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指輪

読者を打ちのめす灰色の世界。第一次世界大戦下、残酷で退屈な塹壕戦が行われるドイツとの国境地帯の町、凍てつくような冬、川辺に町でも評判の美少女の死体が上がる。アメリカのハードボイルドを想わせるような文章。読者は自分が幸福な気持ちでこの本を閉じることはないだろうということを直観する。例えばこの町の名士でもある判事。彼は殺害された少女の実家のレストランの常連客で少女のことも知っているにもかかわらず、彼にとって少女の死体はほとんど何の意味ももたない。むしろ戦時下の無聊を慰める殺人事件、しかも美少女殺人事件の発生に嬉しげですらある。だが、その彼にしてもこの世界では端役にすぎない。
 そう。この灰色の世界では誰もが端役に過ぎない。「城」の住人、町の唯一の知識人、物語の中心の検察官にしてもそうである。そして検察官はそのことを知っている。彼は正確無比な時計のように死刑囚を生産するが、彼はその死刑囚たちには何の興味もない。何しろ彼は自分がたった今死刑に追い込んだ男の顔を見分けることすらできない。彼にとってそんなことは、その判決の後美少女のレストランでとる食事ほどの重さも持たないのだろう。取り立てて検察官が冷酷なわけではない。少なくとも些か類型化された俗物の判事と比べれば検事は人間的な滑稽さを持ち合わせている。ただし、その滑稽さは痛ましい。なべて人間的なものは痛ましいものであるように。
 語り手である「私」は何者か。町の刑事らしい。「私」が事件にこだわるのはその職業の故だろうか。それだけではないだろう。「私」は奇妙なチキンレースを生きてのだ。というよりもそれを縁にして命を保っている。「すべてを語り、すべてを打ち明」けるのが先か、カービン銃の銃口をくわえるのが先か。灰色のチキンレース。あの日検察官と少女が話しているところを目撃したと「私」に打ち明けにきたジョセフィーヌ、それから時が流れ彼女は「私」に言う。「真っ黒だとか、真っ白なものなんてありゃしない、この世にはびこるのは灰色さ。人間も、その魂も同じことさ……」。
 少女を殺したのは誰か。誰であろうと、そんなことはこの灰色の魂が流離う灰色の世界では結局たいした意味をもたない。町の丘に登れば兵士たちが虫けらのように死んでゆく戦場を見渡すことができ、そこから脱走してきた兵士は辱められ、少女殺しの犯人に仕立て上げられ、銃殺される。だが、彼は本当に殺していないのか。それもまた灰色の世界ではたいした意味をもたない。
 灰色に対照されるのは女性たち、「私」の妻、検察官の妻、女教師、そして少女、みな死んだ。死は妻たち(女教師も少なくとも自分の中では妻だった)の美しさを増す。その死が痛ましいものであれば尚更だ。その一方には兵士たちの汚辱にまみれた死。両方の死の世界を媒介するのが少女の死だ。その呼び名は両義的だ。「昼顔」、ドヌーヴ主演の映画を想いだすが、それは昼に稼ぐ娼婦という意味で、少女の呼び名としてはあまりふさわしいものとは思われない。少女の死後、少女の父親にその写真をせがみ、少女の思い出話を聞きたがった検察官は少女にいったい何を見たのか。あるいは何を見ることができなかったのか。彼もまた灰色の魂だ。
 ジョセフィーヌの言う通りだ。僕たちはみな灰色の魂だ。灰色の魂の不透明な人生。だが、「私」は言う。「人生はじつにおもしろい。なぜこの世に生まれ、なぜそこに留まっているのか、ついにわからない。私は〈事件〉を蒸し返すのは、おそらく本当の質問を繰り出さないための手段だったのだろう。そんな質問が自分の口もとに、この脳みそに、この魂に浮かび上がってこられてはたまらない」。とはいえ、「私」はもう恐れる必要はない。というのは、ともかくも「私」はひとつの真実を明らかにしたのだから。灰色の真実を。そして、死んだ妻にも言えなかった最後のことを語ったのだから。「私」はなんとか生き延びた人生をいまや生きた。「なんとか間に合った」。このラストシーンだけ灰色の世界は偶さかっ光と色を取り戻す。幸福な気持ちでこの本を閉じることはないという予感はほんの少し裏切られる。

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