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大口病院殺人      殺人看護師

旧大口病院の点滴連続中毒死事件 起訴状によると、久保木被告は2016年9月15~19日ごろ、いずれも入院患者の興津朝江さん=当時(78)=と西川惣蔵さん=同(88)、八巻信雄さん=同(88)=の点滴に消毒液を混入して同16~20日ごろに殺害し、さらに殺害目的で同18~19日ごろ、点滴袋5個に消毒液を入れたとされる。
◆「エプロン事件が怖い」
 2016年6月、母親は久保木被告から電話を受けた。「エプロンの事件があって、怖いから辞めようかな」
 この1カ月ほど前、母親は、久保木被告が勤務する大口病院で、看護師のエプロンが切られたり、ポーチに注射針が刺されたりするトラブルが相次いでいると聞かされていた。久保木被告から電話があることは珍しかった。
 「大口病院は怖いな。気味が悪いな」。こう感じていた母親は、病院を辞めること自体は賛成だった。ただとっさに考えて言った。「ボーナスをもらってから辞めれば」
 結局、久保木被告は大口病院を辞めず、そのまま仕事を続けた。「ボーナスをもらってすぐに辞めるのは気まずいと思ったのか」と母親は娘の胸中を推測し、こう振り返った。
 「今は愛弓のことを聞いて、辞めていればと申し訳なく思っている」
◆授業参観「母親に後で叱られる」
 久保木被告は1987年1月7日に生まれた。一家は両親と弟の4人暮らし。幼少期は水戸市で育ち、中学校で父親の転勤に伴い、神奈川県伊勢原市に引っ越した。母親によると、「学力は中の中、おとなしく目立たない子」だった。
 父親が久保木被告の小学校4-6年時に海外に単身赴任したり、思春期になって「男親なので」と子育てから手を引くようになったりしたため、子育ての中心は母親だった。
 父親は母親と娘の関係について「過干渉っていう感じだった。持ち物検査や小遣いのチェックが非常に厳しかった」と語った。
 事件後、久保木被告は面接した臨床心理士に「小学校の授業参観が嫌でしょうがなかった」と話した。日頃から「積極的になった方がいい」と母親によくしかられ、休み時間で1人でいるところを見られると、後で怒られてしまうためだ。
 臨床心理士は「目つきが悪い、愛想良くしなさいとか、表情の作り方でも母親の指導を受けていた。ありのままを母に受けいれてもらえなかった」と話し、そのことが久保木被告の自己肯定感の低い性格形成につながったのではと分析した。
 高校進学後に看護師の道を選んだのも母親の勧めだった。「愛弓が高校3年生のころは不景気で、就職がなく、手に職がつくと年をとっても役に立つ。看護師免許があるといいんじゃないかと。看護師は人の役に立つ仕事で収入がよく、愛弓はおだやかでこつこつやるタイプだからできると思った」
◆出会い系サイト利用「褒められるのがうれしくて」
 看護師になるため専門学校に進んだ久保木被告は、すぐに自分には不向きだと感じだという。「実習が苦手でした」
 学科の成績は中くらいで、30科目のうち、Cは3つでほかはA、Bだったが、実習は24科目のうちCが9科目あったという。
 それでも久保木被告は学校を辞めなかった。「学費を両親に出してもらっていたので、卒業しなければと思っていたのと、奨学金をいただいていて返済が必要だった」
 専門学校が実家から遠かったため、2年目から寮で暮らすようになり、2008年に横浜市内の病院に就職した。当初は、リハビリ業務を担当したが、なかなかうまくいかなかった。プライベートでは、出会い系サイトで男性に会ったりしたこともあった。「男性と会うと褒められるのがうれしくて」。久保木被告は事件後に接見した臨床心理士にこう説明した。
 それでも看護師の仕事は「大変でしたがやりがいがあるものでした」と感じていた。「退院した患者さんが病棟に来てくれることがあり、元気な姿を見るのがとてもうれしかった」。奨学金の返済も終わったが、そのまま仕事を続けた。
 だが、3年後に異動して急変患者の対応をするようになって、一変する。点滴の注射に手間取って、患者の家族から「早くしてよ。死んじゃうじゃない」と責められた。抑うつ症状があらわれ、14年4月から精神科に通い始めた。コンビニでおかしや食べ物を買い、食べたものを下剤を飲んで出す。睡眠剤の過剰摂取「オーバードーズ」もしていた。休職したものの、15年4月に退職した。
◆「発する言葉が私に突き刺さった」
 久保木被告は翌5月、終末期患者を多く受け入れていた大口病院に再就職した。「私の学歴や能力では一般の企業にとってもらえない」と感じていた。ネットで調べてみると、大口病院は蘇生措置をしない同意を事前に多くの患者から取っていることが分かり、自分が延命措置をしなくても良いと思った。
 ただ、働いてみると、想像と違っていた。夕方から翌朝まで勤務する夜勤が1カ月に8~10回ほどあり、夜勤明けはベッドから出られない日があるほどくたくただった。心臓マッサージといった措置をする一方で、1日に何人もの患者が亡くなることもあった。「終末期なので亡くなるはずだったから、と割り切ることができませんでした」
 体力的にも精神的にも追い詰められていた16年4月、入院患者が急変して亡くなった。急変を発見したのは久保木被告だった。遺族からは「看護師に殺された」と責められた。説明は同僚が行い、被告だけが怒られたわけではなかったが、「発する言葉が、私に突き刺さる印象でした」と恐怖心を募らせた。
 久保木被告が、母親に打ち明けた看護師のエプロンが切られたり、ポーチに注射針が刺されたりするトラブルが起きたのは、ちょうどこの頃だった。

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