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ベニスに死す

2019年、世界中でヒットした『ミッドサマー』。本編が終わると各国の観客席で次々に小さなどよめきが起きた。劇中、頭の白髪と髭を長く伸ばし、グロテスクな死を迎える気味の悪い老人。それを演じた役者の名前が、50年前、映画史に残る伝説の美少年タッジオを演じた15歳の男の子と同じだったからだ。

そのどよめきは、1971年5月23日、カンヌ国際映画祭『ベニスに死す』上映時のレッドカーペットに少年が登場した時のため息交じりのどよめきとは、まったく異なるものだった。両親を失った幼少期
1955年1月26日、ビョルンはスウェーデン・ストックホルムに生まれた。幼少期の思い出に両親の姿はほとんどないが、親の“業”は彼の一生に付いて回る。

デンマークで育った母はボヘミアンで、ヨーロッパを転々としながら過ごし、頻繁にパリの芸術家コミュニティに入り浸っていた。そんななか突然妊娠する。相手の男性は生まれる前に若くして亡くなったとされ、何者なのかビョルンは知ることはなかった。彼の一生は父を喪う所から始まったのだ。

母はそもそも育てる覚悟がなく、産んで1年もしないうちに両親に預け自分はノルウェー人男性と結婚。しかし4年で破局してしまう。母は、夫に捨てられた哀しみから抜け出せず、抑うつ状態に苦しむ。度々息子の前から姿を消してはまた戻りを繰り返し、そして、10歳のとき再び失踪。6か月後母の顔を見た時、彼女は死体となっていた。自殺だった。
 
「僕の人生に両親がいたことはないんだ」

父だけでなく、母にも捨てられ、愛情を受けない子どものまま育った。『ベニスに死す』に関する無数の来日インタビューでビョルンは家族に関する質問には、ほぼ祖母のことしか答えていない。他はわずかに祖父も存在することが語られているだけ。
しかし、この祖母も決して彼に愛情を与える存在にはならなかった。彼女は孫の美貌に目を付け、子役にして稼ごうと目論んだ。これは美容師としての稼ぎだけでは生活が苦しかったための仕方ない選択だと同情はできない。

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祖母は自分がセレブになりたいタイプの人間だった。孫が働く傍らで豪華な装いでくつろぐ彼女は、周囲には保護者として愛情を注ぐよりも先に、ビョルンによってもたらされる金銭と名声に酔っているようにも見えた。自分のためにエージェントに言われるがまま、我が孫を業界に差し出していたのだった。ビョルンが小さな作品に出始め、『純愛日記』(’70)で主人公の不良仲間のひとりとしてスクリーンに出たころ、巨匠ルキノ・ヴィスコンティがトーマス・マンの小説『ベニスに死す』の映像化のため、世界中で開いた美少年のオーディションがスウェーデンでも行われることを耳にし、祖母の言われるままビョルンは参加する。これがのちの人生で彼の美を餌食にする蜘蛛の巣であることに気付きもせず……『若者のすべて』(‘60)でアラン・ドロン、『夏の嵐』(‘54)でファーリー・グレンジャー、『白夜』(’57)でマルチェロ・マストロヤンニ、『地獄に堕ちた勇者ども』(‘69)でヘルムート・バーガー……美青年俳優を自らのミューズにしてきたヴィスコンティは、トーマス・マンだけでなく、オスカー・ワイルドや三島由紀夫など名だたる作家がテーマにしてきた「手に入れようとした途端に死に繋がる絶対的な美」を体現する“タッジオ”役を血眼になって探していた。タッジオは金髪碧眼でなければならない。この時の舞台裏が、後にヴィスコンティ自身が監修したTVドキュメンタリー「タッジオを探して」に遺されているが、ブロンドと青い目のローティーン男子のみが多数集合した現場は異様なものだった。「ここからそこまで歩いて。はい、上半身裸になって。カメラに向かって笑って」アシスタントによる無機質な命令と、それに戸惑う少年たち、それと対比するように舐めるようなじっとりとしたヴィスコンティの視線は、「タッジオを~」でもしっかりと映し出されている。この犯罪にも近い視線を平気で自ら記録に残したことが示すのは、彼に罪悪感がなかったこと。

