認知に関するテキストまとめ 20240520

昼休みに短い文章を少し書こうと思っていたら予想より長くなってしまったため、コピペしてここに置いておきます。

人間は自分が持っている認知の枠組みに思考が引っ張られる。例えばアニメはマルチメディアな媒体だが、人によって絵・話・音楽・声優など評価の軸となる要素には違いがある。いわゆる「教養」は要素の深度という縦軸、数や種類という横軸で測られるのだろう。また、「初見の感想」というものがオタクの中では喜ばれるが、これはただニューカマーを歓迎するための通過儀礼というだけではなく、「初見」という状態がもつイノセントな認知の枠組み、その不可逆の神秘性への憧れがあるからではないか。これはおそらくの話だが、そういった「認知の枠組み」を打破し、イノセントな空間に新たな認知を開拓していく試みが芸術の真の機能であり、さらに言えば人間の文化のダイナミズムでもあるのだと私は思う。初見の感想はこれに近く見える(≠そのもの)または、成し遂げてしまう。新たな領域を開拓していくことが、芸術だとか才能だとか、そういった言葉で形容されるのだろうが、しかしそのほとんどは無から発生するものではないはず。形式・枠組みの研究を経てその世界の形を正しく認識し、その外側を意識できるようになってこそ、新たな領域に進むことができるはず。人間がぽっと出の発想で世界を広げられる時代はとうに終わっている。才能とは積み重ねの斜め上に飛び出す能力であり、見えない足場を世界に捻出させるものだ。武道で言われる守破離という言葉は的を射ていると思う。新たな領域はそうして生まれるのだろう。

追記
「初見の感想」が喜ばれるのは、ある意味では数の論理による可能性の探索のためである。また、オタクのフィールドは必ずしも他の世界より広い空間ではないため、別フィールドの教養人が高度な既存(ただし、オタクフィールドでは未知)の認知で解釈を施すことで、イノセントの幻想が生まれるのではないか。それは一見新しく世界を広げる天才に見えるが、実際には学習の成果を別領域に適応させているだけであり、ある意味では凡庸なことである。ただそれが形式化すれば、またその形式を打ち破る種としてその領域が設定されるだろう。だいたい、そんなところだ。

追追記
だからまあ、美しさを感じるものは自分が持つ認知の延長線上にあるものであって、それは理論上は自分の認知のフィールドの延長線上にあるもので、優れているならばそれはより壁に近いもの、という感覚。逆にキモさを感じるものは別の認知のものであって、実はそっちの方もまた教養の一つとしてカウントできるから、手札を広げたいなら敢えてキモさに向かっていくのも手段ではあるよね。

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