけた。
新しい注連が張られている。
同日に例祭だったのかもしれない。
すぐ隣の敷地には注連を張った生垣と中には水たまり。
よく見るとブロックで囲われた中にはなにやら建物があったような配置が見える。
「西油川の釜池」は「古井戸」とも表現されている。
もしかしてここが神さまの没した場所なのだろうか。
それをうかがわせるものはなく、この生垣の真新しい注連と祭礼との関係はもう少し調べる必要がありそうだ。