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(動画)ビョルンを追った最新ドキュメンタリー『The Most Beautiful Boy in the World』にも収められている「タッジオを探して」。突然服を脱ぐように言われ、彼は顔色を変える。オーディションのグロテスクさと裏腹に、ビョルンは見事に美の化身になり、生きる伝説となった。これでようやくセレブの仲間入り。ヴィスコンティは自分が取り立てた美形男優を度々起用することで知られる。あとは、作品選びに勤しむだけ。祖母もこれで愛してくれる。皆からも愛され、明るい未来が待っている……はずだった。しかし、ヴィスコンティはカンヌ映画祭でカメラマンたちがため息交じりにどよめく傍ら、ビョルンをこき下ろした。撮影時から1才年を取ってどれだけ彼の美貌が失われたかを、16歳になってしまった彼にどれだけ価値がないかを語ったりもした。彼が理解できないことを前提にフランス語でいじり、記者たちも同調してそれを嗤う。何を嗤っているのか当惑する姿を見てまた嘲笑する。まるでいじめだ。ヴィスコンティは隣にいる俳優ではなく、自分がフィルムに収めた、少年が性的な臭いを放つ直前の一瞬の美しさを自慢するだけ。まるでわずかな期間だけ光を放ちすぐに死んでしまったホタルのように、望む美少年像に陰りが差したビョルンには、せいぜい作品のマーケティングのために“世界一美しい少年”として座っていることしか望まなかった。それはまるで、かつて欧米人が植民地の奴隷を見世物にしたのと同じ構図。案の定ビョルンは彼自身の名前ではなく、役名“タッジオ”で呼ばれるようになり、見世物のように、人格がないかのごとく扱われたが、ヴィスコンティはそう仕組んだ責任を取らなかった。もちろん大人の俳優として昇らせる次の階段を用意することはなかった。いかにモノ扱いだったかは、『ベニスに死す』でビョルンに支払われたギャラからもわかる。その額、僅か5000ドル。主演ダーク・ボガートの100分の1に過ぎなかった。
 
それに飽き足らず、ヴィスコンティはさらにひどい仕打ちをしている。自分の所属するパリの富裕層ゲイ・コミュニティにビョルンを放り込んだ。最初は役作りと称し、15歳のビョルンをゲイバーに連れて行った。アッシェンバッハに見入られるタッジオと同じ体験をするためだと。だが、これはヴィスコンティの自己承認欲求に過ぎない。珍しい希少な蝶を見せびらかしたのだ。
 


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その時の経験を、のちにビョルンは新聞のインタビューでこう語っている。「(ヴィスコンティと)彼のスタッフにゲイバーに連れていかれたんだ。ウェイターたちに気まずくなるようなことをされて、みんなが舐めるような視線をぶつけてきた。まるで皿に載った汁を滴らせた肉を眺めるようにね」イ・コミュニティでは多くの出会いがあったと語り、満たされない愛情の穴埋めになったことも認めつつ、「恥ずかしくて死にそうだった」とその時の衝撃を表現してもいる。 


 
ビョルンは“social suicide”という言葉を使ってこの時説明したのだが、実際彼はこれをきっかけに恐ろしい「社会的死」を経験する。撮影が終わり16歳になった後も、ヴィスコンティと彼のスタッフはゲイバーに連れまわした。そこで行われていたのは、エスコートというと聞こえはいいが、大人の男性たちによる“愛玩具”のトレード。母と同じ轍を同じパリで踏んだのだった。そこで具体的に何が行われていたのか、本人は多くを語っていないが、生活費と日々のプレゼントの代わりに(本人は何に対して支払われているのかわかっていなかったが)、性的な搾取があったことは、いくつかの証言者により語られている。ヴィスコンティは出がらしになった“世界一の美少年”を、一種のオークションにかけたのだ。この行為に、ヴィスコンティの取り巻きはNOを言わなかった。彼はスタッフを、ビョルン曰く「ほぼ全員」同性愛者で固めており、公然の秘密とされたコミュニティの住人たちとしては、貴族の出自で世界的映画監督という「権力者」に楯突くことは、社会的死を意味する。彼らは16歳の少年の性的搾取に加担した。それが積極的であれ消極的であれ……。
この時男性たちにされていることが自分の本当に求めている温かな何かとは正反対のものだとビョルンが気付くのは、ずっと後になってから。彼は、愛情が何かを知らなかった。 

