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ドライブマイカー

アントン・チェーホフ『ワーニャ伯父さん』

米国アカデミー賞の候補として再びメディアで話題となっている濱口竜介監督作品『ドライブ・マイ・カー』は、村上春樹氏の短編小説を原作としています。
村上作品の世界は、スリップストリーム的な手法で描かれた長編小説を横に置いても、短編に見られるリアルズム小説でさえ「ありそうでない」プロットが展開して行く特徴を持っていると私は受け取っています。それは、あたかも多くのハルキストを取り込み、1つの共同幻想を構築している作家として、他に類例を見ない1人なのかもしれません。
その点、この映像作品には、そこにより強いリアリズムを持ち込んでいると私が受け取ったのが、原作では家福が舞台で演じる『ワーニャ伯父さん』を、2つ目の原作と言えるほど大きく引き伸ばし、プロットに挿入させている事でした。
村上氏の原作自体からも、家福はワーニャであり、みさきはソーニャと対応付けられていることを読み取ることができますが、濱口監督がこの戯曲を取り入れて映像化した大きな理由は、『演じること』を取り扱っている事であり、その練習風景や映画のラストには、この戯曲の上演シーンが上手く挿入されています。
しかし、この作品評も沢山出ている中で、この戯曲を基に映像作品を論じられているのは皆無に近く、演劇という違ったジャンルの扱いも足かせになっているのかもしれません。
閑話休題。『ワーニャ伯父さん』の大まかなプロットは次の通りです。
主人公であるワーニャは、結婚もせずに自己を犠牲に働き続けて送金してきた死んだ妹の夫で大学教授だったセレブリャコーフが、独りよがりの俗物で、業績一つ残さず退官して領地に戻ったつまらない男であったことを悟り、自分の半生を掛けたことが無意味だったと絶望します。
ワーニャはセレブリャコーフの妻であるエレーナに求愛しますが相手にされず、一方、姪のソーニャも、医師のアーストロフを密かに愛しているのですが、彼はエレーナに心を奪われている為、ソーニャの愛は退かれています。セレブリャコーフとエレーナは去り、ワーニャとソーニャが、この土地に残されますが、ソーニャは傷つきながらも、絶望しきっている伯父を優しく慰め、また新しく生きていくことを2人で決意します。
戯曲の舞台は「田園生活の情景」と副題にある通り、年老いたセレブリャコーフが売りに出す提案がある田舎の領地です。都会人のセレブリャコーフに対して、この土地で永年、自らの生活を支えてきた主人公のワーニャにとって、この領地は自己のアイデンティティを支える最後の手段と受け取ることもできると思います。他の登場人物も含めて、そうした空間的な位置が物語を支えていると受け取ることができますが、主題はあくまでも「年月」といった時間性とみることができるでしょう。
ワーニャが伯父さんであることから、その年齢が高い人物を想定しがちですが、ワーニャとはあくまでも27歳のソーニャにとっての他界した母の弟としての「伯父さん」であり、その年齢は47歳です。その点、セレブリャコーフは老齢として、自らの人性を諦念として受け止めているのと違い、ワーニャの絶望については、無駄な人生を過ごしてきたという後悔と共に、何を人生の糧として先に向かっていくかという希望の持てず、諦念としてのみではその人生を了解できない、「喪失」に襲われた年齢であるキャラとして描かれています。
劇作家である宮沢章夫氏は、そんなワーニャから「四十七歳の憂鬱」(『チェーホフの戦争』所収)という視点を取り出しました。
標題作品は、チェーホフが29歳の時に書いた『森の主』の36歳頃に行った改作です。『森の主』でも主人公のヴォイニーツキイは47歳に設定されているのですが、宮沢氏の読解では、それは恣意的というよりチェーホフにとって「内面の正直な吐露」が許される年齢として、47歳はある一定の目安として鬱の転回点だと決めていたことに、その意味を見出しています。
ワーニャは19世紀末に登場した典型的なニヒリストですが、ドストエフスキーの作品に登場する青年たちの様に、神の代わりにニヒリズムや懐疑主義を信仰しているようなキャラではありません。その点、チェーホフが描き出した光景は、先が見えないこの数十年の日本の中年男性の姿をも彷彿とさせます。
しかし、思い募っているエレーナへの片思いにのみに生を実感し、自らの「人間らしさ」やその背後にある「ほうとう」を予感させる点で、ワーニャにとってエレーナは他の誰にも変えることのできない絶対的存在として描いています。
ここではどのようなニヒリストであれ、この戯曲はそうした他者を愛することにより、自分の中にあるルサンチマンやニヒリズムを打ち砕く力のあることを直感させてくれる素晴らしい1篇と受け取ることができるでしょう。
そうした生の条件は、この感情により人は生きる理由を得、また、それと同じものによって生きる理由を失うという、あくまでも主観的な事実に根差しているということをも教えてくれる名作だと思います。その点、ワーニャを見つめるソーニャは絶妙な位置に存在しているともいえるでしょう。
余談ながら、冒頭の『ドライブ・マイ・カー』に戻れば、原作と映像作品から私が受け取った印象は、多分、家福は死んだ妻に対しては演技での穏やかな関係性ではなく、ワーニャの様なこうした燃えるような恋を求めていたのかもしれません。家福は妻を失ったことで、愛するその先にある自分にとっての「ほんとう」を初めてそれに気付きます。
そうした家福の悲劇性とはワーニャのそれを横に置き、特に映像作品ではこの戯曲でのソーニャと共に希望に向かうラストを挿入したことで、より象徴的に浮上するプロットになっていると私は受け取りました。

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