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ビョルンはこう振り返る。

「僕のキャリアはいきなり世界のトップで始まり、そこからはひたすら落ちるばかりだったのさ」追い打ちをかけるように祖母と結託したエージェントはビョルンを搾取した。『ベニスに死す』が公開されたあとヴィスコンティから見放されるのと反対に人気が爆発した日本での仕事を祖母は応援した。来日中は本人もある程度楽しんだとはいえ、エージェントと祖母にとってそれはあくまでCMやレコード発売などで儲けられるからにすぎなかった。そのため、ビョルンは連日のハードスケジュールをこなすために、薬物を飲まされていたこともわかっている。その後ビョルンは7年もの間映画界から姿を消す。

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この間に、「かつての世界一美しい少年、すわ失踪か」「飛行機事故で死んだらしい」など死亡説が囁かれたりもした。その間にいくつかの恋愛もしたが、決してうまくはいかなかった。人は自分が与えられなかったものは、相手に与えることはできない。彼はひたすら愛を乞うも、他人を愛することが難しかった。愛されるばかりではいけないとわかっていても、自分の元を去ろうとする女性たちに向かって「俺を棄てるなんて! ひどい女だ」と責めることが止められない。

そうしてビョルンはついには母国を脱出せざるをえなくなるほど病んでいく。母と同じように。
その後、国内の作品に脇役で出始め、バンド活動や舞台に挑戦するなど細々と仕事をしていた。ヴィスコンティが認めなかった俳優としての実力も伸ばし、音楽監督としても活動。そして28歳。幸せを掴む。詩人のスザンナ・ローマンとの結婚、そして妻の出産だ。温かな家庭をようやく手にすることができた……かに見えた。
 
しかし運命は再びビョルンから幸福を奪っていった。長男が生まれて9か月で突然亡くなったのだ。乳幼児突然死症候群。ビョルンにも妻にも何の落ち度もない。

しかし、この喪失は父を持たず、母を亡くし、祖母に売られた彼の何かを壊してしまった。ロビンという娘ももうけたものの、結局結婚は破綻。極度の抑うつ状態とアルコール依存症に襲われてしまう。その後、妻とは再婚したが再び破局。依存症と闘いながら、細々と暮らしていた。しかし21世紀に入って、またしても彼は性的に搾取された。2003年、ビョルンは“タッジオ”時代の自分が表紙になっている厚手の本を見つける。『The Beautiful Boy(のちにThe Boy)』というタイトルと共に。何も聞いてない! なぜ……。


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内容は古代から現代にいたる「美少年像」を研究したものだったが、作者のジャーメイン・グリアは肖像権をもつビョルンには一切の確認をせず、撮影した著名なファッション・フォトグラファ、デヴィッド・ベイリー(カトリーヌ・ドヌーヴの夫)に使用許可を取っただけ。

これだけ時を経ても、自分の意志と反して美少年時代の自分が大人たちの間でまたもや勝手に取引された。怒りと絶望、そしてトラウマが彼を襲う。2016年に母国スウェーデンと逃亡先だったデンマークの合作『The Lost One』でビョルンは主役を張る。演じたのはデンマーク人だと主張する自分探し中のホームレスの老人。思い過去を抱え自殺願望をもつ孤独な女性と出会い、救われていく物語は、母と、そして彼の人生そのものと重なる。時を同じくして、「あなたの人生を教えてほしい」とドキュメンタリー監督から連絡が入る。長いこと人間不信から抜け出せない彼にとって、首を縦にふるために3年を要したという。こうして2021年サンダンス映画祭でドキュメンタリー『The Most Beautiful Boy in the World』が発表された。ここでビョルンは彼を取り囲んだ大人たちの罪を告発。また、これまで表に出してこなかった感情を、とりわけ公開時にもその後数十年もの間にも言い表せなかった『ベニスに死す』への心の奥底にあった想いを暴露している。男性が、男性のために未成年の少年少女を性的に消費する時代が長らく続いてきた。そして現代、今度は女性も女性のために未成年の少年少女を半裸にさせ、性的対象として消費するコンテンツが増加している。ビョルンの人生はそれらすべてにNOを突き付ける。

「あの映画に出演したことは後悔していないよ。でももし15歳に戻れるなら、NOと言うだろうね」息を吐くように未成年を半裸にする大人たちのグロテスクな欲望が、犠牲にするものは大きい。そしてかわいい、美しい子役がその後どうなるかなど興味も持たず次から次へと消費する視聴者たちも同じ罪を負っている。
 
ビョルンを彼らの欲望の渦へ導いたのは、両親、そして祖母へと(もしくはその逆かもしれないが)受け継がれた愛情の喪失。家族の業からいま彼がようやく解放されていると信じたい。

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